2.教科書と教授資料の記述
当事者の史料を読む限り、統監府や日本政府が高宗の退位に直接関与した形跡はみられない。それにもかかわらず、高等学校の教科書『詳説日本史』には「日本は、この事件をきっかけに高宗を退位させ」と書かれている。本章では、この記述がいつ登場し、どのように変遷したのか確認したい。
表1は『詳説日本史』においてハーグ密使事件や高宗の退位がどのように記述されてきたかを発行年ごとにまとめたものである。この一覧から、日本が高宗を退位させたという一文が出現したのはそれほど古くはなく、2003年(検定は2002年)からだということがわかる。そもそも1976年以前に発行した『詳説日本史』にはハーグ密使事件の記述すらなかった。
しかし、この一文は何もないところから突然現れたわけではない。実は教科書とは別のところで同じ趣旨の文章が存在し続けていた。それは山川出版社が日本史を教える教師向けに発行している『詳説日本史教授資料』の「日韓協約」の項目においてである。表2は同書でハーグ密使事件や高宗の退位がどのように記述されてきたかを発行年ごとにまとめたものである。なお、1965 年発行のものからが『詳説日本史教授資料』であり、それ以前は発行元は同じ山川出版社でも『日本史教授資料』『新修日本史教授資料』『新編日本史教授資料』と、名称が若干異なる。この一覧から、1965年の『新編日本史教授資料』までは高宗の退位に関する記述はなく、同年に発行の『詳説日本史教授資料』から新たに「伊藤統監は7月に国王を退位させ」という記述が加わったことがわかる。それから約40年にわたって高宗を退位させた主語は明確に「伊藤統監」となっていたが、2003年発行のものから「日本側」というように曖昧な表現に改められた。そして、同年発行の教科書『詳説日本史』にも「日本は、この事件をきっかけに韓国皇帝を退位させ」という一文が加筆されたのである。
3.『詳説日本史教授資料』の史料的裏づけ
日本(伊藤)が高宗を退位させたという記述は1950年代の教授資料には存在せず、1965年(準拠する教科書の検定年は1964年)の『詳説日本史教授資料』で初めて登場したことが明らかとなった。ということは、この一文を加筆する際には、1964年よりも前で、且つそこからあまり遠くない時期の研究を参照したと推測される。第1章で確認した史料には、伊藤自身が高宗に退位を強要したり、韓国の大臣たちと共謀したことを示す記述はなかった。しかし、それらを覆す重要な史料を見落としている可能性もある。1965年の『詳説日本史教授資料』を執筆する際に参照したであろう研究は、そのような史料を引用しているかもしれない。
そこで、1950年代から1964年までに、日本(伊藤)が高宗を退位させたと論じている研究を調べた結果、次の7つが見つかった。なお、調査対象は日本史の教科書・教授資料の著者たちが参照したということを考慮し、当時日本で発行された文献に限った。書誌情報の下に当該箇所を抄出する(傍線は筆者)。
① 旗田巍『朝鮮史』(岩波書店、1951年)
「この〔ハーグ密使〕運動は成功しなかった。それだけでなく、これを機会にして、日本は朝鮮に対して更に強力な圧迫を加えた。皇帝は退位させられ、軍隊は解散された(一九〇七年七月)。」(196頁)
② 山辺健太郎「日本帝国主義の朝鮮侵略と朝鮮人民の反抗闘争」(歴史学研究会編『歴史学研究特集号 朝鮮史の諸問題』岩波書店、1953年7月)
「この事件は、日本帝国主義にとって、なによりの口実となって、伊藤博文は、李太王を退位させ、露骨な併呑政策を一歩すすめたのであった。」(52頁)
③ 李清源著、川久保公夫・呉在陽訳『朝鮮近代史』(大月書店、1956年)
「一九〇七年七月の初めに伊藤は、李完用、宋秉畯およびその他の大臣に会議を召集し、皇帝高宗の退位が必要であるむねを決定するよう、申しいれた。統監のこの命令を遂行するために、日本の手先である朝鮮内閣は三度も閣議をひらき、皇帝を退位させようとつとめた。」(172頁)
④ 朴慶植、姜在彦『朝鮮の歴史』(三一書房、1957年)
「伊藤は朝鮮にたいし条約に違反したとして即時宣戦するとおどし、李完用、宋秉畯等と組んで高宗の退位を強要し目的を達した。」(213頁)
⑤ 金達寿『朝鮮―民族・歴史・文化―』(岩波書店、1958年)
「この事件の世界および日本、朝鮮にあたえた影響は甚大なものがあった。とくに日本は驚愕してさらに圧力を強化し、皇帝の高宗は退位させられるとともに、同年七月には軍隊をも解散させられ、〔中略〕「日韓新協約」を結ばされた。」(116頁)
⑥ 李羅英、朝鮮問題研究所訳『朝鮮民族解放闘争史』(新日本出版社、1960年)
「日本帝国主義はこのとき、伊藤統監と国内の売国逆賊どもをたすけて高宗を強制退位させ、朝鮮の完全な併呑をはやめるために、ふたたび外務大臣林董をソウルに派遣して、高宗と一部の反日的封建両班たちにいっそうの圧力をくわえた。」(217-218頁)
⑦ 旗田巍「明治期の日本と朝鮮」(『国際政治』第22号、1963年)
「日本は、この事件を機会に強圧を加え、李太王を退位させ、その子の坧を即位させるとともに、「日韓新協約」を締結した(同年七月)。」(10頁)
『詳説日本史教授資料』が実際に上記の研究(①~⑦)を参照したか否かは確認のしようがない。しかし、両者が同じ「退位」という表現を採用している点は注目すべきであろう。第1章にあげた史料では基本的に「譲位」「廃立」と表現しており、「退位」は出てこないからだ。
さて、①~⑦の文章はいずれも典拠が示されていない。ただし、①④に限っては末尾に参考文献一覧を載せているので、そこから文章の元となった史料にたどり着けるかもしれない。そこで参考文献を調査し、高宗の退位について記述しているか否かを表3にまとめた。記述「有」の文献について、一つずつその内容を確認していきたい。
松宮春一郎「韓皇譲位と新協約」、同「韓国大政変の顛末(上)」、釈尾春芿『朝鮮併合史』、葛生能久『東亜先覚志士記伝』、朝鮮史学会編『朝鮮史大系 最近世史』は、第1章であげた史料の内容と大差なく、韓国の大臣たちが高宗に迫ったと記している。
田保橋潔『明治外交史』は「統監は皇帝個人の責任を問ひ、首相以下閣僚も輔弼の責を負ふことを辞したため、皇帝も遂に七月十九日譲位を宣言せられた」(119-120頁)と記している。たしかに『日本外交文書』には、ハーグ密使事件の発覚直後に伊藤が高宗の責任に言及し、協約に違反したのだから日本は韓国に対して宣戦の権利があると告げたことが記録されている。しかし、それで高宗が譲位を決意した痕跡は同史料からは見いだせない。それどころか、高宗はその後約2週間にわたって大臣たちの譲位勧告を拒み続けた。したがって、田保橋の説明は論理的に飛躍しているように思われる。別の史料を参照した可能性もあるが、典拠が示されていないのでわからない。
ソウル大学国史研究会編『国史概説』は、「李完用が伊藤の言葉を聞いて皇帝の譲位案を提出した」「代理と譲位は近似するが実は異なるもので、伊藤はこれに満足せず、完用らをして譲位を決定させた」(680頁)というように、伊藤が李完用を使って譲位を実行したかのように論じている。しかし、典拠は示されていない。本書は巻末に膨大な史料一覧を掲載しているが、ほとんどが19世紀以前のもので、第1章でまとめた内容を覆す史料は見当たらない。また、参考文献として「李完用等は伊藤の意向を受けて皇帝譲位案を提出した」(315頁)と論じる朴殷植『韓国痛史』(大同編訳局、1915年、漢文)や、「伊藤はついに密使問題を利用して廃帝を決行した」(15頁)と論じる同『韓国独立運動之血史』(維新社、1920年、漢文)などをあげているが、これらの文章も典拠が示されていない26。
李丙燾『国史大観』は、韓国の大臣たちが「皇太子代理」を迫ったと記している。ただし「代理は元来摂政の意味だったのに、日本はこれを譲位として宣伝、さらに祝電まで発してついにそのように進めてしまった」(486頁)と付け加え、まるで日本側が譲位を確定させたように説明している。明治天皇が純宗に祝電を発したのは事実だが、譲位を確固たるものにしたのは純宗から高宗に「太皇帝」の称号を進呈するという行為であり、それを推進したのは韓国の大臣たちである。また、韓国政府は7月19日付公文で「譲位の件」を統監府に通告するとともに、日本政府から関係各国へ声明するよう問い合わせていた27。
林光澈『朝鮮歴史読本』は「伊藤博文以来の主なる侵略」として年表を掲げ「一九〇七年七月十九日海牙(Hage)国際平和会議への密使派遣事件を理由に高宗皇帝の退位」(236頁)とのみ記している。典拠が示されていないので、参照した史料はわからない。
朝鮮歴史編纂委員会編『朝鮮民族解放闘争史』は「伊藤のさしがねで李完用内閣は、高宗の退位を決定して、皇帝にこれを強要した」(144頁)と記している。伊藤の「さしがね」がいつどのようにあったのか、典拠が示されていないのでわからない。少なくとも第1章であげた史料からはそのような事実は確認できない。
金鐘鳴『朝鮮新民主主義革命史』は「この事件は、朝鮮侵略の最後の仕上げをあせっている日帝に、いい口実を与えた。そして日本の弾圧が真先にふりかかったのが、皇帝自身に対してであった。皇帝は追い出されたのである。そしてロクでもないその息子を、新皇帝にすわらせると同時に、日韓新協約というものをつくって、ときの韓国政府に捺印させた」(21頁)と記している。典拠が示されていないので、参照した史料はわからない。
許甲『朝鮮歴史(高級中学校用)』は「国王の「密使事件」は日帝に王位剥奪の口実を与えることになった。高宗は強制退位させられ、純宗が王位に上がった」(48頁)と記している。典拠が示されていないので、参照した史料はわからない。
江上波夫編『世界各国史12 北アジア史』は「ヘーグ密使事件をきっかけにして皇帝は退位させられ」(307頁)という一文があるだけで、誰が主導したかは記していない。
以上のことから、①~⑦の文章は、いずれも信頼できる史料にたどり着けないことがわかった。このように史料的裏づけのない言説がこれほどまでに拡散したのには原因がある。それは、1909年に伊藤博文を暗殺した安重根が、取調べの過程で「伊藤さんは強いて韓国皇帝の廃位を図りました」28と供述したからだ。これは伊藤を敵視した15の理由の1つとして述べたものであり、他にも王妃閔氏の殺害を指揮したとか孝明天皇を亡き者にしたといったデマの類が含まれていた。それでも、安重根の発言ということで高く評価し信じる人はいる。その結果、この供述がひとり歩きし、一部の研究者が自身の歴史観に沿うように想像で件の一文を書いたのではないかと考えられる。
おわりに
『詳説日本史』にある「日本は、この事件をきっかけに高宗を退位させ」の典拠は不明であり、実証性は極めて乏しいといえる。もし教科書に根拠不明の箇所があれば、書き改めなければならない。しかし、一度教科書に載せた文章を修正することは容易ではない。特に日本にとってネガティブな内容を改めれば、まず間違いなく「歴史修正主義」との批判が出る。
だが、それを甘受してでも書き改めるべきであろう。その理由は、日本にとってネガティブだからではなく、この一文が韓国側の主体性を無視しているからである。当時韓国の大臣たちは、君主の高宗が独断で引き起こしたハーグ密使事件によって突如亡国の危機に直面した。日本政府は併合までは考えていなかったが29、韓国側はそのような事情を知る由もなく、「尋常ならざる計画」があるものと勝手に想像して怯えた。そこで、李完用首相は事件の首謀者である高宗を皇位から退けることで「日本に対し弁解」するという方策を閣議で提案し、林外相が日本からやって来る前にそれを実現するべく、大臣一同で高宗に「聖裁」を迫った。韓国政府としては、厄介者の高宗個人を排除することによって日本側の怒りを抑え、主権を護ろうとしたといえよう。大臣たちの要求を拒絶し続ける高宗に対して、最終的に宋秉畯が命を懸けた説得を行い、ついに7月19日に詔勅が下された。内田によると、この日の早朝に帰宅した宋秉畯は「顔色蒼白にして眼中血走り、悽惨たる相貌」30だったというので、相当なストレスに苛まれながら闘っていたことがわかる。
ところが、『詳説日本史』の記述は、こうした韓国側の主体的な努力を完全に無視し、まるで日本に黙って従うしかない無力な政府という印象を読み手に与えている。近代の日本と韓国の関係を広く相互的な視野から捉えるためには、専制政治に拘泥する高宗に翻弄されながら、自力で日本から国を護ろうと努力した韓国の大臣たちにも光を当てるべきであろう。そのために実証的な研究の積み重ねが必要なのはいうまでもない。
※本研究はJSPS科研費JP24K04254の助成を受けたものです。
26 『国史概説』は譲位に至る流れだけでなく、その後に発生した暴動および弾圧の記述まで『韓国痛史』と酷似しており、これをもとにして書いたと思われる。
27 前掲「韓帝譲位ヲ韓国政府ヨリ統監府ニ通牒並列国ニ声明方要請ニ関スル件」467頁
28 「安応七訊問調書」(1909年10月30日)〈市川正明編『安重根と日韓関係史』原書房、1979年〉213頁
29 日本政府は「韓皇、皇太子に譲位」以外に「韓皇、日本皇帝に譲位」(つまり併合)についても討議していたが、山県と寺内は「今日は否」その他多数は「否」と応えている。しかも、外務省外交史料館所蔵の原史料では「韓皇、日本皇帝に譲位」は塗りつぶされており、廃案だったことがわかる。「分割1」『韓国ニ於テ第二回万国平和会議へ密使派遣並ニ同国皇帝ノ譲位及日韓協約締結一件』第1巻
30 前掲『日韓合邦秘史』312頁