「ふるさとを返せ」裁判が今年、仙台高裁で結審を迎える見通しだ。2011年3月の東京電力福島第一原発事故で高い放射線量が残る帰還困難区域に指定された、福島県浪江町の津島地区。15年に住民の半数近い659人が原告団を結成し、山手線の内側の約1.5倍ある地域の全域除染などを国、東電に求めている。山あいの津島では、自然の恵み、結(ゆい)の伝統、差別のない助け合い、地域づくりの結束が誇りだった。その「ふるさと」を奪われた当事者たちが避難先から集い、取り戻そうと闘う裁判は他にない。「今なお苦しみ続ける、帰還困難区域の現実を知ってほしい」と訴える。
写真とともに語る、過去と現実に引き裂かれた苦悩
昨年12月4日、仙台高等裁判所(仙台市)の101号法廷。「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」の控訴審11回期日の原告意見陳述に馬場靖子さん(83)が立った。福島第一原発事故で故郷の津島の地を離れ現在、避難先として居住する福島県大玉村から駆け付けた。
元小学校教諭の馬場さんは、退職後にカメラを始めた。キヤノンの一眼レフを持ち歩き、日々の暮らしで出会う近隣の人々や景色、出来事を撮り、仲間との愛好会で作品を発表した。この日の陳述書には、さまざまな写真がちりばめられていた。秋晴れの田で稲を干していた一家のお茶飲みの笑顔。穏やかだった往時の日常だ。一方、美しい花々と新緑の山里風景もあったが、そこに人の姿はない。原発事故後の5月、一時帰宅した日の無人の故郷だった。防護服で自宅に入り、好きだったワンピースを見つけてわが身に当てる切ないセルフ写真も。
「夫の無念さを思うと辛くなりますが、震える感情を抑え、その表情も残そうと、カメラを向けました」。馬場さんがそう語ったのは、陳述書で雨具姿の年配男性の写真を添えたくだりだ。昨年1月の氷雨の日、我が家を重機で解体されて無念の表情になった夫、績(いさお)さん(81)だ。「『なぜ! なぜ!』。生きた証が無残にも切り裂かれた、無情の時間でした」。家々が動物に荒らされ、草木に覆われ、壊されてゆく現実と、温かな暮らしの絆と思い出に満ちた「ふるさと」を奪われた同郷人の苦悩を、馬場さんは法廷で訴えた。

帰還困難区域の当事者だけの集団訴訟
帰還困難区域という場所の存在を忘れている人もいるかもしれない。原発事故で放射性物質が拡散され、高い放射線量のため居住・立ち入りを国から制限された地域だ(浜通りの7市町村にまたがる計約300平方キロ)。津島の住民は原発事故当初、20~30キロ離れた浪江町の沿岸や街から逃れてきた約1万人を世話した。停電が起きず、井戸や山の水が豊富で、コメや地場の食べ物の蓄えもあった。「八つの行政区の集会所、学校、公民館など、足の踏み場もないほど避難者で溢れました。親戚や見知らぬ人まで30人以上の避難者を世話した民家もありました」と、下津島行政区長で原告団長の今野秀則さん(77)は昨年3月の意見陳述で語った。
原子力安全技術センターは「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)」を稼働させており、原発から津島方面への高濃度の放射性物質飛散を試算したが、国、県は公表せず、近隣の異常なデータも町に伝えなかった。馬場有(たもつ)町長=故人=の決断で全住民が避難したのは、原発で3度目の水素爆発が起きた3月15日だった。
「何も知らされず強い放射線の中に捨て置かれ、離散を強いられ、ふるさとを奪われた」と今野さん。「ふるさとを返せ」の思いが住民を避難先から集わせ、「津島地区原発事故の完全賠償を求める会」設立を経て15年9月に、218世帯、659人もの原告団が国と東電を相手取った裁判を福島地裁郡山支部に起こした。国策だった原発で起きた事故に対する国などの責任を認めさせ、事故前の津島の環境を取り戻す全域除染(原状回復)などを求めた。全国の原発訴訟の中でも注目されるべきなのは、帰還困難区域の住民だけの「ふるさとを取り戻す」集団訴訟であることだ。
津島の人としての生きる誇り

21年7月の一審判決は、国、東電の責任と、高線量下での健康被害への不安、帰還困難な状況への慰謝料を認めたが、全域除染は却下した。仙台高裁に闘いの場を移し翌22年9月から続く控訴審も、津島の人々は変わらず各地から集い、意見陳述に立ち、「ふるさとを返せ」と訴え続けている。
武藤晴男さん(67)は原告団の事務局長で浪江町議。開会中は避難先の郡山市から山越えの道を同町まで遠路通う。意見陳述をした昨年6月の法廷で、「原発事故があった11年の10月、津島の住民への説明会で環境省の役人から『百年は戻れない』と言われ、悲しさ、怒りを覚えた」と語った。避難先の移転は6回に及び、途上の見知らぬ地で父と母を亡くした。津島の菩提寺はやはり避難先の福島市で別院を営み、武藤さんの両親ら「ふるさと」に帰ることのできぬ遺骨は百柱余りあるという。「ふるさとを追われるって、こういうことなのです」と訴えた。
5カ所目の避難先という大玉村の今野秀則さんの住まいで今年2月、原告団の仲間の話を聴いた。そこで武藤さんは「『ふるさと』って何だと思うか。生きるための誇り、自尊心の源、人として生まれ育った根幹そのものだ。私たちは、それを断ち切られたのだ」と漏らした。父親の次男さんは戦前、津島から中国に出征し、復員すると鍬を振るって農地を拓いた。父祖が旧満州などから引き揚げて入植した家系は、津島の住民の3分の1という。「代々の住民が新しい開拓の民を受け入れ、差別なく助け合ってつくった村。それが先祖たちの立派さ、心意気だった」(原告団の三瓶春江さんの話)。津島の人として生きる誇りの原点だ。
1.6%の地域を名ばかりの「復興拠点」に
今野さんが言葉を引き継ぎ、「その象徴が『家』だ。避難生活の間に家々は荒れて朽ち、壊さなくてはならなくなったこと、壊してしまったことが、多くの原告を苦しめている」。津島では23年3月、中心地だった下津島など国道沿いの153ヘクタールが除染され、国から「復興拠点」として避難指示を解除された(同町では室原、末森、大堀地区も含めて総計661ヘクタール)。しかし、津島地区全体でみればわずか1.6%の面積。役場支所と交流施設、町営住宅が整備された(居住者は現在12世帯、20人)。昨年1月には、拠点外でも帰還を希望する住民の家を国費で解体・除染する制度も始まり、解体工事や更地が目に付く。国は住民個別の判断を期限付きで迫り、原告団が求める全域除染を棚上げして帰還困難区域の現状に「幕引き」しようとする、住民分断の意図があるのでは―と受け止める人も多い。
名ばかりの「復興拠点」の外側、津島の面積の98.4%は帰還困難区域のままで、ふるさとの全体をどのように再生するか、事故前の暮らしの再生を求める住民にどう応えるのか。その将来計画を国は全く示していない、住民は苦しみ続けている、と、自らが当事者である今野さんは考える。下津島の自宅は「松本屋」という木造総二階建ての旅館。約20代続く本家から分かれた曽祖父が100年ほど前に開業し、大いににぎわった。飴色に光る古い梁と柱、代々の肖像画が掲げられた松本屋もまた、昨年4月1日が解体の申込期限と通告された。
「私につながる一族の、地域社会の人びととの交流の記憶が染みついています。私に残された時間は長くありません。(解体せずに)残せば、いずれ子どもや孫に負担を強いることとなります。夜、目覚めそのことを考えると、再び眠りに就くまで思い悩みます。夢も見ます。翌日起きてから、ふるさとのあれこれや家の事を見た夢が断片的に蘇り、焦燥感に駆られます。原発事故はこのような理不尽を強いる」(控訴審第8回での今野さんの意見陳述)。
津島の各集落をにぎわせた小正月行事「田植え踊」(県重要無形民俗文化財)。その踊り手でもあった今野さんは、伝統喪失への苦悩も背負った末、家族や兄弟の意見に抗し、自宅を残すと決めた。「帰れる場があればいつでも戻れる。そう思うと、気持ちのざわつきは消えた」。昨年夏には、避難中の建物の傷みを修理し、「もともとが人の集う旅館だった家。津島の仲間、遠来の訪問者がつながれる場にも使ってもらおう」と考えている。

平穏に暮らす権利、本来の地域社会を取り戻す
控訴審は、第12回裁判が3月7日に開かれ、原告意見陳述に南津島郷土芸術保存会長の三瓶専次郎さん(76)が立った。「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」は5月に次回の期日が決まり、その先の見通しを弁護団事務局長の白井劍弁護士(66)は「石垣陽介裁判長(仙台高裁総括判事)は昨秋、2025年半ばに結審したい意向を私たちに示し、夏には最終弁論が行われるのではないか」とみる。その上で、25年度内ぎりぎりには判決があるか、と予想する。
住民は、裁判で求める「原状回復」とは単に放射線量を下げる除染でなく、「土地に根差し平穏に暮らす権利を回復し、本来あった固有の地域社会を取り戻す」ことだと訴えてきた。「家ごとの『点と点』をつなぐだけの除染では津島を取り戻すことにならない」と白井弁護士。津島は里山が大半で、住民は狭い田畑を大事に暮らし、自然の幸を分かち合ってきた。
控訴審の第1回で意見陳述した石井ひろみさん(75)=原告団副団長=は「組内(くみない)のお葬式では餅米を蒸して『おふかし』を作り、大豆を煮て味噌を作り、フキをゆでて塩漬けにして冬に食べ、田植えでは柏餅を作って配りあった」と、「結」と「食」が一つの暮らしを語った。「今も裁判で集まる日、女性たちは『津島の味』を一品ずつ作って持ち寄る。愛着も絆も、つながりも思いも、離れていても変わらない。みんなで支え合っているのです」
国策の責任を負わないでは道理にならぬ
仙台高裁の担当裁判官3人が津島の現状を視察し、原告の住民の説明を聴く「現地進行協議」も昨年10月18日に行われた。住民たちは検証場所として民家や神社、往時の役場支所や小学校、現在も高い放射線量の地域など10か所を選び、それぞれの地点を分担する案内役が実情を説明した。筆者も取材で回りながら、そのチームワークに感嘆した。視察の終わりに防護服姿の裁判長があいさつし、「努力を多とします」と住民たちを力づける言葉を残した。

視察先の一つが、大玉村に避難中の石材業・末永一郎さん(68)宅だった。瓦屋根に松が生え、動物に荒らされた家屋と、長く放置された石材作業場を裁判官たちが訪れた後、末永さんは取材に「ありのままの状況を見てもらえた。立ち込める獣のにおいも感じてほしかった」と語った。
各地の避難者らが損害賠償を求める原発事故裁判は現在約30件に上るが、最高裁は22年6月17日、4つの裁判で「未曽有の災害」「想定外の事故」「対策を講じたとしても防げなかった」と国の責任を認めない統一判断を出した。これが大きな壁として立ちはだかる。これに対し、 津島の弁護団は「原発事故を防ぐには、全電源を失っても原子炉を冷却し続けねばならない。その根本対策がない原発の設置を、国は許可した。米国の原子力規制委員会は全原発に対策を義務付け、国は震災前、それを2度も調査しながら無視した。国の責任は余りに重い」(白井弁護士)と主張する。
末永さんは語った。「全国に33基の原発があり、再稼働が始まり(稼働中は12基)、国は新増設も推進しようとしている。これは国策だ。原発事故がまた起きても、その責任を国は負わないでは道理にならない。私たちの仲間には国策の満州開拓で難民になり、津島で再び開拓民になり、国策が破綻した原発事故でまた追われ、避難先で逝った人もいる。無念だろう。裁判官たちに汲み取ってほしいんだ」