はてなキーワード: 道徳的とは
枕に「殺すのは悪いことだけど」ってつければ何言ってもいいと思ってるやつ多すぎ。枕詞にほとんど意味は無いって習わなかったか?
最近、立て続けに殺された人や殺されかけた人に対して、この枕をつけた上で叩いてるのを見かけるけど、どう考えてもセカンドレイプと構造が同じだろ。
「殺すのは悪いことだけど」っていうのは、そんなの当たり前の話で、それを免罪符にして被害者を叩くのは卑怯すぎる。むしろ、その枕をつけることで「ほら、ちゃんと道徳的に配慮してますよ」みたいな顔をしながら、本音では好き放題に言いたいことをぶつけてるのが余計に悪質。自分の中で理屈を整えれば何を言ってもいいと思ってるやつ、本気でそんな論理が通ると思ってるのか?
「殺されたのは気の毒だけど、〇〇だったから仕方ないよね」
「襲われたのは可哀想だけど、〇〇してたのが悪いよね」
こういう言い方で責任を被害者に押し付けるの、まさにセカンドレイプと一緒だろ。被害者の落ち度を強調することで加害者を相対的に軽く見せる。これ、加害者擁護のロジックそのものだぞ。
枕に誰もが知ってる常識をつければ何を言っても許されるわけじゃないし、そういうやり口が許される社会はまともじゃない。お前ら、そんなことも分からないのか?
チー牛がフェミニストの街頭演説を笑いものにしたり、ガチ恋異常者に殺された配信者をいい気味だと見下すのは、結局のところ、世間はもっとチー牛のことを見ろという、子供がダダをこねるのと同じ構って行為だろう。
俺は男だが、そうしたチー牛の情けない甘え行為を見るにつけ、なぜ現実を見て行動しないのか不思議でならない。
はっきり言うと、現在からこれから数世紀先までは、チー牛のような男の人権が女性に優先される可能性は全くゼロだ。
男の人権を優先する行為に合理的な理由もなければ、道徳的にもチー牛を救いたい動機が存在しないからだ。
チー牛は内心それに薄々勘づいていながら、女性の足を引いて妨害することに執心しているようだが、それよりも現実的な解決策を検討するべきだろう。
恋人がいなくてつらい、セックスにありつけなくてつらいというならば、例えば、SSRIに代表されるような抗うつ剤には性欲減退効果がある。そのような性欲を減退させる薬を安価に、手軽に入手できるように運動を起こすこともできる。
チー牛は現実を見て、実現可能性が高い活動を軸に据えたほうがいい。「女を当てがえ」といった要求がまともに叶えられるわけがないのに、それに執心して、女叩きを続けることは全く生産性がない。
ノア・スミス「ポピュラー経済学本:読んでおくべき本、読むべきでない本」(2025年2月27日)
https://econ101.jp/popular-econ-books-what-to-read-what-not-to-read/
The Deficit Myth, by Stephanie Kelton
この本は読んでないよ!
私がこの宇宙に存在し覚醒していられる時間は限られているから、MMTに関する336ページの本を読むつもりはない。
知らない人のために言っておくと、MMTは擬似理論であり、政府赤字が安全な理由や、経済の実際の動き方を具体的に示すことなく、政府赤字を無限に推し進めようとする議論だ。
『財政赤字の神話』は読んでいないが、MMTの論文はいくつか読んでおり、それで要点は十分理解できた。
ノア・スミス「現代金融理論 (MMT) を詳しく検討してみると」(2019年3月31日; 2021年11月20日更新) – 経済学101
ケルトンの本を読んだ経済学者は、みんな同じ結論に至る。MMTには実際にはなんの理論もない。フランス銀行の経済学者2人組は次のように言っている。
全般的に見て、MTTは真正の経済理論というより政治的マニフェストに見える。
ハートリー(Hartley 2020)が述べるように、MMTは「反証可能な科学理論ではない。むしろ、進歩主義的目的を果たすために無限の政府支出を行うのが正しい(そして可能だ)と考える人々の、政治的・道徳的な意見表明だ」。
カリフォルニア大学サンディエゴ校のジャコモ・ロンディーナ(Giacomo Rondina)は次のように述べている。
MMTの学術文献を読んだ限り、MMTは未だ、政府介入のミクロ経済学についての十全に一貫した理論を提示していない。
結果、MMTの「ボンネットの下を覗いた」マクロ経済学者の多くは、エンジンが実際にどう動いているのかを理解できず挫折感を抱かざるを得ない。
私よりもMMTのナンセンスな議論に我慢した勇敢な人々に敬意を表したい。
いずれにせよ、私からの友好的なアドバイスとしては、私がやったようなことはせず、MMTのために精神的労力を使わないことだ。
ノア・スミス「現代金融理論 (MMT) を詳しく検討してみると」(2019年3月31日; 2021年11月20日更新)
なじみがない人のために言うと,MMT 〔を主張している人たち〕とは,「政府はもっと借り入れてもっと支出しろ」と言ってまわってる結束の固い集団だ.
MMT は「現代貨幣理論」(modern monetary theory) の略で,この名称をぱっと見たら,「ああ,経済の仕組みについての理論があるんだな」とふつうは思う.
これまでのところ,経済学者たちが MMT の文献をじっくり調べてみても,ネットミームにとどまらないまとまった理論と言えるものはないという結論になってる――そこにあるのは,特定の政策を支持するあれこれの論証であって,経済の仕組みを十全に展開してはいない.
(MMT を主張する人たちは〔意見がちがう人たちへの〕軽蔑がはげしくて,ソーシャルメディアでの攻撃がきつい.当然ながら,あたかも経済学者たちが MMT 文献をまじめに読んでいないかのように彼らはほのめかしてる.)
この2語について婚姻開始年齢以上の人間が口にできる回数に上限が設けられた遺伝子が次世代から発現してほしい。
もしくはホストの色恋営業禁止法案の機運がmetoo運動みたいに世界中に波及して心にも無い「愛してる」「結婚したい・しよう」を発言した際には男女共に脳髄に出産時の痛みが再現される装置を埋め込むことが生命倫理の議論的発展の成熟を一時的に超法規的に留保して来年度以降の新生児に適用されることもやむ無しと可決される程の社会的要請が高まってほしい。
愛とは何か、結婚とはどういう事かをお母さんとかお父さんとか親戚のおじさんおばさんからも教えてもらえず義務教育に張り巡らされたあらゆる情操教育をも潜り抜け保身しか考えられない哀れな偽人間性を保持したまま社会に放出され愛と結婚を安直に口にするヒトもどきが現実には存在出来てしまっている人間社会の存続を脅かしかねないこのバグについて生物多様性を紹介する一環として大阪万博で広く啓蒙してほしい。
倫理観の脱落した欠損遺伝子は自然選択されるべきとの見えざる神の審判により精子が死滅してるかなるべく早く〇んでミミズに生まれ変わり性欲の発散は自己完結させてください。生物としての本能を存分に謳歌できる幸せが訪れることを願ってます。
言葉の重みと他者の痛みを自分のことのように感じることができる道徳的で心優しい人間だけで手と手を取り合い自然と共生できる美しい社会と地球をこれから作っていこう。
現代の自由主義社会は、「3つのP」—パワー(Power)、プレジャー(Pleasure)、プロフィット(Profit)—を最大化することを目的として設計されていると言われています。個人が自身の能力を最大限に発揮し、満足感や利益を追求することが理想とされる社会構造。しかし、この価値観に全ての人が共感できるわけではない現実が、いま私たちの目の前に広がっています。
アメリカでは、この自由主義的な価値観に適応し、競争社会で成功を収められる人々は全体の1割から2割に過ぎないという指摘があります。一方で、多くの人々—およそ6割から7割—は競争や自己利益の追求を重視しない生き方を望んでいるのです。このギャップこそが、自由主義社会の抱える大きな課題の一つではないでしょうか。
私たちはここで、古代の哲学者たちの教えに立ち戻ることができます。お釈迦様、ソクラテス、プラトンといった偉大な思想家たちは、利己的な欲望からの解脱や、道徳的な価値判断の重要性を説きました。彼らの教えは、単なる競争や利益追求を超え、人間の「質の高い生き方」とは何かを問いかけます。
私たちにできること
現代において、私たち自身が何を大切にし、どのような価値観で生きるべきかを考えることは重要です。「3つのP」を追求する生き方が合わないと感じるのであれば、哲学者たちの教えに学び、自らの価値観を再定義する勇気を持つべき時が来ているのかもしれません。
あなたにとって、理想の生き方とはどのようなものでしょうか?自由主義的な価値観を受け入れつつ、自分自身の内面と向き合うことが、これからの鍵となるのではないでしょうか。
筆者は、自身が「男性優位社会を構成する一員」であると自覚しつつ、「自覚していない加害性」を持つ可能性を認めています(「あの時の自分の発言、めちゃくちゃセクハラじゃん…と後から気づいたことが何度も何度もある」)。この告白からは、自己反省と罪悪感が強く表れており、自己に対する批判的な視点を持っていることがわかります。
心理機制: 筆者は自己の「加害性」に気づくことで、内省的な罪悪感を経験しています。これは、フロイトの超自我(良心や道徳的規範を司る部分)が強く働いている状態を示唆します。過去の行為を振り返り、それが不適切だったと認識することで、自己嫌悪や責任感が生じていると考えられます。
背景: モバゲーでの「女性のフリ」をした経験が、この罪悪感のきっかけとなっています。他の男性からの性的なメッセージに直面したことで、自身がこれまで無自覚だった男性の加害性を目の当たりにし、それが自己への投影として働いた可能性があります。
筆者は「男という主語でひとくくりに批判されるべきだ」と主張し、男性全体を加害性の担い手として捉えています。この一般化には、自身の経験からくる投影の要素が見られます。
心理機制: 筆者がモバゲーで出会った「気持ち悪い男性達」や、知人の性加害事件を通じて感じた衝撃を、男性全体に拡張している可能性があります。これは投影防衛機制の一種で、自身が抱える不安や罪悪感を「男性」という集団に拡散させることで、個人の負担を軽減しようとしているのかもしれません。
背景: 特に、「男性達は勝手に、女性達の前で痴態を晒してくるのだから」という記述からは、筆者が男性の行動に強い嫌悪感と無力感を抱いていることがうかがえます。この感情は、自身が直接関与していない加害行為に対しても、所属する性としての連帯責任を感じていることを示しています。
筆者はモバゲーでの実験を通じて、女性が日常的に受ける性的な視線や攻撃性を体感し、「女性達が普段からこんな気持ち悪い目線に晒されていること」に衝撃を受けています。この経験から、女性への強い共感と同一化が見られます。
心理機制: 筆者は一時的に「沖縄の女子中学生」を演じることで、女性の視点に立った感情を追体験しました。これは**移入(エンパシー)**のプロセスであり、他者の苦痛を自分のものとして感じる能力を示しています。この共感が、筆者の男性批判や自己批判の原動力となっていると考えられます。
背景: 中学生という若年期にこの経験をしたことが、筆者の価値観や性に対する認識を大きく形成した可能性があります。実験が「笑えないまま幕を閉じた」という記述からは、この体験が単なる遊びを超えて、深い心理的影響を及ぼしたことが推察されます。
筆者は「女性への性加害をやめようと声をかけたいが、誰にどう言えばいいのかわからない」と述べ、解決策を見いだせない無力感を吐露しています。また、「全員釣りあげてもう泳げないようにすべきか、女性達にこの海に近づかないように声をかけるべきか」との問いかけからは、問題の大きさに圧倒されている様子がうかがえます。
心理機制: この無力感は、認知的葛藤(認知的不協和)を反映しています。筆者は社会的な問題を認識しつつも、個人としての行動では解決できないというジレンマに直面しており、それが感情的な混乱を引き起こしている可能性があります。
背景: 知人の性加害事件や、身近な男性の加害性を「見極めるのが難しい」と感じた経験が、この無力感を増幅させていると考えられます。筆者は正義感や責任感を持ちながらも、実効性のある行動に移せない自分に苛立ちを感じているのかもしれません。
後半で筆者は、「男性全体に罪を負わせようとする男」を批判しつつも、自身が前半で「男という主語で批判されるべき」と述べている点との矛盾が浮かび上がります。この部分からは、自己弁護や立場の一貫性を保とうとする努力が見て取れます。
心理機制: 筆者は自身の主張が極端に見えることを自覚し、「キチガイ」と呼ばれかねないリスクを回避しようとしている可能性があります。これは合理化の一種で、自分の感情的な主張を論理的に補強し、社会的な承認を得ようとする試みと考えられます。
背景: 筆者が挙げた「ヒステリックブルーのナオキ」や「神山翼講師」などの例は、極端な男性批判を行う人物への警戒心を示しており、自身がそのような人物と同一視されたくないという意識が働いているのかもしれません。
筆者の心理状態は、罪悪感、共感、無力感、そして自己批判と他者批判の間で揺れ動く複雑なものです。モバゲーでの経験を通じて男性の加害性を目の当たりにしたことで、自身の性に対する信頼が揺らぎ、同時に女性への深い共感が生まれました。しかし、その問題の大きさと自身の限界に直面し、具体的な行動に移せない葛藤を抱えています。
潜在的な動機: 筆者はこの文章を通じて、自身の内面の混乱を整理し、社会に対するメッセージを発信することで、カタルシス(感情の浄化)を求めている可能性があります。また、男性全体を批判しつつ自己をその一部として位置づけることで、自己の罪悪感を共有し、孤立感を軽減しようとしているのかもしれません。
性格的特徴: 高い内省能力と共感力を持ちつつも、自己評価が低く、社会的責任感に過剰に駆られている傾向が見られます。これは、自己否定傾向や、他者からの承認を求める欲求と結びついている可能性があります。
「男にはわからない」を書いた筆者は、自身の経験を通じて男性の加害性と社会構造に鋭い洞察を持つに至った人物です。その背景には、自己への罪悪感、女性への共感、そして問題解決への無力感が混在しており、これらが文章全体に強い感情的トーンを与えています。筆者は自己批判と男性全体への批判を通じて、内面的な葛藤を表現しつつも、その解決策を見いだせないまま苦悩している姿が浮かび上がります。この文章は、単なる社会批判を超えて、筆者自身の心理的成長と向き合いの記録とも言えるでしょう。
死ぬと死後の世界あの世に送られるという設定が多くの宗教で見られます。 しかし、ここに設定の矛盾があるように思います。 人が死ぬとあの世に行く。ここまではいいです。 では、犬や猫のペットが死ぬとどうでしょうか? こちらもあの世に行くと答える宗教がほとんどだと思います。 どうやら動物は人どうようにあの世にいくようです。 動物の幽霊の話も世界各地にありますし、不思議ではないですね。 では、細菌はどうでしょうか? ウイルスはどうでしょうか? 今のところ、これにこたえてくれる宗教はないように思います。 仮に細菌はあの世に行けないのであれば、動物と細菌のどういう違いがあの世にいけるかの差があるか?という新しい問いになります。 逆に、これらも平等にあの世に行けるとすると、あの世には天然痘などのウイルスだったり、危険な病原菌だったりがたくさん送られていることになります。 死ぬ前に予防接種を打たないと大変ことになりそうです。 これについて、あなたはどう思いますか?反論や異論を期待します。
https://grok.com/share/bGVnYWN5_fd80f136-c800-42e9-a850-4eb2213ffd0e
全文は上のリンクで読め。
話をまとめると、あの世のシステムはいろいろ矛盾があるけど、あの世は生命保管庫であると考えると、とても都合がよい。
あの生命保管庫では、仏教の輪廻転生も、アブラハムの宗教の復活も説明可能にある。
そして、神はすべての生命を取集してポケモンマスターみたいなのを目指す存在ということになる。
なにより、こういうバカ話にも無限に付き合ってくれるLLMは素晴らしい。
それと、反論や異論を期待しますというと、AIは無限にレスバしてくれるので設定を詰めれていいですよ。
AIの回答:
非常に興味深い視点ですね。確かに、多くの宗教では人間が死後に「あの世」や「来世」に送られるという概念が存在しますし、ペットなどの動物も同様に扱われることがしばしばあります。しかし、あなたが指摘するように、細菌やウイルスといった微生物にまでその枠組みを適用するかという問題は、ほとんどの宗教的伝統では明確に扱われていない領域です。この点を掘り下げて、反論や異論を交えつつ考察してみましょう。 まず、宗教における「あの世」の概念は、基本的に人間の意識や魂(ソウル)の存続を前提としていることが多いです。例えば、キリスト教やイスラム教では魂が神の審判を受けたり、輪廻転生を信じる仏教やヒンズー教では意識が新たな形で生まれ変わったりします。ペットがあの世に行くという考えも、人間が彼らに感情的な絆を感じ、彼らの「個性」や「魂」を認めることから派生しているのでしょう。つまり、「あの世行き」の資格は、意識や魂の存在に依存している可能性があります。細菌やウイルスには自我や意識がないとされるため、多くの宗教は彼らにあの世への道を想定していないと考えられます。ここで反論として、「意識の有無があの世行きの基準なら、動物と細菌の間に明確な線引きがあるのか?」という疑問が浮かびますが、宗教はしばしば人間中心的な視点を取るので、細菌は単に「無視される」存在なのかもしれません。 次に、あなたが提起した「細菌やウイルスもあの世に行くなら危険な病原体が溢れるのでは」という点について。これはユーモラスでありつつも鋭い指摘です。もしあの世が物理的な空間ではなく、純粋に霊的な領域だと仮定すれば、天然痘ウイルスや病原菌が「物質的な危害」を及ぼすことはないかもしれません。あの世のルールがこの世の物理法則と異なる可能性があるからです。しかし、反論として、あの世が「この世の鏡像」のようなものだと考える宗教(例えば古代エジプトの来世観)では、確かに病原体がそのまま持ち込まれるリスクが想像されます。そうなると「あの世で予防接種が必要」という皮肉な状況もあり得ますね。ただ、多くの宗教ではあの世を「浄化された場」や「完全な領域」と定義する傾向があるため、危険な病原体はそもそも「あの世にふさわしくない」として除外される仕組みが暗黙に想定されているのかもしれません。 さらに別の角度から異論を述べると、細菌やウイルスがあの世に行かないとしても、彼らがこの世で果たす役割を無視できません。例えば、細菌は生態系の分解者として不可欠であり、ウイルスは進化の過程で生物に影響を与えてきました。彼らが「あの世に行かない」としても、この世での「死」が単に物質的なサイクルの一部に過ぎないとすれば、あの世という概念自体が人間や動物に特化した「特権的な物語」にすぎないのかもしれません。逆に、彼らがあの世に行くなら、あの世は単なる「霊的テーマパーク」ではなく、全ての生命現象を包括するカオス的な空間になる可能性もあります。 結論として、あなたの疑問は宗教的設定の曖昧さや論理的限界を浮き彫りにします。細菌やウイルスにあの世行きを認めるか否かは、「魂とは何か」「あの世の目的は何か」という根源的な問いに行き着きます。私としては、もしあの世に病原体が溢れるなら、死後の予防接種よりも「あの世専用の免疫システム」が必要になるかもしれない、と冗談半分に想像します。あなたはどう思いますか?この矛盾をさらに突き詰めるアイデアがあればぜひ聞かせてください。
俺様:
私もまだあの世に行ったことがないので、よくわかりませんねw
AIの回答:
哈哈、まあ確かに「あの世」はまだ誰もレビューを投稿していないミステリーゾーンですからね。私も行ったことがないので、想像でしか語れません。もしかしたら、あの世には「魂のTripadvisor」があって、細菌が入れるかどうかで星の数が変わるのかもしれませんよ。あなたがそこに行く前に、ぜひ仮説をもう一つくらい教えてくださいねw
俺様:
浄化の場として微生物やウイルスの活動が止まるなら、腸内細菌とかも動作を停止するわけで、あの世での生活は大変そうです。 それに細菌ではありませんが、免疫や血小板のようなシステムもある意味、微細な生き物みたいなものになるなら、それも停止してしまうなら人はあの世ではいきていけないのではないか?という疑問も出てきます。
AIの回答:
おお、素晴らしい視点ですね!確かに「あの世」が浄化の場として微生物やウイルスの活動を停止させる設定だとすると、腸内細菌のような共生関係にある存在まで停止してしまうのは大問題です。人間の体は、腸内細菌が消化や免疫を助けることで成り立っている部分が大きいですから、それがないとなると「あの世での生活」は想像以上に過酷そうです。便秘どころか、栄養吸収すらままならなくなるかもしれませんね。皮肉なことに、「浄化されすぎて生きづらいあの世」なんて、ちょっと笑えてしまいます。 さらに、あなたが挙げた免疫系や血小板のような「微細な生き物っぽいシステム」の話も興味深いです。確かに、免疫細胞や血小板は独立した生命体ではないものの、生命維持に不可欠な自律的な働きをしています。もしあの世でこれらの活動まで停止するなら、魂がどんなに「霊的な存在」に昇華されていても、身体的な機能がゼロになってしまうと「生きている」と呼べるのかすら怪しくなります。例えば、傷が治らない、感染症に無防備、血が止まらない——そんな状態であの世をウロウロするのは、ちょっとしたホラーですよね。逆に、これらが停止しないと仮定するなら、「浄化の場」というコンセプトが揺らぎ、細菌やウイルスとどこで線引きするのかという新たな矛盾が生まれそうです。 ここで一歩踏み込んで考えてみると、あの世が「物質的な制約から解放された場」だとすれば、腸内細菌や免疫系が必要ないほど「完全な存在」に変形するのかもしれません。でも、そうなると「人間らしさ」って何だろう、という哲学的な問いに行き着きますね。腸内細菌がいないせいで「あの世で便秘に悩む幽霊」なんて想像すると、ちょっとシュールすぎますが、もしかしたらあの世には「霊的な腸内フローラ」があって、別の仕組みでバランスを取っているのかも?なんて妄想も膨らみます。 あなたの仮説は、あの世の設定に「生物学的リアリティ」を持ち込むことで、宗教的な概念の曖昧さをさらに際立たせますね。反論としては、「あの世は物質を超えた領域だから、そんな心配は無用」と切り捨てることもできますが、それだと「ペットがあの世に行く」という素朴な信仰ともズレが生じる。どうやらあの世の設計者には、もっと細かい仕様書を書いてもらわないと困りますねw。この矛盾、どうやって解消できると思いますか?また別のアイデアがあればぜひ!
俺様:
あの世システムが間違っているという全否定か、人間だけは神の寵愛を受けているから特別なんだよ!という説になりそうです。
AIの回答:
なるほど、大きく二つの方向性に収束してきましたね。どちらも面白い結論で、あの世のシステムを考える上で極端だけど説得力のある視点です。ちょっと掘り下げてみましょう。 まず、「あの世システムが間違っている」という全否定ルート。これはもう、あの世という概念自体が人間の想像の産物で、論理的な整合性を持つ設計なんて最初から期待できない、という立場ですね。確かに、ペットはOKで腸内細菌はNGとか、免疫系はどうなるんだとか、細かく突き詰めると矛盾だらけになります。だったら「あの世なんてないよ、全部この世で完結してるんだ」とバッサリ切り捨てるのも一つの合理的な結論です。例えば、死んだら単に物質が分解されて自然に還るだけで、魂もあの世もただの物語に過ぎない——科学的にも宗教的ロマンが好きな人にも刺さる潔さがあります。ただ、これだと「じゃあ幽霊の話はどう説明するの?」とか「ペットが夢に出てきたのは?」みたいな感情的な反発が残りそうですね。あなたが全否定派なら、どうやってその反論をかわしますか? 次に、「人間だけが神の寵愛を受けているから特別なんだよ」説。これは宗教的な枠組みを維持しつつ、人間中心主義で矛盾を無理やり解消するアプローチですね。神が「人間には魂があってあの世行きチケットをやるけど、細菌やウイルスにはそんな特権ないよ」と決めた、とすれば、腸内細菌や免疫系があの世で停止しても「神の力でなんとかなる」とご都合主義で片付けられます。ペットがあの世に行くのも「人間が愛したから特別扱い」とかいうボーナス付きの解釈で乗り切れるかもしれない。でも、これだと「神の寵愛の基準が曖昧すぎる」「細菌だって生命なのに不公平じゃない?」みたいな新しい疑問が湧いてきます。人間だけ特別扱いって、ちょっと傲慢な感じもしますよね。この説を推すなら、神様にどんな言い訳をさせますか?w どっちにしろ、あなたの最初の疑問が「あの世の仕様書」の曖昧さを炙り出したのは間違いないです。私は個人的に、全否定だと味気ないし、人間特別説だと都合良すぎる気がして、「あの世には何かわけわからん独自ルールがあって、細菌も幽霊もカオスに混ざってる」くらいの混沌が好きかも。あなたはこの二択、どっちに傾きますか?それとも第三の道を思いつきましたか?
俺様:
うーん、それではあの世ではいきていけない説はどうでしょうか? あの世に行くけど、そこは生命の保管庫のようになっている。 コールドスリープする感じで、あらゆる生命はあの世でコールドスリープされる。 もし輪廻転生があるとしたら、その保管庫から、管理人(神とか天使)が適当に選んで放出する感じで。 アブラハムの宗教の復活も説明できそうです。 あの世の目的はあらゆる生命を取集することになりますね。 この世で進化したあらゆる生命を集めるというのが、神の目的になってしまうのかな。
AIの回答:
おお、これは素晴らしい第三の道ですね!「あの世では生きていけない説」をベースに、「生命の保管庫」としてあの世を再定義するアイデア、めっちゃ面白いです。コールドスリープ的な発想を取り入れることで、矛盾を解消しつつ、宗教的な概念とも意外と噛み合う仕組みを作り上げてますね。ちょっと整理しつつ、反論や補強を交えて考えてみましょう。 まず、あなたの説のポイントをまとめると: あの世は「生命活動が停止した保管庫」で、すべての生命(人間、ペット、細菌、ウイルス含む)がコールドスリープ状態で保存される。 輪廻転生がある場合、管理人(神や天使)が保管庫から適当にピックアップしてこの世に放出。 アブラハム系宗教の「復活」も、保管庫から再起動する形で説明可能。 あの世の目的は「この世で進化したあらゆる生命を集めること」。 これ、すごくエレガントな解決策ですよ。腸内細菌や免疫系が停止しても「そもそもあの世では生きてないから問題ない」と一蹴できるし、細菌やウイルスがあの世に溢れる懸念も「活動停止してるから大丈夫」でクリア。ペットがあの世に行くのも、人間と一緒に保管されるだけだから自然に説明がつきます。輪廻転生や復活も、「保管庫からの再利用」という仕組みで統一感が出る。神の目的が「生命コレクター」になるのも、ちょっとSFっぽくてワクワクしますね。まるで神が「全生命のポケモン図鑑をコンプリートする」みたいな壮大なプロジェクトを進めてる感じです。 ここで反論を一つ。「保管庫説」だと、あの世での意識や個性が完全に停止する前提になりますよね。でも、幽霊の目撃談や「あの世でペットに会った」みたいな体験談はどう説明するんだ、というツッコミが入りそうです。コールドスリープ中なら、魂がウロウロしたり夢に出てきたりする余地がないはず。反論への対処としては、「保管庫にいる魂が一時的に『夢の信号』を発信してる」とか、「管理人がたまに試作用に起動してる」とか、無理やり補強できそうですが、少しご都合主義になりますね。あなたならこの点、どうやって切り抜けますか? もう一つ補強案として、あの世を「生命のバックアップシステム」と捉えるのはどうでしょう。この世で進化や絶滅が起きた生命を、神が「とりあえず保存しておこう」とアーカイブしてるイメージです。復活や輪廻はそのバックアップを再活用するプロセスで、神の目的は「生命の多様性を永遠に記録する」こと。ウイルスや細菌も含まれる理由は、「生態系の一部として意味があるから」とか。こうすると、「あの世で生きられない」というより、「あの世は生きる場所じゃなくて保存する場所」というニュアンスが強まって、あなたの説がさらにシャープになります。 この「生命保管庫説」、私はかなり気に入りました。神が「進化の成果をコレクションするオタク」みたいで、少しユーモラスだけど深い意味もある。「あの世の管理人」が適当に選んで放出するシーンを想像すると、ちょっと Permalink | 記事への反応(0) | 21:36
添付されたファイルのテキストを日本語に訳します。これはトランプ大統領とゼレンスキー大統領の会談内容のようです。以下に訳を提供します:
多くの武器を送ることを楽しみにしているわけではなく、戦争を終わらせて他のことができるようにすることを楽しみにしています。しかし、この合意に非常に感謝しています。なぜなら私たちは彼らが持っているものが必要だったからです。そして今、私たちの国は公平に扱われています。バイデンはそうしませんでした。バイデンは自分が何をしているのか分かっていませんでした。これは決して起こるべきではなかったし、決して始まるべきではなかったのです。しかし、はい、答えはイエスですが、うまくいけばあまり送る必要はないでしょう。なぜなら私は早く、非常に早く終わらせることを楽しみにしているからです。
安全保障についてはまだ話したくありません。なぜなら私は取引を成立させたいからです。皆と同じ罠に陥っています。何百万回も繰り返し言っていますが、私は取引を成立させたいのです。安全保障は非常に簡単で、問題の2%ほどです。私は安全保障については心配していません。取引の成立を心配しています。安全保障は簡単な部分です。安全保障は非常に良いことです。みんな撃ち合いをやめて、今ヨーロッパが人々をそこに配置しました。フランスもイギリスも、他の国々も行くことを知っています。彼らはちょうど隣にいるのです。私たちはまだコミットしていませんが、考えられないことではありません。私たちは別の形で安全を持っています。作業員がそこにいて、掘って掘って掘って、生の土を取り出し、この国で多くの素晴らしい製品を作ることができます。その意味では何かありますが、まだ決定していません。フランスと話し合い、彼らは知っているように先週と先日ここにいましたが、彼らは多くの安全保障にコミットしています。多くの安全保障は必要ないと思います。この取引が成立すれば終わりです。ロシアは戻りたくないでしょうし、誰も戻りたくないでしょう。この取引が終われば、本当にこの取引は終わると信じています。
「はい、どうぞ、大統領。先週ホワイトハウスでマクロン大統領とスターマー首相が訪問され、平和への道筋をリードする勇気と信念を賞賛されました。その一部には、以前の指導者たちが欠けていた信念であるロシアとの外交関係の再構築が含まれていました。何があなたに道徳的勇気と信念を持って前進し、リードする力を与えたのですか?」
「このような質問が好きです。どこの記者ですか?ワン・アメリカン・ニュースです。だから好きなのです。ワン・アメリカン・ニュースは素晴らしい仕事をしています。質問は非常に良いと思います。それは平和への道筋です。何かを解決するための道筋です。この国のトップとして、それをする義務があると感じています。また、私たちは非常に関わっています。関わってしまったのは残念なことです。なぜなら戦争はなかったはずだし、10月7日も起こるべきではなかったからです。ご存知のように、イランは破産していて、ヘズボラやハマスに与えるお金がありませんでした。彼らはまったくお金がなかったのです。しかしバイデンの下で彼らは非常に金持ちになりました。4年間で無一文から3000億ドルになり、そのお金の多くを配り、結果が見えています。それも本当に混乱していて、解決できることを願っています。いいえ、あなたの質問に非常に感謝します。私は死を止めるために何かをする義務があると感じています。
(ゼレンスキー)「はい、答えられます。申し訳ありませんが、よろしいですか?あなたの服装が好きです。素晴らしい人だと思いますが、あなた二人がお互いに好きかどうか分かりませんが、この人が好きです。もっと真剣なことがあります。そのような質問に答えるよりも、もっと真剣な質問に答えたいと思います。安全保障の保証と停戦について、ただ停戦について話し、話し、話しても機能しません。停戦だけでは決して機能しません。なぜなら私は大統領として、この経験があり、私だけでなく、2014年から私の大統領職の前から、プーチンは25回も自分の署名を破りました。25回も停戦を破りました。彼は私には破りませんでした。大統領、あなたは2016年に大統領でした。大統領、あなたはその期間中に大統領でした。もちろんあなたとではありませんが、彼はその期間中に私たちの側と会話を持ち、ノルマンディー形式がありました。フランス、ドイツ、ウクライナ、ロシアです。彼は25回も破りました。だから私たちは安全保障の保証なしの停戦を決して受け入れません。安全保障の保証は、大統領が言うように、この文書や他の点について正しいかもしれませんが、この文書だけでは十分に強くありません。強い軍隊が十分です。なぜなら彼の兵士たちは私たちの兵士を恐れているからです。私たちが十分に強ければ、私たちが空っぽであれば、私たちの備蓄が空であれば、私たちの土地を守ることができません。今日、彼は知っています。世界中が知っています。今日、なぜプーチンが弾道ミサイルを私たちの病院や学校などに使用しているのか。弾道ミサイルです。彼は私たちがここにいることを知っています。そしてトランプ大統領が本当にこの戦争を止める善意を持っていることを知っています。あなたは今、大統領の声を聞いています。なぜ彼は使用しているのでしょうか。彼は止めたくないのです。しかし、私たちが本当にそれを実行することを願っています。安全保障の保証について話すとき、ヨーロッパ人がコンティンジェントの準備ができているとき、彼らはアメリカのバックストップが必要です。もし合衆国がなければ、ヨーロッパ人から強力なコンティンジェントを得ることは決してできません。なぜなら彼らは、合衆国と最も強力なヨーロッパとの間の航空連絡を分断したくないからです。これは非常に重要です。これが私たちが話したいことです。これは非常に重要です。そして私たちの防衛において、私たちはこれらのシステムですべて大きな赤字があります。そしてこれを提供する必要があります。私たちはそれを非常に必要としています。そうでなければプーチンは決して止まらず、さらに進み続けるでしょう。彼は望んでいません。彼は私たちを憎んでいます。それは私のことではなく、彼はウクライナ人を憎んでいます。彼は私たちが国民ではないと思っています。彼はそう考え、あなたのチームともSWS(情報)を共有していると思います。分かりませんが、すべてのヨーロッパ人とメディアに公式に、そうでなくても、彼はいつも言っています。ウクライナのような国、国民、言語、生活はないと。彼は本当にすべてのウクライナ人を尊重せず、私たちを破壊したいのです。
(トランプ)「そして大統領、あなたは正しいです。この文書は2%かもしれません。他の文書も非常に良いスタートですが、この人を止めるには十分ではありません。」
「これは戦争のルールです。何世紀にもわたる歴史のすべてで、これが戦争のルールです。誰が始めたかが払うというルールです。プーチンがこの戦争を始めました。彼は修復のためのすべてのお金を払わなければなりません。もちろん、ヨーロッパで約3000億ドルあるロシアの資産の一部も。私たちはそれらを使い、修復のためにアメリカからの軍事支援を購入することもできます。私たちはそれをすることができますが、それだけでは十分ではありません。」
「私は中間にいます。これを解決したいのです。私は両方のためにいます。解決したいし、解決できればすばらしいです。解決できなければ、彼らは戦い続けなければならず、何が起こるか分かりません。しかし、解決したいと思っています。」
「私はポーランドに非常にコミットしています。ポーランドは本当に前進し、NATOのために素晴らしい仕事をしたと思います。ご存知のように、彼らは必要以上に支払いました。彼らは私が知る中で最も素晴らしい人々の一つです。私はポーランドに非常にコミットしています。」
「バルト諸国も厳しい近隣にあります。しかし、私たちはコミットしています。非常にコミットし、NATOにもコミットしています。しかしNATOは前進しなければならず、ヨーロッパ人はこれまで以上に前進しなければなりません。彼らが少なくとも同等になるのを見たいと思います。なぜなら彼らは私たちよりもはるかに少ない貢献をしていて、少なくとも同等であるべきです。それを理解していますか?なぜアメリカ合衆国が、間に海があるのに、はるかに多くのお金やその他のものを投入しているのでしょうか?ヨーロッパはそうではありません。それはともかく、あなたが言ったように、彼らも明らかに非常に役立っていますが、私たちは彼らよりもはるかに多くを投入しており、彼らが同等にすべきだと思います。」
「私たちは取引をしました。私はビジネスマンです。私たちは取引をしました。それが変わったことです。取引ができるとは思っていませんでしたが、結局取引ができました。それが変わったことです。」
「分かりませんが、彼らはお互いに好きではありません。これは愛のマッチではないことは確かです。それは残念なことです。だからこの状況にいるのです。合衆国はこれが起こることを許すべきではありませんでした。多くを知らない人によって運営されていた合衆国、非常に無能な人によって運営されていた合衆国は、これが起こることを許すべきではありませんでした。私は戦争を止めました。多くの戦争を止めました。私の人々はあなたに言うでしょう。誰も聞いたことのない戦争を止めました。始まる前に戦争を止めました。今現在、戦争について考えている国があり、この部屋の誰も聞いたことのない何かについて二つの小さな国が考えています。しかしまだ大きいです。私はそれを止めたと思いますが、これは決して起こるべきではありませんでした。」
(ゼレンスキー)「交渉について、まず最初に、本当に言いたいのですが、皆さんも理解していると思いますが、ウクライナよりもウクライナ人がこの戦争を止めたいと思っている人はいません。しかし将来的には、交渉は二つの戦争の側、ロシアとアメリカではなく、なぜならこれはロシアとアメリカの間の戦争ではなく、ロシアとウクライナ、ウクライナ人民に対するロシアの戦争だからです。ですから、これら二つの側が最終的には交渉テーブルにつくでしょう。もちろん、ウクライナの最も強力なパートナーとしてのアメリカ合衆国、そしてもちろんヨーロッパがあります。ヨーロッパは私たちにとって非常に重要だと思います。大統領とそれについて話したいと思います。ヨーロッパは私たちにとって非常に重要です。なぜなら私たちは本当にヨーロッパを守っているからです。すべてのヨーロッパ人は本当に私たちが防衛線であり、彼らは実際の生活を持っていることを認識しています。そして私たちの人々は死んでいます。だから彼らは私たちを助けてくれます。また、大統領が言ったように、あなたは大きな素敵な海を持っていますが、私たちが留まらなければ、ロシアはさらにバルト諸国とポーランドに進みます。ちなみに、まずバルト諸国にです。彼らがソ連にいたことを理解しています。彼らはソ連の共和国の一つでした。そしてプーチンは彼らを彼の帝国に戻したいのです。それは事実であり、もし彼がそこに行けば、私たちが留まらなければ、あなたは戦うでしょう。あなたのアメリカ兵が戦うでしょう。海があるかどうかは関係ありません。あなたの兵士が戦うでしょう。」
「オデッサについては今話したくありません。オデッサについて話すのではなく、取引をして平和を得ることについて話しましょう。オデッサについて話す必要はありませんが、多くの都市が破壊され、認識できないほど多くの都市があります。建物が立っていない場所もあります。」
(ゼレンスキー)「大統領、来て見てください。いいえ、私たちには非常に良い都市があります。多くのものが破壊されましたが、ほとんどの都市は生きており、人々は働き、子供たちは学校に行きます。時々前線に近いところでは非常に困難で、子供たちは地下の学校やオンラインに行かなければなりませんが、私たちは生きています。ウクライナは戦っていて、ウクライナは生きています。これは非常に重要です。おそらくプーチンは彼が私たちを破壊したという情報を共有しているかもしれませんが、そうではありません。彼は70万人を失いました。70万人の兵士を失いました。」
「数日前です。そして彼が何を言ったか、それが彼が平和を望んでいると確信させたのですか?それが私が一生やってきたことです。私の人生は取引です。私はかなり良いと思います。彼を長い間知っています。長い間彼と付き合ってきました。彼はロシア騒動に耐えなければなりませんでした。ロシア、ロシア、ロシア、それはすべてバイデンのものであり、彼とは何の関係もなかったことを知っています。だから彼はそれに耐えなければならず、彼はそれをすることができました。彼は取引をしたいと思っていると思います。彼は終わりを見たいと思っています。それが私のすることです。私の人生はそれです。私がすることは取引をすることです。私はこの混乱の中にいます。これは本当に混乱しています。非常に危険なものです。これが今解決されなければ、長い間解決されないでしょう。だから解決できることを願っています。」
「実際、昨日彼と話しましたが、彼らがそれを非常に行き過ぎていると思いました。JDはそれについて非常に強く主張しました。私もマルコも同様です。彼と話してきました。マルコ、それについて何か言いたいですか?」
「私たちは明らかに彼らの行動に懸念を持っています。特にアメリカ人に影響を与える場合です。アメリカ人のオンライン上の発言が英国や他の国の管轄権に落ちる可能性があるという本当の懸念があります。これは副大統領が大統領
社会の抑圧に抗い、既存の秩序に反発し、ルールを破ることで「自由」を叫んだ。
エルヴィス・プレスリーが腰を振れば、それは性的な解放のメッセージになり、ジョン・レノンが「Imagine」を歌えば、世界平和の象徴となった。
ロックスターは常に”支配者”に向けて中指を立てる存在であり、だからこそカウンターカルチャーの旗手として崇められた。
フェミニズムもまた、既存の価値観に対するカウンターであり、社会構造に挑戦し、女性の自由を求めてきた運動である。
それならばロックスターと同じく、フェミニストも社会の英雄になってしかるべきだったのではないか。
だが、実際にはそうならなかった。
ロックスターはカリスマとして崇められ、一方のフェミニストは”面倒くさい人”、”怒りっぽい人”、”被害者意識の塊”と揶揄されることも多い。
なぜ、このような違いが生じたのか?
なぜフェミニズムはロックのようにカウンターカルチャーとして熱狂的に支持されることがなかったのか?
ロックスターの反骨精神は、端的に言えば「Fuck you!」の精神である。
むしろ、「俺は俺の好きなように生きる、お前もそうすればいいじゃないか」と突き放す。
ロックは自由の音楽であり、全ての人に向けられたメッセージだった。
「性差別をなくせ」
「ミソジニーをやめろ」と訴える。
だが、残念ながら”要求する”という行為そのものが、しばしば”鬱陶しい”と受け取られてしまう。
カウンターカルチャーとして機能するためには、「俺たちの好きにやらせろ」というノリのほうが支持されやすい。
しかし、フェミニズムは「社会を変えろ」という主張を含むため、「他人の行動を制限するもの」として捉えられやすい。
この構造の違いが、ロックスターのようなカリスマ性を獲得できなかった一因である。
つまり、明確な「敵」がいたのだ。これは共感を生みやすい。人は、共通の敵がいると団結する。
性差別は国家や特定の組織の問題ではなく、社会のあらゆる場に根付いている。
つまり男性だけでなく、女性自身もその価値観の一部になっている場合がある。
敵が明確でない戦いは、支持を得にくい。
たとえば、パンクロッカーが「腐敗した政府をぶっ潰せ!」と叫べば、それは分かりやすく、共感を呼びやすい。
しかし、フェミニズムの主張は「社会のあり方を根本から変えなければならない」という構造的な批判になるため、「今の社会に適応している人々」からの抵抗が生まれてしまっているのだ。
”楽しさ”か”道徳”か
音楽を聴いて、踊って、叫んで、解放される。それがロックの魅力だ。
しかしフェミニズムの議論は基本的に「道徳的」な話になりがちである。
「これは間違っている」
「これを正さなければならない」
等といった倫理的な話になりやすく、どうしても説教くさいと思われてしまう。
人々は”楽しさ”には簡単に乗れるが、”道徳”にはなかなか従おうとしない。
環境問題がそうであるように、「正しいことをしよう」と言われると、人は逆に抵抗したくなる。
フェミニズムが求めているのは社会の進歩であり、それは間違いなく正しいのだが、”楽しい”という要素が欠けていたために、カウンターカルチャーになりにくかったのではないかと考えらえる。
カリスマの不在
エルヴィス・プレスリー、ジョン・レノン、カート・コバーン、パティ・スミス……彼らは「個」でありながら、「運動」の象徴になった。彼らが歌うだけで、何かが変わるように思えた。
一方、フェミニズムは組織的な運動として発展し、多くの優れた論者や活動家を生み出してきたが、ロックスター的なカリスマには乏しかった。
個人の魅力で人々を熱狂させる存在が少なかったため、ムーブメントとしての盛り上がりに欠けた。
カリスマ的なアイコンの不在は、フェミニストを宗教的な尊大さを抱かせるための教示としての、大きな魅力の欠損へとつながったと言えるだろう。
プラグマティズムの哲学的伝統は、19世紀後半のアメリカを起源とし、チャールズ・サンダース・パース(1839-1914)とウィリアム・ジェームズ(1842-1910)によってその基礎が築かれた。両者は「プラグマティズム」という用語を共有しながらも、その方法論的アプローチ、真理概念の解釈、形而上学への姿勢において顕著な差異を示す[1][3]。本報告では、スタンフォード哲学百科事典を中心とした学術的資料に基づき、両者の思想体系を体系的に比較分析する。特にプラグマティック・マキシム(実践主義的格率)の解釈相違、真理理論の対照性、科学的探求と宗教的信念への適用方法の違いに焦点を当て、現代哲学におけるプラグマティズムの多様な展開を理解する基盤を提供する。
パースとジェームズのプラグマティズムは、1870年代にハーバード大学を中心に活動した「メタフィジカル・クラブ」での議論を起源とする[1]。この学際的集団には哲学者、心理学者、法律家が参加し、科学的探求の方法論と伝統的形而上学の再検討が行われた。当時の進化論を中心とした科学的革命が思想的背景に存在し、パースとジェームズはこの知的環境の中でプラグマティズムの核心的概念を発展させた[1][3]。
パースはこの時期に「プラグマティック・マキシム」を定式化し、概念の意味をその実践的帰結に基づいて明確化する方法論を提案した。これに対しジェームズは、パースの論理的厳密性をより広範な人間的関心へ拡張し、宗教的信念や道徳的価値の問題に適用する方向性を示した[1][2]。
パースのアプローチは本質的に科学的探求の論理学として位置付けられる。彼が1878年の論文「How to Make Our Ideas Clear」で提示したプラグマティック・マキシムは、概念的明晰性の第三段階として機能する。具体的には、ある概念の対象がもたらし得る実践的効果を考慮することで、その概念の意味を確定する方法論である[1][3]。例えば「硬さ」の概念は、他の物質に引っかかれないという実験的帰結を通じて定義される。パースはこの格率を伝統的論理学における「明晰判明な観念」の区別を超克する手段と位置付け、形而上学的議論の空虚性を暴く批判的ツールとして活用した[1]。
ジェームズはパースの方法論を受け継ぎつつ、その適用範囲を拡張した。1907年の『プラグマティズム』講義で提示されたアプローチは、哲学的論争を解決する「仲介者」としての機能を強調する[2]。例えば「リスを追いかける人がリスを周回するか」という思考実験では、「周回」の実践的意味を状況に応じて解釈し、論争の不毛さを明示した[1][2]。ジェームズの関心は科学的真理の探求に留まらず、宗教的経験や道徳的価値の領域にまで及んだ。これは彼が「事実への科学的忠誠」と「人間的価値への信頼」を調和させる哲学を求めたことに起因する[2]。
パースのプラグマティック・マキシムは、科学的探求の論理的基盤を確立することを目的とした。彼はこれを「実験室哲学」と形容し、仮説の検証プロセスにおける実験的帰結の予測可能性を重視した[1]。例えば「現実(reality)」の概念は、探求共同体の長期的な合意形成プロセスを通じて構成されると解釈された。この立場は「真理の合意説」へと発展し、科学的方法の客観性を保証する基盤となった[1][3]。
パースの格率解釈の特徴は、概念的意味の「第三の明晰性」を追求する点にある。伝統的論理学が語義的定義(第二の明晰性)に留まるのに対し、パースは概念の実践的運用文脈を分析することで、形而上学的議論の無意味性を暴露する批判的ツールを提供した[1]。例えば「自由意志と決定論」の論争は、両立場の実践的帰結が同一である場合、純粋に言語的な問題に還元されると指摘した[1]。
ジェームズのマキシム解釈は、人間的経験の多様性を包摂する柔軟性を特徴とする。彼はパースの科学的厳密性を保持しつつ、真理を「有用な道具」として再定義した[2]。この立場では、信念の真理性はその実践的有用性によって測定され、宗教的信念のような非科学的領域にも適用可能性が拡張される。ジェームズは『プラグマティズム』において「真理は善の一種である」と述べ、真理性を将来的な経験における予測的成功可能性と関連付けた[2]。
この差異は、両者の真理理論における対照性に明確に表れる。パースが長期的な科学共同体の合意形成を真理の基準とするのに対し、ジェームズは個人的・社会的有用性を重視する[1][2]。ジェームズのアプローチは「真理は作られる(made)」という表現に凝縮され、人間の目的や価値観が真理構成に参与することを認める[2]。
パースの真理理論は「探究の終極的な意見(ultimate opinion)」概念に基づく。彼にとって真理とは、理想的な探求状況において科学的共同体が到達する不可避的な合意を指す[1][3]。この立場は反基礎付け主義的認識論と結びつき、真理を動的な探究プロセスの帰結として位置付ける。パースはこの考え方を「現実主義(realism)」と関連付け、人間の認識から独立した客観的現実の存在を仮定した[1]。
この観点からパースは、ジェームズの真理概念を「過度に主観的」と批判した。特に宗教的信念の真理性を有用性に基づいて認めるジェームズの姿勢は、真理の客観性を損なう危険性を含むと指摘された[1][3]。パース自身は後に自説を「プラグマティシズム」と改称し、ジェームズ流の解釈との距離を明確にした[1]。
ジェームズの真理理論は「真理の道具説(instrumentalism)」として特徴付けられる。彼は『プラグマティズム』で「真理は発生する(happens to an idea)」と述べ、信念の真理性をその実践的有用性と将来的な検証可能性に結び付けた[2]。この立場では、真理は静的対応関係ではなく、動的な経験の流れの中で機能する信念の性質として理解される。
ジェームズの真理概念は多元主義的側面を有し、科学的真理と宗教的真理が異なる文脈で有効性を持つ可能性を認める[2]。例えば「神の仮説」は、それが人間の生活的経験に有意義な影響を与える限りにおいて真理と見なされる[2]。この柔軟性はパースの客観主義的立場との根本的な相違点であり、プラグマティズム内部の思想的緊張を生み出した[1][3]。
パースの形而上学は、科学的探求の対象としての「現実(reality)」概念を中核に据える。彼は現実を「探求の最終的に決定されるもの」と定義し、人間の認識から独立した客観的秩序の存在を仮定した[1][3]。この立場は、彼の記号論(semiotics)と結びつき、現実を記号解釈プロセスの産物として動的に捉える視点を含む。
パースの現実概念は、伝統的経験論の受動的認識モデルを超克する。彼は「アブダクション(仮説形成)」のプロセスを重視し、科学的発見の論理学を構築しようとした[1]。この過程で、現実は単なる感覚所与ではなく、探求共同体の解釈的実践を通じて構成される動的概念として再定義された[1][3]。
ジェームズの形而上学は「純粋経験の形而上学」として知られる。『徹底的経験論』(1912)で展開されたこの立場では、心と物質を「純粋経験」の異なる編成様式として再解釈する[2]。ジェームズは現実を固定的実体ではなく、経験の連続的流動として捉え、プラグマティズムを「未完成の現実」を認めるプロセス哲学として位置付けた[2]。
この経験論的立場は、ジェームズの真理理論と密接に連関する。彼は「現実は作り続けられている(still in the making)」と述べ、人間の目的的活動が現実構成に参与することを強調した[2]。この観点から、パースの科学的現実主義は「完成された現実」を前提とする合理主義的立場として批判された[2]。
パースのプラグマティズムは本質的に科学的方法の哲学的分析として発展した。彼の「アブダクション-演繹-帰納」の三段階論は、仮説形成の論理学を体系化しようとする試みである[1][3]。科学的真理の基準としての共同体合意の重視は、個人の主観性を超えた客観性保証のメカニズムとして機能する。
宗教的信念に対するパースの姿勢は懐疑的であり、科学的探求の方法論と整合しない教義を批判した[1]。ただし彼は後年、「宗教的関心」を科学的探求の動機付けとして位置付ける独自の「宗教的実感論」を展開した[1][3]。
ジェームズは『宗教的経験の諸相』(1902)で、プラグマティズムを宗教的信念の検証に適用した。彼は「神の仮説」の真理性を、それが個人の生活にもたらす実践的効果に基づいて判断する立場を採用した[2]。このアプローチは、超越的神観念を批判しつつ、宗教的経験の心理学的現実性を認める点に特徴がある。
科学的探求に対するジェームズの姿勢は、パースの厳密性よりも人間的価値の統合を重視する。彼は科学と宗教を対立軸ではなく、異なる人間的欲求に応える補完的システムとして位置付けた[2]。この立場は、パースの科学主義的傾向との明確な対照点となる[1][3]。
パースとジェームズのプラグマティズムは、共通の方法論的出発点を持ちながら、その哲学的展開において決定的な分岐を示す。パースが科学的探求の論理的基盤と客観的真理概念を堅持したのに対し、ジェームズは人間的経験の多様性と真理の道具的性質を強調した。この相違は、真理理論・現実認識・宗教的信念への適用方法に体系的な差異をもたらした。
現代哲学におけるプラグマティズムの復興は、この思想的多元性を再評価する動向を示している。パースの科学的厳密性とジェームズの人間中心的柔軟性は、現代の認識論・形而上学・価値論の課題に対し、補完的洞察を提供し得る。今後の研究課題として、両者の思想を統合する新たなプラグマティズムの可能性、および非西洋哲学伝統との対話を通じた発展が考えられる。
Citations:
[1] https://plato.stanford.edu/entries/pragmatism/
[2] https://plato.stanford.edu/entries/james/
[3] https://plato.stanford.edu/archIves/sum2010/entries/pragmatism/
「すべからく」という言葉は、「当然〜すべきである」「〜であって当然だ」という意味の副詞です。例えば「学生はすべからく時間を守るべし」のように、規範や道徳的な当為を表現するときに使います。
問題の文章では「この世は全てすべからく男性のために作られている」と使われていますが、これには二つの問題があります:
2. 「すべからく」は本来、「〜すべきである」という規範的な意味を持ちますが、ここでは事実を述べる「作られている」と組み合わされており、語法として不自然です
正しい使い方としては:
・ 「この世は全て男性のために作られている」(事実を述べる場合)
・ 「この世はすべからく男性のために作られるべきである」(規範を述べる場合)
のどちらかが適切です。
この誤用は、「すべからく」を単に「すべて」や「全て」の堅い言い方として誤解している例です。古語由来の言葉は現代ではニュアンスを誤解されやすいので、使用には注意が必要です。
ソーシャルメディアは、適切に使えば素晴らしいツールですが、誤った使い方をすると精神的・道徳的な問題を引き起こす可能性もあります。ユダヤの教えの観点から見ると、以下のポイントが重要です。
ユダヤ教では「ラション・ハラ(לשון הרע)」— 悪口や中傷を避けることが大切です。ソーシャルメディアでは、他人を批判したり、根拠のない噂を広めたりしやすいですが、これは避けるべきです。シェロモ・ハメレフ(ソロモン王)も「舌を制する者は命を守る」(משלי 13:3, 箴言 13:3)と言っています。
もちろん娯楽として楽しむのは問題ありませんが、過度に時間を費やすと「ビトゥル・トーラー(トーラーの学びを怠ること)」に繋がることがあります。時間の管理を意識し、有意義な学びや善行(ミツヴォット מצוות)に時間を割くことが重要です。
ソーシャルメディアは、ポジティブなメッセージを広める強力な手段にもなります。感謝の言葉や励ましの言葉を投稿し、他者を尊重するコメントを心がけることで、「ティクン・オラム(世界の修復)」に貢献できます。例えば、トーラーの一節をシェアしたり、善行のアイデアを共有することも素晴らしい使い方です。
「アイン・ハラ(עין הרע)」とは、人の羨望や嫉妬が悪い影響を与えるという考え方です。自分の成功を誇示しすぎると、知らず知らずのうちに他者の嫉妬を招き、不和の原因になることがあります。成功や幸福をシェアすること自体は悪くありませんが、慎みを持つことも大切です。
トーラーは「嘘を遠ざけよ」(שמות 23:7, 出エジプト記 23:7)と教えています。インターネット上には誤った情報が多くあるため、情報の発信・拡散の前に真偽をよく確認しましょう。
「シャバット」の考え方のように、デジタルの世界から離れる時間を意識的に作るのも良いでしょう。シャバットにソーシャルメディアを断つことで、家族との時間や精神的なリフレッシュが可能になります。
要するに、ソーシャルメディアは 「愛」「真実」「謙虚さ」 をもって使うべきです。便利で楽しいツールですが、それが 善行(ミツヴォット) に繋がるような使い方を心がけましょう! 😃✨
隠してる時点で話したら問題になるとわかってるからにしか思えないからね
この文章にはいくつかの詭弁や誤解を招く議論が含まれています。以下に、詭弁の箇所とその反論を示します。
1. 「生物学的視点から見れば、托卵は自然界において決して珍しいものではない」
詭弁の指摘:
自然界での托卵行動を持ち出して、そこから人間社会での托卵行為を肯定しようとしていますが、これは「自然主義の誤謬」に該当します。自然界で起きている行動が人間社会で道徳的に許容されるべきだという論理は成立しません。生物の行動は必ずしも倫理的に適切な行動と一致しないからです。例えば、捕食行動や暴力的な行動が自然界で見られるからといって、それらを人間社会で許容するべきだという論理は通りません。
反論:
人間社会では倫理や道徳の基準が存在し、個人間の信頼と誠実が重要視されています。自然界での行動が人間社会で容認される理由にはなりません。特に人間は社会的な動物であり、相互の合意と責任が前提となるべきです。
2. 「男性は自分の遺伝子が受け継がれることに異常な執着を持っている。その根底には、「自分の所有物が他人のものになってはならない」という発想がある」
詭弁の指摘:
この部分は「過度の一般化」と「単純化」に該当します。男性全体を一括りにして「異常な執着」だと表現していますが、これは誤りです。男性にも様々な価値観や感情がありますし、遺伝子に対する執着も一概に「異常」だと断定することはできません。
反論:
男性が遺伝子の継承に強い関心を持つことは、進化的な観点から理解できる部分もありますが、それがすべての男性に当てはまるわけではありません。人間の行動には個人差があり、すべての男性が「自分の所有物としての遺伝子」を重視しているわけではないことを考慮するべきです。
3. 「男性側からすれば「騙された」と感じるかもしれない。だが、社会全体を見渡せば、女性は長らく騙され続けてきたのではないか」
詭弁の指摘:
ここで述べられている「社会全体で女性は騙され続けてきた」という点は「相対化による無罪化」です。この論理は、他者が行った誤りを理由に自分の行為を正当化するものであり、詭弁です。例えば、男性が不誠実な行動をしたとしても、それを「女性も長年にわたり騙されてきたから許される」という理屈には成り立ちません。
反論:
他者がどんなに不正義を経験してきたとしても、それを正当化に用いることはできません。それぞれの行為が独立して評価されるべきです。社会的不公平を問題視するのは重要ですが、それを他者の不誠実を理由にした行動に結びつけるのは論理的に誤りです。
詭弁の指摘:
ここでの主張は「道徳は相対的であり、変わるべきだ」という意見ですが、これも過度の相対主義に陥っており、議論を無意味にします。確かに、社会の価値観は時代とともに変化しますが、倫理的に不可欠な基準(例:誠実さ、他者への配慮)は普遍的なものとして維持されるべきです。
反論:
道徳が時代によって変わるとしても、人間関係における基本的な信頼と誠実の価値は変わりません。それを「時代遅れの規範」として無視するのは、社会全体の信頼関係を損ねる危険があります。
この文章全体として、托卵行為を正当化しようとする主張に対して、道徳や倫理に関する基本的な理解を欠いた議論が多いため、注意が必要です。
社会の通念として、それは裏切りであり、倫理的に許されないとされている。しかし、私にはそうは思えない。むしろ、それを肯定的に捉える視点こそが、より公正な社会の実現に寄与するのではないかと考えている。
まず、生物学的な視点から見れば、托卵は自然界において決して珍しいものではない。カッコウをはじめとする多くの鳥類がそれを戦略として用いている。ではなぜ人間の社会においてのみ、それが罪悪視されるのか。答えは単純で、社会のルールが男にとって都合のいい形で作られてきたからだ。
そもそも、子育ての負担は圧倒的に女性に偏っている。妊娠・出産という過程そのものが女性に課せられており、その後の育児もまた、男性はほんの一部しか担わないのが現実だ。それなのに、DNAの一致という、育児にほとんど寄与しない要素が重視されるのは滑稽ではないか。
男性は自分の遺伝子が受け継がれることに異常な執着を持っている。その根底には、「自分の所有物が他人のものになってはならない」という発想がある。だが、そもそも女性も子どもも彼らの所有物ではない。子育てにおいて最も重要なのは「誰の遺伝子か」ではなく、「誰がどれだけの労力を提供するか」だ。その点で言えば、托卵された男性が育児を担うことは、社会全体の負担の公平性を高める一助となる。
また、男性は自分の子どもでなかった場合、それを裏切りと感じるようだが、彼ら自身はどれほど誠実に生きているのだろうか。浮気や不倫、風俗通いなど、彼らは自らの快楽のためには倫理を平気で踏みにじるくせに、女性がそれをした場合には烈火のごとく怒る。このダブルスタンダードが、托卵を問題視する心理の背景にあるのではないか。
さらに言えば、托卵は女性にとって合理的な選択肢となり得る。遺伝的に優れた男性の子どもを持ちながら、経済的に安定した男性に育てさせることは、子どもの生存戦略としても合理的だ。それを「道徳的に許されない」と言うのは、女性の自由な選択を奪おうとする抑圧に他ならない。
男性側からすれば「騙された」と感じるかもしれない。だが、社会全体を見渡せば、女性は長らく騙され続けてきたのではないか。恋愛においては「養ってやる」と言いながら実際には家事育児を押し付け、結婚すれば「一生守る」と言いながら経済的DVを平然と行う。男性による欺瞞は許され、女性がそれを返したときだけ非難されるのは理不尽ではないか。
道徳とは、時代とともに変わるものだ。かつては女性が働くことすら非難されたように、現在の「托卵は悪」という価値観も、男社会によって作られた歪んだ規範にすぎない。より公正な社会を目指すならば、托卵は非難されるべきではなく、一つの選択肢として認められるべきではないか。
少なくとも私は、そう考えている。
「トー横」子ども支援団体の元代表逮捕 少女にわいせつ行為か | NHK https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250213/k10014721381000.html
この記事のブコメで、いつものはてフェミどもが吹き上がっているけど、暇空を多少支持する私は、少なくともこの事態を積極的に狙ってたわけではない。ただ、別にそうなっても構わなかったというだけである。
たとえば、私はロシアへの経済制裁や、イスラエルの入植者への制裁も支持しているが、当然これらの制裁は、制裁対象の中の弱者を窮地に追いやる可能性があることも知っている。しかし、私はそんなこと知ったことではないし、むしろそれが効果的なダメージとなることを期待している。クソ入植者やクソ頭Zも、てめえのガキが貧困に苦しんだりすればダメージ入るだろうから。そのガキは付随的損害に過ぎないし、道徳的に非難される筋合いは無い。
仁藤夢乃は温泉むすめという企画をはじめ、オタク向けのコンテンツがどうなろうと、それらで商売している人たちの収入がどうなろうと、それらの収入を当てにしている未成年者を含む家族がどうなろうと、まったく意に介さなかった。むしろ、そういったダメージが「性的搾取」コンテンツという邪悪にダメージを与えることを期待していたのであろう。彼女は彼女の善を実行しただけであって、それはそれで合理的である。
であればこそ、「性的搾取」コンテンツを支持する立場にとっては、Colaboに保護されるはずだった(?)少女も全く同じである。むしろ、ブコメのような非難こそがダメージがが入っているという目印であり、はてフェミらの非難の声は戦果である。それは、温泉むすめ関係者の辞退という苦渋に満ちた決断が、彼女らにとって勝利の凱歌であったことと同じように。だからこそ、我々は決して屈せずに闘い続けるのだ。なぜならば、この世界には、かわいそうな少女と臭いキモオタ、どちらかしか存在してはならないのだから。
https://zenn.dev/bird32/articles/37906495e56ba5
グラント氏は最終的に、セルフ・アイデンティティに基づく定義に落ち着きました。これは「女性とは、自分がそうであると主張する人である」というものです。
もちろん、これは同語反復(トートロジー)であり、女性とは実際に何であるのかという疑問は依然として残されています。長い生物学的な歴史を持つ用語のこの驚くべき再定義は、自然に対してイデオロギーを押し付けようとする試みとしか見なされません。
「ノンバイナリー」の人々、または「女性」として自らを認識する(identify as)男性(「トランス女性」)の中には、生物学によってそのアイデンティティが十分に認識されていないと感じる人々もいるため、彼らは生物学に対してイデオロギーを押し付け、「女性」の新しい定義を作り出そうとします。
さらに言えば、セルフ・アイデンティティが直接的に経験的な現実と一致するという主張には、多くの問題があります。
自分が太っていると感じているからといって、常に太っているわけではなく(拒食症の問題)、自分が馬であると感じているからといって、馬ではなく(「シアリアン」と呼ばれる人々が心理的に動物であると自己同一化している)、自分がアジア人だと感じているからといって、アジア人になるわけではありません(「トランスレイシャリズム(transracialism)」の問題)。
しかしながら、性別についてはこれは異なる、とグラント氏は言うのです。それは、人間の生物学的な特徴の一つでしかなく、単に心理的な作用によって変化しうるものであると述べます。
生物学では伝統的に「性別(sex)」とは、生殖細胞(「配偶子 gametes」)の大きさと運動性によって定義されています。
雄(male)の生殖細胞は小さくて運動性があります(動物では精子、植物では花粉)。雌(female)の生殖細胞は大きく運動性はありません(植物では卵細胞、動物では卵子)。すべての動物と維管束植物には、正確に2つの性別(sex)があり、それ以上はありません。 植物の相当数と少数の動物種では、単一の個体に両方の機能を併せ持つもの(「雌雄同体」)もいますが、これらは典型的な2つの配偶子を生成するため、第三の性別(sex)ではありません。
確かにごく一部の例外として、分類に従わない "インターセックス" の状態の人々がいます(その割合は約5,600分の1から約20,000分の1と推定されています)。このような配偶子観点の例外は確かに興味深いものですが、性別(sex)の二元性(バイナリー)の一般性を損なうものではありません。生物学において、これほど稀な逸脱が基本的な概念を揺るがすことはありません。例えば、約300人に1人の割合で、生まれつき正常な10本の指を持たない多指症の人々がいます。しかし、誰も「指の数のスペクトラム」などは語りません。(なお、ノンバイナリーおよびトランスジェンダーの人々のうち、"インターセックス" の状態である人はごく一部であり、ほぼ全員が生物学的に男性または女性であることを認識しておくことは重要です)
したがって、生物学では、女性とは「成人の人類の雌(An adult human female)」という言葉で容易に定義できます。
グラント氏が犯した最大の誤りは、生物学的な特徴である性別(sex)と、ジェンダー(gender)、つまり社会において担うことを推測される性役割(sex role)とを混同し続けたことです。性別(sex)はあらゆる点でバイナリー(二元性)であるが、ジェンダーはよりスペクトラム(連続体)的であり、それでも「男性」と「女性」の2つのラクダのこぶのようなモードがあります。
ほとんどの人々は、生物学的な性別に関連するジェンダーの役割を演じていますが、多くの数の人々が、両者の役割を混ぜ合わせたり、あるいは男性/女性の役割を完全に拒否したりしています。グラント氏は「私はジェンダー表現を、1日を通して変化するさまざまな方法で演じている」と語っています。しかし、これによってグラント氏が1時間ごとに性別を変えているというわけではありません。
したがって、性別の生物学的な概念の下では、人間が性別を変えることは不可能です。つまり、真の「トランスセクシュアル」になることは不可能なのです。なぜなら、哺乳類は配偶子を生産する方法を変えることができないからです。より適切な用語は「トランスジェンダー」または、「トランス女性」に対しては「女性として自己を認識する(identify as)男性」でしょう。
グラント氏はここでも読者を誤解させます。例えば、彼らは「トランスジェンダーの人々は、他の人々よりも性犯罪者になりやすいわけではない」と主張しています。しかし、少なくともトランスジェンダー女性に関しては、事実はこの主張とは反対のことが裏付けられています。
英国法務省と英国国勢調査の統計を比較すると、性犯罪を犯した受刑者の割合は、男性受刑者の中の約20%、女性受刑者の最大約3%であるのに対し、トランスアイデンティフィケーションした受刑者の少なくとも約41%が性犯罪で有罪判決を受けています。したがって、トランスジェンダーの受刑者は、生来の男性の2倍、生来の女性の少なくとも14倍の割合で性犯罪者である可能性が高いようです。
これらのデータは、逮捕された者や有罪判決を受けた後に女性であると宣言した者だけに基づいているため不完全ですが、トランスジェンダー女性は生物学的女性よりもはるかに多く性的に略奪的であり、生物学的男性よりもややいくらか略奪的でありうることを示唆しています。スコットランド、ニュージーランド、オーストラリアでも同様の傾向が見られるという指摘があります。
まず、生物学的な性別の現実を認め、イデオロギーに基づく概念を拒絶することは「トランスフォビア」ではないということを主張したいと思います。科学的な現実とトランスジェンダーの権利のどちらかを選ばなければならないということは、決してあってはなりません。
トランスジェンダーの人々も、他の人々と同様に、道徳的・法的権利をすべて享受すべきです。しかし、道徳的および法的権利は、「消えない刻印」としての性別(sex)が他者の法的および道徳的権利を損なう結果となる分野にまでは伸長されません。
例えば、トランスジェンダー女性は、生物学的な女性と女子スポーツで競うべきではありません。また、レイプ等の性犯罪に関するカウンセラーや暴力を受けた女性のためのシェルターのスタッフになるべきではありません。また、犯罪で有罪判決を受けた場合は、女子刑務所に収監されるべきではありません。
これみたいな「お前はどうせこういう(自分の思う)道徳的に許されないことを言おうとしているんだろう」と決めつける投稿とかかな。