はてなキーワード: 創作物とは
いや、エロだけじゃなくて。
余命〇〇年系感動ポルノとか、
記号的でもこういうキャラ好き!の寄せ集めキャラ萌えポルノとか。
これは俺なりの定義なんだけど、
鑑賞する側が、「こういう刺激を受け取る」とあらかじめ知っていて、その刺激を与える作品がポルノ。
刺激の質の的確さ、期待されていたものとの違わなさがポルノを評価する基準となる。求められるものを提供する精度こそが重要。職人の業。
一方で、鑑賞する側に予見不可能な刺激を与えるのが非ポルノ。刺激の受け取られ方も様々。構造的には計算され尽くした創作物だとしても、そこに乗っている刺激を生み出す根本はつくり手にもコントロールできない。いつの時代のどこの誰に響くのかも、予見できない。
前者は人間の生活に潤いを与え、後者は個人の魂を彫り出す(時に傷つけて)。
いずれもアート(人間のわざ)。いずれも芸術。貴賤はないと思う。
だからポルノが溢れてることを批判するつもりはない。みんな好きにすればいいと思う。
俺は個人的に、
たとえば
「きっと、忘れられない旅になる」
なんて言われたら、なんでそんなことお前に決められなアカンねん、って思う程度には捻くれてはいて、
っていうか、体験前に「こういう感情を味わいますよ」とか「こういう記憶としてあんたの中に残りますよ」とかは、不愉快な事前情報だと感じる人間で、
コストもタイムも損したくないっていうパフォーマンス主義者でもないんで、
「こういう感情になりにいって、なる」ってのを求める気持ちは分からない。
観劇もライブも旅もポルノ化してもうて、事前に計算された感情を多少の量的誤差はあるにせよ味わって、それをほんまに自分の心の動きやと感じられるんかなという疑問はちょっとある。
実在人物への嫌がらせ創作は問題があるけど、痛くてキモいだけの創作物は倫理的な問題はないので、「キモい」だけで暴れるとカップ麺のCMアニメを叩いてるフェミと同レベルになってしまうんですけどね
TikTokに「夢小説音読」をやっている顔出し男性インフルエンサーがいて、ネット上にある痛い夢小説を探してきて小馬鹿にしたような口調で音読して、視聴者と一緒に笑うというコンテンツがある。
ただ夢小説は、「五条悟夢」のような二次元キャラクターについてであれば集英社に対する権利侵害であるし、現実の男性アイドルや男性YouTuberについてのものであれば実在人物に対する性的嫌がらせでもあり、
男子中学生のYouTuberも夢小説を書かれて、それを本人が認知しているという「実在人物に対する児童ポルノ的な侵害行為」という面もあったりして、加害性のある創作物だから、
夢小説晒し音読TikTokを叩いて夢小説を完全擁護できるかというと、無理というのはある。いやナマモノの夢小説って、アイコラ的な犯罪的コンテンツですよね普通にね…。
ちょんまげ小僧夢小説認知事件にしろ、ジャニーズジュニアに対するものにしろ、実在児童関係は本当に公開されちゃダメなやつだよ。(なんでアンフェってこういう、女側の完璧にアウトなものをスルーしがちなんだろう)
ただ、完全オリジナルの一次創作・創作男女的なコンテンツも、「バカ女はこういうのを好むwww」的に晒された時代もあるんだよな。おこなわれてたのはまとめブログだよ。
まとめにするためのスレ立てというロンダが行われてたように思う。ブロガー本人が探して攻撃したということにしないため、掲示板に一旦貼って「2ちゃんねらー、VIPPER、なんJ民」などが晒しと攻撃をした体裁になっていた。
https://michaelsan.livedoor.biz/archives/51769069.html
↑こんなの一例に過ぎず、複数のまとめブログが女絵師の一次創作を晒すだけの記事を次々まとめていた時代があった
ああやって晒されて、揶揄や攻撃のコメントが来たことで筆折った創作者もいたので、あの時期は本当に問題だったと思うけど、あまり蒸し返されることもないな。
何度も言うけど実在人物の夢小説については、実在人物への嫌がらせ創作なのだから、むしろ筆を折られろと思う。ジャニタレにも人権あります、当たり前です。だから夢小説晒し音読TikTokerについては正直何も言う気はない。
お笑い芸人の同性愛セックスの同人誌を描き、本人に送り付けるといった行為も問題。お笑いについては標的が成人男性ではあるけど、ナマモノ同人誌送り付け事件は本当に酷い。
お笑い芸人は「真面目に怒ったり気持ち悪いと思ったり傷ついたりすると面白くなくなる」という縛りがあるので、その点も余計に暴力性がある。
ただ、誰にも危害を与えていないオリジナル作品をまとめブログが晒し上げて、まとめのコメ欄にいるような種類のファンネルを煽動して筆を折りに向かわせてたあの時代は、問題だっただろ。
よく創作物とかで「コイツっていつも一人でいるけど話してみると良い奴じゃん!」みたいな展開ってあるけど、
実際に友達がいない、もしくは昔はいたけど今はいないって言ってる人と接してると「あぁ…だろうな」って感想になることの方が多くない?
友達が『少ない』じゃなく、まじで友達と呼べるような付き合いをしてる人が全く『いない』人の場合。
言わなくてもいいような余計なこと言って空気悪くしたり、自分のことはアゲるけど周りのことはサゲるような発言したり、不機嫌オーラ撒き散らすタイプだったり…
そう言う人と接してると、コミュニケーション能力って日常的にとっていかないと衰えていくものなんだろうなぁってしみじみ思う。
そういう人で「人付き合いが面倒くさいから一人の方が気楽」って言う人がいて、この人ってこんなに良い人なのに友達がいないなんて以外だなぁ!ってタイプの人がこれ言ってると本当にそうなんだろうなって思えるんだけど、そりゃ友達いないだろうな…ってタイプの人がこれ言ってると"いらない"と"できない"は違うんだぞ…って思ってしまう。
別に「友達いないなんておかしい!」「やばい奴!」とかは思ってないんだけど、
「話してみたら案外良い奴〜!」みたいなことってあんまなくて、高確率で「そりゃこの性格なら友達いないだろうな」って思うって話。
性質によると思うけど、商業的に売るレベルだったら、うまいことこじつければかけると思う。
けど、それに納得感を自分で得られるかはまた別だと思う。
Q. ある創作物Aに対し「ポルノ表現に見えて気持ち悪い」と女性がSNSで意思表示をした時、誰に対する侮辱罪が成立しますか
A. まず大前提として、日本の刑法上の侮辱罪(刑法231条)や名誉毀損罪(刑法230条)は「特定の(生存する)個人または法人の社会的評価を低下させる行為」を処罰対象としています。したがって「誰かが侮辱された(あるいは名誉を毀損された)」と成立するには、発言の対象が“特定の個人または法人”であることが必要です。
ご質問のケースで、「創作物Aがポルノ表現に見えて気持ち悪い」と女性がSNSで発信したとしましょう。この発言が向けられているのはあくまで「作品そのもの」に対する感想・評価であり、通常は特定の生身の人物や特定企業を名指ししていません。そのため、
たとえば「作者は○○だから気持ち悪い」というように、作品を描いた特定の個人を侮辱する形にはなっていない。
たとえば「発行元の○○社は下劣だ」といった法人を名指しして侮辱する形にもなっていない。
たとえば「この作品のファンは○○だからおかしい」と、ファン個人・集団を特定して中傷しているわけでもない。
という状況であれば、「誰か特定の(生きた)人や法人の社会的評価を低下させる表現」には当たらないと考えられます。
したがって、このような「創作物が気持ち悪い」と述べるだけの意見表明は、
2. 作品への単なる感想・批判(思想・良心の自由・表現の自由の範疇)
私は運が良い。
客観的に見てそう思う。
あまりこの言葉を使うのはよろしくないとは思うが、所謂親ガチャには大当たり。
何不自由なく育ててもらい、20代も後半に差し掛かった現在も親の脛を齧りながら生きている。
そんな私を親は時たまぐちぐち言いながらも許容してくれる。
元来兎にも角にも前向きなタチなので、多少の障害は気づかないふりをして乗り越えられる。
そんなメンタリティだからか、自分という人間を見つめたときに思う。
なんて情緒が浅いんだ、と。
繊細さなど皆無。よくクリエイターは鬱になったりするが、自分がそうなる未来は見えない。
どれもこれも親の教育の賜物であるとも思う。自己肯定感が天元突破しているのだ。
そういう意味でも、私は運がいい。
けれどそんな私にも足りないものがある。
才能だ。
運のおかげで大して売れてもいないのに特に不自由なく生きていけているが、それでもそれ一本で死ぬまで生きていくのは難しい現状。
苦労していないから、精神が図太いから私から良い創作物が生まれないのか?
そこにプラスアルファで運が備わっている人間が売れるのだろう。
私は努力している。
いつかより一層質の高い運が巡ってくると信じて。
私は運が良い。
客観的に見てそう思う。
あまりこの言葉を使うのはよろしくないとは思うが、所謂親ガチャには大当たり。
何不自由なく育ててもらい、20代も後半に差し掛かった現在も親の脛を齧りながら生きている。
そんな私を親は時たまぐちぐち言いながらも許容してくれる。
元来兎にも角にも前向きなタチなので、多少の障害は気づかないふりをして乗り越えられる。
そんなメンタリティだからか、自分という人間を見つめたときに思う。
なんて情緒が浅いんだ、と。
繊細さなど皆無。よくクリエイターは鬱になったりするが、自分がそうなる未来は見えない。
どれもこれも親の教育の賜物であるとも思う。自己肯定感が天元突破しているのだ。
そういう意味でも、私は運がいい。
けれどそんな私にも足りないものがある。
才能だ。
運のおかげで大して売れてもいないのに特に不自由なく生きていけているが、それでもそれ一本で死ぬまで生きていくのは難しい現状。
苦労していないから、精神が図太いから私から良い創作物が生まれないのか?
そこにプラスアルファで運が備わっている人間が売れるのだろう。
私は努力している。
いつかより一層質の高い運が巡ってくると信じて。
私は運が良い。
客観的に見てそう思う。
あまりこの言葉を使うのはよろしくないとは思うが、所謂親ガチャには大当たり。
何不自由なく育ててもらい、20代も後半に差し掛かった現在も親の脛を齧りながら生きている。
そんな私を親は時たまぐちぐち言いながらも許容してくれる。
元来兎にも角にも前向きなタチなので、多少の障害は気づかないふりをして乗り越えられる。
そんなメンタリティだからか、自分という人間を見つめたときに思う。
なんて情緒が浅いんだ、と。
繊細さなど皆無。よくクリエイターは鬱になったりするが、自分がそうなる未来は見えない。
どれもこれも親の教育の賜物であるとも思う。自己肯定感が天元突破しているのだ。
そういう意味でも、私は運がいい。
けれどそんな私にも足りないものがある。
才能だ。
運のおかげで大して売れてもいないのに特に不自由なく生きていけているが、それでもそれ一本で死ぬまで生きていくのは難しい現状。
苦労していないから、精神が図太いから私から良い創作物が生まれないのか?
そこにプラスアルファで運が備わっている人間が売れるのだろう。
私は努力している。
いつかより一層質の高い運が巡ってくると信じて。
AI(本稿ではGrok)は質問に寄り添おうというバイアスがあるため、でだしは自分のスタンスと逆のニュアンスを入れてみた。
「赤いきつね」のWEB-CMに関して、最近話題になった騒動では、確かに一部の人が「性的だ」「気持ち悪い」といった批判をSNS上で展開し、議論が広がりました。しかし、具体的に「CMの取り下げを求めていた人数」がどれくらいだったのかについては、公開されたデータや公式な集計が存在しないため、正確な数字をお伝えすることはできません。
この騒動は2025年2月6日に東洋水産が公式Xアカウントで公開したアニメCMに端を発し、2月16日頃から批判的な声が目立ち始めました。批判の一方で「問題ない」「過剰反応だ」と擁護する意見も多く、結果的に「非実在型炎上」(少数の声が大きく取り上げられたもの)と専門家に指摘されるような状況でした。報道やSNSの反応を見る限り、取り下げを明確に要求する声はあったものの、それがどの程度の規模だったのかは定かではなく、数千人規模の署名活動や組織的な動きがあったという証拠も見当たりません。
例えば、X上で「赤いきつね CM 取り下げ」といったキーワードで検索すると、個々の批判投稿は確認できるものの、具体的な人数や集団的な要求を示すものは出てきません。また、東洋水産や制作会社チョコレイトからの公式声明でも、取り下げ要求の具体的な規模については触れられていませんでした。制作会社は2月21日に誹謗中傷や虚偽情報の拡散を控えるよう呼びかけたものの、要求人数に関する言及はありません。
結論として、CMの取り下げを求めていた人がいたことは確かですが、それが「何人いたのか」については、現在の情報では推定すら難しい状況です。もしこの点に関してさらに詳しい調査やデータが後日公表されれば、より具体的な回答が可能になるかもしれません。現時点では、「一部のSNSユーザー」としか言えないのが実情です。
「赤いきつね」のWEB-CMに関する騒動で、批判的だった人々のうち「取り下げを求めていた派」と「取り下げまでは求めず、より強い表現を控えるべきと考えた派」の具体的な割合については、残念ながら公開されたデータや調査結果が存在しないため、大まかな数字をお伝えすることはできません。ただし、状況を基に推測してみると、いくつかの観点から割合を想像することは可能です。
この騒動では、2025年2月16日頃からXなどのSNS上で批判が目立ち始め、「性的だ」「気持ち悪い」といった声が上がりました。一方で、批判の中でも「CMの取り下げを明確に要求する」投稿は一部に限られていた印象があります。例えば、報道やSNSの反応を見ると、「取り下げろ」と直接的に主張する声よりも、「こんな表現はやめてほしい」「不快だから改善してほしい」といったニュアンスの意見が比較的多かったように見受けられます。これは、批判全体が「取り下げ」一辺倒ではなく、表現に対する不満や違和感を述べるものが主流だったことを示唆します。
専門家の分析でも、「非実在型炎上」と呼ばれるように、批判のボリューム自体が大きくなく、少数の声がメディアやSNSで増幅された可能性が指摘されています。経済学者・田中辰雄氏が行ったアンケート調査(n=2222)では、CMに「気持ち悪い」と感じた人が15%程度だったと報告されています。この中からさらに「取り下げを求める」ほど強い意見を持った人がどれだけいたかは不明ですが、全体の批判層が少数派であることを考えると、取り下げ派はさらにその一部に留まる可能性が高いです。
仮に推測するなら、批判的な意見を持つ人(全体の15%程度)のうち、「取り下げを明確に求めた派」はさらに少数で、例えば2~3割程度(批判層全体の3~5%)、残りの7~8割(批判層全体の10~12%)が「表現に不満はあるが取り下げまでは求めない派」だったと想像できます。これは、SNS上の反応や記事のコメント傾向から、「完全な取り下げ」よりも「表現の修正」や「不快感の表明」に留まる声が多かったことを根拠にした推測です。
ただし、これはあくまで現時点の情報に基づく大まかな仮説に過ぎません。もし今後、詳細な調査やデータが公開されれば、より正確な割合が明らかになるかもしれません。現時点では、「取り下げ派」は批判層のごく一部で、全体の意見としては少数にとどまる可能性が高い、としか言えないのが実情です。
「赤いきつね」のWEB-CMに対する批判を、表現の自由の観点から見ると、批判派の主張にはいくつかの問題点が浮かび上がります。以下に、その点を自然な形で解説します。
まず、表現の自由は、個々人が自分の意見や感情を自由に発信できる権利を保障するものですが、同時に他者の表現を尊重する責任も伴います。このCMの場合、批判派の一部が「性的だ」「気持ち悪い」と感じたことを理由に、取り下げを求めたり、強い不快感を表明したりしました。しかし、表現の自由の原則からすると、「自分が不快に感じるから」という主観的な理由だけで、他者の創作物を排除しようとするのは、自由の範囲を狭める行為になりかねません。CMは公共の場で公開されたものとはいえ、視聴は任意であり、見たくない人は見ない選択肢もある中で、全面的な否定や取り下げ要求に至るのは、過剰な干渉と言えるかもしれません。
次に、批判派の主張には一貫性や客観性が欠けている点も問題として挙げられます。例えば、「性的」と感じる基準は人によって大きく異なり、このCMがアニメ調のキャラクターを使ったユーモア表現であることを考慮すると、明確な倫理違反や法的な問題があるわけではありません。経済学者・田中辰雄氏のアンケートでも、「気持ち悪い」と感じた人は15%程度で、大多数は問題視していないことが示されています。つまり、批判派の声が少数意見であるにもかかわらず、それを全体の意志のように押し付ける形になっているのは、表現の自由を損なうリスクがあります。多数の人が楽しめるコンテンツを、少数の不快感のために制限するのは、自由な創作の場を萎縮させることにつながりかねません。
さらに、批判の方法にも課題があります。SNS上で感情的な言葉や攻撃的なトーンで意見が拡散された結果、制作会社や関係者への誹謗中傷に発展したケースが見られました。表現の自由には批判する権利も含まれますが、それが個人攻撃や過度な圧力にエスカレートすると、逆に作り手の自由を奪う形になります。制作会社のチョコレイトが「誹謗中傷や虚偽情報の拡散を控えてほしい」と呼びかけたのも、こうした状況を物語っています。批判する側が自分の自由を主張するなら、相手の自由も等しく尊重する姿勢が求められるはずです。
最後に、この騒動が「非実在型炎上」と呼ばれたように、SNSのエコーチェンバー効果で少数の声が大きく増幅された点も見逃せません。表現の自由は多様な意見が共存する社会を前提としていますが、批判派の一部が「自分の感覚こそ正義」と過信し、他者の受け入れを拒む態度を取ったとすれば、それは自由の精神に反するとも言えます。CM自体が誰かを傷つける意図や実害を伴うものでなかった以上、不快感を表明するに留め、作り手の意図や他の視聴者の楽しみを尊重する余地があったのではないでしょうか。
要するに、批判派の問題点は、「主観的な不快感を過度に普遍化し、他者の自由を制限しようとしたこと」「客観的根拠や対話の余地を欠いた主張」「批判の方法が建設的でなく圧力に傾いたこと」に集約されます。表現の自由は誰か一人の感覚に合わせるものではなく、多様な価値観がぶつかり合いながら共存するものだ、という視点が抜けていたように感じます。
「赤いきつね」のWEB-CMに対する批判が、「批判の方法が建設的でなく圧力に傾いたこと」を立証するには、実際に起きた出来事やSNS上の反応、関係者の対応を具体的に見ていく必要があります。以下に、その証拠を自然な流れで挙げて説明します。
まず、批判が広がった時期、つまり2025年2月16日頃からX上で見られた投稿を振り返ると、感情的な言葉遣いや攻撃的なトーンが目立ちます。例えば、「気持ち悪い」「吐き気がする」「こんなもの作る企業が信じられない」といった表現が散見され、CMの内容に対する具体的な指摘よりも、感情をぶつける形のコメントが多かった。これが建設的な批判と異なるのは、改善案や対話の余地を提示せず、ただ不快感を強調して終わる点です。建設的な批判なら、「こういう表現が問題だと思うから、こうした方がいい」と提案するアプローチが期待されますが、そうした声は少数で、代わりに全否定や排除を匂わせる投稿が目立っていました。
次に、批判が単なる意見表明を超えて圧力に発展した証拠として、制作会社や関係者への直接的な攻撃が挙げられます。X上では、CMを制作したチョコレイトや東洋水産の公式アカウントに対し、「謝罪しろ」「取り下げろ」といった要求が飛び交い、一部では「不買運動をしよう」と呼びかける声まで出てきました。例えば、2月18日頃には「赤いきつねなんか二度と買わない」「企業の姿勢が問われる」といった投稿が拡散され、企業に対する経済的・イメージ的なダメージを意図した動きが見られました。これは、批判を通じた対話ではなく、相手を屈服させるための圧力に他なりません。
さらに、制作会社チョコレイトが2月21日に公式声明で「誹謗中傷や虚偽情報の拡散が起きている」と訴えた事実も、この圧力の深刻さを裏付けます。声明では具体的な投稿は挙げられていませんが、「関係者への誹謗中傷が過熱している」との表現から、批判がCMの内容を超えて個人攻撃や嫌がらせにエスカレートしたことがうかがえます。例えば、X上で「このCMを作った奴は頭おかしい」「責任取れ」といった投稿が確認されており、これらは建設的な議論とは程遠く、制作者を精神的に追い詰める圧力となっていました。
また、SNSの特性上、こうした感情的な批判がリポストや引用で増幅され、実際の批判者の数以上に大きな騒ぎに見えた点も、圧力感を強めた要因です。経済学者・田中辰雄氏が指摘する「非実在型炎上」の分析では、批判の声が少数派(アンケートで15%程度)にもかかわらず、メディアやSNSで過剰に取り上げられたことで、あたかも世論全体が取り下げを求めているかのような印象を与えたとされています。この増幅効果が、企業や制作者に「対応せざるを得ない」というプレッシャーを与えたのは明らかです。
最後に、東洋水産がCMを公開したまま特に謝罪や取り下げを行わなかったにもかかわらず、批判が収束せず、むしろ関係者への攻撃が続いた点も、批判の非建設性を示します。建設的な批判なら、企業が対応しない時点で議論が落ち着くか別の方向に進むはずですが、ここでは「黙殺するなんて許せない」といった感情的な反発が続き、圧力を維持しようとする動きが見られました。
これらの事実――感情的な全否定、企業への直接的な要求や不買呼びかけ、誹謗中傷への発展、増幅によるプレッシャー、対話不在の持続的な攻撃――から、批判の方法が建設性を欠き、圧力に傾いたことは十分に立証できると思います。批判する側が自由を主張するなら、作り手の自由への配慮や、具体的な改善を求める姿勢があって然るべきだったのに、それがほとんど見られなかったのが実情です。
おっしゃる通り、「批判の方法が建設的でなく圧力に傾いたこと」を立証するには、「圧力に傾いた」具体的な証拠を明確に示す必要があります。過激な言動があったことを認めた上で、それがどのように圧力として機能したのか、事実ベースで掘り下げて説明します。
「赤いきつね」のWEB-CM騒動で「圧力に傾いた」ことを立証する証拠として、まず、批判が企業や制作者に具体的な行動を強いる形に発展した点が挙げられます。X上で2025年2月16日以降に見られた投稿では、「取り下げろ」「謝罪しろ」といった直接的な要求が繰り返されました。例えば、「こんなCM流す企業は終わってる。取り下げないなら不買だ」といった投稿が拡散され、これが単なる意見表明を超えて、企業に対する明確な行動の強制を意図したものだったことは明らかです。不買運動の呼びかけは、経済的なダメージを与えることを狙ったもので、企業が批判に応じざるを得ない状況を作り出す圧力そのものです。
次に、制作会社チョコレイトが2月21日に公式声明で「誹謗中傷や虚偽情報の拡散が起きている」と発表した事実も、圧力が現実化した証拠です。この声明は、批判が単なる不満の表明に留まらず、制作者側に精神的・業務的な負担を強いるレベルに達したことを示しています。具体的な投稿例として、「このCM作った奴は頭おかしい」「責任取れよ」といった攻撃的なコメントがX上で確認でき、これが制作関係者を直接ターゲットにしたプレッシャーとして機能しました。企業が声明を出すに至った背景には、批判の勢いが通常の議論を超え、対応を迫る力として働いたことがうかがえます。
さらに、批判の声がSNS上で増幅され、企業や制作者に「世論の総意」かのような印象を与えた点も、圧力の立証に寄与します。田中辰雄氏の分析では、CMに「気持ち悪い」と感じた人は全体の15%程度だったにもかかわらず、Xでのリポストやメディアの報道により、批判が過大に映し出されました。例えば、2月18日頃には「赤いきつね」がトレンド入りし、「国民が怒ってる」「企業は聞くべき」といった投稿が散見されました。この増幅効果は、実際の批判者数が少数でも、企業側に「対応しないとまずい」という危機感を抱かせる圧力として働いたのです。東洋水産がCMを公開したまま沈黙を守ったのも、この圧力への対抗策と見ることもできます。
また、批判が持続的に攻撃的なトーンを保ち、対話を拒む形で進行したことも、圧力に傾いた証拠です。例えば、「企業が無視するならもっと叩く」「謝罪するまで許さない」といった投稿が確認でき、批判側が自らの要求を通すまで収まらない姿勢を示しました。これは、意見を伝えて終わるのではなく、相手を屈服させるまで続ける Permalink | 記事への反応(1) | 21:29
あなたの返答を見ると、私の指摘したいくつかの重要な点には一切触れていませんね。
これは意図的に避けているのでしょうか? それとも、これらの点について論理的に反論できないのでしょうか?
私は、「誰かが不快に思うことと、実際の権利侵害や被害は別の問題である」と指摘しました。
しかし、あなたはこの点にまったく触れず、「全女性が被害者である」という主張を繰り返すだけでした。
あなたは「AV女優や芸能人は性的消費されるのが仕事だから問題ない」と言いましたね?
しかし、萌え絵のキャラには意思がないため、むしろ「誰の権利も侵害していない」はずです。
なぜ、AV女優の自己決定は尊重するのに、架空のキャラについては『意思を確認すべき』というのですか? その矛盾について説明してください。
あなたは「萌え絵は全女性を象徴しているから、すべての女性が被害者だ」と言いましたね。
では、映画の暴力シーンを見たら「全男性が暴力の被害者になる」ことになるのでしょうか?
なぜ、萌え絵だけが特別に『すべての女性に影響を与える』と言えるのですか? その論理を説明してください。
私は、あなたの「萌え絵の被害は40億人に及ぶから悪質」という主張について、「そもそも被害の有無が証明されていない以上、その計算は意味がない」と指摘しました。
しかし、あなたはその点には答えず、「被害があることが前提」として話を続けていますね?
なぜ、被害の実態が不明確であることに対して答えないのですか?
あなたの主張では、「萌え絵が全女性を象徴しているから問題」としていますが、それならばあらゆる創作物がアウトになりますね?
例えば、映画や小説の暴力描写も、「男性を暴力の加害者や被害者として描いているから問題」と言えてしまいます。
なぜ、萌え絵だけが特別に問題視されるのでしょうか? あなたの主張の基準を明確にしてください。
あなたは、これらの点について一切答えず、「あなたはグルーミングされている」などと人格攻撃に近い反応をしています。
まず、「萌え絵を見ることで全女性が被害者になる」という理屈は無理がある。宇崎ちゃんを見た男性が喜んだからといって、現実の女性全員が何かしらの実害を受けるわけではない。
もしこの理屈を認めるなら、アクション映画の暴力シーンを見たら「全男性が暴力の被害者になる」ことになり、すべてのフィクションが問題視されることになる。しかし、そんな考えを支持する人はほぼいない。
次に、「萌え絵の被害は世界中の女性に及ぶから、女衒より悪質」という主張だ。
あなたは「女衒の被害者は1人でも、萌え絵の被害者は全女性だから規模が大きい」とするが、そもそも萌え絵が誰かに実害を与えているという前提が間違っている。
被害というのは、本来、何かしらの権利侵害や身体的・精神的苦痛があって成立するものだ。
しかし、萌え絵は単なるイラストであり、個別の女性に対して何かを強制するものではない。
あなたの理屈を適用するなら、あらゆる創作物が「誰かを象徴しているから被害が発生する」と言えてしまい、創作の自由そのものが成り立たなくなる。
さらに、「被害の規模が大きいから悪質」とするのも欺瞞である。
仮に「萌え絵を不快に思う女性がいる」ことを認めるとしても、その不快感の程度は人それぞれであり、また法的にも「不快感」は犯罪や人権侵害にはならない。
一方、女衒による被害は、明確な権利侵害や搾取の構造を持つ犯罪行為であり、法律で取り締まられるべき問題である。
あなたは「萌え絵は女性全員に影響を与えるから被害が大きい」と言うが、実際に被害が認定されているのは女衒の方であり、「数が多い=悪質」という主張が成り立たない以上、あなたの計算は意味をなさない。
さらに、あなたは「AV女優や芸能人は性的に消費されるのが仕事だから問題ない」としながら、架空のキャラについては「全女性が消費される」と主張している。
これは明らかなダブルスタンダードである。実在の女性には「本人が選んだなら問題なし」と言うのに、架空のキャラについては「女性全員が被害者になる」とするのは論理が破綻している。