全国で2番目に「百貨店ゼロ県」になった徳島県。2020年にそごう徳島店が撤退した商業ビルを再建するため、地方百貨店の立て直しの経験を持つ百貨店マンがやってきた。中心市街地の空洞化は多くの地方都市が抱える悩みであり、一筋縄ではいかない課題が山積している。あえて火中の栗を拾った百貨店マンの思いとは?(文中敬称略)
「徳島にはまだまだ高いポテンシャルがあります」
仕事納めも近い昨年12月26日。ライトグレーのダブルのスーツ姿で社長就任会見に臨んだ南波岳大(55)は、地元メディアのカメラの前で抱負を述べた。
直前に開かれた臨時取締役会を経て、徳島都市開発の新社長に就任した。徳島駅前のアミコビルを運営する同社は、徳島市の第三セクターとして1979年に設立され、歴代社長は市の幹部が務めてきた。南波は初の民間出身者であり、異色の人事は地元で大きく報道された。
徳島都市開発は4年連続の営業赤字。核テナントのそごう徳島店が20年に撤退して以降、債務超過へと転落した。徳島市から受けた融資20億円の返済期限も迫る。同社は長らくそごうから賃料をもらってアミコビルを管理していればよかったが、そごう撤退後は主体性を持って商業施設を繁盛させる側に回った。でも行政には小売りに精通した人材はいない。抜本的な手が打てないまま4年が過ぎていた。
そこで白羽の矢が立てられたのが南波だった。南波は1993年に伊勢丹(当時)に入社後、伊勢丹浦和店、伊勢丹新宿本店、三越日本橋本店などの営業現場で鍛えられ、実績をあげてきた。その後、日本空港ビルデング子会社の羽田未来総合研究所を経て、自身のコンサルティング会社を設立。22年には経営再建中の岩手県の百貨店「川徳」の取締役に迎えられた。
実は社長就任会見の前日も夜8時まで盛岡市の川徳でクリスマス商戦を指揮していた。閉店後、夜9時前の新幹線に駆け込んで東京まで行き、羽田で一泊し、始発の飛行機で徳島に飛び、午前中の臨時取締役会と株主総会に出席した。年末の徳島の温暖さに「北国から南国に来た」ことを実感した。
徳島市長からの電話
徳島に南波が呼ばれたのは、川徳の再建の実績が買われたからだ。
川徳は業績不振が長引き、官民ファンドが主導する新会社で立て直しを進めていた。22年10月に取締役営業本部長として入社した南波は、旧態依然とした売り場やMD、サービスに大ナタを振るう。特に注力したのが長期低迷で自信を失い、守りの姿勢ばかりになっていた従業員の意識を変えることだった。客離れを恐れて乱発していたポイント付与を抑制し、プロパー(正価)で売れる企画に知恵を絞らせた。小さな成功体験を重ねることで、自信を植え付ける。次第に現場からアイデアが出てくるようになった。
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