真っ赤な忍者がカラスに蝶に変身! 姿や形は変わっても赤いまま
――「きょろ、きょろ」周りの様子をうかがいながら城壁を登っていくのは、真っ赤な忍者。秘密の巻物を狙ってお城に忍び込むも、赤い姿が目立ちすぎ、すぐに見つかってしまう。危機一髪!「ドロンドローン」カラスに変身し、飛んで逃げるが、赤いカラスは仲間の中で目立ってしまい……。意外なものに変身していくのが楽しい絵本『あかにんじゃ』(岩崎書店)。穂村弘さんが「母の友」(福音館書店)2007年11月号に寄稿した作品「赤忍者」が元になっている。字で読むだけでなく、絵本にしたらいいのではと思っていたが、なかなか機会に恵まれなかったという。
穂村弘(以下、穂村):絵本に向かないお話もあるけど、これは絵本にするといいんじゃないかなと思っていました。その話を岩崎書店の編集者・堀内日出登巳さんにしたら、気に入ってくれて、絵本にすることに。
絵は、友人の歌人・東直子さんの絵本「きせつのおでかけえほん」シリーズ(くもん出版)の絵を描いている木内さんにお願いしました。東さんとはまた違った組み合わせの魅力が出るんじゃないかと(笑)。東さんの絵本で描かれていたようなふわっとした雰囲気もいいんですが、木内さんのシャープで、意地悪でニヒルな感じの絵も好きなんです。僕も優しい感じは得意じゃないし、ヤバイ感じにしたいなと思っていたのでお願いしました。
木内達朗(以下、木内):僕も真面目な絵本を描いてきたので、そうじゃないものもやりたいなと思っていたので、引き受けました。
穂村:原作は、もう少し書き込まれていましたが、絵が入ると説明がいらないので、絵ができてから文を直していきました。絵になるまで気づかなかったストーリー上の破綻も木内さんに指摘されて、変更したところもあります。
木内:たしか、カラスが蝶に変身するだけだと、逃げられないんじゃないかって。
穂村:そうそう。カラスから蝶だと「飛ぶ」という能力が被っている上に、カラスよりも弱くなっているんじゃないかと。だから、カラスが入れない祠(ほこら)に逃げ込む、という展開になりました。原作は、あまり考えずに書いた記憶があります。絵本の、繰り返しながらエスカレートしていくという定番の展開にのりつつ、何か新しい要素があるといいな、という感じでしたね。
――赤い忍者のアイデアは、穂村さんが子どもの頃にテレビで見た「コント55号」のネタで登場した「赤忍者」から発想したという。
穂村:子供心に「忍者で赤じゃしょうがないだろう、隠れなきゃいけないのに」って思って、でもそこがおもしろいわけですよね。それが印象に残っていたんだと思います。忍者で赤だと浮いてしまう。僕も会社員だったときに、うまくまわりに溶け込めないようなところがあって。それを書こうと思っていたわけではないんですけどね。
あとは、自分も歳をとって、10代、20代の頃とはずいぶん変わったところもあるんだろうけど、根の部分は変わっていない、変えられないと感じていたのもちょっとありました。そういう比喩というか、姿かたちや特性、能力を変えても、赤い魂のカラーみたいなものは変えられない、という思いもありますね。
木内:僕は、忍者が「赤」だから周りをどういう色にしようかなと考えていました(笑)。どうしても、仕事としてどうやって描こうかなって考えちゃいますね。文章があるので、基本的にはその場面を描くんですけど、この作品はやっぱり色がポイントなので、赤の反対色の緑を使って世界を作ろうかなと、そこから考えていきました。侍がいっぱいいる場面など描く要素が多いところは大変でしたね。最後のページは、最初のラフでは地球を描いていましたが却下されて、信号機の絵になりました。
穂村:この絵本がうまくいったのは、最後のページが大きいと僕は思っています。あれは木内さんのアイデアなんです。最後、いい感じにしたいと思ったんだけど、どうしても思いつかなくて、木内さんの信号機の絵を見たとき、「これ最高!」って。それまで、荒唐無稽な話が続いていて、最後だけ僕らが実際に見ているような景色になる。現実に戻りつつ、忍者だけが見える。お話自体は、その前のページで終わっていたんだけど、それだとなんかモヤモヤするというか、想像の範囲内の終わり方かなという感じだったんだけど、木内さんがビシッと想像を超えてくれて、すごくいいページになりました。
子どもは“最強の読者”
――追っ手から逃げるため、変身を続ける赤忍者。子どもたちに人気なのは「あかおじさん」に変身するシーンだ。
穂村:今だったら、「あかおじさん」は出さない気がしますね。「なんだ、あかおじさんて、そんなものいるか」って言われそうだし、あかおじさんの飲酒運転を疑って警察も出てくるから、絵本に犯罪ではないんだけど悪そうなことを書いていいのかって。
木内:穂村さんから絵のリクエストは特になかったけど、「あかおじさん」だけ、「寅さんのイメージ」でと言われましたね。
穂村:そうだっけ? ぜんぜん覚えてないや。憎めないキャラみたいなイメージだったのかな。
当時、スウェーデンの絵本『セーラーとペッカ、町へいく』(ヨックム・ノードストリューム 作/菱木晃子 訳/偕成社)を読んでいたら、タトゥーを入れるシーンがあって、それがすごく新鮮だったんですよね。「町へきたついでに、タトゥーを入れよう」というシーンがあって、タトゥーの柄がいっぱい出てくるんです。こんなのアリなんだって。
絵本を作るとき、なんか「いい感じ」を意識してしまうんですよね。教育的配慮というか。要求されているわけじゃないんですけど。だから、微妙に「大丈夫か?」感があるものを作ってみたいと思っていたのもあります。何度か描いてもらって、初代は少しシャープだったんだけど、決定稿はなんかいい感じの「あかおじさん」になりましたね。
でも、子どもはなにも気にしてないですよね。「あかおじさんてなに?」とか聞かれたことないし。そんなものいないと思っても、気にならないんですよね。大人は自分の体験に照らしてずれがあるだけで「こんなのおかしいって」思うけど、子どもは体験自体がほぼないから、比較することもない。宇宙旅行も恋愛も同じようなもの。なにもしたことがない人というのは、ある意味、読者としては最強ですよね。子どもの頃は、なんでもスラスラ読めたもんな、伏線とかも気にしないし。
木内:やっぱり子どもに好かれたいですね、絵本は。大人が見ていいなではなくて、子どもに喜んでもらいたいという気持ちはいつもありますね。
絵と文章で「個」に向けた仕掛けも
――忍者の話だと思っていたら、カラスや蝶、あかおじさんが登場するなど、突拍子もない展開が楽しい作品だが、木内さんの描く躍動感あふれる絵も魅力。まるで映画のワンシーンを見ているような構図で、物語の世界に引き込まれていく。
木内:ふだん描いているイラストも映画の一場面みたいな構図が多いので、そういうふうにしか描けないのかもしれないですね。意識しているわけではないんですけど、そうなってしまう感じがあります。映画は全然観ないんですけど。
穂村:映画マニアだと思ってた。
木内:学生の頃はよく観ていたんですけど、最近は集中力が続かないですね。この作品でどのページが一番好きかと問われると決められないけど、最初のページは、それこそ映画のオープニングみたいな感じで好きですね。夕焼けのページも気に入ってます。
穂村:木内さんの絵は、乾いた感じがするから、忍者ものだけど、バタくさいというか、外国の作家が忍者を学んで描いたみたいなムードがちょっとありますよね。表紙もすごくスタイリッシュ。お堀の水面を歩いている忍者の絵なんだけど、普通、水は水色にするところを赤の反対色の緑にするなど、表紙からお話の世界観が始まっている感じもいいですよね。たぶん、僕も木内さんもカッコイイ感じがすごく好きで、でも、ちょっとそれを隠そうとしたつもりなんですよね。オシャレな感じが好きなんでしょうって言われないように(笑)。僕はそういう感じがちょっとあります。手裏剣が星になっていたり、侍の裃の家紋がアディダス風だったり、バットを持っている侍がいたり、木内さんのなんともいえないサービス精神とニヒリズムみたいなものが絵に出ていて、飽きない。子どももそれらを見つけてすごく喜ぶ。
木内:見つけた人だけが楽しめる何かを入れようかなというのは、考えながら描いています。穂村さんに相談したわけでもなく。
穂村:すごく緻密な絵だと思います。できあがる過程も見せてもらいましたけど、どんどん精度が上がっていく、なるほどって。もう十分これでいいって思っても、次のアイデアがでると、やっぱりこっちの方がいいなって思う。
木内:描いているうちに進化していきますね。最初から何か入れようと思っているわけではなく、描いているうちに、ここに何か入れたら面白いかなってアイデアが出てくる。
穂村:僕が気をつけたのはリズム。歌を詠んでいるので、五と七に快楽を感じる癖がついていて、どうしても五と七よりになってしまうんです。完全にそれで作っちゃうと、なんかよくない。少し外した方がいい。名作絵本を読むと、微妙に外れているんですよね。
歌人の馬場あき子さんが、戦時中に教科書の文章が「さいた さいた さくらがさいた」から、ある日「すすめ すすめ へいたいすすめ」に変わったという話をされていて、桜と兵隊じゃ内容は大違いなのに、それを受け入れられた要因はリズムにあるんじゃないか。リズムにはそういう、人間を大きなものに吸い寄せていくような危険な快楽性があるんじゃないかとおっしゃっていて。その快楽性も韻文の魅力の一つではあるんだけど、この絵本では個人というのかな、ひとりの感じを出したくて、五と七を外すようにしました。でも、なんか入ってきちゃうんですよね、好きだから。絵本の翻訳をするときもやっちゃいますね。原文はそうじゃないのに。
最近の絵本は可愛くなりすぎている
――木内さんが絵の仕事をはじめたのは、絵本から。アメリカの作品の絵を描いていたものの、しばらくして離れることになったという。
木内:アメリカの絵本は真面目なものが多いんです。日本のナンセンスみたいなものはあまりなくて、テーマ性のあるものばかり。それがだんだんつまらなくなって、絵本から離れてイラストレーションの仕事をしていました。最初、絵本は1冊の本になるから、自分の作品集みたいでいいなと思っていたんですけど、全部のページに絵を描かなくちゃいけないから大変だなと思って(笑)。
穂村:そうだよね。きっと、貧乏になっちゃうんじゃないかと思うんだよね。労力と割に合わないから。
木内:そうですね。アメリカはギャラはいいんですよ、アドバンスもあるし。今は、仕事の中心はイラストで、絵本は面白いものだけやっています。
穂村:絵本は決定的に「絵」だと思うんです。誰がどう描くかで決まってしまう。僕は大人になってから、マニア的に絵本のコレクターっぽくなったんですけど、買うときは絵で選んでいます。昔の、不気味なデフォルメの絵に憧れがあります。どんなに話がよくても、かわいいデフォルメは苦手で。
木内:最近の絵は、どんどん可愛くなっていますね。
穂村:そう。有名キャラクターもどんどん可愛くなってしまって、初期の方がいいと思うものが多いです。
木内:そうですね。でも、そう思わない人もいる。
穂村:そう思わない人が多いから可愛くなっている。昔のものには怖さがあります。死に対する感受性を拡大して描くか隠蔽して描くかの違いで、どちらも死を重視していると思うんですけど、死を直視したタイプの怖い絵に惹かれますね。だから、絵本を出したいと思っても、ハードルが上がっちゃいますよね。「これではちょっと……」という感じの文章を書いてしまう上に、さらに怖い絵を描く画家に頼むなんてね。だから、『あかにんじゃ』は、すごく狭いところに向かって精密なコントロールで球を投げているという。見る人が見れば危険度やアイロニカルな感じはわかるし、それを読者が忌避反応を起こさないように木内さんが描いてくれました。欲をかいて『あおにんじゃ』とか出せばよかったかな。
木内:デジタルで描いているので、赤いところを青くすれば(笑)
穂村:夕焼け空を青空にして、青信号で忍者が走っていれば(笑)。いいテキストができれば、また、いっしょにやりたいですね。絵本は出したいし、名作を書きたい。サッカーやバスケの試合を見ていると、最後の1秒で逆転することがあって、そのときに鳥肌が立つんです。1秒ってこんなにすごかったのかって気づかされる。我々は、1秒、1秒を生きているけど、自分がリアルに1秒を感じたことはなくて、実際の1秒のポテンシャルはこんな感じなのかと。網にボールを入れるだけなら誰だってできるのに、ワールドカップの決勝の最後の1秒で網にボールが入ると、世界中の人の鳥肌が立つ。それは時間と関係していて、試合時間に限りがあるから。
そう考えると、命は時間であり、命に意味を与えているのは死、なんですよね。だからもし我々が死なないという話になると、1秒のポテンシャルは失われて、全ての行為が意味をなくしてしまう。例えば、明日のために早く寝たり、洗濯したり、貯金したり、我々はほとんど未来のために今日を使って生きている。そうしないと怖いから。でも、そうすることで、目の前の1秒がどんどん薄まっていく。だから、せめて作品の中でだけでも1秒のポテンシャルを可視化して、体感してもらえるような、鳥肌が立つような作品を作りたいなと思います。でも一方で、1秒のポテンシャルを薄めて生きているのに、鳥肌が立つような作品を作れるはずがないというのもあって、絶望だよね。ふにゃふにゃした原作を木内さんがブラッシュアップしてくれれば(笑)。
木内:いいですよ、ふにゃふにゃしていても。変なやつだったらなんでも(笑)。
穂村:「変」って、難しいよね。変にやろうと思っても、意外と変にならなくて、やっぱり無意識の「めでたしめでたし」のフォーマットがあって、それが体に入っちゃっているから、なんかそう書いてしまうんだよね。何かいい手があるといいね。