岩手県出身の作家、柚月裕子さんが、東日本大震災に直撃された人々とまちを描いた。「逃亡者は北へ向かう」(新潮社)は、自身も津波で両親を失った柚月さんが、「より当事者寄りのひとりの人間として、真正面から小説に向き合う」という覚悟で完成させた長編クライムサスペンスだ。
主人公は「天涯孤独で可哀想な」青年で、「どこまでいっても不幸から抜け出せない」。震災直後の混乱の中で人をあやめてしまった彼は、ある目的を遂げるため、逃亡を続ける。
震災をベースにした小説を書きたいという思いは前々からあった。背中を押したのは、2019年1月にテレビ番組の取材で地元の釜石市を訪ねたときの体験だったという。
楽しそうな笑い声が聞こえてきて、振り袖やスーツ姿の成人式の若者たちがいた。「あのときの子どもたちが、いまでは社会に出て行く年頃に。身内を失ったり、本来この場にいるはずの友人を失ったりして、ひとりで泣いている夜もあるかもしれない。でも、彼らは成長して、いま笑っている。とても力強い光景だった」
「私は何をやってるんだろう、とにかく気持ちを前にもっていかなければ」。そんな思いに駆られて、以前から温めていたプロットを練り直し、週刊誌連載として書き始めた。
作中には、津波や遺体安置所の生々しい描写もある。生き残った登場人物たちの苦悩も深い。
「震災のときにまっさきに感じたことは、死とはそこにあるもの、ということ。意味とか、理由とかではなく、厳粛なる死がそこにあるだけ、ということ」
その一方で、こうも感じてきた。
「私の中には故人がいる。いまの私をかたちづくっている。遺品は残っていないし、受け継ぐものは目には見えないけれど、時間が経つごとに、『本当に大事なもの』が見えてきた」
「継承」という今作のテーマは、代表作の「検事の本懐」や「孤狼の血」でも期せずして描いてきた。運命にとことんもてあそばれる今回の主人公も、大事な何かを受け取ることができるのか。
「結論は読者に委ねる」としつつ、作品の根底にはこんなメッセージを込めたという。「つらいこと、悲しみ、憎しみ、前に進めないときがあっても、人は何かに救われる。だから大丈夫」
柚月さんは言う。「時間が経つにつれて、当事者とそうでない人の立場はつねに目まぐるしく変わるのだとつくづく感じる。そんな中で、自分はいまどの立場で、どこにいて、何をすべきなのか、日々、問われている気がします。これからも問い続けていくのでしょう」(藤崎昭子)=朝日新聞2025年3月5日掲載