武士とは、
- 武士(ぶし)・・・もともとは貴族の下で戦闘を生業としていた身分の人間、あるいは戦闘集団。時代が下ると貴族に代わって政治の中心勢力となる。侍。
- 武士(もののふ)・・・強い男を讃えて言う言葉。当然ながら侍相手に使われることが多い。
- 武士(たけし)・・・日本の男性の名前。
である。
ここでは、1.と2.について説明する。
概要
Wikipediaでは10世紀から19世紀にかけて存在していた人々とされている。
学校で習う内容ならば荘園を武装して守っていた人々や、士農工商のように社会層において頂点に居た人々の事。
侍という呼び方は武士の別名とも、武士の中でも位の高い人の呼び名や階級と何だか色々な説があるが、別に難しく考えずに武士と同じ意味と考えれば良いだろう。
又、「武士は相身互い」や「武士に二言なし」の言葉があるように信義を重んじ、仲間は互いに思いやりをもって助け合うものであると考えていたようである。
反面非常にプライドの高い人々だったようで、「武士は相身互い」は同じ立場としか言っていないし、「武士は食わねど高楊枝」という言葉があるように、体面を重んじていたらしい。
なので若い時の宮本武蔵のように主君の元で働かず、ブラブラと諸国を放浪して武芸を磨いていたような武士にたいする世間の評判はあまりよくなかったかもしれない。
武士のアレコレ
- 武士に限らず、中世までは真っ昼間の勤務中であろうが、飲酒をすることは珍しくなかった。
- 中世の武士は少しでも気にくわないことがあると、手元の武器を取り、躊躇なくその場で殺傷行為におよぶことが当たり前であり、それが兄弟や友人であっても容赦なく手にかけた。
- 「弓馬の道」という言葉があるように、武士のシンボルは「弓矢」である。これは武士の始祖達が弓矢を主体とした乗馬戦闘を生業とする武官だったからである。これは時代が下り鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて武士の表武器が大太刀や薙刀に移り、その後室町時代以降は槍に変化していったが、弓矢は理念上のシンボルであり続けた。
- 田舎の武家の家に生まれた平将門は、伯父達(国香、良兼)が彼に対してあまりにも冷たい上に、平国香の義理の父である源護が彼を殺そうと企んだ為に将門は流れるままに伯父を殺した。
その後も快進撃は続き、彼は気付くと関東一円を支配しており、武士として初めて「新皇」の地位に就き、そこに国を開いた。
そんな彼が楽に生涯を終える訳もなく、朝廷軍である平貞盛等によって攻められ劣勢に陥り、乱戦の中で眉間に矢が突き刺さって死ぬ劇的な最後を遂げた。 - 日本最初の武士による政権を作り出したのは平清盛である。清盛と平氏一門を傲慢で独裁的な「驕れる者」であったと表現した「平家物語」の影響で、以前は平氏政権は武家政権というよりも貴族政権であるという意見が主流であったが、現在は平氏政権が最初期の武家政権であるという説が有力である。
- 「刀は武士の魂」という言説は有名だが、この言葉が生まれたのは江戸時代後期であり、広く周知されるのは廃刀令以降だったりする。
- 中世、つまり武士が台頭して豊臣政権が成立するまで、刀剣類は百姓をはじめとした、あらゆる階層の者達が強盗と自衛のために所持携帯しており、のちに帯刀は成人男児の証という風潮も誕生している。特別な意味合いも込められていたものの、武士だけの特権ではなかった。そんな世間を目の当たりにした当時の宣教師たちが、欧州の本国に「日本人は戦闘民族である」と伝えたのは言うまでもない。
- 武士は海外の戦士と異なり、片手で使用する盾(ここでは持盾とする)をほとんど使用しなかった[1]が、これは武士の前身の1つとなった、律令軍時代の騎兵の装備をほぼそのまんま踏襲したからである。この律令軍騎兵は初期の武士と同じく弓騎兵であり、弓矢の他には刀剣類やナイフを装備していたが、どうも盾は装備していなかったようである。
- 中世における武士の定義を極端にいえば、公的に乗馬が許されておりかつ乗馬戦闘ができるか否かであり、そうでない者は武士扱いされなかった。ただし、中世末期に行われた兵農分離以降、武士の枠組みが広がったことで馬に乗れない者達も武士階級の仲間入りを果たしている。
- 武士に似たような存在として地侍や郷士等がいるが、彼等は中世において、百姓からみれば武士だが、武士にとっては百姓の1形態という武士と非武士の中間の扱いだった。彼等は各村落の有力者で軍事力を担っており、年貢を免除ないし軽減と引き換えに主従関係にある領主の命に従い、足軽として合戦に参加することを義務づけられていた。
- 韓国の一部地域には、かつて朝鮮に存在していた花郞こそが武士の起源であるという伝説がある。が明確な根拠がなく、花郞自体どのような組織であったかはっきりしていない。
武士の最後
初めて武家を中心とした政権である平氏政権が樹立してから室町幕府、江戸幕府と武士の世が続き、常に社会層の上位に居座り続けた武士だったが、黒船来航によって引き起こされた討幕運動によって、約700年続いた武家の政治は終わりを告げ、武士は近代国家へと進む為の礎として最後を迎える事となる。(詳しくは幕末の項目を参照)
四民平等政策による武士階級の廃止、そして廃刀令を施行された武士階級のなかには、甘んじてリストラという事実を受け入れずに、新政府に反発して同志を募り、士族の反乱を起こすものも存在した。
その中には日本最後の内戦と呼ばれ、戊辰戦争において反攻する武士達に対して官軍として戦い、一度は新政府の役職に就きながらも官僚達と対立し下野し、最後に武士として西郷隆盛が戦った西南戦争も含まれている。
自分達と同じく不満を持つ武士達が反乱を起こしたのを目の当たりにし、それに呼応した反乱は各地で発生した。
だが結局、武士達が起こした反乱はすぐさま政府軍(大日本帝国陸軍)によって、血みどろの戦いの末鎮圧される。
また、板垣退助の自由民権運動に参加した士族もいたようである。
現代日本では形としての武士は残っていないが、武士の志は日本人の精神の中に今も生きつづけている。
関連動画
関連項目
脚注
- *盾の使用に関してはどうしても西洋の騎士のイメージに引きずられがちだが、武士のような盾を装備しない専業戦士は、同時代の中華圏やイスラム圏にも槍騎兵・弓騎兵問わず一定数見られ、日本特有というわけでもない。
- *一応、身分は不明瞭だが持盾を使う者はいるにはいた。ただあまり人気のある装備ではなかった。
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