2025-03-23

ありし日のTwitterについて話したい

2010年代初頭、Twitter大学生の主戦場だった。

リーマンショック直後の大不況時代大企業リストラ内定取消しに走る中、「ベンチャーに飛び込んで会社看板が無くても稼げるようになろう!」だとか起業だとか、そういう意識高い系の主張が流行り始めていた。ノマドワーカーという概念流行るのはまたさらに少し後のことだ。

在学中に経験したガラケーからスマホへの転換は、中身は無いが語りたいことだけが山のようにある俺たちの声を世界に発信する絶好の機会だった。

いち学生の俺の思いついたもっともらしい発言に、知らない学生からいいねがつくのは楽しくて仕方なかった。

当時はそういう学生の粗探しをする向きも少なかったし、今ほどコンプライアンス重視でもなく、本当の意味自由発言ができた空間だったように思う。(潮目が変わったのは3.11だったが、その話はここではしない)

学生団体所属していた俺も、当時の意識高い系大学生がみんなそうだったように、プロフィールスラッシュをたくさんつけて、自分が何者であるかを説明しようと躍起になっていた。

◯◯大◯◯学部/学生団体◯◯/◯◯ゼミ/何かしらの名言ぽいフレーズ/◯◯に興味あり、といった具合だ。

今思い返せばその大半は一過性ステータスで、ひどく無駄なことに時間を費やしたような気がしなくもない。何しろスラッシュスラッシュの間に何を書いていたのか、そこで誰に会って何をしたのか、今となってはほとんど何も思い出すことができない。Twitterでやっていたのと同じように、なんだか思いついたことを喋りあっては互いに賞賛していたような気がする。一過性ステータスのために生じた出会い所詮一過性しかなく、皮肉なことに卒業後も続いている人間関係はそのどれにも該当しない、なんでもない交流の中からまれものだ。

ただ、正解を持たない日々が許される大学生というモラトリアムにおいて、なおかつ世紀の大不況という状況下において、実績のように所属団体やらグループやらをかき集め、それをバッジのように見せびらかす行為は、自分が前に進んでいるという実感を与えてくれる慰めだったのだと思う。多くの学生が頼まれてもいないのに同じフォーマットをなぞっていた。あれはきっとあの時代がもたらした特異点のような流行だったに違いないのだ。

今や俺たちは中高年に差しかかり、語りたいこともないのに正直大した中身もない。

語るという習性だけは僅かに残っているが、「何か」がないと語り始めることができない。大抵その「何か」は生活社会への不安・不満だったりする。

昔は面白いことを語っていた奴が、いつの間にか政治ネタを延々リツイートするbotと化すのを何人も見てきた。やがてはそれさえも飽きてみんなどっかに行ってしまった。

たぶんこの社会のどこかで俺と同じように働いたり疲れたりしているんだろうと思う。はじまりTwitterあんなに簡単出会うことができたのに、今はもう一生会うこともない気がする。

SNS勃興とテキストベースコミニュケーションが主軸だった最後時代がもたらしてくれた奇跡だったんだなぁと、古いフォロワーを整理しながら思ったのであった。

  • 増田で長文を書いている人は、「お仕事」、「工作員」もしくは「それ以外にやることがない」ということなんでしょうな。 普通は疲れて議論なんてやることないですから。

  • うんこなう

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