音波の薄皮

その日に聴いた音楽をメモするだけの非実用的な日記

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GoogleTVとオーディオとBlu-rayプレイヤーとの接続に関する四苦八苦(リップシンクしてなかったよ!)

テレビ導入における四苦八苦シリーズ、多分最終回。

表題の件につきまして。症状から先に書きます。

「リップシンクしてないよ!」

です。

Blu-rayの映像を見ると、音声と画像とがシンクロしていないのです。微妙に、ごくわずかですがタイムラグが発生しておりました。これは非常に気持ち悪い。過去のテレビ環境において、全く気がつかなかった現象です。

原因は配線にあるのでは?との仮説を立てました。

と言うのも、オーディオシステムとテレビの室内配置の環境から、配線状況は若干複雑なのです。

Blu-rayプレイヤー→(HDMI)→スプリッタ(分岐)→

(同軸デジタル)→アンプ→スピーカー
(HDMI)→テレビ

文字だけで表わすとこのようにスプリッタによって映像と音声の信号を切り離しております。

まずは同軸デジタルを光デジタルケーブルに交換。症状何も変わらず。

スプリッタからラインアウトにして出力。症状何も変わらず。

もしやアンプに組み込んでいるDACボードのせい?それは困った。

いや、もしかするとスプリッタが悪さをしているのでは?

スプリッタをスルーさせ、音楽信号はテレビからBluetoothにてWiim Pro Plusに受信させる荒技で。

…。解決。タイムラグが消えた。

ああ、スプリッタ、お前が原因だったのね。と、このようにして問題の切り分けに成功しました。

でもこれではテレビからWiim Pro PlusにはSBCで伝送されていることとなり、非常に私の気分が悪い。この上なくスッキリしない。

かくして、下記配線に落ち着かせることとなりました。追加機器は一切導入しない方向で、なので割とひねくれております。

Blu-rayプレイヤー→(HDMI)→テレビ→(光デジタル)→アンプ(DACボード)

Wiim Pro Plusからの音声出力は同軸デジタルに変更。

これでも気分が完全にスッキリするわけではないのですが、価格的ローコスト精神的ハイリターンで行くならばやむを得まいかと。

んー。

これは追々完全にスッキリさせましょう。もっと良い解決方法はあります。自分が目を背けているだけです。

nasneに録りだめした番組をGoogleTVで快適に鑑賞するための四苦八苦(torne mobileの話もね)

前アーティクルで齢51にしてテレビっ子になりそうな勢いと書きましたが、そこに至るに若干の四苦八苦がありました。ついでにメモを残しておきます。

チューナーレスGoogleTVを導入するに至った理由の一つが、既に運用しているnasneにチューナー機能をまかなってもらえるから、だったのですが、これがまた思うようには進んでくれず。

GoogleTVですから、もちろんnasne内に録りだめした番組を見るためのアプリ、torne mobileはインストール出来ます。nasneを使っての番組も鑑賞出来ます。しかし問題はその画像クオリティの低さ。

nasneとテレビとはWi-Fiで接続します。これが曲者なのでしょう。コマ落ちのようなブロックノイズが発生するわするわ。到底真っ当に見られる環境ではありません。ストレスフル。

これがスマホやタブレットの画面でなら、大して気にもしなかったのです。50インチの画面だからこそ、この粗が目立ちすぎたのです。5GHzでも2.4GHzでも状況に変化はなく。電波の強さも速度も十分。ベルリン・フィルのデジタル・コンサートも快適に4K&ハイレゾで楽しめ、Amazon Prime VideoもYouTubeも快適。それだと言うのにnasneだけがどうしてもどうにもならない。

torne mobileの設定は画質優先です。しかし接続優先にしようがどうしようがどうにもならない。お手上げです。

結局、自分の主たる運用環境下では、この具合の悪さを解消するための労力に見返りはないと判断しました。私はリアルタイムでの番組鑑賞も滅多にしない人間です。nasneに録りだめしているのは基本的に音楽番組のみ。それも自分が興味を持ったプログラムのみです。従ってこれまで通りBlu-rayディスクに書き出していけば良いとの結論を下しました。

Blu-rayに書き出したnasne内のプログラムは至って快適に再生されますから、nasneの画像処理品質が悪いわけでは決してなく。

この点において、表題の件は結局根本的には解消しなかったことになります。

まぁ、よいのです。nasne(SSDも接続しています)の容量は残り30%。昔から番組を無下に消去することが出来なかった男です。せっせとディスクに書き出し、鑑賞上のストレスを発生させずに楽しむこととします。

ややロートルな解決方法でした

51歳から始めるテレビっ子生活(GoogleTV導入)

両親の使うテレビが43型の4Kとなり、居間でそれをボンヤリと眺めては「大画面も良いものかもしれない」を思うようになったのが年明け頃の話。

考えてみると引っ越しをして後の自室の壁面、スピーカーの間が空いていたのです。前の住居ではあり得なかった構造なので「ここにテレビを置けばよいじゃないか!」と思うに至るまでしばし時間がかかってしまったのです。

試しにスピーカーの間隔を図ってみると1m強。50型のテレビがテレビ台とともにすっぽりと入る長さ。「これはもうやるしかないでしょう」と心に決めるも、機種選定にも時間がかかりました。

通常の4Kテレビでは予算オーバー。チューナーレステレビを導入するのにも安物買いになりそうでやや踏ん切りがつかない。それでも熟考に熟考を重ね、下記内容から結局の所チューナーレスのGoogleTVに決めました。

・普通のテレビ番組は滅多に見ない。
・Blu-ray音楽メディアの再生がメインとなる。
・チューナー機能は既に運用しているnasneが補完してくれる。
・録画もnasneが担当してくれる。
・音声はメインオーディオから出力させるのでテレビのスピーカーは使わない。
・シビアな画質表現にはこだわらない。
・Amazon Prime Videoとtorne mobileアプリが使えること。

ここまで条件が出揃ったら、もうチューナーレステレビで十分ですよね。

店頭に実物を見に行くのも億劫だったので、あとはWeb上で探すこと1ヶ月近く。価格と基本性能と評価のバランスを取り、FPD製のチューナーレステレビ50型を導入しました。

実際に導入して本日で4日目。極めて快適にテレビ生活を送っております。齢51にしてテレビっ子になりそうな勢い。大画面のテレビはジャスティスだったのですね。目に入る情報量が格段に多い。音楽物を見てもアニメを見ても楽しさの極み。今の今までどうして適当な再生手段で運用していたのかが不思議なほど。

ついでにベルリン・フィルのデジタル・コンサートにも再加入してしまいました。4K映像とハイレゾ音声のコンビネーションとで、圧倒的没入感が味わえるように。数年前の弱小テレビ環境では、この感動はあり得ませんでした。

この4日間で見たものは主に下記の通り。

・斉藤由貴『水響曲 四季』(セルBlu-rayディスク)
・稲葉浩志『en Ⅳ』(WOWOW番組録画Blu-ray)
・マーラー:交響曲第5番(ベルリン・フィル デジタル・コンサート)
・ぼっち・ざ・ろっく!(Amazon Prime Video)
・葬送のフリーレン(同上)

その他諸々小刻みにアプリをザッピングしながら鑑賞しておりました。アニメ番組などは一体いつから放置していたのだと自分に問うほど、久しぶりに完走しましたよ。

いつの時代の昭和の人間なのだと笑われてしまいそうですが、テレビのある生活は意外と退屈知らずで、日々の乾きに潤いを与えてくれることもあるのだと実感させられている次第であります。

51歳から始めるテレビっ子生活

このところちょっと(20250305)

0.
すでにライヴを2本観ております。

1.
Fishmans@東京ガーデンシアター

素晴らしくフィジカルに訴えかけるナイス・ポップ・ミュージック。それが格段にコアなロックとしても昇華して、息つく間もない3時間の公演でした。

聴きたかった曲は一通り演奏してもらい、何よりも原曲はまだまだサンプル状態だったのではないかとまで思わせる「Long Season」のビルドアップっぷりがすさまじく。

数多いゲストのクオリティにも素晴らしいものがありました。佐藤伸治の世界観は私たちオーディエンスの頭の中にあり、そこにオーバーライドしてくる新たな息吹とが共存し、この上なく音楽に没頭出来る時間を過ごすことが出来たのです。

個人的な白眉はゲストとして登場した君島大空の存在と、UAとのセッションによる「Go! Go! Round This World」のあまりもの闇に沈む雰囲気。前者のギタープレイの見事さと、イノセントなボーカルは新時代のアーティトの煌めきを感じさせ、後者による硬質さを極めたアレンジとボーカルには、自分の身体が硬直させられました。

と、このように多幸感と緊張感とが両立するあの場にいた自分は、本当に幸せ者だと思うのですよ。そもそも後追いで聴き始めた身からすれば、リアルタイムでのFishmansを観ることは叶わなかったけれども、今でもその流れを汲み、さらに進化&深化させる存在がいることに深い感謝を覚えるのです。

あの日のFishmansと今のFishmansとを楽しめる時間にいられることは、この上ない幸せであるとも。

2.
NHK交響楽団 指揮:マルクス・ポシュナー ピアノ:小林愛実 @市川市文化会館

ベートーヴェンとモーツァルトのプログラム。休日のXのタイムラインに当日券情報が流れてきたので、速攻で会場に電話を入れてチケットを押さえ、その日のうちにふらりと聴きに行きました。

クラシック音楽のコンサートは相当久しぶり。フルオケを聴くのは実は初めてのことだったかもしれません。ホール2階席前方、ステージ向かって右側で聴きました。

結論から語れば、「クラシック音楽の生演奏はロックだ!」となります、はい。

序曲「コリオラン」から始まり、オーケストラの音がホールでどのように聞こえるのかと言う実体験を味わった後、小林愛実の登場でモーツァルト「ピアノ協奏曲 第9番 変ホ長調 K. 271」へ。小編成になったオケをバックに、軽やかなピアノがコロコロと回る素敵な演奏。ピアノの音も十分にこの席で楽しめるものなのだと実感。

そしてメインのベートーヴェン「交響曲 第7番 イ長調 作品92」へ。フルオケの迫力にガツンとやられ、目は演奏する楽団員へと釘付けに。一人一人の演奏スタイルが大きく異なり、指揮者とのシンクロにそれを重ね合わせ、目で楽しむ演奏。これが生の醍醐味なのかと感動もひとしお。

第四楽章では作品の最後に向かうカタルシスを同時進行で堪能。目にも耳にも色鮮やかに音が刻まれていきました。楽団員のアクションも急速にトランスに入っているような様。こちらも恍惚の音世界へ。ロックですよ、正に。

それにしてもオーケストラの演奏が定期的に行われるホールは、本当に音が鳴るんですね。楽器の音ももちろん届きますが、なによりもホール全体が鳴る。反響音も残響音も味方につけて、演奏の迫力がどの座席にも届いてくる。

これはクセになりそうなクラシック音楽生体験でした。国内のサントリーホールやオペラシティで聴くと、どのような世界が味わえるのでしょうか。

しかしN響のこのプログラムが7,000円とは、ちょっとお得すぎやしませんかね。だからこそふらりと見に行けたと言う事実はありますが。

カーテンコール

3.
最近感動していた音源。


ドヴォルザーク:交響曲第9番『新世界より』 / ナタリー・シュトゥッツマン, アトランタ交響楽団 (2024 96/24)

たまたまQobuzで目が合ったので、何気なく再生してみたのです。驚きました。すさまじく相性の良い音源を見つけてしまったと興奮するほど。調べてみると実質的な指揮者デビュー作とありました。こんなことがあるのかと。

ドヴォルザークのこれを、ここまで音を刻みながら色鮮やかに展開させる演奏には、もしかすると初めて遭遇したかもしれません。

ここしばらく、ドヴォルザークの演奏はグスターボ・ドゥダメルとロサンゼルス・フィルハーモニックによるものが自分の中では重要なポジションに鎮座していたのですが、この第9番に感してはあっさりとその座を受け渡してしまいました。

カッチリとしたテクスチャ、現代的なスピード感、野暮ったさを重厚さに変えながらも、軽快に進むべくポイントではとことん軽快に。これが21世紀型の真のドヴォルザークなのではないかと思えるほどに、自分にとっては衝撃的な演奏でありました。

当然の事のように速攻で音源を確保しておりました。そこから何度聴いたことか。

クラシック音楽はまだまだ行ける。時間が進むにつれ、解釈が多岐にわたり、演奏のスタイルも変化していき、そのポテンシャルとキャパシティに限界はないのですね。

Dvorak: Symphony No. 9 from the New World+ American Suite

4.
まだまだ書きたいネタはあるのだけれども、キーボードに向かっているのが辛くなってきたので、まずはこの辺で。

残夢 / Ado (2024 44.1/16)

気まぐれに聴いてみた。音源はずっと手元にあった。聴かなかっただけの話。

1stアルバムのリリースから時間が経過していることもあってか、このボーカルスタイルにも自分の耳が慣れてくれた模様。キンキンギャンギャンと耳をつんざく系の、長時間は聴いていられないタイプのシンガーでは決してなくなってきた。バリエーション豊かな楽曲に対して、ボーカルはしなやかさも強さも兼ね備えたスタイルになっているように感じられる。提供アーティストが持つ味を映し出す鏡としても機能しているのは、歌ってみた系に親和性の高いシンガーであることの真骨頂か。

特にアルバム中盤「オールナイトレディオ」からのミドルテンポな楽曲群がなかなか聴かせる内容になっている辺りは、Adoの新たな魅力が書き加えられたのかと思えるほど。

とはいえ、そことのギャップが極端なこともあってか、「ルル」からのアッパーでエッジの効いた流れが初老の自分の耳にはやはりキツいのは事実。

そしてネガティヴにお願いしたいことが一つ。

アルバムに統一感を持たせるか、もしくは楽曲毎にトリートメントを行った録音、マスタリングを施してもらえるとありがたかったな、と。曲によって極端に変わる音の場面変化に耳がついていけません。前半のあまりにも抜けの悪い録音も正直感心しませんでした。汚す録音と汚れた録音とは月とすっぽんですからね。

そんなこんなで、録音さえ満足いくものであれば自分としてはもう少し聴き込む楽しさが見出せた作品であったな、と。想像していたほど悪い作品ではなかったですね。苦手意識は若干薄まったかしら。

残夢 (通常盤/初回プレス)

In Dissolve / Acidclank (2025 44.1/16)

オーディオの師匠様から紹介を受けた音源。「音的にも音楽的にも色々と難しい」と来たもんだ。

音楽的にはミニマルなドリームポップかと。反復が心地よく美しい。音楽でトリップ出来る、かつて自分が大好きだった系統のサウンドメイク。

音的にはなかなかにヤバい録音をしております。腰を据えてメインスピーカーで聴くと、低音の出方と中高域の煌めく粒が耳を打ち、実に気持ち良い。ボリュームをどんどんと上げて行き、しまいには自分でもビックリするほどの圧になっておりました。

このプロダクトはきっとまだまだプロトタイプですね。アルバムとしての尺の短さといい、まだまだどこまでも反復出来るマージンを残しているところといい、ライヴで激変する系の音楽ではないかと。

イン・ディゾルブ

パラシュートが落ちた夏 [2024 RMST] / 吉川晃司 (1984/2025 44.1/16)

吉川晃司、1984年リリースのデビューアルバム。2025年リマスタ。実はこのアルバムを聴くのは初めてなのです。

いやぁ、苦笑の連続。荒削りと不安定。だが、その意欲は買う。アイドルでスタートしていた当時からロックを夢見ていたのだろうとね。一生懸命にロックしているのですよ。しかしながら、それが見事に滑ってから回っている。滑稽さに半分足を突っ込んでいる。

楽曲もロックだし、アレンジも…まぁ、これをロックとするか否かはおいておいても、そこそこパキッとしてる。80年代半ばのスタイリッシュな邦楽ロックの粋を集めると最大公約数的にはおおよそこのような形になるのだろうとも思う。

最大公約数を保てたのはアレンジを故・大村雅朗氏が一人で担っているところにもよるのでしょう。楽曲単一で捉えれば結構色合いがバラバラなのです。それらに音とボーカルとの統一感を持たせた点で、氏の功績は相当に大きいものであると。

でも、そのようなネガティヴにも見える結果から逃れず挫折もせずにロックを貫いた結果が40年後の吉川晃司に繋がっているのだから、人生は筋と芯を通したものが勝つこともあるのだなと実感出来るのであります。

たとえ若気の至りであろうとも、自分を信じることは大事なことであると。そこに意志の土台がしっかりとあるのならばね。生温くも暖かい眼差しでその生き様を見届けたくなる青年の在りし日の姿。

パラシュートが落ちた夏

水響曲 第二楽章 / 斉藤由貴 (2025 96/24 Qobuz)

歌を演じると言う行為はいつからか歌唱力なる言葉に全て置き換えられて消えてしまった。

そのようなことを考えながら、この斉藤由貴と武部聡志のタッグによるセルフカヴァー企画第二弾を数回聴いた。

歌唱に演技を乗せ、曲の世界観を広げる。70年代から80年代にかけての、それは現在の「シンガー」とはまた異なる意味において、「歌手」における歌唱力は演技と同等の位置にあったように思われる。

歌に感情を込める上での演技は、確かに今となってはクサい。だが楽曲におけるアクセントとして存在するそれを、クサいの一言で無下に否定する必要もないだろう。

歌手業と俳優業の両立が成り立っていたこの時代において、その二者には共通項が多い。斉藤由貴が2020年代の今に歌における演技を否定せず、むしろ積極的に取り入れていることには、現在のシンガーとは異なるアプローチに臨んでの意気込みのようなものもあるのだろう。

収録されている曲の多くが10代の頃の作品であることを考えると、年を重ねることにより、歌うことにおける余力が生まれていることも挙げられるだろう。楽曲に対する俯瞰力が備わったことにより、自身のかつての作品においての彩りをプロデュースし、そして先に書いた演技のアクセントやポイント、その質と量をコントロールしているようにも思われる。

そのようなことをアルバムの冒頭三曲において、じっくりと考えさせてもらった。

以降、M-4「予感」はストリングスがオリジナル楽曲に忠実に奏でられていることもあり、武部聡志が当時のアレンジに相当な自信を持っていることがうかがえる。ボーカルも実にシンプルに、この楽曲が持っているピュアネス、透明感をトレースしているかのような世界を味わうことが出来る。

一転しての「夢の中へ」はリアルタイムで聴いていた自分自身が、斉藤由貴に接することから離脱した一撃になっていた曲。それをアコースティックなこのアルバムに収録することで、実際のところは井上陽水が持っているアーティスティックな要素を、アイドルの楽曲として調理することに大胆に挑んでいたものであると、今だからこそ理解させてもらえた。アルバムにおけるアクセントとしても十分に機能している。

ここまでがある種のパビリオン的な存在感をもたらしているとするのならば、後半の「ORACION-祈り-」以降の流れは、本作における良心、今現在の斉藤由貴が保ち続けている透明性による、本シリーズの本質を突く流れであると言えよう。

その流れにおけるトリの二曲「卒業」「家族の食卓」は、斉藤由貴のA面とB面、表裏の象徴となっている。

最もパブリックイメージに近いであろう「卒業」は、高校生のコーラスに乗せて歌うことで、楽曲が持つエヴァーグリーンな色合いを今に美しく再生させている。多くの人がイメージするであろう斉藤由貴像を決して崩すことなく、今でもその核はここにあるのだと柔らかく訴えかけているかのよう。

「家族の食卓」は斉藤由貴ファンの間では言わずと知れた名曲。ごくごくシンプルに夕餉の光景を歌うこの曲の、装飾を極限までに削ぎ落とした世界観は、アルバムの大トリとして存在するにふさわしい。

演技と歌が冒頭のテーマであるとするならば、暖かみを帯びたクリスタル彫刻を配置することが後半のそれであると言えるだろう。その彫刻は複製を行った絵画を立体化させるかのごとく、オリジナルのイメージを損なわず、かつ、新たに息を吹き込む行為によって起こされたもの。

振り返ってみると斉藤由貴の歌手としての最盛期はそれほど長いものではない。従って楽曲数も限られては来るのだが、そこに込められた作家陣による熱量と斉藤由貴自身の歌に対するひたむきさを今に問う作品として、また、風化されずに40年近い時間を経て熟成された楽曲の妙を味わうためのものとして、本シリーズの機能性は高いものであると再確認した次第。

水響曲 第二楽章 [通常盤] [CD]

シューマン:交響曲第3番 / パブロ・エラス=カサド, ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団 (2022 48/24 Qobuz)

目に止まったので聴きました。

実のところは、他の指揮者と楽団とのコンビネーションでこの作品を聴き始めたのですが、第一声の段階で鈍重だったので断念。Qobuz内に他に何かないだろうかと漁っていたところ、この演奏に行き当たりました。

エラス=カサドならばきっと歯切れのよい明るさを持った指揮と演奏を届けてくれるはずと期待してのことだったのですが、それを裏切ることなく。

シューマンのこれを自分の好みで判断するのは、本当に冒頭の10秒程度で十分なのです。音が濁っているか明るいか、立ち上がりが重いかスリムなそれか。両方とも後者の方をもちろん好むのであります。

果たしてシューマンがこれを書いた際の意図がどのようなものであったか、などは自分には全く関係のない話でして。好みか否かです。

その点、エラス=カサドは自分を裏切ることが少ないような気がしています。現代的な演奏が自分の好みであることを明示していますね。自分の中でのポジションとしてはドゥダメルが近いところに立っています。

考えてみると、エラス=カサドはスペインの出身、ドゥダメルはベネズエラ。うっすらとではありますがそこに共通点があるような気もしますね。

シューマン : 交響曲全集 / ミュンヘン・フィル、パブロ・エラス=カサド (Schumann : The Complete Symphonies / Munchner Philharmoniker, Pablo Heras-Casado) [2CD] [Import] [日本語帯・解説付き]

マーラー:交響曲第6番 / サイモン・ラトル, バイエルン放送交響楽団 (2024 96/24 Qobuz)

本当に今さらなのですが、ラトルってマーラーを振らせると実は巧いのか?と、そのようなことを考えながら長尺のこれを聴いておりました。

自分の好みに寄るところも大きいとは思うのですが、マーラーであっても混沌と渾然一体との違いが明確な采配、かつ、各楽器間の見通しが抜群に良く、曲の流れがスムースに聴き取り理解ができる演奏をここに作り上げているような気がしていたのですよね。もちろんオーケストラの鳴らし方の特性によるものもそこにはあるのでしょうが。

いずれにしても、自分がラトルのマーラーをほとんど聴いて来なかったが故の冒頭のインプレッションなのかもしれません。

マーラー:交響曲第6番