謝罪や炎上が尽きない世の中において、もはや「自分には、何もやましいことはないです」と主張できる人はいないのではないか。
そうなると、社会的に成功すると謝罪や炎上に追い込まれる、そう考える人も多いはずで、最近の若者が出世を拒むのには、そういう考え方もあるのではないか。
だからこそ、この「やましいこと」を許されるための社会的方法論を考えていくべきだと思うのだ。
先述のとおり、偉くなると過去の「やましいこと」が露見して辞めさせられてしまう、みたいなムーブメントは正直なところ、社会にとってもマイナスだと思われる。
偉くなること(社会的に成功すること)へのモチベーション低下は、仕事や社会的活動へのモチベーションまでも低下させ、業務効率も悪くなるはずだし、
そもそも、人手不足を強く感じる時代なのだから、そんな無駄なムーブメントで貴重な「リーダー」となれるはずの人手を失うべきではない。
また、そういった成功した人々だけではなく、私たちだって、いつ炎上を仕掛けられるかわからないのだ。
だからこそ、自分に対する保険の意味でも、人々をどうやったら「やましいこと」から解放させてあげられるのか、社会的に議論すべきだと思う。
つまり、ちゃんと「許し方」の方法論(「こういうことに対しては、○○をしたら許されるべきだ」といった許しのラインみたいなもの)を構築していくべきなんだと思う。
(ちなみに、「許され方」じゃなくて、「許し方」を議論すべきだ。
個人的な告解の話じゃなく、許す側である社会が、どこまで謝罪があったら、罪を許すのか明確にすべきだと思うのだ。
現在は、許しのラインが社会的に明確でないから、炎上が際限なく続いてしまう。
そういえばキリスト教は許しの宗教だったな
やっぱりリベラル反政権に入信したら過去の罪は許さないとダメだよね
「社会」が何の立場で許すの許さないの言うのでしょうか 許す側である社会が、どこまで謝罪があったら、罪を許すのか
ここでいう社会とは、関係ない個々人がわらわらとわいてきていじめに加担し続ける状況を指すのだろう
それなら、元増田の提起している問題は「『関係ない個々人がわらわらとわいてきていじめに加担し続ける』ことが肯定される条件は何か?」ということですね