奥田柳蔵
奥田 柳蔵(柳藏、おくだ りゅうぞう、1868年12月15日(明治元年11月2日[1][2][3][4])- 1942年(昭和17年)2月10日[5])は、明治から昭和前期の大地主、農業経営者、林業家、実業家、政治家。衆議院議員、14代奥田家当主[2]。
経歴
[編集]因幡国高草郡猪子村(鳥取県[5]高草郡大和村、気高郡大和村[6][7]字猪子[8]を経て現鳥取市猪子[9])で、大地主[8]、大庄屋・奥田長十郎の長男として生まれ[3][4][6][8]、1884年(明治17年)1月、家督を相続した[3][4]。漢籍を修めた[8]
国民協会に加わり、その解散後、同志と政治結社・因幡同志会を結成した[6]。1895年(明治28年)大和村会議員となる[5][9]。気高郡会議員も務め、1899年(明治32年)鳥取県会議員に選出され1期在任した[4][5][6][7][8][9]。1908年(明治41年)5月の第10回衆議院議員総選挙で鳥取県郡部から出馬して初当選[4][6][8][9][10]。以後、1917年(大正6年)4月の第12回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続4期在任した[5][7]。この間、因美線の敷設[9]、河原―賀露間の道路改修[6][8][9]、鳥取高等農業学校の誘致[9]などに尽力した。日本赤十字社鳥取商議員も務めた[7]。
実業界では、因伯米輸出同業組合議長、鳥取新報社(現新日本海新聞社)取締役、鳥取農工銀行取締役、大正鳥取銀行頭取、鳥取貯蓄銀行頭取、気高米麦倉庫取締役などを務めた[2][3][4][5][7][9]。
また、地元の植林事業に私財を投じて尽力[2][6]。自宅の隣村岩坪村が村債の返済に苦しんでいたため、村有の山地を買収し松、檜の植林を実施してその返済を援助した[2]。
国政選挙歴
[編集]- 第10回衆議院議員総選挙(鳥取県郡部、1908年5月、大同倶楽部)当選[10]
- 第11回衆議院議員総選挙(鳥取県郡部、1912年5月、中央倶楽部)当選[10]
- 第12回衆議院議員総選挙(鳥取県郡部、1915年3月、立憲同志会)当選[10]
- 第13回衆議院議員総選挙(鳥取県郡部、1917年4月、憲政会)当選[11]
脚注
[編集]- ^ 衆議院『第三十六回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1915年、20頁。
- ^ a b c d e 『大正人名辞典 第3版』1768頁。
- ^ a b c d 『人事興信録 第4版』を132頁。
- ^ a b c d e f 『大日本人物誌』を之部111頁。
- ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』153頁。
- ^ a b c d e f g 『現代日本の政治家』同志会102-104頁。
- ^ a b c d e 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』112頁。
- ^ a b c d e f g 『島根鳥取名士列伝』65-68頁。
- ^ a b c d e f g h 『鳥取県大百科事典』138頁。
- ^ a b c d 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』66-67頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』95頁。
参考文献
[編集]- 深田豊市編『島根鳥取名士列伝』博進館、1911年。
- 成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 細井肇『現代日本の政治家』國光社、1916年。
- 東洋新報社編『大正人名辞典 第3版』東洋新報社、1917年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 『鳥取県大百科事典』新日本海新聞社、1984年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。