振別郡
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振別郡(ふれべつぐん)は、北海道(千島国)根室支庁にあった郡。
概要
[編集]択捉島中部に位置し、西は択捉郡、東は紗那郡に接していた[1]。中心集落は振別と老門であり、特に郡名となった振別は明治時代まで択捉島全体の中心地であったが、次第に他郡が栄えるようになり、振別郡内でも海軍飛行場がおかれた天寧[2]に重心が移るなどしたため、振別は寂れていった[3]。北海道一・二級町村制の施行により、所属する村が択捉郡の一部となったことで消滅した。
歴史
[編集]郡発足までの沿革
[編集]江戸時代中期、振別郡域は宝暦4年(1754年)松前藩によって開かれた国後場所に属した。高田屋嘉兵衛によりエトロフ航路が運営され、エトロフ会所(運上屋)[4]が老門に置かれるが、後に紗那へ移転している。
江戸時代後期に入ると択捉郡域は東蝦夷地に属していた。南下政策を強力に推し進めるロシアの脅威に備え、寛政11年(1799年)振別郡域は天領とされ南部藩と津軽藩が幕府より警固を命じられた。翌寛政12年(1800年)に振別郡域は国後場所から新たに分立した択捉場所に含まれた。近藤重蔵によると、当時7郷中1郷2村(ラウシ)だけが郡域にあり、人口は120人程だった。11年後の文化8年(1811年)には東岸オンネベツに、ルベツから50人が移動して新たに集落ができている[5]。文政4年(1821年)に松前藩のもとに戻されたが、安政2年(1855年)再び天領となり今度は仙台藩が陣屋を築き警固を行うようになった後、安政6年(1859年)の6藩分領により振別郡域は仙台藩領となった。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年(明治2年)8月15日、大宝律令の国郡里制を踏襲して振別郡が置かれた。松浦武四郎は当郡に「フウレベツ」の訓を付したが、後に現在の読みの「ふれべつ」となった。
郡発足以降の沿革
[編集]- 明治2年
- 明治3年
- 5月 - 仙台藩の領地となる(同上)。
- 振別村、老門村が起立。
- 明治4年8月20日(1871年10月4日) - 廃藩置県により再び開拓使の管轄となる。
- 明治9年(1875年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。
明治9年の大区小区
- 第26大区
- 2小区 : 老門村、振別村
- 第26大区
- 明治12年(1879年)7月23日 - 郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての振別郡が発足。
- 明治13年(1880年)7月 - 振別郡外三郡役所(振別択捉紗那蘂取郡役所)の管轄となる。
- 明治15年(1882年)2月8日 - 廃使置県により根室県の管轄となる。
- 明治17年(1884年) - 振別村に戸長役場を設置。郡内2村と紗那郡留別村を管轄[6]。
- 明治18年(1885年)11月 - 紗那郡外三郡役所(紗那振別択捉蘂取郡役所)の管轄となる。
- 明治19年(1886年)
- 明治30年(1897年)11月5日 - 郡役所が廃止され、紗那支庁の管轄となる。
- 明治36年(1903年)12月1日 - 紗那支庁が廃止され、根室支庁の管轄となる。
- 大正12年(1923年)4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、振別村・老門村が択捉郡留別村の一部となる。同日振別郡消滅。
人口
[編集]脚注
[編集]- ^ 20万分の1図 紗那外邦図デジタルアーカイブ 東北大学附属図書館
- ^ 天寧(てんねい) 北方四島居住地図 千島歯舞諸島居住者連盟
- ^ 振別 北方四島居住地図 千島歯舞諸島居住者連盟
- ^ エトロフ・クナシリ新図 北方関係資料 北海道大学
- ^ 「恵登呂府志」から孫引き
- ^ 地方行政区画便覧 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館。紗那郡留別村を管轄したことが、留別村と振別郡2村が択捉郡に所属する下地となった。
- ^ 紗那外三郡役所統計概表 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館
- ^ 世帯数及人員-市町村 01北海道 大正9年国勢調査 政府統計の総合窓口
参考文献
[編集]- 角川日本地名大辞典 1 北海道
外部リンク
[編集]- 松前藩の千島統治(アーカイブ)
- 伊勢国松坂船北へ漂流
- 根室管内視察記(北海タイムス)新聞記事文庫 神戸大学電子図書館
- 前田孝和「旧樺太時代の神社について -併せて北方領土の神社について-」『年報 非文字資料研究』第11号、神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター、2015年3月、1-36頁、hdl:10487/14162、ISSN 1883-9169、CRID 1050282677546388480。
関連項目
[編集]先代 ----- |
行政区の変遷 1869年 - 1923年 |
次代 択捉郡 |