トルコ法会|心を修める(二)
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 【明慧日本2025年2月11日】(前文に続く)

 どんなに困難であっても修煉を続ける

 私は2008年に大法の修煉を始めました。当時、私と一緒に修煉をしていた親友がいて、連絡を取り合っていましたが、多くの人は何らかの理由で修煉を続けていませんでした。彼らがまだ独自に修煉をしているのか、あるいはすでに放棄してしまったのかはわかりませんが、そのことを考えると心がとても辛くなります。彼らがかつて法輪大法と深い縁があると思っているからです。

 修煉を始めた当初、私は一人で修煉をしており、さまざまな不思議な体験をしました。時には座禅をしていると、まるで生まれ変わったかのように感じ、体には痛みがなく、心地よいしびれを感じ、まるで世界の重たいものが全て取り除かれたように軽く感じ、とても多くの素晴らしい体験をしました。「もし他の修煉者と出会えることができたら、彼らはどんな感じなのだろうか?」と思いました。

 2009年、私はアンカラの会議で初めて他の同修に会い、その後、イスタンブールで開催された神韻公演で再び出会いました。神韻の議論の中で、なぜか一部の同修が私にとても厳しく接しているのが理解できませんでした。私は「なぜこれらの同修はこのような態度なのか? 大法の本の中には『真・善・忍』を教えているではないか?」と理解できませんでした。その時、私は師父が私たちに内に向けて探すという教えを思い出し、深く考えずにそのままにしました。それ以降、どんなことがあっても、他の同修と言い争うことはありませんでした。そのような状態が約2年間続きました。私は彼らが長年修煉してきた古い学習者であるため、学ぶべきことがたくさんあると思っていました。そして、確かに彼らから多くのことを学びました。

 私はドイツの同修たちと定期的に集まって学法を行い、時には4~5時間集中して学法をすることもあり、私はそれを数年間続けました。学法の後には、私たちは修煉の体験を分かち合います。ある時から、交流していると、ある古い学習者が私に対して批判を始め、この状態は長期間続き、次第に激しくなっていきました。最初は、私は黙って内に向けて探し続け、「師父は修煉者とはこういうものだ、争ってはいけない」と自分に言い聞かせました。しかしとうとうその同修と心性の衝突が起きました。これが初めての衝突でしたが、それが最後かどうかはわかりません。

 その後、私は元妻や同僚、そして両親とのトラブルが生じ、特に同修との間で多くの心性の摩擦が起きました。例えば、大法のプロジェクトでいくつかの欠点を見つけてそれについて話すと、しばしば重大な心性の衝突を引き起こし、私は非常に疲れました。「なぜこんなことが起こるのだろうか? もし彼らが理解しないのであれば、諦めるしかない。今のような状態は修煉ではない。しっかり修めることができれば、心も穏やかになれる」と思うようになりました。私は師父の教えと同修のことを思い出すと、「何が起こっても、私は決して放棄しない。必ず三つのことをしっかりと行い、師父と神々に対する誓いを果たすのだ」と自分に言い聞かせました。

 その後、私は「なぜ多くの古い学習者が修煉を放棄したのか?」を考えました。彼らの中には、真剣に修煉している人はいなかったのでしょうか? もちろん、そんなことはありません。ですが、彼らはこれらの心性の試練に耐えられなかったのでしょう。もしかしたら、気にしすぎて、自分が不当に扱われたと思い込んだかもしれません。どんな理由があれ、確かに辛いことかもしれませんが、私は彼らがかつて法のために多くを犠牲にしてきたことを知っており、彼らがまだ修煉を続けていることを願っています、たとえそれが一人で修煉しているとしても。

 最後に、私は私自身とすべての同修が最後まで三つのことをしっかりと成し遂げ、誓いを果たすことができることを望んでいます。私たちは、過去に存在したすべての偉大な覚者—イエス、ソクラテス、釈迦、ミラレバなどが、皆大きな試練を経験したことを思い出さなければなりません。だからこそ、私たちは決して諦めてはいけません。最後まで進み続け、走る時もあれば歩く時もあり、必要な時には這ってでも、絶対に放棄しないことが大切です。そうすることで、私たちは真の修煉者としての立場と決意を示すことができるのです。

 執着をもっと放下する

 私は、修煉において執着を放下することが非常に重要であると理解しています。ですから、三つのことを行う際には、個人の修煉を重んじ、内に向けて探し、そして学法と煉功をしなければなりません。しかし、執着を放下することは、非常に大事なことです。私たちは常人として修煉を始め、次第に執着を放下することを学びます。昔、僧侶が寺に入ると、家族との関係を断ち、結婚せず、肉を食べず、物質的な欲求を一切持たないようになったと言われています。しかし、私たちはその道を歩むわけではありません。

 私は、師父が私たちに望まれていることは、常人社会の中で、時間が経つにつれて自然にこれらの執着を放下していくことだということを理解しています。

 自身のことを振り返ると、私は多くのことを放下してきたことに気づきます。その中の多くは、徐々に放下していったもので、これによって私は絶えず向上してきました。たとえば、タバコをやめ、悪口を言わず、喧嘩をせず、酒をやめ、ほかにもいくつかの悪習慣を取り除くことができました。しかし、これらは単なる始まりに過ぎません。時間が経つにつれて、私は食べ物に対して選り好みをせず、特定の食べ物を避け、悪い習慣や良くない考えを捨て、人と争わないようになりました。

 私は今、多くのものを放下できたと感じています。放下すればするほど、私はより向上できることを実感しています。ですから、私は修煉者が放下できるものが多ければ多いほど、達成できる境地も高くなると分かりました。しかし、ここで理解したことは、これは一朝一夕で実現するものではなく、無理に自分を強制するものでもないということです。私は、人心や情を放下することが最も難しいと実感しており、この点については特に注意が必要だということを認識しています。

 師父は「実は、皆さんは常人の中にある名、利、情が傷ついて苦悩を感じているとき、すでに常人の執着心を放下できずにいるのです。皆さん、必ず覚えておいてください! 修煉そのものが苦しいわけではありません。肝心なのは常人の執着を放下できないからです。あなたたちの名、利、情を放下しようとするときこそ、苦しいと感じるのです」(『精進要旨』「真修」)

 修煉者が最近直面している問題

 最近、多くの同修が健康、感情、財政、家庭などの面で困難を抱えていると感じています。私の理解では、これは旧勢力が私たちの業力やそれらとの契約などを口実にして、私たちに迫害を加えているからだと思います。

 私たちは、中国での迫害が非常に邪悪で、想像を絶するものであることを知っています。しかし、私たちが修煉している環境は比較的緩やかであり、中国本土のような圧力を受けることはありません。しかし、このように比較的自由な環境にいる中で、私たちが怠慢になり、上記のような問題に直面する可能性もあります。

 したがって、たとえ私たちが快適な環境にいるとしても、常に警戒を怠らず、決して油断してはいけません。私自身も一度は怠けてしまった時期があり、常人の世界の雑事に巻き込まれてしまったことがあります。私たち全員がこの点に対して警戒心を持ち、何が起こっても三つのことをしっかりと行い、責任を果たすべきです。私たちは法輪大法の弟子として非常に幸運であり、大法の光と永遠の命が私たちを待っていることを忘れてはなりません。

 以上は現段階での私の修煉体験談であり、不適切なところがあれば、ご指摘をお願いします。

 慈悲なる師父に感謝します!

 同修の皆さんに感謝します!

 (終わり)

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/2/6/490393.html
 
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