はてなキーワード: 独創性とは
これは別に言ってもいいかな、ジャンルは手広くやってるけど、今は主にホラー。
私はわりと積極的に、自分が触れた映画とかマンガとかのコンテンツの感想をSNSで日常的につぶやく方の作家です(作家は他人の作ったものにはあれこれ言うべきではない、あくまで作品で語るべきという主義の人もけっこういる)
コメント対象の中には、自分に近いジャンルの小説も含まれてて、下手なことを言うとブーメランになる(エラそうなことを言ってるけどお前自身はどうなんだ?)のは分かってるけど、自分を追い込む意味でもいいかなと思って続けてます。
そういう活動の一つとして、数カ月前にとある作家さんの作品についてSNSで感想を書きました。
完全な新人ではないんだけど、もともと別ジャンルで活動していて、その作品で初めて私と似たような分野に挑戦することになった、という経歴の人です。実をいえば、私はお名前自体その本で初めて知りました。
で、感想の中身なんですが。
メインギミックのやりたいことは分かるけど、表現がそれにあんまり追い付いていない。これは以前に書いていたジャンルのクセが抜けてないんじゃないか。
正直、良くも悪くもそこまで強い印象に残った作品ではなく、私にとってその時は、あくまでその他大勢の中の一つでしかありませんでした。
しかしその直後、私の感想がどうも作者さんの目に触れたらしいことが、作者さんのポストで分かりました。私の名前こそ出していないものの、明らかにそれと分かる形で言及されていたのです。
私自身プロ作家ですから、ペンネームや作品名でエゴサすることは日常茶飯事ですし、自分の感想が相手に届いてしまうことも常に覚悟していたつもりです。
俺の元ジャンルのこともきっと見下しているに違いない。
…とすごい剣幕でした。
繰り返しますが、当該作品への私の感想はせいぜい、自分にはあまり合わなかったという程度のもので、批判でさえありません。それでここまで過剰な反発を引き起こしてしまうとは、非常に驚きました。
それに、こんなことはあまり言いたくありませんが、作家としての総合的な実績で見れば、その作家さんより私の方がはるかに上です。嫉妬などあるはずもないでしょう。
また、私がAmazon等で低評価レビューを扇動しているかのような匂わせポストもありました。
恐らく、私の感想と似た指摘をしているレビューが多数あったことを根拠にしてそのように考えたのでしょうが、的外れもいいところです。それは単に、私の感想が作品の妥当でありふれた評価の一つでしかなかった、という証拠と考えるべきでしょう。
きっと本心では扇動どころか私自身が複アカで自演していると言いたかったのでしょうが、低評価しているアカウントの多くが数年前からレビューを続けている上に「Amazonで購入」が付いていたせいで捨てアカ認定できず、仕方なく扇動疑惑を主張したのだと思われます。
(これは余談ですが、むしろ絶賛レビューを付けているアカウントの方に、作ったばかりの捨てアカらしきものが複数確認されたのですが、これは気のせいでしょうか…)
ここまでなら、相手の自意識過剰に困惑と苦笑で済んでいたのですが、その後も作者氏の「同業者」に対する嫌味はいっこうに止まることがありませんでした。
最近では、
同業者なのだからパーティーなどで実際に顔を合わせる機会もある
というような、何らかの行動を匂わせる発言もするようになり、呑気な私もさすがに恐怖を覚えるようになりました。
幸いなことに、私は当該作品の版元である出版社でも仕事をしているので、担当編集者に仲裁をお願いしてみたのですが…
なにぶん巨大な出版社であり、件の作家氏が本を出しているレーベルは実質的な別部署となるとのこと。そのため、直接どうこうすることはできないみたいです。
さて、どうしたものか。
孫正義はASI、人工超知能とか言ってるけど、現行の生成AIの本質は車輪の再発明をしないということで、人類に集積された知識を循環させるということだと思うんだよね
だから、生成AIを一番有効活用できる分野はやっぱり、ITだと思うんだよね
プログラミングの課題ってのは車輪の再発明をみんながし続けてきたってことで、ここが解決されるなら、
あと必要なことは仕様を詰めることと、仕様から具体的な処理に分解していって、必要な処理、関数を生成AIに実装させれば大体がモノができるようになる
通常求められるアルゴリズムというのは物事の本質に根ざした独創性の求められる美しい唯一無二の回答ではなく、
現実に行われてる処理を都合のいい形に整形してしたうえで型式にはめてパターン化するという作業で、
実装として実際にどんな手法を使うかは仕様の制約によって多少縛られるに過ぎず、そこまで考えるほどのことではない、基本的にはね、と言う訳でここは生成AIにブン投げればいいってことになっていくと思う
アニー賞受賞ならずというわけで、おそらく日本映画としてノミネートされたかなという印象を受けた。
アニー賞はアニメの賞なのでもとより日本映画はある種注目される位置にいる。
今年アニー賞がとれなかったのはFlowが居たからだ。とれないのは最初からわかっていた。
ただ日本映画としてのノミネートだと感じた理由は、ルックバック以外の作品は制作国以外の各映画祭で評価されており、ルックバックは日本だけだったというところだろう。
今回インディペンデント映画部門にノミネートされた作品のなかで、Flowと争ったであろう作品はメモワール・オブ・ア・スネイルだ。オスカーにもノミネートされているし、すでにアヌシー賞もとっているという状態である。
ケンスケの王国はイギリスの映画だが、渡辺謙が声優をしている。もちろん他国の映画賞もとっている。マーズ・エクスプレスもそうだし、リンダはチキンを食べたいはもうアニー賞が大好きな作風だ。それにこれもアヌシーだ。
とすると、ルックバックは正直なところノミネート作品の中では最下位争いをしたのではないかと…。
ルックバックの評価が低いというわけではないのだが、今回日本映画が結構弱かったことは、今後の課題なのかもしれない。売り込みなのか、テーマ性、独創性なのか。
私たちが映画やドラマ、コミックなどのエンターテインメント作品を楽しむ際、その登場人物の多様性や社会的メッセージに注目する声が近年ますます大きくなっている。特に、ハリウッド映画を中心とするアメリカの大作作品では、女性ヒーローやマイノリティのヒーローを積極的に描く動きが顕著になってきているといえるだろう。こうした流れの中で、たとえば「アヴェンジャーズ」シリーズのような超大作ヒーローチームにも、より多様なバックグラウンドを持つキャラクターや社会的少数者の活躍を求める意見が増えているのだ。その一方で、こうした多様性の拡充を「政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)に迎合しすぎだ」と批判する声も少なくない。では実際に、「ポリコレアヴェンジャーズ」を真に望んでいるのはどのような人々なのだろうか。そして、それを批判する人々は何を懸念し、何を恐れているのだろうか。本稿では、その背景や対立の構図を整理し、考えてみたい。
まず、「ポリティカル・コレクトネス(略してポリコレ)」とは、もともと差別や偏見のない公正な言葉遣い・考え方を目指す姿勢を指していた。人種や性別、性的指向、宗教、障がいの有無などに関わらず、できるだけ当事者を傷つけない表現や待遇をすることが重要だ、とする考え方である。やがて、社会全体の意識が多様性やインクルージョン(包摂)を尊重する方向へシフトする中で、エンターテインメント業界にも「差別や固定観念を助長するような内容は見直すべきだ」という声が波及していった。この動き自体は決して新しいものではないが、SNSの普及に伴い消費者の声が一気に可視化されるようになったことで、その影響力はかつてないほど増大している。
一方で、ヒーローものの代表格として、マーベルコミックスやその実写映画であるマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の人気は世界的に揺るぎないものとなった。複雑なバックグラウンドを持つキャラクターや、女性ヒーロー、異なる人種・文化背景をもつヒーローの登場も少しずつ増えてきたとはいえ、シリーズ初期の中心ヒーローは白人男性が多かったことは否定できない。もともとコミックスの発行開始時期が1960年代前後であり、その頃のアメリカ社会の反映が作品に色濃く残っているため、やむを得ない面もあるだろう。しかし近年の映画シリーズでは、ブラックパンサーやキャプテン・マーベル、シャング・チーなど、多様なバックグラウンドをもつヒーローが次々と登場し、まさに「多様性を重視した新時代のヒーロー像」が打ち出されている。その流れに呼応して、「もっと女性やマイノリティのヒーローを活躍させてほしい」「既存のヒーローチームを抜本的にアップデートして、多様性を真に反映させる“アヴェンジャーズ”を観たい」というファンの声が高まりを見せているのだ。
では、「ポリコレアヴェンジャーズ」を望む人々とは、具体的にどのような層なのだろうか。第一に、SNSやコミュニティサイトなどのオンライン空間において多様性を積極的に支持するアクティビスト層や、その思想に共感するファンが挙げられる。彼らは作品の中における人種的ステレオタイプやジェンダー不平等を厳しく批判し、世の中の価値観がアップデートされた現代にふさわしいエンターテインメントを求めている。彼らにとっては、スーパーヒーローが男性・女性・その他多様な性や文化背景を横断し、最終的には誰もが活躍できる世界を提示することこそが理想なのだ。
第二に、エンターテインメント業界側もまた、多様性を重視する政策や市場の反応を見て、積極的に「ポリコレ」を取り入れる傾向がある。ハリウッドでは映画制作における人種構成やジェンダーバランスを考慮した「インクルージョン・ライダー」など、具体的な取り組みが話題になることも増えてきた。作品がグローバルに公開されるにあたっては、多様な視聴者の感情を考慮し、多くの国や地域で「受け入れられやすい」形を模索するようになっている。マーケティング上の戦略として見ても、マイノリティの視聴者を取り込むことは大きなビジネスチャンスに繋がると考えられるからだ。
こうした文脈の中で、「ポリコレアヴェンジャーズ」を待ち望んでいるのは、言うなれば「これまで声が届きにくかった層の人々」や「多様性を当たり前だと考える若い世代のファン」、そして「マーケットの可能性を重視する映画スタジオ」などである。しかし、ここで見逃せないのは、こうした変化を歓迎する人々がいる一方で、「ポリコレが行き過ぎている」と感じる人々の声が根強いことだ。彼らは「エンターテインメントは政治的メッセージや社会運動のための道具ではない」と考えており、あくまで“娯楽”としての物語に集中したいのだという。また、中には既存キャラクターの性別変更や人種変更が行われることを「原作への冒涜だ」と批判する人たちもいる。
特に「伝統的なヒーロー像」に愛着をもつファンの中には、「長年培われてきたキャラクターのイメージやオリジンストーリーを、製作サイドが都合よく改変してしまうのはいかがなものか」という不満を持つ者がいる。ヒーローたちの本質は、その人種や性別を超えて「いかに困難を克服するか」や「いかに正義を貫くか」にあるのであって、「外見上のマイノリティ性」が強調されるあまり肝心の物語が薄れてしまうのではないか、と懸念しているのだ。こうした考えを持つ人々にとって、「ポリコレアヴェンジャーズ」はマーケティング重視の“お仕着せ”のようにも映ってしまう。
さらに、近年のSNSでは「作品の配役や表現が差別的だ」と糾弾されることで、過激な炎上が起こるケースも少なくない。こうした炎上や批判の応酬を見て、クリエイター側が過度に萎縮してしまう「萎縮効果」を危惧する声もある。結果として、作品の中身よりも「ポリコレ的に問題がないかどうか」が過剰に意識されてしまい、まるでチェックリストをこなすかのように「女性キャラクターを必ず何割入れる」「マイノリティを一定数登場させる」といった形式的な対応に陥るリスクが高まる。そのような機械的な設定に依存したキャラクター造形では、結果的に個々のキャラクターの個性や魅力が希薄になり、逆に多様性の本質が損なわれてしまうのではないか、とする批判も出てきているのだ。
一方で、「ポリコレアヴェンジャーズ」を誠実に求めるファンやクリエイターたちは、「多様性を重視することは、より多くの視聴者に物語の共感や夢を与えるための必然である」と考えている。スーパーヒーローが“超人的”なのはもちろんだが、同時に人間的弱さや葛藤を抱えながら戦う姿こそが多くのファンを惹きつける。そこに人種や性的指向、あるいは障がいや貧困など、いろいろな背景を背負ったキャラクターが加わることで、より幅広い人々が「自分もヒーローと同じように闘える」と感じられるのではないだろうか。作品を通じて勇気をもらうだけでなく、社会が抱える不条理や差別の構造に一石を投じるきっかけにもなるかもしれないのだ。
以上のように、「ポリコレアヴェンジャーズ」を求める声と、それに対する反発や批判との間には大きな意識の隔たりがある。単純に「多様性を推進すべきかどうか」という価値観の相違だけでなく、作品の楽しみ方やヒーローという存在への捉え方、そして創作の自由と表現の責任のバランスという複数のレイヤーにわたる問題が絡み合っているといえる。作品を制作する側にとっても、ある層を満足させれば別の層が不満を覚えるといったジレンマがつきまとう。SNS時代ならではの炎上リスクを考慮すると、より慎重に「どのようなキャラクターをどのように描くか」を検討せざるを得なくなってきているのだ。
では、今後「ポリコレアヴェンジャーズ」と呼ばれるような、より多様性に富んだヒーローチームが実現した場合、どのような世界が広がるのだろうか。そこでは、性別や人種、障がいの有無、性的指向などを超えて、人々が互いの違いを尊重し合いながら協力し、世界を守るストーリーが展開されるだろう。それは、現実社会が抱える様々な対立を映し出す鏡ともなり得る。ヒーロー同士のぶつかり合いや、時に衝突を乗り越えて共に戦う姿は、現実の社会問題を考える上でも有用なメタファーとなるはずだ。多様性を持つキャラクターたちが、政治や文化の壁を超えて協力し合う様子は、観客に「自分自身や周囲の人々を見つめ直す」機会を与えてくれるかもしれない。
しかし、その道のりは決して平坦ではないだろう。過度な「ポリコレ」批判が続けば、表現者たちは自己規制に走り、本来の物語の面白さや挑戦的な要素が削がれてしまう恐れがある。一方で、多様性を取り入れようとするあまり、キャラクター造形が単純化されてしまえば、やはりファンはしらけてしまう。結局のところ、ファンが求めているのは「本物のドラマ」である。社会問題を扱うにしても、単なるマーケティングの道具としてではなく、しっかりと作品世界に根を下ろし、キャラクター一人ひとりに奥行きと葛藤が描かれているからこそ、「本当の意味での多様性」が花開くのではないだろうか。
つまり、「ポリコレアヴェンジャーズを望む人」と一口に言っても、その動機や期待値は様々である。現代社会の潮流として「多様性を重視しないと批判されるから」「市場拡大のためには必要だから」といった表層的な理由で支持する人もいれば、「自身がマイノリティであるがゆえに、自己を投影できるヒーローを探している」という切実な声もある。その双方を包含しながら、作品としての質や独創性を高めつつ多様性を反映していくには、制作者やファンコミュニティが相互に建設的な対話をする必要があるだろう。
最終的に、「ポリコレアヴェンジャーズ」が完成するかどうかは、単にスタジオの方針やファンの声だけでなく、社会全体の変化とも深く関わっている。今後、グローバルな社会情勢や世代交代、テクノロジーの発展などによって、エンターテインメントと政治・社会問題の距離感はますます近くなるかもしれない。その中でヒーロー映画は、単なる娯楽作品としてだけではなく「現代の神話」として、私たちが理想とする社会像や価値観を映し出す鏡となるだろう。多様性を重視するかどうかという論争は、ヒーロー映画の未来だけでなく、私たち自身の未来を照らす問いかけでもある。
結論として、「ポリコレアヴェンジャーズを望んでいるのは誰か」と問われれば、それは多様性を当然のものと考える新世代のファン、社会的マイノリティのRepresentation(表象)を切望する人々、そして市場を意識する製作サイドを含めた多くのステークホルダーたちであると言えよう。逆に、これまでの“伝統的”なヒーロー像や創作の自由を重んじ、「政治的メッセージや配慮が過剰になること」に抵抗を感じる人々からは、冷ややかな視線が向けられるかもしれない。いずれにしても、ヒーロー作品は私たちが抱く理想像や価値観、そして矛盾や課題を映し出す鏡としての役割を担い続ける。そうした意味で、ポリティカル・コレクトネスの議論が活発化する現代において、「ポリコレアヴェンジャーズ」は今まさに、私たちの社会の未来を映し出す一つの象徴なのかもしれない。
質を高める方向でひたすら試すことだ。
Xやはてなっぽい、進化させていくと到達するかもね位のクローンはたくさん見てきた。
生成AIでなんでも作れるからやる意味がないとよく聞くが、であるならばなぜやらないんだい?
しかしそれもどうかと思う。
ショッピングサイト、Xのクローンサイトも似たようなレイアウトのエロサイトも多く存在する。
個人で立ち上げたものから、会社からの依頼で立ち上げるものまで数多く存在する。
しかし、質の高いものはこれからもそんなに量産はされないと思う。
それに、生成AIに仕事が奪われるなら、なおさらそういったところから試してみてもいいのではないのだろうか。
おそらく99%のプログラマはそういったものは持ってないから、本当に仕事がなくなるまではクローンを高品質に、素早く作れるくらいをひとまずの目標にしてもいいんじゃないかなと思った。
悪質匿名メールシリーズ。嘘松さんの作品について、僕の方が先に考えてたのにみたいなことが書いてあった、と。
うーん…
要は、自分の作品は有象無象に妬まれるほどの独創性を持っている、ということにしたいのでしょう。それは別にいいです。昨日も書きましたが、自分上げは嘘松の華ですからね。
しかし、この匿名メールシリーズ、そもそもの設定がちょっと弱いのではないでしょうか。
これまで何度も悪質メールが届いたと言いながら、その根拠はほぼ嘘松さんの証言だけ。体験談ならともかく、メールのようなデジタルな情報なのに、具体的な引用もスクショもほとんど無いのは、リアリティの面でマイナスとなります。
ここはひとつ、「メール」という設定を一旦白紙に戻した上で、マシュマロや質問箱等に切り替えてみるのはどうでしょう?
これら匿名質問サービスなら、仕組みがガバガバなので自演はカンタンに実行できますし、送られてきた(という設定の)悪意のこもった文面を、読者にも動かぬ形で共有することができます。
事実、オタククリエイターやvtuberの間では現在、異常な内容の匿名質問を晒してバズを稼ぐことが「マシュ松」として既に一般的な手法となっています。
嘘松としての飛躍を目指す嘘松さんにとっても、こうしたサービスは有効な武器となると思うのですが…一考してもらえないでしょうか。
「お前いくら稼いでるの?」
結婚4年目と少しでそれを聞いたら「は?」と言われていた。
弊家庭は、適当に共同通帳に金をぶち込んだりぶち込まなかったりするスタイルなのだ。
俺も実は投資用の通帳とか持っていたりするし、嫁の源泉徴収何かも見たことがなかったので、
実際のところ、家庭内の収入というものがどの程度のものなのか、知らなかったのだ。
結論から言うと、嫁の方が俺より多分100万くらい年収があった。
多分というのは、俺は投資でそこそこ儲けているはずだからだ。いくら儲かっているのかは知らない。野村證券の人に電話で応答してるとなんかやり手っぽいよね。それだ。たまに直筆の手紙とか来るから多分ちゃんと投資していると思う。
確か、実家からもらった栃木の駐車場の土地が微妙に金になっているんだか、
同じくもらった栃木の山の方の土地の税金でトントンくらいだった気もするし、
そもそも共同通帳にいくら入っているのかも、微妙にわかっていない。
いちいち確認しないからだ。1000万くらい?いや、なんかよくわからなかった。
預金ってネットで確認とかできるんだっけ?わからん。嫁もわかっていなかった。
控除?だか地方の子供の支援?を受けるためには家庭の収入がいくらなのかわかっている必要があるらしいのだ。
まあ、そんな小っちゃいことはどうでもいい。
子供だ。子供にいくらかかるのかよくわかってないから、こう、収入がいくらなのかそろそろ、真面目に計算しないとヤバイと思ったのだ。
なんか、出産って保険降りるの?わからん。入院ってお金かかるの?わからん。
わからないことだらけだ。まあググれば出てくるだろう。
あと、アレ、なんか習い事?とかも多分お金かかるだろ?水泳とか習わせたいし、そうすると月に多分3万だか4万だかかかると思うのだ。
そういうアレで、俺は嫁の収入が多い事を知ってしまったのだが、ショックだった。
なんとなく俺の方が稼いでいるんだと思って働いてきて、嫁のために頑張るぞ、なんて思っていた分、損をしている。返して欲しい。俺のアレを。気持ちを。返せ返せ。年間100万、4年で400万円分も損している。悲しい。
まあそんなこたあ、どうでもいいんですよ。
実は100万も多いので、俺は哀しい想いをしている。なぜならばその分投資に回せたはずだからだ。そしたらもっと増えたんじゃないかと思う。子供にも倍、スクールスイミングに通わせることができたはずだ。
あー、やりきれねえ、こたえられねえよな。つーか俺の気持ちなんてものはどうでもいいんだ。
問題の本質は嫁の収入が俺よりも100万、多いということに他ならない。
何故だ?男の方が普通は女よりも収入が多いんじゃないのか?なんか統計?的なものでそんなことを言われていた気もするし、日本のジェンダーギャップがどうたら、こうたらあったはずだろう。
何故俺の方が少ないんだ。これだと俺が頑張っていないみたいじゃないか。いや、平均値よりは稼いでいるはずなんだがね。
てか、俺の方が収入少ないのに、家事とかほぼ全部嫁に丸投げしてたから、俺としては申し訳ない気持ち、それが最初に来るんだ。
でもやっぱさあ、絶対俺の方が頑張ってるよなあ、とちょっと思う。なぜなら絶対俺の方が嫁より頑張っているからだ。
まあ、そんなちっちぇえことはどうでもいいんだ。
やっぱさあ、水泳なのかな?体が柔らかいと怪我をしにくくなるとか、喘息が治るとか言われているので俺は水泳推しなのだが。そろばんとか、IT系のアレとか、色々最近は習い事が増えてきて悩む。
子供の習いごと編成って永遠の課題じゃないだろうか。俺は公文式をやってたおかげで、国語の偏差値は常に60後半とか70くらいあったし、公文も推したいんだけど、Z会とか色々あるよなあ。
それよか、絵とかかけたりピアノとか弾けた方がいいのかな?
そういう所に集まってくる子女と知り合い、友達になれるってだけでもメリット多いとも聞くし、独創性?なんか高まりそう。でもピアノ弾けるとクラス分けとかで変にドラフトされるとかも聞くし、難しいよな~。
結局、やっぱり俺が100万も稼いでないのっておかしいよね。まあ、そんなことはどうでもいい。
子供に何習わせるかだよな。youtubeばっかり見てるような子供にはなってほしくないけど、学校行って習い事行って、自分の趣味が持てないような人間にもなってほしくないんだよなあ。まあ、楽しく生存してくれればそれでいいんだけどさ。金を惜しむ気はないけどお小遣いとかのバランスも考えて、習い事頑張ったらアイスとか買ってあげたいんだよな。野望としては。そこで100万円が引っかかってくるのが本当に俺の思考のボトルネックになってしまっていて、「あーこのアイスも実質嫁負担みたいなもんかー」とかなりそうなのもちょっと恐れるとこではある。でも、やっぱ夢だよな。習い事の帰りに子供にアイス買ってあげて帰るの。小さい頃、塾のテストでいい点とったらハーゲンダッツの抹茶味を親が買ってくれたからそう思うんだろうなあ。ハーゲンダッツって、まず真ん中に円形の穴空けて、その後円の縁が溶けだした所を攫って行って、最後に残った中央と縁の間の部分を食うのが一番旨いよなあ。いつの時代になってもハーゲンダッツはごちそうだよ。そういうものを子供に週に一回は振る舞える親でありたい。これからの時代は英語力あった方がいいかなって思う所もあるんだけど、俺自身がやってた公文の英語とか、日本の塾の英語教育ってあんまよくねえよな。あとなんか英語教師の人が個人でやってるやつも行ったんだけど、正直話せるようにはなってないし。難しいよな。
まあ、そんな感じなんだけど子供に何習わせたら良いと思う?
https://anond.hatelabo.jp/20240721230541
ジジェクは道を誤った / メラニー・ゼルMelanie Zelle [スワースモア大学の学内新聞『スワースモア・フェニックス』の編集者] ※削除済
ttps://web.archive.org/web/20230303073524/https://swarthmorephoenix.com/2023/03/02/zizek-has-lost-the-plot/
私が哲学に興味を持つようになったのはスラヴォイ・ジジェクのおかげである。
彼の著書『終焉の時代に生きる』と『パララックス・ヴュー』に偶然出会い、中学2年生の私が苦労して読み進めたこの本が、
ジジェクの文章は、彼が即興でする賛美のすべてにおいて、素晴らしく説得力があると私は感じた。
本棚に積まれた1000ページにも及ぶ矛盾の山に憤慨しながら『Less Than Nothing』を読み通したのは、高校時代に果たした偉業だった。
私は、ジジェクの長編作品の論旨を理解できるかどうかで、自分の知的価値を測るようになった(現在はほとんど理解できないが、以前はまったく理解できなかった)。
それだけに、現代の政治文化に関する最近の記事で、ジジェクを非難するのは心苦しい。
しかしある意味で、ジジェクと私の関係は、彼が何について間違っているのかだけでなく、
なぜこのような著名人が、あのように明らかな知的陥落にはまることができたのかを理解しようとする上で、
有利なポジションに私を置いていると感じている。
私の怒りの主な対象は、先週発表されたばかりのジジェクのエッセイである。
そのタイトル「Wokeness Is Here To Stay」は、たぶん私がそれほど警戒するものではなかったと思う。
ジジェクの哲学は、ヘーゲル、ラカン(そしてフロイトも)、そしてもちろんマルクスへの愛着から、オーソドックスな、ほとんど伝統主義的なものと特徴づけうる。
他方で世間一般におけるジジェクのペルソナは、意図的に培われたものだと私は主張したいが、ディオゲネス的挑発者であり、象徴破壊者であるが、自分勝手なものではない。
ジジェクのこうした面が、彼の論文や公開講演会、そして彼の知的活動への、より親しみやすい影響を及ぼしているようだ。
したがってジジェクが、クリックした人々が眉をひそめるようなタイトルを選んだことを読んでも、私は驚かなかった。
私は、ジジェクのお気に入りのトリックのひとつである、正式な哲学的分析の範囲外と考えられている文化の側面を選び出し、
喜びを感じながらそれを切り裂くことに慣れてしまっていた。
(ある講義では、カンフー・パンダについて論じており、また別の講義では、ヨーロッパ各地のトイレの特殊な構造が、
ポストイデオロギー的なポストモダニズム世界の概念に対する究極の反論となっている)。
ほとんどの場合、ジジェクの指摘は最終的に重要であり、さらに重要なのは、彼の広範な哲学のいくつかの要素について、面白おかしく、
しかし(おそらく結果的に)効果的に紹介者の役割を果たすことである;
そして一見したところ、"Wokeness Is Here To Stay は同じ公式に従っている。
トランスジェンダーの権利をめぐるスコットランドの政治的混乱から始まり、他の現代政治問題にも触れ、最終的にはフロイトとラカンへの言及で締めくくる。
表面下に潜む構造的な違いを無視しても(これについてはまた述べる)、この作品には、ジジェクのいつものトーンとは正比例しがたい苦渋が感じられる。
これは、私の最大の関心事である彼の議論の内容については言うまでもない;
ジジェクは、スコットランドにおけるトランスジェンダーの権利をめぐる、最近の政治論争をめぐる議論について、記号論的な分析を行っているわけでもなければ、
正確に他の多くのことと結びつけているわけでもない。
結局のところ、ジジェクは皮相な哲学的手法とともにただ単に政策論争に参加しているだけであり、遺憾ながら完全に間違っている。
ジジェクは、過去10年間にリベラルな知識人全体に伝染した観を呈するトランス医療をめぐるパニックに陥っている。
ジジェクのいつもの懐疑論は、ここではいつもの懸念荒らしconcern trollingの再現に留まる。 ジジェクはこう書いている:
「思春期ブロッカーは、タヴィストックでの診察に送られたほぼすべての子供に投与された。
その中には、性的指向がはっきりしないという誤診を受けた可能性のある自閉症の若者や、問題を抱えた若者も含まれていた。
言い換えれば、医学的な性別移行を望むかどうか判断できる年齢に達していない脆弱な子供たちに、人生を変えるような治療が行われていたのだ。
批評家の一人が言ったように、『性別の悩みを抱える子供には時間とサポートが必要である。あとになって後悔するかもしれない医療措置に進むよう仕向けられるべきではない』 」。
この一節は疑問を投げかける。ジジェクは、その知的能力において、思春期ブロッカーが何であるかさえ知っているのだろうか?
ジジェクの引用の使い方は、この作品の中で頻繁に行われていることから特に明らかであり、すでに示唆されていることを裏付けている。
実際、彼が引用したガーディアンの記事を読んでいれば、上で引用した段落を修正できたかもしれない。
ジジェクが引用した記事の上の行には、"異性間ホルモンは16歳からしか処方されず、専門家によれば思春期ブロッカーは不妊の原因にはならない "と書かれている。
したがって、このスロベニア人に知的怠惰の恩赦を与えることもできない。 これは純粋で単純な不誠実さであり、危険な形態である;
さらにひどいのは、ジジェクが記事の冒頭で取り上げた最初の文化的分析対象である。
『コンパクト』編集部がありがたいことに、ページをスクロールすると引用文が表示されるようになっているのだ(まだ彼の論調を十分に理解していない人のために)。
それはこうだ: "女性だと自認する人物が、ペニスを使って2人の女性をレイプしたことを我々は知っている"
“We have a person who identifies itself as a woman using its penis to rape two women.”
ジジェクが言及しているのは、アイラ・ブライソンの事件である。
この有罪判決は、スコットランドにおいてレイプで有罪判決を受けた史上初のトランス女性となり、
トランスの人々に対する「懸念」を持つすべての人々にとってのロールシャッハ・テストとなった。
ここでジジェクは、基本的な事実認識が間違っている。ブライソンの性別移行の時系列を誤って伝えているからだ。
さらに問題なのは、読者を煽動するために、本質化するような言葉を使い、さらに誇張していることである
(「ペニスを持ったレイプ犯が、囚われの女性たちと刑務所にいる」という表現が思い浮かぶ)。
ブライソンを「彼he」、そしてさらに厄介なことに「それit」と、ジジェクが性別を間違えて表現することに固執するのは、
ジジェクがトランスのアイデンティティを尊重することを、裁量に任された、善行次第のものだと考えていることを示唆している。
ジジェクはこの論文で、控えめに言ってもトランスフォビックtransphobicだ。
しかしそれ以上に、ジジェクは退屈で、独創性がなく、不誠実で、怠惰である。
彼はトランスの人々について、『ガーディアン』紙や『ニューヨーク・タイムズ』紙の同様の記事からは得られないようなことを何も書いていない;
この時点でようやくジジェクが哲学について語るかもしれないと思うのも無理はないが、残念ながらそれは間違いである。
記事の次の部分はさらに長く、さらに面白くない。『コンパクト』誌に掲載された別の記事の宣伝である。
(中略)
で、どういうこと? なぜジジェクはこんなことを書くようになったのか?
その答えは、対立的でありたいという彼の誤った願望にある。
彼は、この作品の中で他者が陥っていると彼が非難する事柄に陥っている。すなわち、自分を悩ませる他者を、自分自身の中で勝手に思い描く罪を犯しているのだ。
The answer lies in his misplaced desire to be oppositional. Ironically, he is guilty of the thing he accuses others of falling prey to within the piece, that of envisioning for himself an Other that haunts him.
[ジジェク]「要するに、ここにあるのは、政治的に正しい突き上げと、金銭的利益の残酷な計算との最悪のコンビネーションなのだ。 」
思春期ブロッカーの使用は、[ジジェクによると]"目覚めた資本主義 "のもうひとつの事例であるとされる。
ここでジジェクは、ジャニス・レイモンドの1979年の『トランスセクシュアルの帝国』に端を発する、トランスジェンダーの人々が選択する様々な処置や療法は、
製薬企業にとって重要な経済的利益をもたらすものであるという、一見したところ長年にわたる議論に訴えかけている。
そうすることで、救命医療へのアクセスを容易にするべきだと主張する人々を、自分たちの身体をめぐる現実の物質的な対立のために戦うのではなく、
資本の側、つまり極悪非道な個人の側にいる人々として捉え直すことができる。
バトラーやフーコーを読んだことのある人物が、このように書くことができるのは、こうした運動が誰のためになるのかという、権力についての混乱がジジェクを盲目にさせているのだ:
[ジジェク] 「性的混乱に「異常」なことは何もない。「性的成熟」と呼ばれるものは、長く複雑で、ほとんど無意識のプロセスである。
それは激しい緊張と逆転に満ちている。自分の心の奥底にある「本当の自分」を発見するプロセスではない」。
作品全体と同様、これはジジェク特有の哲学的プロセスといううわべに包まれたいつもの本質主義と、トランスフォビアtransphobiaである。
この最終的な帰結は、英米でトランスジェンダーの物質的な生活にすでにダメージを与えているヒステリーhysteriaの波に、ジジェクがお墨付きのスタンプを押したということだ。
ジジェクは、社会の変化に懐疑的なジャーナリストや知識人の瘴気miasmaの中に紛れ込んでしまったかのようだ。
これはポストモダンの懐疑主義に非常に批判的な人物から出た究極の皮肉である。
過去の思想家からの豊かな引用を悪しき議論の隠れ蓑に変え、気まぐれさを苦味に変えてしまう。
私たちにとって悲しい日であり、多くの意味でジジェクにとっても悲しい日である。
ジジェクは豊富な理論的な著作の中で最高のパフォーマンスを発揮し、ここでは最悪のパフォーマンスを発揮している。
このエッセイを読むと、あなたは感じ取るだろう。少なくとも少しは彼がそれを自覚していることを。
[終]
まず大前提として、どれだけ理性的・論理的な女でも「出産」という行為を前には野生動物に戻る。
強いオス(集落の中でのヒエラルキーが上のオス)の子供以外は産みたくないと考えるのが女という生き物。
強いオスかどうかは、時と場合によって
・力強さ
・容姿
・知能
・年収
・コミュ力
・技術力
・独創性
など色々な能力で判断されるけど、基本は「他のオスにも舐められないオス」じゃないと、子供を産む気にならないのがメスの本能。
この本能は変えられない。可愛い子の裸を見ると勃起する男と同じ。
昔は男同士で力比べをして、女のお眼鏡に叶う男になろうとみんなが努力したり
あるいは女の行動を制限したりして、子孫繁栄できるような仕組みを上手く作ってたりしたが
現代社会では軟弱な男が増え、さらにフェミニズムがはびこり女を甘やかした結果、
女にとっての「強いオス」が減って、今こんな状況になってるわけだ。
これで女が変わればよかったけど、残念ながら女の本能は変わらないので、
未だに「強いオス」を求めた上昇婚か、ヤリチンによるシングルマザー量産くらいしか子供を産む手立てが残ってない。
最近Twitterで話題になっている「全国AIアート甲子園@i-SEIFU」(https://aikoshien.wraptas.site/)のすごさについてまとめる。
以上、「全国AIアート甲子園@i-SEIFU」(https://aikoshien.wraptas.site/)のすごさについてまとめた。今後もこのようなすごいイベントがいくつも現れると予想される。すごいイベントのすごさに注目したい。
とてもしょーもない話。
なろう系の小説が好きで、自分でも小説を書いて小説家になろうとカクヨムに投稿し始めたのが数ヶ月前。
俺は、なろう系のテンプレ展開が好きだからその辺りは置いといて、だ。
タイトルと序盤のインパクトだけは独創性のあるものにしたいな〜ってことで、今までにない(少なくとも小説家になろうとカクヨムでは全く見られなかった)展開で、ざまぁ系というか、成り上がり系でスタートさせた。それが一部の読者に刺さって、カクヨムの方で(2桁順位だけど)日間・週間ランキングに載って、超嬉しかった!
とここまでは良かったんだが、その後、主人公の能力や世界観をちょっと変えただけ(亜人がいるかいないか〜とか、スキルがなくて魔法しかない〜くらいの違い)のパクり作品を書かれた。もちろん、その後の展開まで一緒というわけではないけど…。それが、俺が書いた小説よりもバズって、これもランキング入り。
一応、サイト知ってる人向けに細かい情報書くと、現状で俺の小説は星3桁(500ちょいくらい)、パクりは星4桁いってる。
視界がぐにゃあ〜ってなりながら毎日更新は続けてるんだけど、モチベ下がりすぎてやばい。
んで、晒したとてじゃん。相手はアカウント消して転生するだけだし、俺は俺で「こいつはこんな細かいこと気にして晒すようなやつ」ってレッテル貼られる。
(そもそも、パクってきたやつは無敵の人みたいな感じで、伸びなかったらエタるのは当然!みたいな投稿履歴してるし…)
あー、めんどくせぇ〜ってなったんで、この小説書き終えたらなろうとカクヨムから撤退しようと思ってる。遊び半分で始めたこととは言え、気分のいいものではないね。
なんかこの話思い出した
https://note.com/evjunior/n/n76457ea4b020
女子高であるせいか,豊太郎の不人気は当然のことながら,悲劇のヒロインであるエリスの評判もまたよろしくない。
豊太郎は「女の敵」であり,エリスは「女の恥」だというのである。
妊娠し,精神に異常をきたしたエリスを捨てた豊太郎を「女の敵」とするのは理解できるのだが,なぜエリスが「女の恥」なのか?
ある生徒の感想文にはこう書いてあった。
エリスは豊太郎のような男を選んだが見る目がなかった。私ならあんな男を選ばない。しかも,捨てられてしがみつくのがみっともない。私なら自分からさっさと別れて,後で慰謝料を請求する。
思わず「なるほど,だから,女の恥なのか」と納得したのだが,ここに今の国語教育の大きな問題点があると思ったのである。
結局,作品を正確に,客観的に,深く読解することなく,自分の狭い価値観から作品を歪めて解釈し,断罪する。そして,それを個性や独創性だと勘違いする。このような国語教科書の読み方をしている限り,真の学力が身につくはずはないのである。