ブックスひろしま さんの開催による広島での「一箱古本市」。 昨年3月12日の「一箱古本市@袋町公園 まちなかホコテン」で初めて出店しまして。 60冊くらい持って行って売れたのが8冊*1。やみくもに持ち込んでも、あれを持って来るべきだったとか惑いかねないので、その次の「空中一箱古本市」(5月22日)では、一冊ずつ関連付けをして一本の線に繋いでみようとして*2、目録を作成。 42冊のうち12冊売れて*3、老若男女いろんな方に立ち寄ってもらえて一安心。近いジャンルの数冊をまとめて買ってもらったりすると、関連付けることに手応えを感じたりしますし。さらに11月6日、カジル横川での本イベントにも出店。 今度は一冊ずつを各都道府県に関連付けて並べてみると、歴史・地理がおおまかなジャンルになりつつも、それぞれの本の主題や形態は幅ができる*4。開始直前から雨がやんだり、人通りの多いこともあり、30冊が売れて
「此外丸数多有之候得共委細ハ知れ不申候」(「高田郡村々覚書」*1)・「此外丸数余多アリト雖モ名ヲ知ル者ナシ」(「弔古録」*2)というふうに、後世に伝わっている名前をたよりに配置が説明される。なので、戦国当時の呼称や範囲とは違うこともあるかもしれず。 「高田郡村々覚書」(宝永2年)*3では、13ヶ所の名前と東西・南北の長さを載せる。 名称 東西(間) 南北(間) 預り主 御本丸 20 24 二之丸 30 10 御三之丸 33 13 御釜屋段 30 29 御蔵屋敷之段 45 12 御馬屋之段 35 28 一位之段 17 20 粟屋縫殿 釣井之段 11 25 尾崎ノ丸 不知 不知 不知 矢倉段 10 15 桂三右衛門 本城 - - 不知 姫丸(西之丸) 11 25 はごの丸 - - 不知 「本城」は南の尾根にあった旧本城のこと。最後に「丸々の畝数〆三反七畝三歩」と総面積があるが、ここの曲輪につい
宮島と宮島口を行き来するフェリーななうら丸は旅客席が3階にわたる。 1階はほとんど車両甲板のスペースで、側面に車椅子対応の席と各種トイレがある。 2階3階の案内図には「ベンチ席」と「自動販売機」の位置がアイコンで示されている。外を眺めるか室内でくつろぐか、席の配置を見て座る階が選ばれる。 「展望デッキ」と「車両甲板」は凡例には載らず図上に直接注記される。 宮島に渡るフェリーの「ななうら丸」が通る航路は、松大汽船の航路よりも大鳥居に近づく。 一昨年の11月、フェリー上から見える大鳥居は修復後の鮮やかな朱色。西から連なる見学足場は潮が満ちていればあまり気にならない。 西松原の見学路出入口には、写真パネル等で大鳥居の破損箇所や修理内容を解説してあり、事業の名称は「国宝及び重要文化財厳島神社東廻廊ほか3棟建造物保存修理工事」となっているので大鳥居のほか「東廻廊、客神社」の修理も並行して進んだ。 地
渡し舟 昭和36年に音戸大橋が開通するまでは、当然ながら音戸・倉橋へわたるには船によらなければならなかった。現在も随時運行。 昭和8年*1の『呉軍港案内』*2に音戸の瀬戸も紹介されており、「警固屋海岸の鍋波止場から、音戸町へは渡し舟がある」とあるだけでなく、「呉驛よりバスありまた川原石海岸より鍋波止場(約三浬半)までは機船の便あり」という、運賃15銭の機船が運行していた。 娘 橋をかけたや 音戸(おんど)の瀬戸へ 通(かよ)てゆきたや 船大工さんよ 船大工 汐にせかれりや 橋ア流る (「娘と船大工」野口雨情 おさんだいしよさま ) 野口雨情作詞の「娘と船大工」は大正14年の発表。 瀬戸を通過する船 広島松山間のフェリーのように、多くの船が音戸の瀬戸の狭い水路を通過する。 CiNii 論文 - PDPC法による海難分析 : 音戸瀬戸を対象として 件数はさほど多くないものの、すれちがう船同士
熊野村では「北川」で、上瀬野村では「荒谷大川」と書かれる熊野川が、同じ文脈*1の熊野跡村ではどうなっているのかは分からない。 けれども、併せて藩に提出された村絵図の控*2を見ると「大川」とある。 多くの支流を集め、村内の中央を流れる最も大きな川であるため「大川」。 また、『阿戸町郷土史 原始古代〜明治維新』*3に「本川または大川と唱えた」とある。「本川」と書かれた例として、安永八年の「雨池井手川筋道筋控帳」*4などがある。 そういった村で通用した名とは別に、『芸藩通志』掲載の熊野跡村絵図には「熊野跡川」と書かれている。(同書上瀬野村・熊野村の絵図には河川名は書かれていない) *1:「国郡志御用につき下調べ書出帳」の河川の部 *2:「賀茂郡熊野跡村絵図 国郡志御用ニ添上ル控 文政二年 夘三月」 *3:宮脇時夫著.1999 *4:井上家文書、上掲書資料編所収
2012年04月06日09:28 カテゴリ一箱古本市ブックスひろしま2012 一箱古本市@まちづくり市民交流フェスタ2012 店主さんご紹介 2012年の一箱古本市@ブックスひろしまが始まります。 『空中一箱古本市@まちづくり市民交流フェスタ2012』 2012年5月19日(土) 11:00〜17:00 20日(日) 11:00〜16:00 両日ともに、「まちづくり市民交流フェスタ2012」でのイベントです。 どなたでも無料でご来場いただけます。 〜開催場所〜 まちづくり市民交流プラザ(袋町小学校横の市民交流プラザです) 〒730−0036 広島市中区袋町6番36号 (南棟と北棟を4階で結ぶ、渡り廊下での開催です) 空中一箱古本市は、 まちづくり市民交流プラザ4階渡り廊下で行われます。 新たな本と出合ったり、好みの本を並べている店主さんとの会話を楽しんだり。 本のある空間が、あなたのご来場
昭和28年の町村合併促進法の施行から昭和の大合併が始まり、wikipedia:安佐郡の町村は22から7に減少した。後にすべての町が広島市の一部となり安佐郡は消滅する。 町名 合併年月日 広島市への編入年 祇園町 昭和18年11月3日*1 昭和47年 可部町 昭和30年3月31日 昭和47年 安佐町 同上 昭和46年 高陽町 同上 昭和48年 沼田町 昭和30年4月1日 昭和46年 安古市町 昭和30年7月1日 昭和48年 佐東町 同上 昭和48年 県が6ヶ町または5ヶ町に絞る合併案を示したが、必ずしもそれに拘らずに各町村の協議が重ねられた。 このうち祇園町は、北隣の古市町や古市・安・伴との合併案などがあがったが見送りとなる。太田川を跨いで規模を広げた「祇園市」も提唱されたが実現しなかった。西岸の「祇園」「古市・安*2」「伴*3」「緑井・川内・八木*4」と、東岸の「口田*5」「戸坂*6」の町
前項の「理窓院縁起」碑引用部分、「康永三年(二〇〇二年)」とあるのは西暦ではなく皇紀、と思ったら、北朝年号康永三年は2004年だった(wikipedia:1344年)。他の部分は合っている。 ハート型のような横長の石碑には、天平14年の粟屋村大平への行基巡錫に始まり、宍戸元源の現在地移転を経て、嘉永2年(2509年)の記録焼失までがひとまとまりの文章として刻まれ、それ以降は境内堂宇の建立・修理について箇条書されている。安政3年に本堂の建替え、昭和55年に本堂再々建があり、その本堂の傍らにこの碑が翌年に建てられている。 寺の歴史を皇紀に即して区切ると、2000年以前は史前の伝説の段階、現存の楼門が2000年代初期に遡るとしてそこから2500年頃までに出来事や記録が蓄積されていき、記録の焼失以降は再建・修復・再構築に力が注がれていった、ということになる。そしてそれらを一覧するこの碑の建立は昭和
同じ郡山城興禅寺の寺領でも「興禅寺村」と書かれたり「光善寺村」と書かれたりした*1。 では他にどういう表記の「こうぜんじ」が実在するか。 google検索結果の多い順に並べると次のよう。寺院の多寡ではないが目安として。 検索件数*2 表記 所在地の一例 89300 光善寺 群馬県 78400 興善寺 大阪府 48600 興禅寺 群馬県 32700 光前寺 長野県 22500 高善寺 岩手県 10300 光禅寺 広島県 1320 宏善寺 東京都 436 高禅寺 和歌山県 318*3 廣善寺 岐阜県 215 康全寺 愛知県 185 康善寺 福島県 169 興全寺 神奈川県 100 高前寺 山梨県 134*4 廣禅寺 三重県 24*5 廣全寺 岩手県 23 皎善寺 宮城県 22 好善寺 福井県 18 光全寺 秋田県 5 興前寺 大分県 上位6例が特に多いので「光・興・高」と「善・禅・前」の組み合
そういう立地の観音免に、7世紀前半〜中頃の横穴式石室が二基。 現存長8.1m玄室幅1.9-2.1mの1号墳は海田町ふるさと館の裏手に位置し、館内から開口部を見ることができる。背後にも説明板があり、天井石を失った石室内が見える。 畑地に隣接していたので、西側の壁に石垣が連なる。入口付近には赤羽根川からの土砂流入があるなど、後世の各種の改変が加わる。 2号墳は観音免公園の広場の上にあり、公園造成の際に破壊されて奥壁部分を残すのみ。 1号墳と同規模と推定され、8mを超す石室は海田湾周辺(海田・船越・瀬野川・矢野)で最大規模となる。 (参考:河瀬正利「畝観音免古墳群」『芸備 第26集』) また、『文化度国郡志*1』「奥海田村」*2の古跡として、 籠塚迚大石ニ而積上ケ、天井も大石ヲ渡、広サ中ニ者大キ成分ハ凡弐間四方、或九尺四方、中ニも*3狭クして長キ分も御座候、戸口ハ凡三尺四方位も御座候、百姓腰林之
Wikipediaでの田中角栄のページタイトルは*1「田中榮 - Wikipedia」となっていて、 本来の表記は「田中 *2榮」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 という注意がつく。 編集履歴を見ると、タイトルは「田中角栄 - Wikipedia」としたうえで記事中に本来の表記を示す形が続いていた様子。 「角」の中央縦画が突き抜ける字体は「榮」の扱いよりも難儀。それとも表示に手間がかかるから「角」のままにしても文句を言われないで楽なのかもしれない。 「ノート:田中角栄 - Wikipedia」に、 「第1次田中角榮内閣」と「第2次田中角榮内閣」では「榮」の字を使っているのに、このページは「栄」になっているので、 という、「榮」についての表記の不統一の指摘が見られる。 ということを踏まえて『拓魂碑』の「田中角栄謹書」の部分を載せる。もちろん崩してあ
さる11月19日に聴いたわけです。 「竹原市・広島県立文書館・県立広島大学連携講座 竹原文化の伝統」で「頼山陽の手紙を読む」と「江戸時代の町人と能楽」を。 全三回の講演でして、一回目は「広島藩主の鷹狩りと竹原吉井家」と「吉井家文芸資料に見る和歌の学びの伝統」を11月8日に聴きました。 では、それを紹介している県立広島大学のページを引っ張ってこようかなと思い、自分のはてなブックマークからさくさくと検索をかけて過去にブックマークした記事を抽出してみたわけです。するとここで、 「竹原文化の伝統」の記事をブックマークしていなかったことに気付くわけです。 しょうがないので、県立広島大学 | 新着情報 | 2008年度新着情報のページに行って記事を探し、あらためてブックマーク。 完了すると、自分のブックマークページに蓄積されるわけです*1。 もちろんソーシャルブックマークを使うからには、こういう地元の
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