源延光
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時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 延長5年(927年) |
死没 | 天延4年6月17日(976年7月16日) |
別名 | 枇杷大納言 |
官位 | 従三位・権大納言 |
主君 | 朱雀天皇→村上天皇→冷泉天皇→円融天皇 |
氏族 | 醍醐源氏 |
父母 | 父:代明親王、母:藤原定方娘 |
兄弟 |
重光、保光、恵子女王、延光、 荘子女王、厳子女王、遠光 |
妻 | 藤原敦忠娘 |
子 | 泰平、藤原済時室 |
源 延光(みなもと の のぶみつ)は、平安時代中期の公卿・歌人。醍醐源氏、中務卿・代明親王の三男。官位は従三位・権大納言。枇杷大納言と号す。
経歴
[編集]朱雀朝末の天慶9年(946年)従四位下に叙され、同年11月に源朝臣姓を賜り臣籍降下し、天暦2年(948年)侍従に任官する。天暦3年(949年)には右大臣・藤原師輔を請客使として出迎えている。
春宮権亮・内蔵頭・右兵衛督を務めたのち、天徳4年(960年)従四位上・蔵人頭兼右近衛権中将に叙任され、康保3年(966年)に参議に任ぜられ公卿に列す。兄・保光よりも4年早い参議昇進であった。
議政官の傍らで、右近衛権中将や春宮大夫を兼帯し、安和2年(969年)正四位下に叙せられている。円融朝初頭の天禄元年(970年)従三位・権中納言に叙任され、天禄3年(972年)に中納言となる。天禄4年(973年)に検非違使別当に補されるが翌年に兄・重光にこれを譲り、天延3年(975年)権大納言に至る。
天延4年(976年)6月14日に病のために出家し、17日に薨去。享年50。
勅撰歌人として、『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に和歌作品5首が入集している[1]。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 天慶5年(942年) 4月25日:昇殿
- 天慶9年(946年) 正月7日:従四位下(殿上労)
- 天暦2年(948年) 6月29日:侍従
- 天暦3年(949年) 正月11日:請客使[2](右大臣藤原師輔)
- 天暦8年(954年) 3月14日:春宮権亮(春宮・憲平親王)
- 天暦9年(955年) 7月24日:兼内蔵頭、権亮如元
- 天徳3年(959年) 正月30日:右兵衛督、頭権亮如元
- 天徳4年(960年) 正月7日:従四位上、9月16日:蔵人頭。10月9日:右近衛権中将
- 天徳5年(961年) 正月25日:兼備中権守
- 応和3年(963年) 9月4日:兼伊予権守
- 康保3年(966年) 9月17日:参議、中将如元
- 康保4年(967年) 正月20日:播磨権守
- 安和元年(968年) 11月:伊予権守
- 安和2年(969年) 8月13日:春宮大夫(春宮・師貞親王)、9月21日:正四位下
- 天禄元年(970年) 8月5日:従三位・権中納言、大夫如元
- 天禄3年(972年) 正月3日:勅授帯劔、正月24日:中納言、督大夫如元
- 天禄4年(973年) 2月15日:検非違使別当
- 天延2年(974年) 2月17日:辞別当[3](讓兄重光)
- 天延3年(975年) 正月26日:権大納言、大夫如元
- 天延4年(976年) 6月14日:出家。6月17日:薨去
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年
外部リンク
[編集]- 『摂関期古記録データベース』国際日本文化研究センター(『延光記』の読み下し文を公開)