入来院定勝
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保21年4月9日(1736年5月19日) |
死没 | 天明元年10月9日(1781年11月24日) |
改名 | 千之丞(幼名)→定救(初名)→定勝 |
別名 | 通称:主馬、石見、大和 |
主君 | 島津継豊 |
藩 | 薩摩藩 |
氏族 | 島津氏→入来院氏 |
父母 |
父:島津継豊、母:渋谷貫臣娘・於嘉久 養父:入来院定恒 |
兄弟 |
島津宗信、島津重年、島津久峰、定勝、 菊姫(黒田重政正室)、樺山久倫室、 肝付兼伯室、島津久隆室、ほか |
妻 | 島津久富養女(島津久寿養妹、本田由親娘) |
子 | 定馨、定凭、嘉弥(町田久慶室) |
入来院 定勝(いりきいん さだかつ)は、江戸時代中期の薩摩藩士。父は島津継豊。入来院氏24代当主。家格一所持。石高2662石。
生涯
[編集]父の島津継豊は強度の疝癪による目まいに悩まされ、享保21年(1736年)に江戸に参勤した後帰国できず、翌元文2年(1737年)に在府の願いを幕府に出して許可され、以後12年にわたって江戸に滞在することとなった[1]がこうした中で鹿児島において出生する。また、継豊が最後に儲けた子供でもある。
母の実家と同族の桓武平氏渋谷氏の庶流・入来院氏23代目当主の入来院定恒の養子となり、元文4年(1739年)に家督を相続する。
宝暦2年(1752年)3月1日、栗野郷地頭となり、同9年3月まで勤める。また、宝暦6年(1756年)10月作成の「松平又三郎家中分限帳」[2]の組頭番頭に「2662石 入来院石見」とあるが、これは定勝のことである。
俳諧を奨励し、北薩における俳諧の全盛を築く。俳諧作法書を初め、句集数点を残す。
明和6年(1769年)、隠居して家督は定馨が継いだ。天明元年(1781年)死去。
参考文献
[編集]- 「島津氏正統系図」
- 「鹿児島県姓氏家系大辞典」角川書店
- 「諸郷地頭系図」