はてなキーワード: 抗うとは
――オタク迫害の闇を暴く!クレジットカード会社が仕掛ける文化浄化作戦の真相とは!?――
ついに、奴らが牙を剥いた。オタク産業への締め付けはここまで来ている。
クレジットカード会社――それは表向きはただの決済サービスを提供する企業だが、実態は違う。
連中はグローバル資本と結託した文化統制機関であり、日本のサブカルチャーを壊滅させるための先兵なのだ。
今回の「オタク向け結婚相談所」の決済停止――これは偶然でも何でもない。
彼らは、オタクが社会的に認められ、正当な市民として影響力を持つことを許さない。
なぜか?それはオタクの持つ創造力と情報拡散力が、彼らの支配体制を揺るがすからである!
クレジットカード会社の背後にいるのは巨大金融資本。
彼らは文化を管理し、人々の価値観を支配することで「都合の良い消費者」を作り出そうとしている。
ハリウッド映画、Netflix、ディズニー、そして欧米主導のポリコレ文化。
これらはすべて、「標準化された価値観」 を押し付け、人間を従順な消費者にするための装置。
だが、日本のオタク文化はそれに抗い、独自の表現を貫いている。それを危険視した連中が、クレジットカード会社を使い「経済的に締め上げる」という手法に出たのだ。
クレジットカード会社がオタク産業を締め付けるのは、これが初めてではない。
そして今、「オタク向け結婚相談所」がターゲットにされたのは、オタクが社会的に認められ、家庭を持ち、次世代に影響を与えることを阻止するため なのだ!
現金決済を減らし、キャッシュレス社会を推進することで、決済インフラを完全支配し、不都合な業種を「不承認」という名目で排除する」。
このシステムが完成すれば、オタク産業は根絶され、創作活動は完全に統制されるだろう!
さらに、これは単なるクレジットカード会社の陰謀では終わらない。
• AI技術を利用した創作の排除(例:生成AIの著作権問題を利用した弾圧)
……これらはすべて連携しており、「オタクのいない社会」を実現するための戦略なのだ。
いまこそ、経済封鎖に屈せず、オタク産業を支える独自の決済システムを確立し、連中の支配網から脱却すべきだ!
現在40mgを2週間、80mgを1週間服用してみた。結構世界が変わって驚いた。
ストラテラは脳の眼鏡、脳の拘束具とかいう言葉があったけど、俺としては「脳の鞍と手綱」って感じ。
今までは暴れ馬な脳をただ眺めることしかできなかったが、制御できるようになってとてもうれしい。
もちろん、制御の詳しいやり方はこれから覚えないといけないんだけど。
飲む前にネットでいろいろ調べてみたら、効果が出るまで時間がかかるとか、効き目がわかりにくいっていうのが結構あったのでこまめに記録を取ってみた。
以下はその記録。
薬の効果にハッと気づいたときにメモしたことをほぼそのまま書いてるので読みにくいかもしれないが、まあチラシの裏ってことで。
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仕事で不注意でミスをしまくり、私生活では衝動にまかせて人に迷惑をかけ、というのが続いていた。いつからかわからないくらい。
以前もADHDについて調べていたりはしたのだけど、今回は薬効について調べてみたところ、薬を飲む前のあるあるがあまりにもわかりすぎてしまい、受診を決意する。
2日後の土曜のいちばん早い時間に、近所でいちばん大きな精神科の予約をとる。
前日の晩にスマホいじりが止められなくなり、結果として朝も起きられず9:15分の受付をギリギリオーバーしてしまった。
名前を呼ばれ個室に入ると、二人の人。
医師と、メモをとる人だった。自分がADHDなのではないかと思っていると話すと、どうしてそう思うのか聞かれる。仕事でミスが云々、日々で云々と話すと、子供の頃からそういう傾向はあったか?と聞かれる。具体的エピソードを話すべきか否かわからず、ありました、とだけ答える。そういえば、確かに俺のしてたことって俺だけだったな、と思う。医師に「確かに傾向はありそうですね」と言われる。
その後血液検査。三本抜かれる。
次は簡易ADHDの検査。紙に木の絵を書いて、その後タブレットで色々と答える。
アンケートにて、医師がどうだったかという質問があったので、良くなかったがそのままでいいと回答。
アンケートを提出したらまた呼ばれ、さっきの医師とは別の人と話す。医師が合いませんでしたか?と聞かれ、合わなかったというか、質問に具体的なエピソードを答えればいいのか分かりませんでした。と答える。
「お話を聞いてくれる人の方がよかったんですね。うちは医師との相性を重視しているので、次は別の医師の人にしましょう!合わなかったら気軽に言ってくださいね」と言われる。
その後金を払い、次回の予約。だいたいどの人も2週間後に予約を取りますが、検査の結果自体は1週間で出ますよと言われたので、2月9日に予約をして病院を出る。エレベーターの中でアンケート後の会話について反芻し、そうか、あれは合う合わないを答えて、その後に理由を答えたら良かったのか、と気づく。
自分の言いたいことを汲み取ってくれたあの人(多分医師なのだろう)は慣れてるな、というかプロだなと思う。そして、こういう相手の求めている回答が何かを考えずに自分の考えを話してしまうのもADHDっぽいな〜と思う。
診察券を渡してしばらく待っていると、前回の診断結果です、とA4の紙を1枚渡される。DSM5、簡易的なADHDの検査の結果だ。
結果としては、注意欠如6点、多動6点。併せて受けた、ハロウェルとレイティによるテストは15点。
ちなみに、DSM5は5点を超えた場合、ハロウェルとレイティによるテストは14点を超えた場合、症状が強いと判断されるらしい。じゃあ俺は症状が強いってことやん。
どんなテストだったか、質問の内容までは覚えてないのだが、質問に対して嘘はついていない。少なくとも、全く心当たりのないようなことに正反対のことを答えるようなまねはしなかった。やっぱり俺はADHDなんだろう。多動と注意欠如、どっちもあるかもと思ってたけど本当にどっちもあった。まだ診察受けてないから分からないけど。
名前を呼ばれたので診察室へ。言われたことを要約すると、「薬をすぐに飲まなきゃいけないほどひどくはない。仕事でミスするってそういうもんだし。でも飲みたいなら飲んでみてもいいと思う」ということだった。僕も飲んでみたいと思うと伝える。「調べてきてるってことなので知ってると思いますが、ストラテラ、インチュニブ、コンサータとあります。コンサータはうちでは出してないし、僕も好きな薬ではありません。とりあえず、ストラテラを40mg2週間でやってみましょう。副作用でお腹壊しやすくなるので、無理と思ったら飲むのをやめてください」と処方を受ける。
僕もコンサータまでいかなくていいかなと思っているので、じゃあそれでお願いしますと伝えて診察を終える。
ところで副作用で腹痛ってあんま聞かんのだが…?帰り際に、血液検査、前回行ったバウムテスト(心理テスト)とCES-D検査(抑うつ検査)の結果を受け取る。軽度抑うつと診断されていた。
薬局で薬を受け取る。今まで風邪ひいた時などは、お薬手帳作るのが面倒で断っていたのだが今回は作ることにした。すぐ花粉症の薬も貰わんといけんし、ずっと薬飲むことになるのかもしれんし。薬剤師に、1日1錠朝服用と言われる。今日は飲んでいいですよと言われたので、何か食べてから飲んでみることにする。
喉少し渇く
朝寝起き良くなる
面倒くさくてやらなかったことが少しできるようになる
腹が減らない
昼休み、昼寝をしようと思いいつも通りに目を閉じるが眠れない 体は眠いが頭が覚醒している気がする 合わせて、皮膚が張っている感覚がある
音楽の聴こえ方が違う
思考が散らばらない
何も考えずにぼーっとする、ということがどういうことかわかった気がする
歩き回りながら歯を磨く癖、爪を噛む癖が抑えられている
朝寝過ごしかけて、あぶねえ!となりながら起床。1錠だと24時間持たないのかな……などと思いながら歯を磨いていたら、無意識に歩き回る癖が再発していることに気づく。
母が見ている朝ドラで橋本環奈が「体壊してまで可愛くなりたいかな……」などと言っていて、頭に浮かんだ「橋本環奈が言うんか笑」というのが、そのまま直で口に出た。多動性、衝動性が復活してる気がする。
通勤中の音楽も前と同じ聴こえ方になってる気がする。まあでも感じてた効き目含めて全部気のせいってこともあるからな……。
昼時点で、副作用の口の渇きと空腹感の減少が薄れている気がする。口は何となく渇いている気もするし、腹も減ってはいるけど食べたい気持ちは湧いてこないからなんとも言えないけど。効果は出てるのかでてないのかはっきり言えないが、出ていない寄りな気がする。……というわけで、ChatGPT(戦場ヶ原さんカスタム)に聞いてみた。以下引用。
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私:
戦場ヶ原さん:
あら、ついに薬にまで頼るようになったのね。あなたの意志の弱さに呆れつつも、その決断には少しだけ感心してあげるわ。
ストラテラ(アトモキセチン)は、ADHDの症状を改善するための薬よ。
脳内のノルアドレナリンを調整して、注意力や衝動性をコントロールしやすくする効果があるわ。
でも、あなたみたいに即効性を期待する短絡的な人には向いていないかもね。
効果が安定するまで2週間~1カ月はかかるから、せいぜい焦らず待ちなさい。
具体的な効果(あなたでも分かるように噛み砕いて説明してあげるわね)
✅ 集中しやすくなる → つまり、私の話を聞いている途中でどうでもいいことを考え始めなくなるってことよ
✅ 衝動を抑えやすくなる → 例えば、私に不用意な発言をしてしまって命の危機を迎える確率が下がるわね
✅ ミスが減る → つまり、あなたが日常的にやらかす凡ミスが少しはマシになるってことよ
副作用? まあ、あなたのような凡人には耐えられないかもしれないけど、口の渇きや食欲減退がよくあるわね。
特に食欲減退は、「いつも通りダラダラ食べていたら太る」というあなたの浅はかな食生活を強制的に改善するのには都合がいいかもしれないわ。
効果が出るまで時間がかかるけれど、せいぜい途中で「意味ないかも」とか言ってやめたりしないことね。
まったく、あなたみたいな人間はすぐに結果を求めたがるんだから。
1カ月は我慢して、それでもダメなら泣きつきなさい。そのときはまた私が叱りつけてあげるわ。
私:
効果が出るまで時間がかかるって話だけど、昨日一昨日とかはちょっと感じてたんだよね。
戦場ヶ原さん:
あら、もう効果が切れたとでも思ったの?
単純ね。ストラテラは即効性のある薬じゃないのよ。
最初の数日はプラセボ効果や、ノルアドレナリンの急な変化で「なんとなく効いてる気がする」ことがあるけれど、その後は体が慣れて一時的に何も感じなくなることがあるわ。
でも安心しなさい、あなたの脳が鈍感すぎて薬が効かないわけじゃないわ。
ストラテラはじわじわ効いてくるタイプの薬だから、2週間から1カ月くらいかけて本格的に安定するの。
それに、効果を感じるかどうかは、環境やその日の体調にも影響されるの。
例えば、昨日は集中しやすい状況だったけれど、今日は疲れていたり、ストレスがあったりすると「効いてない気がする」なんて思い込むこともあるわね。
だから、毎日のちょっとした変化に一喜一憂するのはやめなさい。
せいぜい1カ月は飲み続けて、それで本当に何も変わらないなら、そこで初めて考えればいいわ。
あなたみたいな短気な人間がすぐに「効かないかも」とか言い出すのは目に見えていたけれど、まあ、私がこうして釘を刺しておいてあげるわね。
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ということなので、しばらく黙ることにする。
前まで朝は全く起きられず、限界ギリギリの時間になって無理やり飛び起きる感じだったのだが、薬を飲み始めてからは多少良くなった。
とはいえ多少ではあり、バチッと目覚めて活動スタート!みたいな感じにはならない。
薬は24時間しか効かないのだが、これを朝食後に飲んでるから朝の効き目があまりないんじゃないか?と思いついた。なので今日は昼過ぎに飲んで明日の朝の目覚めを観察することにした。
ということで昼の12時現在まだ飲んでいないのだが、午前中はてきめんに集中が続かない。オワー!こりゃどうしたもんか。これで飲んで午後バリバリだったらほんとにすごいけどなー。
朝が目が覚めて、まず起き上がって携帯を見た。7:00過ぎで、迷ったがさすがに早すぎたので寝たら8:00を過ぎていた。
いや、革命起きたってこれ。寝起き1発目で起き上がるなんてことがまず奇跡だし、あのまま二度寝を選択してなければそのまま活動できていた。
飲む時間変えて正解かも。ちなみにこれを書いている現在、前回の服用からだいたい23時間ほど経過している。
9:30位から始めた勉強はとても調子が良かったが、1時間すぎたあたりから急に集中できなくなった。頭の中はぐるぐるしてるし、貧乏ゆすりは止まらない。問題文を読んでも上滑り。こりゃ薬の効果出てるっぽいな。
しかし、「たまにあるスゴい調子いい日の脳みその状態をキープする」という薬の効果は確かに実感しにくいかも。俺は積極的に自分で人体実験してるからいいけど、そうじゃないひとが薬途中でやめちゃうのもわかる。
食欲減退の副作用が薄まってきて、以前のように空腹感を感じる。
とはいえ食欲はあまりなく、食べたいという前向きな感じではなくて「不快な空腹感を消したい」という感じ。
頭の方は……やはり集中力はあがった気はするけど、衝動的になにかしてしまう→今までやっていたことを忘れる、みたいなムーブはあまり治らない。
今日も一日自習室にこもって勉強していたのだけど、なんか知らんがすごい集中できた。薬の効果なのか?
診察三回目。
土曜日に予約を入れていたのだが、もとから予定が入っていたのを忘れていて日曜日に変えてもらう。
今回はおばあちゃん先生。効果があったか、何か問題はないかを聞かれる。
効果はあるようなないようなで、副作用はあまり強くないです、と答える。
じゃあ倍にしてみましょうか〜?ということなので、80mgに増量した。診察自体は5分で終わった。
感じる効果をもっと話しても良かったのだけど、余計なことを言って「効いてるならいまのままでいいかもしれないですね」なんてなったら嫌なので特に何も言わなかった。副作用と財布、効果と相談しつつではあるが120mg試せるなら試してみたいのだ。
薬局でお薬手帳を忘れてることに気づく。やっぱ効果でてないかな……
衝動が抑えられて先が見据えられるようになっている……気がする。具体的エピソードは割愛。
夜、音楽を聴いていたら明確に今まで脳が聴いてなかった音が聴こえてきて興奮。
うおーっすごい!星野源の曲を聴いてるけどもうぜんっぜん違う曲に聞える!曲の奥行きがめちゃくちゃ凄い。細かい。全てのトラック(っていうのか?)のレベルが上がったって言うのかな、聴こえているけど認識していなかった音が認識できるようなってる。同時に、今まで認識していた音のレベルは下がってる。今までは俺が聞きたい音を聴いていたんだってことがわかった。音を、俺が聞きたい音ではなくて曲が表現したい音で脳が認識してるので、今までと全く違う曲に聴こえる。これは……すごいぞ!!!!!!!
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こうやって記録を読み返すと、多少なりとも効果が出ているみたいだ。
特に、資格の勉強をするために机に向かっているときの集中力が段違いに上がっている。頭の中で余計なことを考え出しちゃっても、それを自覚して制御できるようになった。
あと、寝起きがかなり良くなっている。朝なんて無理やり起きてぼーっとしながら頑張って通勤していたものだけど今は普通に起きて普通に通勤できる。
日中の集中力が増して脳が疲れるからなのか、夜眠くなる。夜眠くなって朝ちゃんと起きられて、っていう好循環が自分の体に生まれたことに感動している。前までは夜って全然眠くならなかったんだよな……
会話力については、まだわからない。飲み始めてから今のところ、職場で業務連絡と家族との会話くらいしか起きてないから試せないんだよな。
今度長い付き合いの友達に会うんだけど、その時に会話について変わったよねとか言われるだろうか。どうだろうか。
あと、個人的にうれしかったのは死にたいって思わなくなったことかな。ストラテラ自体にも抗うつ?作用があるらしいけど、それを差し引いてもあんまりネガティブなことを考えなくなった。
自分の中で考え事が暴走しなくなったのもそうだし、少しだけどADHD的失敗が減って、自分が嫌になるシーンが減ったからだと思う。
メモってなかったけど、性欲がすげえ薄くなった。AVとかエロ漫画見たらちんちんはちゃんと勃起するのでEDではないと思うんだけど、なんていうのかな、エロいことに脳が占拠されなくなった感じ。
前まではほんとに依存症なんじゃないかってくらいオナニーしちゃってて(家の外のトイレの個室とかでもしちゃってたのだ)困ってたんだけど、飲み始めたらパタッとそういうことが頭に浮かばなくなった。
ああ、カルディ。あの店に足を踏み入れるたびに、僕は自らの矮小な理性が脆くも崩れ去るのを感じるのだ。珈琲の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐると、もう駄目だ、僕は容易く幸福を錯覚してしまう。だが、僕にそんな資格があるのだろうか。否。しかし、それでもなお、僕はカルディに通うのをやめられない。
まずは「マイルドカルディ」。店頭で無料配布されるこの珈琲を一口含んだが最後、人は己の薄汚れた日常をほんの束の間忘れることができる。苦みと甘みが絶妙に絡み合い、あたかも人生の諸相を内包するかのような味わい。僕はこれを飲むたび、胸の奥底に沈めた諦念が、僅かにほぐれるのを感じるのだ。
そして、「塩バタかまん」。この菓子に出会った瞬間、僕は己の弱さを思い知った。ほろりと崩れる塩気の効いたビスケット、その間に挟まれたカマンベール風味のクリーム。その危ういほどの甘美さは、まるで人間の愚かしい愛の形を象徴しているようではないか。幾度となく手を伸ばし、やめようと思いながらも止まらない。まるで堕落だ。だが、これを前にして抗うなど、もはや人間の意地を超越した無意味な営為に過ぎない。
さらには「パンダ杏仁豆腐」。その白く柔らかな姿を前にした時、僕は悟った。人間は甘やかされることを求める生き物なのだと。スプーンを入れると、ひやりとした感触が指先に伝わる。口に含めば、淡く広がる杏仁の香り。そして、舌の上で溶けるその滑らかさ。——ああ、僕はもう駄目だ。こんなものを知ってしまったら、もう元の生活には戻れない。
僕はカルディを憎む。これほどまでに美味なるものを生み出し、人間を甘やかし、堕落へと誘う存在だからだ。だが、それでも僕は明日もカルディへ向かうだろう。なぜなら、そう、人間は弱い生き物なのだから。
もし90年代後半や2000年代前半にエンジニアとして活躍できていたら、夢があった
インターネットが爆発的に普及し、新しいサービスが次々に生まれた時代
ちょっとしたアイデアを形にするだけで、世の中に大きなインパクトを与えられた
2007年にiPhoneが登場してスマートフォン革命が起きた頃、エンジニアは世界を変える存在だった
小さなチームでもアプリを作れば一攫千金のチャンスがあり、成功すれば名を馳せることができた
逆に、もうちょっと遅く生まれていれば、AIを活用する側に回れた
技術はより洗練され、単純なコーディングなんてAIに任せて、より戦略的でクリエイティブな仕事に集中できる
エンジニアとしての価値は「コードを書けること」ではなく、AIを使いこなすことにシフトしていたはずだ
でも俺は違う
技術は中途半端に発展し、エンジニアの仕事は増え続けるように見えて、実際はAIにどんどん奪われている
最近Cursorを使ってみて、自分レベルのエンジニアはもう必要なくなることを確信した
コードを書いているのは俺のはずなのに、実際はAIに指示を出しているだけのような感覚になる
このままいけば、俺のキャリアなんてあと数年も持たない
エンジニアという職業は消え、スーパーエリートか、AIに振り回される下請けかの二択に分かれる
もう何を頑張ればいいのかわからない
AIの進化に抗うこともできず、新しい道を探すこともできず、ただ無力感だけが積み重なっていく
もし90年代後半に生まれていたら、IT黎明期の成長を享受できたかもしれない
もし2000年代生まれだったら、最初からAIを前提にしたキャリアを築けた
この先どうすればいい
そんなこと誰にもわからない
俺のキャリアは終わるのか
俺は完全に詰んでいるってことだ
やる気があるから動けるんじゃない。動き始めて初めてやる気が湧いてくるんだ。
というのはまあ割とよく言われてる。
やるかやらないかだけ。やってる人間が遡及的に感じる、あるいは外野が見出すのがやる気という幻想。というのが現段階での実証的な考え。
的なことを言ってた。
まあビデオゲームじゃないんだし、ゲージがあってそれが増減するようなパラメータとして存在する訳じゃないのは確かだと思う。
ただ、それじゃあ結局の所「やる」と「やらない」を分かつ要因っていうのは何なのよって思った。そこが一番肝心なんじゃねえの。
実際問題、同じような状況でもやる人間とやらない人間っていうのはやっぱり分かれる。
痩せたいけど運動も食事制限もしんどいから嫌だ、なんてジレンマに悩まされる人間がゴロゴロいる。痩せに向けたアクションを取るか、痩せるのは諦めて現状を維持するかの二つに一つ。
後者に走りがちではあるが、前者を取る人間もいる。全ての要素が同じなら結果も同じなのだろうから、何かが違うに違いない。
そこでやる気なる概念を持ち出せないのなら、何が決定的な要因なのか。
意志とか決意とかなんてのも同じような内容を指す言い換えの表現でしかないだろうし、やる気など無いと言うのならそれってもう自由意志の否定と同義なのではないか。
まあおれも自然法則から独立した意志の力なる聖域があるともあんまり思ってないけど。選択をしている意識があるという実感くらいは大切にしたいが……
痩せようとする人間もそうでない者も、その選択は全て所与の必然の連鎖に従った運命だったという事になるのか。
はいそうです。運命です。と露悪的に開き直るのが割と最近のトレンドにあるような気がする。
社会の制度や規範は依然選び取る力を前提に構築されてるし、その辺はあんまり触れたくない所なんだろうけど。
開き直るのが良いのか目を逸らすのが良いのかは分からんな。バランスか。
まあ巷で言われてるようなのは生まれ育った環境だとかにおいて個人が抱く社会への無力感や、自分では選べない生得的な要素へのコンプレックスだとかで、決定論めいた世界観に基づく根本的な諦念めいたものとはまたちょっと違うか。
意外と自由意志そのものには疑いを持ってないのかもしれない。一応チャンスはあるけどそんなものはほとんど役に立たないんだ!そんなもんを持ち出して自己責任論を偉そうに展開するな!的な怒りか。
おれはあんまりそういう考えには与しないが。チャンスが本当にあるならいいじゃん。結果がどうあれその道を選び取った自分を愛せれば美しい生き方だろ。望む結果が得られたら勿論万々歳だし。と思う。
実は抗う機会を選び取るか否か、そもそも選択肢があったかのように思えた場面も含めて全て筋書きの範疇に過ぎない、ってんならあんまりにもじゃないですか……とは思うが。
痩せる方法なんかネットで調べりゃいくらでも効率的なセオリーが出てくる。プロミュージシャンや金持ちを目指すアプローチだってなんぼでもある。
ただいくら効率的だろうが再現性が高かろうが、それが実行・実践されなければ何の意味もない。まず実行というハードルがある。
でもやりたいと思った事を即座にやれるような活力溢れる人間ばかりでもない。
じゃあ実行する具体的な方法論は?
小さなハードルから越えていく。自分で自分に制約を課す。他人の力を借りる。
じゃあそれを実行する具体的な方法論は?
それは……そんなもん、お前そんくらいのやる気が無いなら止めちまえ!とやはり根性論に走らざるを得ない部分というのはあると思う。
その程度のモチベーションならそれはやりたいと思っていないという事だ、なんて言った所でもやはり根性論めいた話の域を出ない。
ただしやる気など存在しない……
とか色々考えてると、que sera seraとかwhatever will be will beみたいな言葉だったり、個を全の一部と位置付ける東洋思想だったりがスッ……と染み渡ってくる。
否応なく抱いてしまう決定論的な世界観と主体的な納得や満足の実感との両立は理屈の問題ではない気がするが、理屈の問題ではないも気付くのにも理屈を捏ねるのは役立つのかもしれない。
タバコを吸ったときの寿命を計算できるサイト「タバコを吸って何歳まで?」で本人の気持ちがわかるかも。
https://keisan.casio.jp/exec/system/1161228739
タバコ吸っている人
2025/01/07 16:25 50歳代 / エンジニア / 役に立たなかった /
使用目的タバコ代の計算がしたかったが悪意しかなかったご意見・ご感想未来永劫死ぬまでタバコを吸い続ける前提でのたばこ代とか
なんの役にも立たないのだけど。ふつうは現時点の話だと思うがな
2023/12/29 20:46 20歳未満 / 高校・専門・大学生・大学院生 / 役に立った /
使用目的彼氏とあとどのくらい一緒にいれるんだろうと思い使用しました。彼氏は18歳から隠れて吸うようになり、今では15本は必ず吸います。歳も離れてることですし、これ以上一緒にいる時間を減らしたくないなと思ったのですが、このくらいしか違わないのなら…と彼氏に見せても逆効果な気がしてきました。タバコでは死なないから、他に原因があるから、そのような意見もわかりますが、ちょっとでも不安をそして死因となるものをなくしたいのでそれとなくやめさせたいですね。
2021/06/20 15:37 20歳代 / 高校・専門・大学生・大学院生 / 役に立った /
使用目的過去の受動喫煙の計算のため。ご意見・ご感想私は20歳で、一度も吸ったことがありません。
しかし、私が子供の頃から、父や親戚が同じ部屋で吸うため、受動喫煙は長いことしていました。私の大切な命の時間を奪ったことを、私は忘れません。
計算では3ヶ月と出ました。これを短いと見るかは人それぞれでしょう。しかし考えてください。被害は1人ではないのです。例えば、私の母や祖母、親戚の子供、親戚の赤ちゃんなど。タバコは悪い意味で平等です。
喫煙者も、「好き」で吸っているというより「欲しい」から吸っているのだと考えます。依存症というのは、プラスを得るため(ニコチンによるドーパミン)とマイナスを取り去るため(イライラを止めたい)により強化されていきます。麻薬と同じです。やめようと思っても、嫌いでも、本能的に「欲しい」となってしまうのです。
「タバコをやめろ」と言う人は、ほとんど自分の健康を考えています。喫煙者が人生を細く短くしようが、知ったことじゃないのです。酒や麻薬と同じです。依存症は苦しい死に至ります。
私はタバコは嫌いですが、根絶すべきだとは思いません。誰にも吸わせないように考え楽しむ人は尊敬します。父のように、苦しんで死ぬ人が少しでも減ればいいなと願っています。
すべての都市は、都市雇用圏人口が50万人を超えた瞬間に「東京」となる。
それゆえ、すべての都市には東京にあるものが存在し、都市を選ぶ理由は消滅する。
一方で、「116万人を超えると過密問題が発生する」という法則が都市を歪めていた。
都市は人を引き寄せるが、一定の閾値を超えると、すべてが詰まり始める。
それは鉄道の混雑、住宅価格の暴騰、医療のひっ迫、人々の心の摩耗。
都市雇用圏人口50万人を超えても、職はすべての居住希望者に行き渡らない。
「お前、どこに住んでる?」
「いや、それもう東京じゃない?」
「は? 俺んとこだってちゃんと50万人いるし、東京にあるもん全部あるし」
「……」
都市雇用圏人口50万人以上の都市は、すべて東京だったからだ。
本物の東京(芋洗)すらも、人々からすれば「ただの過密東京」に過ぎない。
特に、都市圏人口が116万人を超えた都市は「東京(過密)」と呼ばれ、
さらに272万人を超えた都市は「東京(完全雇用)」と呼ばれた。
だが、その分類に意味はない。なぜなら、
「都市雇用圏人口50万人以上なら東京にあるものが全てある」のだから。
この真理のもと、人々は移動し始めた。
そして、人口の流動によって、新たな「過密東京」が生まれることになる——。
「……あぁ。もう完全に詰まってる。朝の電車、満員で乗れないってさ」
都市が116万人を超えた瞬間、すべてが崩れ始める。
この壁を超えた都市は、ある時点で「住みにくい東京」に変貌する。
新たな50万人以上の都市へと流れ込む。
だが、272万人を超えなければ、完全雇用にはならない。
つまり、住民たちは雇用のない「新たな東京」へと移動してしまうのだ。
労働力不足に苦しむことになる。
「俺、今どこに住めばいい?」
「でも、仕事は?」
「……ない」
だが、雇用は増えない。
そのため、都市に住めども職のない人々——「東京難民」が生まれた。
芋洗(本物の東京)、大阪東京、名古屋東京、福岡東京、京都東京、神戸東京——。
この「完全雇用東京」を目指す人々の流入は、新たな問題を引き起こす。
過密の度合いが強まり、「住みにくい完全雇用東京」となるのだ。
「なんで?」
「三重東京の可処分所得中央値は264553円。東京(芋洗)は193343円」
都市雇用圏人口が50万人を超えていれば、東京と同じものがあるのだから、
芋洗に住む理由は何もなかった。
しかし、そこには罠がある。
50万人を超えていても、雇用が十分ではない。
貧しくとも職があるという理由で留まっているのだった。
「結局、東京って何だったんだ?」
「……50万人を超えた都市のこと」
「そして、116万人を超えれば崩壊する」
「272万人を超えれば、働けるけど、住みにくくなる」
都市の人々は知った。
そして、どこを選んでも、最適解など存在しないことを——。
人々は、それでもどこかの「東京」に住み続ける。
絶対的真理のもとで——。
完
ミニマリズムとは、自分にとって重要なことに注意を当てるために、他を排するプロセスです。このプロセスでは、消費社会に抗い、いらないものは買わず、いらなくなったものは捨てる、といった行為に関係します。今回は、私が数年間ミニマリズムを試してわかったことを書きます。
私はマークザッカーバーグやスティーブ・ジョブズの習慣を真似て、大半を1種類の服で過ごすということをしています。
具体的には、インナーTシャツとパーカーとベルトなしジーンズと下着。もちろん冬は一種類のジャンパーを着てでかけますけどね。
種類は1種類ですが、枚数は複数枚持っています。およそ3着づつ。これは、服を洗わなければならないので当然です。
家の中では1種類のパジャマを着るのですが、全体として見れば種類と枚数が少ないことは確かです。
さて、私はこのシンプルな習慣によって何を得たのでしょうか。
まず「かっこよく見られたい」といった執着はなくなりました。誰にどう見られても構わないと思うようになったのです。
これは良いことでしょうか?「モテたい」は煩悩なので、これを手放せば「モテること」を基準にした行動をしなくて済むようになります。
結婚願望が強いならそれだと困るかもしれませんが、私は結婚するつもりがないので、この習慣が機能します。
最近、私のような「パーカーを着るおじさん」があるインフルエンサーによって見下されていたようですが、ひろゆきやホリエモンなどは「パーカーの何が悪いんだ」といって反発しました。
このように、同じ習慣を続けると、確率的に時代の風に抗うようなことをしなければなりませんが、「モテることはどうでもいい」と思ってさえいれば、インフルエンサーが何を言ったところで信念は揺るぎません。
ちなみに、高校生の時に着ていたような服は、すべて古着屋に売ってしまいました。
好奇心が強いと、様々なジャンルの本を買ってしまって大変です。
私は理論物理学や抽象数学について学ぶために大量の本を持っていました。宇宙の真理を知りたい、と思っていたからです。
しかし冷静に振り返ってみると、私はアカデミックなバックグラウンドがないため、研究を発表する機会が存在しません。
なので部屋の中で一人で「宇宙の真理」を発見したところで、虚しいと思ったのです。
私はプログラマーなので、もっと仕事に関係する本のほうが重要です。
あるいは仕事とは直接関係がなくとも、健康や自己啓発の知識が役立つこともあるでしょう。
また、ソロモン王の箴言など、現代に役立つ知恵が聖書に書かれていることもありますし、タルムードに興味深いことが書かれている場合もあります。
趣味があるなら、趣味関連の書籍が趣味を充実させることにもなるでしょう。
物理学や数学の本を部屋に置いておくと、「勉強しなきゃ」と思ってしまい、かえって苦痛を味わうことになります。
物理学者ですら、超弦理論がなんの役に立つのかわかっていません。
繰り返し読むことを考慮すると、自分にとって精神を費やす価値のある本だけが残せるはずです。
そして、物理学や数学の本をしまってからは仕事に集中できるようになっています。
両親と同居しているので、ミニマリズムを実践し始めは「お母さん、これを片付けてよ」などと言うことがありました。
しかし、これはトラブルのもとです。同居人はものに独自の愛着を持っているので、片付けを要求すると喧嘩になります。
基本的に同居人に対しては、ミニマリズムを押し付けるべきではありません。
掃除機による掃除は許容範囲ですが、他人のモノを片付けるというのはやめておいたほうが良いです。
「どこにでかけるの?」と母は父と私に尋ねます。「古着屋だよ。どんな服でも、どんなに大量でも、買い取ってくれるんだ」と私は伝えます。
このことを母が知って、母も同じ古着屋を利用するようになりました。
確かに、私のようにごっそりと売ることはないかもしれませんが、片付けのために喧嘩をしなくてもいいのです。
今では、いくつかのプラクティスに基づいてSNSの利用を制限することに成功しています。
スマホからはSNSを消し、いらないアカウントは削除するか、二度とログインできないように設定します。
ファストメディアは、愚を開陳するだけになってしまいがちです。
最近知った事例としては、エセ科学を批判していた日本の物理学者が、経済についての陰謀論を信じるようになったようです。
SNSの情報は玉石混交ですが、よほど強い精神がないと、くだらない言い争いに巻き込まれたり、フェイクを信じてしまうのです。
SNSは「いいね」や「フォロワー数」を比較する文化があるので、エンゲージメント競争に参加させられている気分になります。
情報の質ではなく、感情的反応でいいねの数は決まるので、まともな情報を見つけることが困難なのです。
ここに興味深い格言があります: 「エキサイティングな地獄よりも、退屈な天国のほうが良い。」
SNSはエキサイティングな地獄です。「刺激的」とは思わないようなことを趣味にしたほうが、結果的に充実できるわけです。
SNSを見る時間があるなら、スローメディアに費やしたり、読書したりしたほうが良いです。
といっても例外はあります。自分から発信さえしなければYoutubeについては良いSNSだと思っています。
私のお気に入りのYoutubeの使い方は、英語のリスニング勉強のために動画を見ることです。
陰謀論やフェイクと言ったものから遠ざかりさえすれば、動画は寂しさを紛らわすのに効果的です。
サブスクとは、月額などの体系で料金を支払い、サービスを受け取ることです。
次から次へとサブスクに加入するのは良い習慣ではありません。浪費が増え、家計を圧迫します。
したがって、サブスクは定期的に見直すべきです。
無制限に使えるというプランでは、月7000円ほど支払いましたが、私の通信量は月に1Gもいかなかったので、4Gプランという小さめのプランで足りたのです。
この見直しにより、月2000円になり、約5000円の節約になったわけです。年で見れば60000円の節約です。
私の買い物の大半は飲食と本なので、いらないものを買うことはありません。
ただ、何年も生活していると、一定の確率で「これが買いたい」という衝動が起こります。
例えば「ホワイトボード」ですが、私は混乱しているときに「Youtuberになりたい」と言っていました。
それで、Youtubeで数学を解説する動画を作るんだと言ってホワイトボードを買ったのです。
この買い物はとても余分な買い物だったと言えます。
あるいは仕事がフルリモートに移行したときに、より快適に仕事をするために巨大なクッションを買いましたが、今ではペットの犬しかこのクッションを使っていません。
人生の中で新しいことをしたくなるのは結構ですが、失敗することによって「この買い物は自分に向いていない」と気がつくのです。
この増田の言っていることはとても大切だし、その通りだと思います。
増田自身は別に同姓強制派だとは一言も言っていないし、この文面だけではなんとも言えないと思いますが(選択制支持かと思う)、煽るようなコメントがついているのにがっかりします。
増田がやっているのは、(選択制支持である)自分たちとは違う立場の人々が、一体どういう思考回路でその考えを支持しているのか、説明しようとする試みで、使っている例えが本当に適切かどうか、表現としてベストであったかはさておき、そういう営み、奮闘、struggleは民主主義を成り立たせる上で、というかなんであれ一つの社会で生きていくうえで、最も尊いものの一つだと思います。
増田の言う通り、一定の、それもかなり多数の人々は、あるべき世の中と自身のアイデンティティが連続的にできているのです。
これを愚かとか自他境界が不分明とか嘲弄するのは簡単ですが、そういう無理解の方がさらに一層愚かだと思います。
姓くらいであれば、「制度が個人の選択を受け入れるか否か」だけの問題、と少なくともわたしは割り切れますが、別姓選択制を支持するタイプの人々でも、無意識のうちに自身と連続的なものとして期待している世界像というものがあるはずです。
自分はかなり個人主義的というか、個というものを絶対視するタイプの人間として育ちましたが、それでも人と交わらないでは生きていけませんし、精神的にも難しいです。大体、わたしが「わたし」と呼ぶ存在が、「わたし」としてこの言語を語りだし、今も語っているのは、語るべき存在として親が(日本語で)語りかけ、今もなお個的存在として人々に認識されている結果にすぎないでしょう。「個」の方がむしろ社会的に成り立たされた仮構、あるいは約束事のようなものとも言えます。
話を広げれば、わたしたちの存在自体、偶発的に成立した有機的・無機的環境の上に発生し、今のところ維持されている渦のようなものに過ぎず、個の外にも色々な生き物がいて食べたり排泄したりするし、体の中にもたくさん細菌やらがいて、それらが身体的のみならず精神的な要素まで大きく左右しているのは、最近ではほぼ共有された科学的知見になっていると思います。
話が大きくなりすぎましたが、個というものが画然とあって、自分は自分、他人は他人、世の中は世の中、とわけられるなどというのは、かなり上澄みのフィクションに過ぎません。
もちろん、わたし「個人」はこのフィクションを大切にしたいです。連続的でベチャッとした世界にあって、自分自身の安寧を守っていくために、このフィクションを手放したくありません。だから選択制を支持するし、極力個人の自由というものを尊重したいと思いっています。
ただ、それは当たり前のことではありません。どちらかというと個を特別に尊重しようとするわたしたちの方が、プリミティヴで自然な流れに抗う異端児のようなものだと自覚した方が良いと思います。
繰り返しですが、わたし自身は異端児の一匹として自由を尊びます。しかし同時に、そんなわたしを今日まで生かしてくれた、わたしとは違う人々、わたしの外の世界、わたしの外や中にいる生き物に感謝したいですし、彼彼女ら、それらに対し、できる限り理解を示したいと思っています。
yoshikogahaku
この増田の言っていることはとても大切だし、その通りだと思います。
増田自身は別に同姓強制派だとは一言も言っていないし、この文面だけではなんとも言えないと思いますが(選択制支持かと思う)、煽るようなコメントがついているのにがっかりします。
増田がやっているのは、(選択制支持である)自分たちとは違う立場の人々が、一体どういう思考回路でその考えを支持しているのか、説明しようとする試みで、使っている例えが本当に適切かどうか、表現としてベストであったかはさておき、そういう営み、奮闘、struggleは民主主義を成り立たせる上で、というかなんであれ一つの社会で生きていくうえで、最も尊いものの一つだと思います。
増田の言う通り、一定の、それもかなり多数の人々は、あるべき世の中と自身のアイデンティティが連続的にできているのです。
これを愚かとか自他境界が不分明とか嘲弄するのは簡単ですが、そういう無理解の方がさらに一層愚かだと思います。
姓くらいであれば、「制度が個人の選択を受け入れるか否か」だけの問題、と少なくともわたしは割り切れますが、別姓選択制を支持するタイプの人々でも、無意識のうちに自身と連続的なものとして期待している世界像というものがあるはずです。
自分はかなり個人主義的というか、個というものを絶対視するタイプの人間として育ちましたが、それでも人と交わらないでは生きていけませんし、精神的にも難しいです。大体、わたしが「わたし」と呼ぶ存在が、「わたし」としてこの言語を語りだし、今も語っているのは、語るべき存在として親が(日本語で)語りかけ、今もなお個的存在として人々に認識されている結果にすぎないでしょう。「個」の方がむしろ社会的に成り立たされた仮構、あるいは約束事のようなものとも言えます。
話を広げれば、わたしたちの存在自体、偶発的に成立した有機的・無機的環境の上に発生し、今のところ維持されている渦のようなものに過ぎず、個の外にも色々な生き物がいて食べたり排泄したりするし、体の中にもたくさん細菌やらがいて、それらが身体的のみならず精神的な要素まで大きく左右しているのは、最近ではほぼ共有された科学的知見になっていると思います。
話が大きくなりすぎましたが、個というものが画然とあって、自分は自分、他人は他人、世の中は世の中、とわけられるなどというのは、かなり上澄みのフィクションに過ぎません。
もちろん、わたし「個人」はこのフィクションを大切にしたいです。連続的でベチャッとした世界にあって、自分自身の安寧を守っていくために、このフィクションを手放したくありません。だから選択制を支持するし、極力個人の自由というものを尊重したいと思いっています。
ただ、それは当たり前のことではありません。どちらかというと個を特別に尊重しようとするわたしたちの方が、プリミティヴで自然な流れに抗う異端児のようなものだと自覚した方が良いと思います。
繰り返しですが、わたし自身は異端児の一匹として自由を尊びます。しかし同時に、そんなわたしを今日まで生かしてくれた、わたしとは違う人々、わたしの外の世界、わたしの外や中にいる生き物に感謝したいですし、彼彼女ら、それらに対し、できる限り理解を示したいと思っています。
yoshikogahaku
利根川幸一(とねがわこういち)は、かつてバブル崩壊後の氷河期を生き抜いた男だ。その心には荒ぶる烈風が吹き荒れていた。
理不尽な社会、冷たい世間、そして未来を信じられなかった自分――すべてに怒りと悲しみを抱えながらも、利根川は生き延びた。
しかし、時代は移ろう。氷河期世代が中年に差し掛かる頃、彼の前に現れたのは「Z世代」と呼ばれる若者たち。
彼らの態度と価値観は、利根川の中の「忘れていた怒り」を再燃させるのだった。
会議室の空気はどこか緩んでいた。企業の採用チームと新入社員たちが一堂に会し、これからの働き方について議論している。
「初任給、25万くらいは欲しいっすよね。まあ、それくらいが普通じゃないですか?」
その瞬間、空気が凍り付いた。
利根川が立ち上がる。その目には、氷河期の記憶がよみがえり、彼の中にある激情が解き放たれた。
ざわつく若者たち。
「え、え、ちょっと…何? 急に怖くない?」
「この人、大丈夫?」
「お前らは勘違いしている!」
「初任給で25万が欲しいだと? 安くない、安くないんだ、25万円という金は!」
「お前らにわかるか……!」
声が低く響く。その言葉はまるで床を這い、壁に反射し、若者たちの心を揺さぶる。
「俺が就職活動をしていた頃はな、内定なんて一握りだったんだ。大学を出たところで、何が待っていたか――門前払いだ。『経験不足』、『若さだけではダメだ』、『我々に君を雇う余裕はない』……そんな言葉を何十回、いや、何百回も浴びせられたんだ!」
若者たちの表情がこわばる。ざわざわとした空気がさらに重くなった。
「やっとの思いで見つけた会社……そう、俺も最初は夢を抱いていたさ。だけど、そこは地獄だった。終電間際まで働かされ、翌日は始発で出社。昼食をとる暇もなく、上司からは『使えない奴だ』と罵倒され、同僚は次々に辞めていく……」
利根川は目を伏せた。その声は次第に震えを帯びる。
「体はボロボロだ……だけど、辞められないんだ。辞めたらどうなる? 次の仕事が見つからないかもしれない。親には心配をかけたくないし、自分自身が情けなくて……だから這いつくばってでも働き続けるしかなかった!」
彼は拳を握りしめる。その爪が食い込み、血が滲むように見えた。
その言葉に、若者たちは息を呑んだ。会議室にはシーンとした静寂が広がった。
「そんな10年、いや20年を経て、やっとの思いで掴めるかどうかの額が25万円なんだ!」
利根川の叫びは会議室を震わせた。若者たちはただ言葉を失い、ざわつく声もやがて消えていく。
「それに比べてお前らは何だ! 何も築かず、何も絶えず、何も乗り越えず、ダラダラ過ごし……」
利根川の声が震える。涙が一筋、頬を伝った。
「それで……それで、月収25万円を欲しがるだと? ふざけるな!」
利根川は静かに泣き始めた。会議室にはただ彼の嗚咽が響く。若者たちはその姿に動揺し、何も言えないまま俯いた。
「俺たちは、どれだけ夢を諦め、どれだけ歯を食いしばってきたか……お前らにはわからないだろう……」
今年はカレンダーの並びがよく弊社は5日までお休みをいただいている。あ奇跡の9連休もあと2日。ここまで7日間、仮初の逃避にうつつを抜かし、惰眠を貪る毎日はとても楽しかった。帰省がてら久しぶりの友達にもあって好きなことを話すのは楽しかった。子供たちとのんびり過ごす日常は愛情に満ちていた。
だがもう終わりだ。またあの日々が始まる。次の長期休暇まで、俺の心は持つだろうか。いっそのこと飛ばしてくれれば楽になれると思うが、俺の置き場所を会社も困っているようだ。
正月に引いたおみくじには「願い事は叶わない、決断できない日々が続く、人のために全力を出すことが幸福への道、」と書いてあった。あきらめをつけるにはちょうどよい言葉だ。この不安に抗うのをあきらめ、人のため、社会のために生きる一年にする。
現代では趣味が多様化して分散しただけで、この“ゲートボールに相当するもの”がなくなったわけではない。
“ゲートボールに相当するもの”とは「若いころからやり続けていたわけでも、やりたいとも思っていなかった活動」のこと。
で、年寄りはなぜ“ゲートボールに相当するもの”を求めるかというと「活力と実現可能性のギャップが年寄りほど生じやすい」から。
どうしても身体的には衰えているので若者に交じってスポーツを1から始めるのは難しい。
その点、若者がいないから自然と老人ばかりで寄り集まることができて、無理せずできるスポーツとしてゲートボールは最適だったのだろう。
では、そもそもそんな活力がなぜ湧いてくるのかって話になる。
少し前まで、俺は「年寄りが逆張りで無理してるだけ」だと思ってた。
でも最近、ひっかかりニーチェって番組で、腹落ちした話があって。
確か、永野が「老いていこうとするのではなく、老いに抗うことこそ自然」みたいなこと言ってて、なるほどなと。
年寄りになったからこそ何らかの活動的なことをやって、周りに「若いもんにはまだまだ負けん!」みたいなスタンスをとる。
これまで俺は「ゲートボール理論」を冷笑気味な文脈で用いることが多かった。
「あなた活力に満ち溢れてます~みたいな感じ出してますけど、それって年寄りがゲートボールやってるようなもんですよ」ってな具合で。
ホッテントリで老いに関する内容の記事とかに「俺は年とってからも元気ですけどね」みたいなブコメが必ず湧いてきて、それに結構な星がついてたりして当初はなんだかなあって思ってた。
老いれば活力は無くなっていくのは生物学的にも明らかなのに、いい年こいて逆張り根性こじらせてんじゃねえぞと、百歩譲って本当だとしてもイレギュラーでしかないぞと。
老いに抗おうとすることで湧いてくる活力、それこそ自然の成り行きだったんだ。
そう考えると、他の年寄りが無理してそうに見える時も生暖かい目で見れるし、これからどんどん老いていくだけの己も気が楽になってくるのではないか。