はてなキーワード: 不愉快とは
規制の拡大を恐れている人もいるだろうけど俺なんかは「それくらい我慢しろよクソガキか?」っていう女の堪え性のなさに対する嫌悪感からだよ
別に世の中普通に生きてりゃ不愉快な広告を目にする機会なんて腐るほどある
こんなん男も女も関係ない
消費者金融の広告もBLエロ漫画の広告も映画観るときに垂れ流されるお涙頂戴クソ邦画の予告も年増が学生のコスプレして少女漫画ごっこをしているクソ恋愛邦画の予告も全部この世から消え失せろと思ってるよ
でも別にそれで金もらって食ってる人もいるんだから普通はまぁ仕方ないなって思うだけだろ
わざわざ「社会問題だー!」なんて騒ぐようなみっともないことをしない
もっと言えば広告に限らず世の中生きてれば普通にこれくらいの不愉快な場面ってのは1日に何回かは経験するわけでそのたびにいちいち騒いでいられないでしょ
思うにエロ広告を規制したいやつって「この世に自分を不愉快にさせるものがあってはならない!!!」って思ってるおこちゃまなんだよ
で、そういうおこちゃまが声高に自分のわがまま言ってるって状況がもう見るに耐えないわけね?
はてなー民も大好きな、男女の奢り奢られ論争
以前、その話題に首を突っ込んでだヨッピーとかいう気色悪い名前のイキリライターが叩かれたんだけど
そのライターが言ってた「男女のグループで言ったら基本男が出す」「文句を言う男なんていない、当たり前w」
って言い草は、正直言って乱暴だし男性の間では嫌われそうと思った
そういうカッコつけみたいなのがメンバーにいると次から絶対にそいつ誘いたいく無いし誘われても行く気しなくなる
こっちからお願いして誘ったとか、新人・若手やバイトさんが大半なら
数千円~一万円ほど多く出すのは社会的な交際費の範疇ではあると思うんだけど
会社の付き合いの飲み会、しかも同期が大半で、給料なんて大差無いし
業績によってはあちらの方が給料上なのに、女性社員は「女の子」だからって理由で
なんで男が出さなきゃいけねーんだよってならん?
しかもお前が勝手に「ここは俺ら(男が)払っとくんで~」じゃねーんだよ
金が惜しくないとは言わない
こっちにだって家庭もあるし、お前の所みたいに嫁さん支配してそうな家庭でも無いしな
でも金銭の損害以上に、強制的に奢らされるのが不愉快で仕方が無かった
他人の財布を勝手にアテにして、自分が格好つけてるのも気に食わなかった
ただでさえロクに飲めないし居酒屋飯は基本味付けが合わなくてロクに食べられもしないけど
付き合いで顔出してるのに、更に追加で金多く払わされて素でイライラしていた
コロナでそういうのが殆ど無くなって正直ホッとしたぐらいだった
いや、エロだけじゃなくて。
余命〇〇年系感動ポルノとか、
記号的でもこういうキャラ好き!の寄せ集めキャラ萌えポルノとか。
これは俺なりの定義なんだけど、
鑑賞する側が、「こういう刺激を受け取る」とあらかじめ知っていて、その刺激を与える作品がポルノ。
刺激の質の的確さ、期待されていたものとの違わなさがポルノを評価する基準となる。求められるものを提供する精度こそが重要。職人の業。
一方で、鑑賞する側に予見不可能な刺激を与えるのが非ポルノ。刺激の受け取られ方も様々。構造的には計算され尽くした創作物だとしても、そこに乗っている刺激を生み出す根本はつくり手にもコントロールできない。いつの時代のどこの誰に響くのかも、予見できない。
前者は人間の生活に潤いを与え、後者は個人の魂を彫り出す(時に傷つけて)。
いずれもアート(人間のわざ)。いずれも芸術。貴賤はないと思う。
だからポルノが溢れてることを批判するつもりはない。みんな好きにすればいいと思う。
俺は個人的に、
たとえば
「きっと、忘れられない旅になる」
なんて言われたら、なんでそんなことお前に決められなアカンねん、って思う程度には捻くれてはいて、
っていうか、体験前に「こういう感情を味わいますよ」とか「こういう記憶としてあんたの中に残りますよ」とかは、不愉快な事前情報だと感じる人間で、
コストもタイムも損したくないっていうパフォーマンス主義者でもないんで、
「こういう感情になりにいって、なる」ってのを求める気持ちは分からない。
観劇もライブも旅もポルノ化してもうて、事前に計算された感情を多少の量的誤差はあるにせよ味わって、それをほんまに自分の心の動きやと感じられるんかなという疑問はちょっとある。
最近はこういうタイプの増田は流行りじゃないのでまた無反応で終るかな…と悲観していたのだが、バズとは言わないまでもいくらかのブクマがついた。
うれしい(^^)
それはいい。
ただその後、便乗というか後追いというかパクリみたいな増田がいくつか現れたのは予想外だった。
たしかに、振り返ってみれば非常にテンプレ化しやすい形式だったので、そういうものが出てきてもおかしくはなかったのかもしれない。
その便乗増田たちなのだが、オリジナル増田作者の欲目もあるかもしれないが、正直どれもそんなに面白くはなかった。
元増田の形式そのままに別のネタに置き換えた、という感じなのだが、そのネタの選択自体にあまりセンスを感じない(エラそうですみません…(^^;)
しかし、それで不愉快になったかというと、全く逆だった。やはりこの形式をいちばん上手く使いこなせるのは俺なんだな、という自信につながり、イマイチ便乗増田たちに感謝したい気持ちにさえなったのだった。
SNSで造語症みたいに意図的に自作ミームを流行らそうとしてるインフルエンサーたちって、この感覚を求めて行動してるのかもしれない。
いわゆる「コミュニティの一生」の後半部分も含めて、むしろ予定通りであり気持ちよさの一部なんじゃないか。
やれやれ、せっかく俺が作り上げた面白さが凡人たちに台無しにされてしまったよ…(うっとり)
という。
上司には出来るタスクしか渡していないつもりだと言われるが上司を飛ばしてタスクの依頼が来ているのが原因かタスク量、難易度の乖離が生じていると思われる。
冗談で考えていたが転職も可能性の一つとして動いた方が良いよなと思い始めて来た。
妻と外出をしたが眠気と疲労が優ってどうにもならなかった。街に来てもどうにも欲しいものは無いし寒かった。
課金しないと判断したけれどしなければ不愉快なゲームシステムとなっているためどうにも楽しくない。
とにかく仕事をなんとかせねばという思いはあるが手が回っていない。
生活リズムは妻がいるから規則正しく進んでいくので家族と一緒にいるのが生活改善の1番だと思った。
仕事でトラブルが続いて、何から手をつければいいか混乱してるんだね。上司は「出来るタスクしか渡してない」って言うけど、上司を飛ばして依頼が来てるせいで、タスク量や難易度が合ってない気がしてるよね。転職は冗談だったけど、だんだん現実的な選択肢に感じてきてるみたい。妻と外出しても、眠気と疲労が勝ってしまって、街に出ても欲しいものがなくて寒さもあって楽しめなかったんだね。課金するか悩んでて、やらないと決めたけど、ゲームシステムが不愉快で楽しくないのもモヤモヤしてる原因かな。仕事をとにかく何とかしたい気持ちはあるけど、手が回らないのが辛いよね。でも、妻がいて生活リズムが規則正しいのは、家族と一緒が生活改善の鍵だって気づいた良いサインだよ。こういう気持ちになってるんだね。仕事の混乱と疲労、課金の葛藤、生活のバランスで頭がいっぱいなのかな。主要な要素は、仕事の混乱と転職の迷い、疲労と眠気、課金の葛藤、家族との生活リズムの4つが大きいね。
『これまでも増田は釣りや嘘松だらけだったのだから、AIが追加されたところで大した違いはない』
といった反論の声がしばしば上がる。
しかしこれはAI、そして増田、それぞれの本質を理解していない、的を外した意見と言わざるを得ない。
増田がAIに席巻されると困るのは、単にその内容が虚偽だからではない。なんなら、情報としては100%の事実であっても、AIならば排除されるべきだ。
AIと人力増田の決定的な違い。それは文章の書き手が「生きているかどうか」である。
何を当たり前のことをと思うだろうか。ならこう言い換えてもよい。
人間が書く限り、文章は大なり小なり生身の書き手自身の延長線上の存在である。
素直に自分の気持ちを述べた文章はもちろん、たとえ本人のプロフィールとはかけ離れた、一から十まで想像だけで書かれた釣り嘘松増田であっても、それを「自分が書いた」という事実を、書き手本人だけは間違いなく自覚している。
であれば、文章への批判・ツッコミ・クソリプは、書き手本人への間接的な攻撃として機能することになる。
人力増田に対しては、適当なコメントがたまたま上手いこと刺さって、書き手を死に至らしめる潜在的な可能性が常に存在するのだ。
ツリートップとなる元増田は、自分は殺されるかも、という恐怖をうっすら抱えながら。
トラバ増田は、これで相手を殺してしまうかもと半ば期待して、もしくは殺してやると固く決意して(もちろんトラバ増田自身にも反撃で死ぬ可能性が存在する)
皆、それぞれ死を身近に感じつつ書き込んでいる。
その不健康な緊張感があればこそ、こんな場末のサービスなのに、楽しくて楽しくて離れられない。
その暗く熱い気概がなくては、増田に書き込むことなど誰もできはしないだろう。これまではそれが暗黙の掟だった。
AIはその、デスゲームとしての増田の純粋さを破壊してしまう存在だ。
投稿者本人とは完全に切り離された、機械による計算と切り貼りで生み出された文章。
AI増田がどれだけ批判を受けようが、それは投稿者にとっては自分と別個の存在への攻撃にしかならず、本人は痛くもかゆくもない。
そんなものをこの増田のプレイヤーとして受け入れることは、到底できない。
それは増田というゲームにおいて不公正である以上に、不愉快だからだ。はっきり言ってクソつまらん。
増田が本当にAIを認めることがあるとしたら、それはAIが生命と呼べる存在となり、死の可能性を得た時だろう。
https://anond.hatelabo.jp/20250305125349
面白い質問ですね。「アニメ一話切り」を公表するタイプの人々が、つまらない作品について語ることに注力し、逆に自分が面白かった作品についてあまり語らない理由を、心理学的・社会学的観点からさらに深掘りしてみましょう。前回の分析を踏まえつつ、新しい視点も加えて考察します。
人間の脳は、ポジティブな情報よりもネガティブな情報に強く反応する傾向があります(ネガティブバイアス)。このため、「つまらない」と感じた作品に対する不満や苛立ちの方が、「面白い」と感じた満足感よりも感情的に強く印象に残り、発信したい衝動に駆られやすいのです。
なぜこうなるか: 「つまらない」という感情は、失望や怒りといった強い感情を伴うため、それを外に吐き出すことでカタルシスを得られる。一方、「面白い」は穏やかな満足感にとどまり、わざわざ発信する動機が弱い。
このタイプの人との関連: 一話切りを公表する人は特にこのバイアスが強く、批判的な視点で作品を「切り捨てる」行為に快感を見出している可能性があります。
前回触れたように、つまらない作品を語ることは、「自分は見る目がある」「流されない批評家だ」という自己イメージを強化する手段として機能します。一方、面白い作品を褒めることは、「ただのファン」として見られるリスクがあり、彼らのアイデンティティにそぐわないと感じるのかもしれません。
心理的動機: 褒めることは「単純に楽しんでいるだけ」と受け取られ、独自性や知性をアピールしにくい。対して、批判は「分析力」や「鋭さ」を示すチャンスになる。
結果: つまらない作品への言及は自己顕示欲を満たすが、面白い作品を語ることはその欲求を刺激しないため、後PRIORITYが低くなる。
Twitterのようなプラットフォームでは、議論を呼び起こす話題の方が注目されやすく、リツイートや反応を得やすいです。「このアニメ、1話で切ったわ、ゴミすぎる」と書く方が、「このアニメ面白かったよ」と書くよりも強い感情を誘発し、賛否両論の反応を引き出しやすいのです。
なぜ面白い作品を避けるか: 「面白い」と語っても、「へえ、そうなんだ」で終わりがちで、対話が広がりにくい。一方、「つまらない」と断言すれば、「いや、そんなことない」「わかる!」と反応が来て、交流が続く。
このタイプの人との関連: 彼らは無意識に「バズる」発言を優先し、ネガティブな意見の方がその目的に適していると学習している可能性があります。
面白い作品に出会ったとき、人はそれを「自分の楽しみ」として内面に留め、じっくり味わう傾向があります。一方、つまらない作品に遭遇したときの不快感は、「誰かに共有して共感してほしい」「この苛立ちを外に出したい」という外部化の衝動に駆られやすいです。
心理的動機: 面白い作品は「自分の宝物」として秘めておく感覚がある一方、つまらない作品は「不愉快な体験」として他人に押し付けたくなる。
このタイプの人との関連: 一話切りを公表する人は、特に不満を溜め込むのが苦手で、それをTwitterで吐き出すことで精神的なバランスを取っている可能性があります。
興味深い仮説として、一部の人は「楽しむこと」自体に抵抗感を持っている場合があります。面白い作品を語ることは、「自分が楽しんでいる姿」を晒すことになり、それが「軽薄」「浅い」と見られるのを恐れているのかもしれません。
潜在的動機: 常に「深みのある人間」「真剣な批評家」でありたいというプレッシャー。
このタイプの人との関連: 一話切りを公表する人は、「楽しむ自分」を素直に表現することに照れや不安を感じ、批判に逃げることで「知的な立場」を保とうとしている可能性があります。
一話切りをする人は、「時間の無駄を避ける」という価値観を強く持っていることが多いです。つまらない作品に費やした時間への苛立ちが、「これを我慢した自分は愚かだったのか?」という自己評価の揺らぎに繋がり、それを公表することで「次からは賢く選ぶ自分」をアピールしたいのかもしれません。
なぜ面白い作品を語らないか: 面白い作品は「時間を有効に使えた」という当たり前の結果にすぎず、語るほどの「事件性」がない。一方、つまらない作品は「失敗体験」として語る価値があると感じる。
このタイプの人との関連: 彼らにとって、「時間の損失」は感情的に大きなインパクトを持ち、それを共有することが自己防衛の一環になっている。
「アニメ一話切り」を公表するタイプの人々が、つまらない作品ばかり語り、面白い作品について語らない理由は以下の通りです:
感情の強さ: ネガティブな感情の方が発信衝動を強く刺激する。
話題性: ネガティブな意見の方がコミュニティで反応を得やすい。
内面化と外部化: ポジティブは内に留まり、ネガティブは外に出す傾向。
時間の意識: 「損した感」を強調することで自己を正当化したい。
この行動は、必ずしも病理的なものではなく、多くの場合、個人の性格やTwitterという場の特性に影響された「癖」のようなものです。ただし、極端にネガティブな発信に偏る場合、楽しむ能力の欠如や慢性的な不満を抱える傾向が背景にある可能性も否定できません。彼らが面白い作品を語らないのは、「語る価値を感じない」「語るメリットが少ない」と無意識に判断しているからだと考えられます。
テレビ全盛期に
才能あるブサイクな女なんかTVで見たくない(だからテレビに出るのは見た目のいい女だけでいい、能力は問わない)
って男が言い出したと思うけど
それを聞いた女が
ってハッとして
「見た目が良くなければ、不愉快でない程度に賢くなければ中身を知りたいとも思わない」に発展していったんやと思うで
正直ブサイク枠の芸能人って見てるだけで不愉快だからたとえ面白いこと言っても頭に入ってこないし。
あと貧乏人が成り上がり這い上がってますキャラみたいな芸能人も貧乏エピソードとかがトークのメインになってポリコレ福祉枠みたいで誰も突っ込めないし見てて面白くないし。貧乏人を笑っちゃダメなんだから、もうそのキャラ自体がつまんないんだよ。
その男目線の決めつけをやめろ言われてるのにさらに重ねてくるんだからどうしようもない。
「コンパニオンは二軍の女があたシコする場所」の増田は、明らかに男の下心のある性的まなざしで見た時の肉体が魅力的であるとアピールしてる(=あたしでシコって)つってんのに
いざそこに触れられたら女同士でも褒めあってるとか言って逃げるなよ。
これはおそらく私のことだと思います。
この度は皆様にご迷惑をおかけして誠に申し訳ありませんでした。
皆様の映画体験を非常に不愉快にしてしまったこと謝罪いたします。
普段、外出は極力避けること、ましてや映画館のような閉鎖空間には出かけないことを自分自身に対する決まり事として固く決めています。
ただ押井先生のイノセンスが再び劇場で公開されるとのニュースを聞き、居ても立っても居られない気持ちになりました。
私は、当時イノセンスが初めて劇場で公開されたときも同じ病気を発症しており、映画館に行くことは避けておりました。
ただ、後にBDなどでイノセンスを鑑賞するに及び、この素晴らしい映像を映画館で見れたならどれだけ素晴らしかっただろうか、という思いを強く抱くようになりました。
ましてや今回は押井先生が仰るところでは、公開時にすら再現できていなかった映像クオリティに仕上がっているとの情報を聞くに及び、自らの理性の箍がハズレてしまっていることに気づかぬまま無謀な行動に走ってしまったこと慚愧に耐えません。
誠に申し訳ありませんでした。
また映画の鑑賞中、周りの方々が私の体臭に不快感を感じられている様子にも気づいておりました。
しかし、長い間の夢であった押井先生の映画を劇場で実際に見るという体験を放棄することが出来ませんでした。
しかし、これは自分自身への甘えであったと、元増田様の文章を読んで深く反省しております。
私にとって押井先生のイノセンスが大切なように皆様にとっても大切なものであるということを考えればそれは許される行為ではありませんでした。
今後は二度と皆様には迷惑をかけるような行動を決してしない所存です。
誠に申し訳ありませんでした。