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「夏目漱石 美術を見る眼」 心情とクロスする究極の芸術 朝日新聞書評から

評者: 横尾忠則 / 朝⽇新聞掲載:2025年03月01日
夏目漱石 美術を見る眼 著者:ホンダ・アキノ 出版社:平凡社 ジャンル:文学・評論

ISBN: 9784582839753
発売⽇: 2024/12/20
サイズ: 13.5×19.3cm/264p

「夏目漱石 美術を見る眼」 [著]ホンダ・アキノ

 「芸術は自己の表現に始(はじま)つて、自己の表現に終(おわ)るものである」
 と、漱石は一体誰に対して? 同時代の他者、それとも自己に対して? 実に大上段に構えた宣言である。漱石の確信に満ちたこの言説を共有した芸術家はどれほどいたのか、いなかったのか。
 漱石はしばしば芸術家のエゴを嫌悪したが、芸術家にとって創造に於(お)けるエゴは不可欠でもある。創造の出発は私という自我意識を無視しては存在しない。芸術がエゴという「個人」を入り口として「個」という普遍性に至るということは重要な創造原理である。
 芸術家からすれば文学者漱石は絵好きの門外漢である。文学者の絵好きは結構多いが、彼等(かれら)はある種の趣味の域を超えない。文学者の書く文章は一回殺さないと文学にならず、観念の表出でしかない。観念は死である。それに対して絵画は生であり、肉体である。故に美術は文学と共有する必要がない。
 漱石は再び語る。「芸術は自己の表現に始つて、自己の表現に終るものである」
 だけど美術家は漱石のように自信と確信を持って言えません。美術家、画家は一体自分が何者で、その何者が、何をしたいのかなんて、自信がなくて言葉につまるのです。何をしようとしているのかがわからないのです。無責任だと思うでしょうが、これが事実で、はっきり白黒の分別をつけないのです。
 なぜなら芸術は無分別だからです。とはいうものの現代美術の最先端の潮流を走るものは実に知的、感覚的です。自分が何をしようとしているかわからないと言うマルセル・デュシャンとは違うのです。彼等は観念(アイデア)的、言語的で、自分が何をしようとしているのかがわからないと言うデュシャンに私淑、信奉しながら、その実デュシャン的でないのです。では何を目的とするのか。他者なのか、自己なのか、そのどちらなのか。そのどちらでもあって、どちらでもないのです。
 漱石は言うだけ言って、芸術家は「無我無慾(むがむよく)」であれ、と、徳を主張する。徳はわがままに生きること、つまり運命に従うこと。だけど究極の芸術は何も考えない。無我無慾の漱石の心情とクロスする。僕は美術家である故に、自分が何を考え、何をしているのかに対して、無責任であるようにしか生きられないのです。
 そして人生の終末は徳で終わるべきだと考えています。なぜなら、創造そのものが徳の実践だからです。芸術それ自体が隠密行為なのです。
    ◇
大阪府生まれ。京都大大学院で美学美術史を学び、新聞社に入社。支局記者を経て出版社へ。雑誌や書籍の編集に長年携わった後フリーに。著書に『二人の美術記者 井上靖と司馬遼太郎』。