スラムと化した墓地へ

無数の車とバイクが急流の川のように街を流していた。エンジン音と警笛、さらに建設重機の音が重なり、絶え間なく耳を突いた。7千を超える島からなる国、フィリピン。2月、その都市の一つ、日本人にも人気のリゾート地であるセブ島のセブ市を訪ねた。人口96万4千人を抱えるセブ州の州都だ。

現地では、冬と夏が逆転したような日本との寒暖差に汗をぬぐった。観光立国の中核をなす都市には、活力がみなぎっていた。いくつもの巨大なショッピングモールが目に入った。街の1区画を抱え込むような大きさでそこかしこにそびえたち、観光客や住民をのみ込む。

オフィスビル群とショッピングモールからなるセブ・ビジネス・パークの近くに、現地の人でも立ち入らない一角があった。塀に囲まれた約4ヘクタールの土地。二つある入り口の一つである門には看板があり「宿務華僑義山」、英語でCebu Chinese Cemeteryとあった。当地に移り住んだ中国人富裕層の墓地だった。死者が静かに眠る場所と思いきや、そこでは違法薬物が取引され、警察の捜索で死者が出た、とうわさされていた。墓地は、さまざまな人が入れ代わり立ち代わり住みつくスラムになっていたのだ。

「宿務華僑義山」の門にあった看板=2023年2月11日、フィリピン・セブ島、筆者撮影

この地域をとりまとめる「バランガイ」の長、マルシアノ・ビシタシオン・アンドウさん(61)を訪ねた。「バランガイ」は、フィリピンの最も小さな地方自治組織で、村や区のようなものだ。アンドウさんによれば、この墓地には約200世帯が暮らしているという。墓地は1963年ごろに造られ、その20年ぐらい後に墓守たちが住み始めた。やがて、不法占拠者たちが墓地で暮らし始め、墓地はスラム化していった。最後の埋葬があったのは5年ほど前。いくつかの遺体を残して、多くの遺体は他の墓地へ移されているという。

どんな人が、なぜここに住みついているのか。どんな暮らしをしているのか。何を思っているのか。それを知りたくて、墓地で暮らす人々を訪ねることにした。

墓地で暮らす少女の一日

午前5時、墓地の門はまだ閉まっていた。墓地のコミュニティーに「よそ者」が気軽に入ることは危険だ。このコミュニティーをよく知る人に取材意図を伝えた上で、墓地で暮らす人たちを紹介してもらい、その人たちが来るまで車中で待った。ほどなく高校生のローズリン・エンカリアドさん(17)と、弟のドミナドール・ジュニア・オワカンさん(12)が現れた。

墓地で暮らす2人は、これから市場へ行くという。一緒に乗り合いタクシー・ジプニーを待った。ローズリンさんは、薄暗い街灯を頼りに、何度も食材リストの書かれたメモ紙に目をやった。「弟か父と、毎日、市場に仕入れに行くの」。彼女の一日はこうして始まる。

仕入れのために乗り合いタクシーのジプニーに揺られる姉のローズリンさん(中央)と、弟のドミナドールさん(右)=2023年2月9日、フィリピン・セブ島、筆者撮影

ローズリンさんはこのスラムで親、きょうだい、親戚の6人と暮らす。父親は大型貨物車の運転手だが仕事は不定期だ。母親は墓地で露店を営む。魚肉団子やバナナの串揚げ(バナナキュー)など軽食を作って売る店で、一食15ペソ(約37円)程度。懸命に働いても月収5千ペソほど(約1万2千円)という。フィリピン政府が示す5人家族の貧困ラインの半分に満たず、子どもたちも働く両親を支えなくてはならない。姉弟が未明の仕入れに出ている間、母親は家で2歳の妹の面倒をみる。

貧困率は減少傾向、しかし実態は

この日はローズリンさんの週3回ある登校日にあたっていた。「学校は7時に始まる。でも、いつも道が渋滞するから6時には家を出ないと」。彼女は買い物メモを片手に市場を巡り、行きつけの店で手早く食材をそろえた。弟にお金を預けて物を買わせる練習もした。

カルボン市場で仕入れする姉のローズリンさん(中央)と、弟のドミナドールさん(右)=2023年2月9日、フィリピン・セブ島、筆者撮影

のんびり品定めをする時間はなかった。本当はもっと早くから仕入れに行くのだが、暗いうちの取材は危険だから、と時間を遅らせてくれたのだ。慌ただしさに拍車をかけてしまった、と心が痛む。

墓地の前でジプニーを降りた姉弟は、門ではなく、民家の間をすり抜けていった。なぜ門から墓地へ入らないのか、いぶかしく思いつつ、肩幅ほどの壁のはざまを、後に続いた。

道が開けた。石造りの小屋が軒を連ねていた。軒先には洗濯物がはためき、手作りの扉が並ぶ。日本の昭和期の下町を思わせた。

人が住む石造りの小屋よりも、ひと回り小さい型の建造物もあった。側壁はなく、石柱と石の屋根が雨よけをなし、その下に遺影と石棺があった。石棺の側面には漢字で人名や、誕生日、死亡日が刻まれていた。明らかにお墓だ。石造りの小屋は本来、家でない。亡くなった人をまつる霊廟(れいびょう)なのだ。

ふたりを追い、廟と廟の合間を抜けると、ローズリンさんの「家」だった。母、ロウェナ・オルテガさん(39)が幼子を抱えて迎えてくれた。

ローズリンさんの「家」は、ブロックと板で壁を作り、内部には小さなあかりのともる6畳ほどの台所があった。階段もあり、その奥にはトイレと水浴び場がある。手作りの家だった。

ローズリンさんは市場で買ってきた食材を、手早く、露店で使うプラスチック製の容器に移すと、そのまま水浴びへ。母親は朝食の用意を始めた。この日のメニューは、真っ赤なソーセージと、湯気をたてた炊き立ての白米。洗ったばかりの髪で制服姿になったローズリンさんは、立ったまま朝食をほおばり、シャツとベストにコロンを2、3回吹き付け、身支度を終えた。6時。彼女は起きてからこれまで、ジプニー乗車時をのぞいて、一度も座っていない。

  
幼子を抱えながら娘の登校準備を手伝う母のロウェナさん(中央)と、制服姿のローズリンさん(左)=2023年2月9日、フィリピン・セブ島、筆者撮影

フィリピン統計局によると、2021年の貧困率は18.1%。同国で「貧困」とされるのは、5人家族で月額約1万2千ペソ(約3万円)以下で暮らしている人たちで、約1999万人がそれに相当する。右肩上がりの人口増に裏打ちされた経済成長で、貧困率は2015年の23.5%から2018年は16.7%と減少傾向にはあった。ただ、いくつかの根深い課題が残っている。

例えば、経済発展する都市と、停滞する地方との地域間格差がある。人々は仕事を求め、発展著しい都市を目指した。ところが、多くの労働力を要する製造業などの第2次産業が十分に発展する前に、都市の人口集中が進んでしまった。彼らが地方に戻り農業を続けたくても、土地を所有しない小作農である場合が多く、地方でも収入が得られる保証はない。都市には労働力があふれ、個人規模で、運転業や小売業などを営む人たちが増えた。しかしそれでは十分な収益を得られない。家計をやりくりするため、子どもも労働力とみなされ、その結果、子どもは教育を十分に受けられぬまま、親と同じ境遇をたどる。

8割が貧困層の私立学校

午前7時前、ローズリンさんが通う学校は、制服姿の子どもたちでごったがえしていた。高校のほか、大学やインターナショナルスクールを併設し、1万3千人の子どもたちが通うセブ島最大級の私立校だ。制服姿の子どもは、みな等しく同じように見えた。制服は貧困を隠す。それは本当だった。

ローズリンさんは週3回、午前7時~正午に授業を受ける。貧困ライン以下で暮らす彼女がなぜ私立学校に行くことができるのかというと、奨学金を得ているからだ、という。

授業を受けるローズリンさん(中央)=2023年2月9日、フィリピン・セブ島、筆者撮影

フィリピンは2012年、教育制度を変えた。それまで基礎教育とされたのは初等教育6年、中等教育4年の合計10年だったが、中等教育に2年が加わり、基礎教育が合計12年となった。公立学校の授業は無料だ。

未明から息つく間もなく働き、授業をしっかり受け、下校後は、露店の手伝いや妹の世話が待っている。

それでもローズリンさんが学び続けるのはなぜか。

ローズリンさんは「中等教育校の先生になりたい。英語を教えたい」と語った。

小学生のころ、セブ市の北100キロの地で漁師をする祖父が助言をくれた。「学校の先生になるといいって」。農業や漁業といった第1次産業で安定した暮らしを送ることは難しい。多くの人が地方を離れ、第2次、第3次産業での職を求めて都市を目指す。ローズリンさんの一家も同じ理由でセブに来た。

小学生だったローズリンさんには、同じ時期、もう一つの出会いがあった。日本人の団体が墓地スラムの支援に乗り出していた。この団体は、墓地で暮らす人々への炊き出しや、日本人に現状を広く知ってもらうためのスタディーツアーなどを主催していた。

ローズリンさんは、たびたび訪れる日本人と短い時間ながら、互いのことを話した。「英語が上手になったら、もっと良いコミュニケーションがとれて、フィリピン人以外の人たちとも良い関係を持てると思った」

フィリピンの公用語はフィリピノ語と英語だ。フィリピンは16世紀から太平洋戦争直後まで、スペイン、アメリカ、日本に占領されてきた歴史を持つ。特に英語が定着したのはアメリカ統治下で、この国が「世界有数の英語国」と言われるゆえんだ。

英語は仕事や収入にも直結する。

フィリピンは世界でも指折りの「労働力輸出国」だ。国民の10人に1人が海外に仕事で移住しており、彼らから祖国の家族らへの送金は国内総生産(GDP)の1割を占める。Overseas Filipino Workers (OFW)と呼ばれる彼らは、祖国の経済を支える大黒柱であり、「国家の英雄」であり、クリスマスには大統領自らが、海外から戻ってくるOFWを空港で迎えるセレモニーが開かれたこともあるほどだ。近年は海外で就労するだけでなく、国内に英語圏企業のコールセンターができ、英語を用いた外部委託業務を受けるといったサービス業が一大産業に育っている。ローズリンさんは「英語が使えれば、良い仕事を得ることができる。だから英語を学んで、将来は子どもに英語を教えたい」と語った。

ローズリンさんの学校のトップ、ビージー・ロドリゴ・エル・アベリアノサさん(26)は、教育は重要だ、と説く。「わが校の学生の80%は貧困層です。良い教育を受け、良い仕事に就かなければ、家族を養うことができない」と、アベリアノサさんは言う。

アベリアノサさんの父の家庭も貧しかった。

服はいつも、だれかのおさがり。Tシャツは大きすぎて、首元がはだけていた。いじめられ、夜は勉強しようにも電気がなかった。

貧しい家の子は生活苦から親の仕事を手伝い始め、次第に学校に行けなくなる。貧しさが鎖のように固く連なっていく。

しかし、アベリアノサさんの父親はあらがった。自ら大学で学び、約35年前、現在の学校の前身となるIT専門学校を開き、一代でセブ最大級の学校にした。その後を継いだのがアベリアノサさんであり、父親の背中が、この若きリーダーの熱意の源泉だった。「私の父が過ごしたような子ども時代を、生徒たちに過ごさせたくない。学位のためではなく、生活を助けるために良い教育をしたい」。教育こそが、貧困から逃れるカギになる。そんな強い思いが、貧困家庭の子どもたちを受け入れる教育機関の経営の根幹にある。

アベリアノサさんによると、国には学費、食費など様々な奨学金制度がある。ただ、制度自体を知らない家庭も少なくないという。そこで学校は、授業のほかに、奨学金の存在や仕組みを教えてコーディネートする取り組みにも力を入れているという。

墓地がなくなる? 危うい「すみか」

学校が終わるとローズリンさんは、母親の露店を手伝う。彼女にバナナキューを注文して、熱々をほおばった。その様子を見た子どもたちは「ラミ?(セブアノ語でおいしい? という意味)」と問いかけてきた。無言でうなずいてみせた。1本30円余りの売り上げを重ねるしかないと思うとため息が漏れる。

ローズリンさんの母が営む露店のわきで、体を洗う子ども=2023年2月9日、フィリピン・セブ島、筆者撮影

墓地を見て回ろうと、席を立った。ローズリンさんの母親に「誰かと一緒に行った方がいい」と、呼び止められローズリンさんの弟、ドミナドールさんをキャプテンに「探検隊」が結成された。

中国人墓地から見えるコンドミニアム=2023年2月11日、フィリピン・セブ島、筆者撮影

墓の石棺の多くは、割られ、盗掘されていた。石の割れ目は土やゴミで覆われていた。

時々、遠巻きにこちらの様子をうかがい、身を隠す人がいた。道の曲がり角で不意に出会うと、こちらが戸惑うほどに、体を硬直させて驚く人がいた。

寝床になっていた石棺。石棺の多くは盗掘の被害で穴が開いていた=2023年2月9日、フィリピン・セブ島、筆者撮影

「キャプテン」は時折、「そっちは駄目。こっちに来て」と、進路を変えるよう勧めてきた。そして午後4時ごろになると、「日が暮れる。帰った方がいい。ひとりで帰らない方がいい」と、言われた。地元の人に尋ねると、「見慣れない人が1人で墓地に来たら、違法薬物を買いに来たか、それを取り締まりに来たか、と思われる」から、危険なのだという。

ふいに未明の仕入れや登校のときに通ったルートを思い出した。門からは入らずに、抜け道を通った。墓地コミュニティーにも縄張りのようなものがあるという。ローズリンさんや周りに住む人には、あの道が一番安全なのかもしれない

日没が迫り、住民が戻ってきた中国人墓地=2023年2月11日、フィリピン・セブ島、筆者撮影

貧しさは生活のあらゆるものを不安定にする。

墓地の状況が一変するかもしれない。そんなうわさを耳にした。この地区の自治組織の責任者であるバランガイ長のアンドウさんは、「計画はある」と言う。それは、墓地を一部だけ残し、公園や公営アパートを建設するものだ。この墓地は、所有者が大きく二分される。ある所有者は公園などへの整備を希望し、別の所有者は墓地を改めて修繕することを希望したらしい。セブ市、バランガイ、所有者で、調整をしているという。

計画が実行に移されれば、現在住んでいる不法占拠者はセブ市からの補助金をもらって立ち去るか、市が用意する地へ移住するか、二者択一だという。しかしこの方法は、すでに撤去が始まっているスラムでは、移転での課題が指摘されている。あてがわれた土地が街から離れた山あいの地域で、仕事がなかったのだ。仕事のある場所へ行こうにも、交通費で稼ぎが消えてしまう。住民たちはまた街に戻ったという。

アンドウさんは、移転について市の予算が決定していないと話し、「来年、ここがどうなるかも分からない」と言う。今の暮らしがいつまで続けられるのかさえ、見通すことはできないと話した。

ボランティア団体の来訪を迎えるためにセンターへ向かう子どもたち=2023年2月11日、フィリピン・セブ島、筆者撮影

ギャングだった牧師の夢は

日曜日の夕方、ローズリンさんは家族で礼拝に行った。「センター」と呼ばれる石造りの建物が教会代わりだが、その床にも石棺の跡があった。

みんなで歌を捧げた。弟のドミナドールさんが友人と前へ歩み出て、ギターを奏でた。かたわらには、墓地スラムの支援活動をする「デイビス牧師」がいた。

本名は、エミリアノ・ダシアン・マバガさん(51)。住民たちに炊き出しをしたり、キリスト教を説いたりする。また、日本の団体と連携して寄付を募り、子どもの学費を集めている。ローズリンさんも、制服代など、奨学金ではまかなえない授業料以外は、牧師を通じてこの日本の団体から援助されていた。

礼拝に来た住民に教えを説く「デイビス牧師」こと、エミリアノ・ダシアン・マバガさん=2023年2月12日、フィリピン・セブ島、筆者撮影

マバガさん自身もスラム出身だった。親族はいわゆる「ギャング」で、マバガさんも10代からその道を歩んだ。でも30代で聖書に出会い、歩む道を変えた。今はこう思う。「ここの子どもたちが将来、もっと稼げる機会を持てるように。もっと夢を見られるように」

赤ちゃんを抱き上げる墓地で暮らす男性=2023年2月12日、フィリピン・セブ島、筆者撮影

ローズリンさんがいる露店に戻り、バナナキューをまた食べた。子どもが寄ってきた。みんな漫画「ワンピース」や「ドラゴンボール」の話をしたがった。「ルフィとクリリンは同じ声優だぞ」と応じつつ、こちらからも質問を投げかけた。「あなたは夢を持っていますか」

集まってカードゲームをする墓地の子ども=2023年2月9日、フィリピン・セブ島、筆者撮影

まずは女の子が歩み出た。ポウリン・アキノさん(11)は「医者になって人を助けたい」と言った。男の子も続いた。カイル・アンドリ・カルディニアさん(12)は「SWAT(特殊装備戦術部隊)。犯罪者をやっつける」。ジャニュエル・オンコイさん(19)は「船員。給料がいい。そのために大学に行きたい」。警察官、軍人などもあがった。試験があり、基礎学力が必要な職業ばかりだ。夢を語る子どもたちを見つめながら、貧しさにあらがい、学び続けなければ、貧困の連鎖を断てないという厳しい現実に改めて思い至った。

カメラに興味を示し、ほほえむ子ども=2023年2月9日、フィリピン・セブ島、筆者撮影

英語教師を目指すローズリンさんに、その先の夢を尋ねてみた。

「悲惨さに満ちた生活だけど、長く生きたい。大きな家を買って家族みんなで住むの。幸せも、困難も、分かち合えるから」

いつも人が集い、笑顔が絶えないローズリンさんの母の露店。みんなで力を合わせて暮らしていた=2023年2月11日、フィリピン・セブ島、筆者撮影
手前が現地の人たちが「チャイニーズセメタリー」と呼ぶ墓地で、奥が高層ビルとショッピングモールからなるセブ・ビジネス・パーク=2023年2月13日、フィリピン・セブ島、筆者撮影