千葉胤貞
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時代 | 鎌倉幕府末期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 正応元年(1288年) |
死没 | 延元元年/建武3年11月19日(1336年12月22日) |
別名 | 千田太郎(通称) |
官位 | 大隅守 |
幕府 | 鎌倉幕府→室町幕府 |
主君 |
将軍:守邦親王(鎌倉)→足利尊氏(室町) 得宗:北条貞時→高時 |
氏族 | 千葉氏、千田氏 |
父母 | 父:千葉宗胤 |
兄弟 | 胤貞、胤泰 |
妻 | 曾谷教信の娘 |
子 | 高胤、胤平、胤継 |
千葉 胤貞(ちば たねさだ)は、鎌倉幕府末期から南北朝時代の武将。千葉氏の第9代当主千葉宗胤の長男。
生涯
[編集]正応元年(1288年)、父が異国警固番役として赴任していた肥前国小城郡で生まれたとされ、その後下総国千田荘を本拠とし、肥前国小城郡の他八幡荘や臼井荘も併せて領した。北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第9代執権・北条貞時より偏諱を受けて胤貞と名乗る[注釈 1]。
父が下総不在の間に、叔父の胤宗が千葉氏の家督を相続していたため、父の没後折りしも勃発した南北朝の戦いに際して北朝方につき、建武2年(1335年)には同族の相馬親胤らとともに叔父胤宗の子貞胤の本拠千葉荘を攻めた。
だが同年11月胤貞と親胤は足利尊氏の檄文に拠って上洛、その間に貞胤方は胤貞の本拠千田荘を蹂躙しこの騒乱は下総国中に波及したという[注釈 2]。そして南朝方の新田義貞の軍に属した貞胤は、延元元年(1336年)10月に越前国木芽峠で足利尊氏軍の斯波高経に降伏した。だが胤貞は下総への帰途同年11月19日に三河国で病没する。降伏した貞胤は北朝方に寝返って、貞胤の子孫が千葉氏宗家を称し存続した。そのため肥前国小城郡に在った弟の胤泰は九州千葉氏として活路を見出したが、宗家の地位を失った千田氏はその後衰退していった。
胤貞は日蓮宗に帰依しており、領有していた小城郡に光勝寺を創建し、千田荘の浄妙寺・妙光寺・日本寺、八幡荘の法華経寺など日蓮宗の名刹を保護した。特に法華経寺については俗別当として第2代住持日高を支援し、また第3代住持日祐は胤貞猶子といわれ、肥前国小城郡と千田荘および八幡荘は次男胤平に譲ったが[6][注釈 3]、臼井荘は法華経寺に寄進している[7]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 得宗家は本来ならば将軍の下で一御家人という立場にありながら、烏帽子親関係による一字付与を利用して、他の有力御家人を統制したことが指摘されており、地域棟梁格の有力御家人であった千葉氏もその統制下にあった[1][2]。その統制の主体である烏帽子親、すなわち有力御家人が一字を賜る相手が将軍から得宗家へ移行したという見解も示されており[3][4](詳細は北条氏#北条氏による一字付与についてを参照)、泰胤が北条泰時、頼胤が北条時頼、宗胤・胤宗兄弟が北条時宗、胤貞・貞胤が北条貞時、高胤が北条高時から一字を拝領したと考えられる[5]。
- ^ 東禅寺の住持だった湛睿はその騒然とした様を、「華厳五教章纂釈」(金沢文庫所蔵)奥書に、「然世上転変之後、三四年以来都鄙不静謐、道俗尚多危」と記している。
- ^ 『雲海山岩蔵寺浄土院無縁如法経過去帳』の「当郡代々地頭」には胤貞と胤平との間に高胤の名が見られ、彼が胤貞の長男(胤平の兄)とみられる。この高胤が小城郡を領していたことは『中山法華経寺文書』 某年8月13日付の「平高胤寄進状」にもうかがえ、実際は当初嫡子であった高胤が父の領地を継いだものの早世したため、一旦父である胤貞が再度家督および領地を継承し、その後に胤平へと継承された可能性が高い。
出典
[編集]- ^ 菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』汲古書院、2011年。
- ^ 肥前千葉氏調査委員会「「服部英雄 中世小城の景観・海から考える」」『中世肥前千葉氏の足跡 : 小京都小城の源流』佐賀県小城市教育委員会、2011年。hdl:2324/20437。CRID 1130282270956311040 。
- ^ 角田朋彦「偏諱の話」『段かづら』三・四、2004年。
- ^ 山野龍太郎 著「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年、163頁。
- ^ 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』二、1979年、p.15系図・p.18、CRID 1570009752940858752。
- ^ 『中山法華経寺文書』 建武元年12月1日付 千葉胤貞譲状
- ^ 『中山法華経寺文書』 元弘元年/元徳3年9月4日付 千葉胤貞譲状など
参考文献
[編集]- 『千葉県の地名』平凡社〈日本歴史地名大系 12〉、1996年。ISBN 978-4-582-49012-1。