呂洪祥
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名前 | ||||||
カタカナ | ル ホンシャン | |||||
ラテン文字 | Lü Hongxiang | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 中国 | |||||
生年月日 | 1960年3月21日(64歳) | |||||
出身地 | 天津市 | |||||
身長 | 179cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF (SB)、MF (SH,WB)、FW | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1979-1987 | 天津市足球隊 | |||||
1987-1990 | 富士通 | |||||
1991 | 東京ガス | |||||
代表歴 | ||||||
1982-1986 | 中国 | 40 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
呂 洪祥(る こうしょう[1]、1960年3月27日 - )は、中華人民共和国天津市出身の元同国代表サッカー選手。
来歴
[編集]1979年、地元天津の天津市足球隊(後の天津泰達足球倶楽部)に加入。1980年にリーグ優勝。1982年からはA代表で出場を続け、賈秀全らと最終ラインを構成した[2]。1985年にワールドカップアジア予選で香港代表に敗れたことを発端として中国サポーターが大暴動を起こした五・一九事件に先発出場した選手の一人でもあった。
1987年、日本サッカーリーグ・富士通サッカー部へ移籍。1991年、同リーグの東京ガスサッカー部(後のFC東京)へ移籍し、巧みなボール捌きを見せるも[1]、同年限りで現役を引退。その後も日本に残り同クラブで指導を続けた[3]。
後に東京ガス在籍時から縁のある服部順一がGMを務めるV・ファーレン長崎で国際戦略アドバイザーを担当[4][5]。
代表歴
[編集]出場大会など
[編集]- 中華人民共和国代表
- 1982年 - 1982年アジア競技大会におけるサッカー競技[6] (ベスト8)
- 1984年 - ジャパンカップキリンワールドサッカー84 (ベスト4)[2]
- 1984年 - AFCアジアカップ1984 (予選)[6]
- 1984年 - AFCアジアカップ1984[6] (準優勝)
- 1985年 - 1986 FIFAワールドカップ・アジア予選[6] (1次リーグ敗退)
- 1986年 - 1986年アジア競技大会におけるサッカー競技[6] (ベスト8)
試合数
[編集]- 国際Aマッチ 40試合 0得点 (1982-1986)[6]
中国代表 | 国際Aマッチ | |
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年 | 出場 | 得点 |
1982 | 4 | 0 |
1983 | 1 | 0 |
1984 | 14 | 0 |
1985 | 8 | 0 |
1986 | 13 | 0 |
通算 | 40 | 0 |
脚注
[編集]- ^ a b 『フットボールサミット 第11回』カンゼン、2013年、180頁。
- ^ a b ジャパンカップキリンワールドサッカー84 キリン
- ^ 津門足球名宿呂洪祥的足球經 (2006年8月25日)
- ^ “日中友好シニアサッカー ~中国と日本、そして長崎をつなぐ事業について~”. J論 (2017年9月15日). 2019年6月17日閲覧。
- ^ “サッカー通じ日中つなぐ 「国や文化を超えた絆を」”. 西日本新聞. (2018年6月18日) 2019年6月17日閲覧。
- ^ a b c d e f China National Football Team Database