肥田景之
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肥田 景之(ひだ かげゆき、1850年3月21日(嘉永3年2月8日[1][2])- 1932年(昭和7年)4月3日[3][4])は、幕末の薩摩藩士、明治から昭和初期の官吏・実業家・政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]日向国諸県郡都城郷(宮崎県[3]北諸県郡都城町[5][6][7][8]を経て現都城市)で、薩摩藩士・肥田景正の二男として生まれた[2][5]。1886年(明治19年)兄・景直が戊辰戦争で戦死していたため家督を相続した[5]。
造士館で兵学を修め[5]、都城明道館児輩指南[6]、講武館兵式訓練教導[6]を務めた。慶応3年10月(1867年)戦兵伍長となり戊辰戦争に従軍した[3][4][5][6][7][8]。造士館助教授、都城神柱神社(神柱宮)祠官を務めた[3][4][8]。西南戦争に従軍した[3][4][5][8]。
1878年(明治11年)10月、鹿児島県警部に任官[6][7][8]。その後、内務省出仕[6][8]、農商務省官房勤務を務め[6][7][8]、1883年(明治16年)に退官した[6][7]。第五国立銀行(現三井住友銀行)に入行し取締役支配人を務め[5][7][8]1896(明治29年)まで在任した。その他、横浜正金銀行監査役、東京湾汽船監査役、北海道瓦斯(現北海道ガス)監査役、大東鉱業社長などを務め[3][7][4][8]、鉱山事業で富を築いた[6][7]。また、日本体育会長も務めた[4][8]。
1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙で宮崎県第2区から無所属で出馬して初当選[7][9]。その後、第10回から第13回総選挙まで再選され、公友倶楽部、新政会などに所属して衆議院議員に通算5期在任した[3][4][6]。
国政選挙歴
[編集]- 第1回衆議院議員総選挙(宮崎県第2区、1890年7月、無所属)次点落選[9]
- 第2回衆議院議員総選挙(宮崎県第2区、1892年2月、無所属)当選[9]
- 第3回衆議院議員総選挙(宮崎県第2区、1894年3月、自由党)次点落選[9]
- 第7回衆議院議員総選挙(宮崎県郡部、1902年8月、帝国党)落選[10]
- 第9回衆議院議員総選挙(宮崎県郡部、1904年3月、無所属)落選[10]
- 第10回衆議院議員総選挙(宮崎県郡部、1908年5月、無所属)当選[11]
- 第11回衆議院議員総選挙(宮崎県郡部、1912年5月、中央倶楽部)当選[11]
- 第12回衆議院議員総選挙(宮崎県郡部、1915年3月、無所属)当選[11]
- 第13回衆議院議員総選挙(宮崎県郡部、1917年4月、無所属)当選[12]
脚注
[編集]- ^ 衆議院『第三十六回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1915年、29頁。
- ^ a b 『人事興信録 第4版』ひ7頁。
- ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』529頁。
- ^ a b c d e f g 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』374頁。
- ^ a b c d e f g 『現代名家精彩』409-412頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『現代日本の政治家』公友倶楽部106-107頁。
- ^ a b c d e f g h i 『大正人名辞典 第3版』1864頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『宮崎県政外史』643頁。
- ^ a b c d 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』61頁。
- ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』37頁。
- ^ a b c 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』77頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』99頁。
参考文献
[編集]- 『現代名家精彩』成文社、1910年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 細井肇『現代日本の政治家』國光社、1916年。
- 東洋新報社編『大正人名辞典 第3版』東洋新報社、1917年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 宮崎県政外史編纂委員会編『宮崎県政外史』宮崎県政外史刊行会、1967年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。