三つの震災、進化した危機対応 熊本市長が考える課題は

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論座編集部・吉田貴文 編集委員・曽我豪 渡辺七海
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 大西一史熊本市長の政治家としての半生は、四半世紀あまりにわたる日本の大災害の歴史と重なる。会社員から政治の世界に身を投じた直後の1995年1月に阪神・淡路大震災に遭遇。自民、社会、新党さきがけが連立した村山富市政権で園田博之官房副長官の秘書として、首相官邸の様子を垣間見る。2011年3月の東日本大震災に際しては、熊本県議会議員として東北の自治体の救援に奔走した。そして16年4月の熊本地震では、熊本市長として、現場の救援、今に続く復興の最前線に立った。

 おおにし・かずふみ 1967年生まれ。高校まで熊本市で過ごし、日大文理学部心理学科を卒業。97年、熊本県議に初当選。2014年に熊本市長で初当選し、18年に再選した。

 国と地方、裏方と現場、議員と首長、救援する側とされる側……。文字どおりさまざまな立場から、日本政治の危機対応の現実を体験してきた。政治の要諦(ようてい)ともいえる危機対応はどこが進化し、どこが課題として残っているのか。東日本大震災から10年、熊本地震から5年の節目を控えた3月末、熊本市役所で話を聞いた。

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被災地の復興や支援、福島第1原発事故への対応など、様々な分野で思いを寄せる人たちにインタビューしました

 ――平成の三つの大きな震災、阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震を、立場は違いますが、いずれも政治の現場に身を置いて体験されるなかで、皮膚感覚として、政治の対応にどのような変化があったと思われますか。

 「阪神・淡路大震災のインパクトはやはり大きかったですね。被害の大きさや衝撃に加え、日本の危機対応の不十分さを、まざまざと国民に知らしめた。私はあの時、官邸で園田官房副長官の秘書官をしていましたが、『これだけ大きな災害が起きても、官邸にはこんなに情報が集まらないのか』という印象を強く受けました」

 「当時の村山首相は、朝6時のニュースで、関西で地震があったことは気付いている。でも、後から聞くと、秘書官が連絡してきたのは午前7時半になってから。私も8時から9時の間に官邸に到着しましたが、それほど慌ただしい空気感はありませんでした。火曜日だったので10時から定例閣議がありましたが、国土庁防災局からも大した情報が入らない。いま思えば、官邸はまさに無防備でした」

 「関連する法が整備されるなど危機対応はその後、大きく進みますが、阪神・淡路大震災の尊い犠牲があったからだとつくづく思います。今のように災害が発生して半時間と立たないうちに、官房長官が記者会見するなんて、阪神・淡路大震災時は想像もできませんでした」

 「東日本大震災は、被災地域が東北各県に及ぶという広さ、地震だけでなく津波災害、原子力災害が同時に発災するという深刻さ、関連死など被害の長期化も加わり、まさしく前例のない災害でした。そんななか、被災者に寄り添う施策をいかにして行うかクローズアップされたのが特徴的です。さらに、熊本地震では情報発信の大切さと怖さの両方が浮かび上がりました」

 「危機対応をめぐり、この四…

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