下岡忠治
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下岡 忠治(しもおか ちゅうじ、1870年10月26日(明治3年10月2日[1]) - 1925年(大正14年)11月22日)は、日本の内務・農商務官僚、政治家。衆議院議員、朝鮮総督府政務総監。号・三峰。
経歴
[編集]庄屋・酒造業、下岡直一の二男として摂津国川辺郡広根村(現:兵庫県川辺郡猪名川町)で生まれる。一時東京に転居し、麹町小学校を卒業[2]。その後は、大阪中学、泊園書院[3]、第三高等中学校を経て、1895年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。第三高等中学校、帝国大学時代を通じての同級生に浜口雄幸と幣原喜重郎がいる。大学卒業後内務属となり内務省大臣官房文書課勤務となる。同年11月、文官高等試験に合格。
1896年1月、熊本県参事官に就任し、京都府参事官、茨城県書記官、法制局参事官、兼法制局書記官などを歴任。1906年11月、秋田県知事となる。1908年10月、農商務省農務局長に転じ、農商務次官、枢密院書記官長、内務次官を歴任した。
1915年3月、兵庫県郡部区から第12回衆議院議員総選挙に出馬し当選。以後、1924年5月の第15回総選挙まで連続4回当選した。公友倶楽部、公正会に所属。第2次大隈内閣では、1915年7月から8月まで内務参政官に就任。その後、憲政会総務も務めた。
1924年7月、朝鮮総督府政務総監に就任。鉄道局長事務取扱などを兼務。1925年11月、胃癌のため[4]現職で死去した。
栄典
[編集]- 位階
- 1896年(明治29年)3月10日 - 従七位
- 1898年(明治31年)4月16日 - 正七位[5]
- 1900年(明治33年)4月30日 - 従六位[6]
- 1902年(明治35年)5月1日 - 正六位[7]
- 1905年(明治38年)3月20日 - 従五位
- 1907年(明治40年)4月20日 - 正五位
- 1912年(明治45年)3月1日 - 従四位 [8]
- 1924年(大正13年)12月15日 - 正四位[9]
- 1925年(大正14年)11月22日 - 従三位[10]
- 勲章等
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲四等旭日小綬章
- 1910年(明治43年)12月26日 - 勲三等瑞宝章[11]
- 1911年(明治44年)8月24日 - 旭日中綬章[12]
- 1915年(大正4年)11月7日 - 勲二等旭日重光章[13]
- 1925年(大正14年)11月22日 - 勲一等旭日大綬章[10]
親族
[編集]- 妻 下岡松子(白根竹介の姉)
伝記
[編集]- 三峰会編『三峰下岡忠治伝』三峰会、1930年。
脚注
[編集]- ^ 『日本近現代人物履歴事典』267頁。
- ^ 『麹町小學校の百年』千代田区立麹町小学校創立百周年記念会、1974年。
- ^ 下岡忠治(しもおか・ちゅうじ 1870-1925)関西大学 東西学術研究所 2020年6月18日閲覧
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)14頁
- ^ 『官報』第4436号「叙任及辞令」1898年4月18日。
- ^ 『官報』第5046号「叙任及辞令」1900年5月1日。
- ^ 『官報』第5645号「叙任及辞令」1902年5月2日。
- ^ 『官報』第8608号「敍任及辞令」1912年3月2日。
- ^ 『官報』第3707号「叙任及辞令」1924年12月29日。
- ^ a b 『官報』第3976号「叙任及辞令」1925年11月25日。
- ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。
- ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
- ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
- 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1962年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
公職 | ||
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先代 有吉忠一 |
朝鮮総督府政務総監 第4代:1924年 - 1925年 |
次代 湯浅倉平 |
先代 弓削幸太郎 鉄道部長 |
朝鮮総督府鉄道局長事務取扱 1925年 |
次代 大村卓一 |
先代 (新設) |
内務省参政官 1915年 |
次代 藤沢幾之輔 |
先代 水野錬太郎 |
内務次官 第19代:1914年 - 1915年 |
次代 久保田政周 |
先代 河村金五郎 |
枢密院書記官長 1913年 - 1914年 |
次代 有松英義 |
先代 押川則吉 |
農商務次官 1912年 - 1913年 |
次代 橋本圭三郎 |