アーカイブ 2001年旅する記者 シリア・レバノン イギリス
この記事は2001年5月6日朝日新聞日曜版で掲載されたものです。
下記、当時の記事です
英語はずっと楽勝科目。駅前留学の経験もある。はては米国の大学に留学し修士号を取った。なのに私の英語はパッとしない。
ダニエルが蓮如(れんにょ)と聞こえる。オクラホマはなぜか横浜で、カム・ヒアが亀屋になる。ホワット・ドウ・ユー・セイは「和田やせ」としか聞こえない。
しゃべる方も同じ。ミルクは言えてもウオーターが難しい。酒場に行けばバーボンが通じない。カナダでは首都オタワの真ん中で道を尋ねてオタワが通じなかった。毎日トホホである。
つまずくたびに恨むのは、旧文部省と徳川幕府である。学校で習ったSVOCや仮定法過去完了は、とっさの場面で役に立たない。長い鎖国の後遺症で、今でも子孫はみな外国語アレルギーである。
英語の国際試験で日本は最低水準を抜け出せない。留学先では授業がチンプンカン。英語圏で育った人をのぞけば、大使も教授も社長も記者も、日本人はみな汗ふきふきである。
こんなに私たちを悩ませる英語とは何か。いつまでも将軍家を恨んでいても仕方ないので、代わりに英語の生まれや育ちを見極める旅に出た。
めざすは、アルファベットを発明したと習った古代フェニキアの地。地図を広げて、まずは中東シリアへ飛んだ。
紀元前14世紀ごろ刻まれたくさび形のフェニキア文字が発掘されたウガリット遺跡は、ひどく荒れていた。宮殿跡に放牧のヤギやヒツジが入り込み、王墓にフンを落とす。管理人が時々石を投げて追い払う。
郷土史家ワデェア・バシュールさん(70)によると、フェニキアは貿易大国だった。他民族との商取引を記録する必要に迫られて、紀元前15世紀ごろまでにエジプトの象形文字を簡略化し、22の文字を編み出した。Aが牛、Bは家、Gがラクダ。ギリシャ人が母音を加え、紀元前6世紀ごろローマに伝来。ローマ式アルファベットとして英国へも届いた。
「フェニキア人は高度成長期の日本人に似ている」。そう語るのはシリア考古学界の重鎮バシル・ズフディ国立博物館長(74)。「根っからの商売人で、何ごとも実利第一。軍隊は持たず、哲学的な議論も好まない。実用的な文明だからこそ文字が発明できたのです」
「妻には稼ぎを教えるべからず。教えれば浪費される」「井戸のそばに家を建てるのは損。立ち寄る客が増えて出費がかさむ」。解読された生活訓はどれも実際的だ。交易記録も「納品済み。ぞうげ99本、奴隷10人」「新規注文。スギ材90本」といった風だったらしい。
ABCは生まれたときからビジネス言語だった。
見学者のいない古代遺跡で地中海の風を浴びながら、ビジネス英会話に励む日本のサラリーマン諸氏を思い浮かべた。
いま世界の4人に1人が英語を話す。ざっと15億人。中国語を超えて世界一だ。かつての国際語ギリシャ語やラテン語も、いまの英語の広がりに比べれば、まるで方言である。外交交渉から社内会議まで、何でも英語の時代がやってきた。
シリアの隣国レバノンにはフェニキア人の末えいが多い。英語や仏語を駆使して国外で活躍するビジネスマンを輩出してきた国だ。
日産自動車の経営トップ、カルロス・ゴーン氏(47)もそのひとり。氏の着任で英語が日産の準共通語になった。もともと高めの日本の英語熱を過熱させた一因だろう。
伯父のホセ・ビシャラ・ゴスンさん(79)宅を訪ねた。地元銀行の頭取だった人で、表情がおいにそっくり。
「カルロスは生まれたブラジルでポルトガル語を学び、5歳で移ったレバノンでアラビア語を習得。大学はパリの名門で仏語も万全だ。その後米国にも住んだから英語も問題ない。最近は日本語の勉強が楽しいと言っていた」
○3カ国語は、あたりまえ
そう話す伯父さん自身も4カ国語を操る。ゴーン氏の学友ジャド・ナミ医師(47)に聞くと、ゴーン家の4人の子供はみな3カ国語を話すそうだ。
レバノンでは小学校からアラビア語と仏語を習う。しかし、首都ベイルートに住む大学教授レイラ・バドルさんによると、公用語はアラビア語だけで、仏語はフランスの委任統治のなごりである。
日本の英語公用論議を持ち出すと「植民地みたいでおかしい」と笑われた。「政府がある日を期して一律に英語を公用語にするなんて19世紀の発想」だそうだ。「子供が何語を学ぶかは各家庭で決めるのが自然。わが家の小学生には仏語を薦めたわ。英語はいっときの流行のような気がするから」
たしかに異文化がめまぐるしく交錯したレバノンでは、言語の浮沈も激しかった。ペルシャ、ギリシャ、ローマ、トルコ。周辺の強国に相次ぎ征服され、外国語に柔軟になるほかなかったと見るべきなのだろう。
レバノン国立博物館で、世界最古のアルファベットとされる紀元前10世紀ごろの王棺の碑文を見た。「わが父王の墓を荒らす者にはたたりが降りかかる」と刻まれている。そんな切実な言葉を無視して異民族が王墓をいくども荒らすのが、中東の現実である。国境を接する敵国を持たない島国日本が長く日本語だけで足りたのは、中東から見ると夢のような話だ。
言語の抱えた宿命を思いながら、ロンドンへ向かった。
「産業革命と植民地拡大で大英帝国が発展する前まで、英語は長い間、教養のない庶民の言葉として軽んじられてきました」。ロンドン大学で言語史を教えるジェーン・ロバーツ教授は、英語の下積み時代を淡々と語った。
ブリテン島で英語が生まれたのは5、6世紀。大陸から渡ったゲルマン民族が作りだした。しかし支配層の日常語は1世紀からずっとラテン語だった。11世紀初め、対岸の隣国との戦争に敗れると、仏語が英国の公用語になってしまう。国会議事録は仏語で書かれ、科学者や宗教家はラテン語で議論し、文学者はギリシャ語をあがめた。
○いまもなお、漱石の悩み
英国議会が初めて英語で開会したのは14世紀。法廷では18世紀までずっと仏語が標準語だった。語いが乏しく、品位に欠ける。英語はしばしば「路上の言葉」とさげすまれた。
ロンドン郊外に住む英語史研究家デビッド・グラドルさん(47)は、非英語圏の英語事情に詳しい。「日本では今から130年前にも森という政治家が英語公用語を提案していますね」
明治の初代文部大臣を務めた森有礼は1872年、日本語の代わりに英語を国語にすべきだと訴えた。「英語に比べると日本語は貧しい言語だ」「米国人は開明的。日本人留学生はどんどん米国人女性と結婚し帰国せよ」などと主張した。狂おしいまでの欧化思想である。
敗戦直後の1946年、作家志賀直哉は仏語国語化論を提唱した。政治家の尾崎行雄も「日本人が民主主義を体得するには国語を英語にした方がよい」と書いている。小説の神様も憲政の神様も、あの当時は日本語に劣等感を持っていたようだ。
夏目漱石が英国で暮らしたのは今からちょうど100年前。初の官費留学生としてロンドン大学で学んだが、英語につまずき自信を喪失した。
「ロンドン児の言語はワカラナイ閉口」「2年住んでもとうてい話すことなど満足にできない」などと書き残している。
漱石が住んだ下宿の向かいにある漱石博物館を訪ねた。恒松郁生館長(49)に聞くと、漱石は大学の講義なら理解できたが、ロンドン庶民特有のなまりのきつい英語に参ったらしい。会話が上達しないことを気に病んだか、単に研究に没頭したかったのか。真意はともかく文豪は下宿にじっとこもった。
有礼や漱石に限らず、英語に寄せる日本人の思いはねじれている。モンゴル語をうまく話せなかったと傷つく人は少ないが、英語となると私もあなたも内心大騒ぎする。
明治の昔、洋行して英語を身につけた日本人はそれだけで偉人扱いされた。21世紀の今も、本場の英語に気おされてうまく応対できないと、だれも必要以上にがっかりする。文明開化のころから英語はなぜか、日本人のプライドや劣等感を過敏に刺激するやっかいな存在だった。
ロンドンでのこと。黒タクシーに揺られていると、運転手さんが唐突に「ここが上杉謙信だ」という。何ごとかと聞き直すと、私の行き先ウエスト・ケンジントンに着いただけだった。
私の英語はその程度である。それでも外国語はしょせん各人の道具であって、公用も私用もないはず。必要な人が必要に応じて鍛錬すればそれでいい。国から言われて鹿鳴館でダンスの時代じゃあるまいし。
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