岡山県御津郡伊島村(現:岡山市北区津島)生まれ。岡山県立岡山中学校、旧制一高、東京帝国大学独法科を卒業後、内務省に入省。 1920年から茨城県庶務課長、稲敷郡長を務めた。休職後にドイツ視察留学を経て、東京市社会局長として関東大震災の復興にあたる。その間茨城県・神奈川県で警視を務めた。 1928年に一旦退官し、茨城県選挙区から衆議院議員に立候補するも落選。その後内務省に復帰し、富山県・兵庫県・福岡県の警察部長を経て、東京市保健局長兼社会局長に就任する。 1931年には同郷で朝鮮総督の宇垣一成に請われて秘書官となり、朝鮮総督府専売局長を務め、1936年に京畿道知事に就任した。のち拓務省拓務局長なども務め、植民地経営のポストを多く歴任した。 1940年から新潟県知事を経て、東京市電気局長を務め、1946年に幣原内閣で厚生次官となる。しかし、同内閣総辞職により5月に退任。同年7月には官選では最後と