ブン・ウム
ラオスの政治家 ブン・ウム・ナ・チャンパーサックBoun Oum Na Champassak | |
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生年月日 | 1911年12月2日 |
出生地 | フランス領インドシナ、チャンパーサック |
没年月日 | 1980年3月17日 |
死没地 | フランス、ブローニュ=ビヤンクール |
所属政党 | 右派 |
親族 |
ブン・オム・ナ・チャンパーサック(弟) シスーク・ナ・チャンパーサック(甥) |
在任期間 | 1960年12月12日 - 1962年6月23日 |
ラオス国王 | サワーンワッタナー |
在任期間 | 1948年3月25日 - 1950年2月2日 |
ラオス国王 | シーサワーンウォン |
ブン・ウム・ナ・チャンパーサック(Boun Oum Na Champassak, 1911年12月2日[1][2] - 1980年3月17日)は、ラオスの王族、政治家。旧チャンパーサック王家の末裔で、ラオス内戦期における親米右派勢力の代表格。ラオス王国首相を2度務めた。殿下 (Sadet Chao) の称号を持つ。
経歴
[編集]1911年、フランス支配下のチャンパーサックにおいて、最後のチャンパーサック王ブア・ルパアン・ラーチャナダイ殿下の第3王子として生まれる。教育はサイゴンで受け、やがてラオスで行政官吏を務める。
日本占領下の1945年、抗日運動に参加。同年11月、ラーチャナダイの死去によりチャンパーサック家の当主となる。
日本の降伏後、フランスに抵抗するラーオ・イサラ(自由ラオス)勢力と、フランスに協力的な国王派に分裂していたが、ブン・ウムはラオス南部においてフランスの復帰を支援した[3]。しかし、1946年8月27日のラオス=フランス協定(ラオス統治暫定協定)により、ルアンパバーン王を君主とする「ラオス王国」の建設が認められると、ブン・ウムはチャンパーサック王位の継承権を放棄させられた。その代わりとして、ラオス王国の終身王国総監の地位が与えられる[4]。
1947年、国王評議会議長に就任。1948年3月25日、首相に就任した[5][6]。1949年7月のフランス=ラオス協定によりフランス連合内でのラオスの独立が認められ、恩赦により元ラーオ・イサラのメンバーが帰国すると、1950年2月2日、国民統合という大義名分のために退陣した[7][5][8]。
1959年12月末、軍部右派のプーミ・ノサワン将軍が軍事クーデターを起こし、プーイ・サナニコン政府を辞職に追いやると、ブン・ウムはこれに反発する。結果として軍部独裁を阻止し、1960年1月のコウ・アバイ暫定政府の樹立を助けた[9][10]。
右派による擁立
[編集]しかし、1960年8月9日に中立派のコン・レー大尉がクーデターで右派ソムサニット政権を倒し、中立派スワンナ・プーマ政権を成立させると、ブン・ウムはノサワン将軍に擁立される。9月10日に「反クーデター委員会」(後に「革命委員会」)をサワンナケートに組織し[11][12]、プーマ政権に対抗する。
同年11月、ノサワン軍が中立派政府軍に対して攻撃を開始し、首都ヴィエンチャンに迫ると、12月9日にプーマ首相はプノンペンに亡命。12月12日、ブン・ウムは国王により再び首相に任命され、同政権は西側諸国により承認された[5]。12月16日、右派軍はヴィエンチャンを奪取し、翌1961年1月4日に王国議会が招集され、ブン・ウム政府が正式に承認された[13][14]。しかし、プーマが首相辞任を拒否し、2月にジャール平原のカンカーイでコン・レー軍と合流して抵抗したため、内戦は継続した。
三派和平交渉
[編集]1961年5月に右派・中立派・左派の3派間で停戦が合意されると、以降ブン・ウムは右派の代表として中立派のプーマと左派のスパーヌウォンとともに「三殿下会談」を重ねる。1962年1月、ジュネーヴ会談において基本的な合意に達し、同年6月のジャール平原会談で三派連合政権に関する協定を結ぶ。そして6月23日、国王に内閣の辞表を提出し、首相を正式に辞任した[15][16][17]。同日、プーマを首班とする第2次連合政府が成立するが、ブン・ウムは入閣せず、政界から引退した[18]。
亡命
[編集]1974年、左派パテート・ラーオの勢力拡大により、ラオスを出国する。その後1年間はタイに在住した。王政が廃止され人民共和国が樹立される直前の1975年9月4日、欠席裁判により死刑宣告を受ける。
1976年にフランス、パリに移住。1980年3月17日、パリ郊外のブローニュ=ビヤンクールの病院で死去した[19]。
家族
[編集]6人の男子と3人の女子をもうけた。1980年にブン・ウムが亡くなると、長男の Keo Champhonesak na Champassak がチャンパーサック家の当主を継いだ[20]。
脚注
[編集]- ^ 山田「第4節 用語」
- ^ 生年月日を11月11日とする記述もある。http://www.royalark.net/Laos/champasa2.htm
- ^ スチュアート-フォックス(2010年)、97ページ。
- ^ 上東(1990年)、105ページ
- ^ a b c 山田「第3節 関連資料」
- ^ 就任日を「1949年3月21日」とする記述もある。山田「第4節 用語」
- ^ スチュアート-フォックス(2010年)、119ページ。
- ^ 退任日を「2月28日」とする記述もある。山田「第4節 用語」
- ^ スチュアート-フォックス(2010年)、170ページ。
- ^ 木村(2007年)、81ページ。
- ^ 青山(1995年)、117-118ページ。
- ^ 水本(2009年)、48-49ページ。
- ^ 山田「第1節 ラオス内戦史年表」
- ^ 水本はビエンチャン奪取を「1961年1月17日」とし、その後で信任されたと記している。水本(2009年)、51ページ。
- ^ 山田「第1節 ラオス内戦史年表」
- ^ 木村(2007年)、106ページ
- ^ スチュアート-フォックスは辞任日を「1962年8月」としている。スチュアート-フォックス(2010年)、189ページ。
- ^ スチュアート-フォックス(2010年)、189ページ。
- ^ 「ブンウム殿下(ラオス元右翼政権首相)、仏で死去」『朝日新聞』1980年3月22日夕刊
- ^ http://www.royalark.net/Laos/champasa2.htm
参考文献
[編集]- 上東輝夫『ラオスの歴史』同文舘、1990年
- 青山利勝『ラオス - インドシナ緩衝国家の肖像』中公新書、1995年
- 山田紀彦「ラオス内戦史資料(1954年-1975年)」武内進一編『アジア・アフリカの武力紛争―共同研究会中間成果報告』アジア経済研究所、2002年3月
- 木村哲三郎「平和共存政策とラオスの中立化」『中国の台頭とそのインパクト II』亜細亜大学アジア研究所、2007年
- 水本義彦『同盟の相剋 - 戦後インドシナ紛争をめぐる英米関係』千倉書房、2009年 ISBN 9784805109366
- マーチン・スチュアート‐フォックス『ラオス史』めこん、2010年
外部リンク
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