有料会員限定

アメリカの"対日包囲網"、駐日大使が最後通牒 変動相場制から半世紀③

✎ 1〜 ✎ 18 ✎ 19 ✎ 20 ✎ 21
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

有料会員限定記事の印刷ページの表示は、有料会員登録が必要です。

はこちら

はこちら

縮小
多くのマイクを前に話す愛知揆一蔵相
変動相場制移行を発表する愛知揆一蔵相(1973年2月13日)(写真:毎日新聞社/アフロ)

1971年のニクソンショックで1ドル=360円の固定相場制の崩壊に直面した日本は、その後も円の切り上げを最小限に抑えようともがいていた。

だが、対日貿易赤字にいら立つ米大統領のリチャード・ニクソンは73年2月、財務次官のポール・ボルカーを日本に送り込む。密使のボルカーが蔵相の愛知揆一に示したのは、ドルを金に対して10%切り下げ、円を10%切り上げる「Ten to Ten Formula(10%対10%方式)」だった。

予想を超える円切り上げ案に驚いた大蔵省は、会談翌日の2月10日に外国為替市場を平常どおり開くべきかどうかを検討する。

当時財務官だった稲村光一のオーラルヒストリーによると、事務レベルでは市場を開くことが決まったが、10日の朝に報告を受けた愛知が「まだドルを買えというのか」と国際金融局長の林大造を一喝し、即時閉鎖を命じた。これにより東京市場は欧州に先駆けて閉鎖されることになる。

稲村はオーラルヒストリーで次のように証言している。

次ページはこちら
関連記事
トピックボードAD