三諸大原
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時代 | 奈良時代後期 - 平安時代初期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 大同元年11月9日(806年12月22日) |
改名 | 大原王→文室大原→三諸大原 |
官位 | 従四位下・備前守、勲三等 |
主君 | 桓武天皇→平城天皇 |
氏族 | 文室真人→三諸朝臣 |
父母 | 父:文室浄三 |
兄弟 | 沢王、文室与伎、文室真屋麻呂、大原、岡屋王妃 |
子 |
文室綿麻呂、 文室秋津、文室海田麻呂、 |
三諸 大原(みもろ の おおはら)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。大納言・文室浄三の九男。官位は従四位下・備前守。勲位は勲三等。
経歴
[編集]孝謙朝の天平勝宝4年(752年)父・智努王と共に文室真人姓を与えられて臣籍降下する[1]。
桓武朝の延暦4年(785年)従五位下に叙爵し、右兵衛佐に任ぜられる。翌延暦5年(786年)上総介として地方官に転じる。延暦9年(790年)治部少輔に任ぜられ京官に復帰するが、翌延暦10年(791年)には早くも陸奥介兼鎮守副将軍として地方官に戻り、蝦夷征討の任にあたる。蝦夷征討における大原の具体的な活動内容は伝わらないが、勲三等の叙勲を受けていることから、大きな戦果を挙げた延暦13年(794年)の征夷副将軍・坂上田村麻呂の遠征軍に従軍した可能性もある。またこの間、延暦11年(792年)文室真人から三諸朝臣に改姓している[1]。
その後、常陸守の任期中に稲216,090束を横領していたことが発覚するが、延暦21年(802年)になって罪を免ぜられている(この時の位階は従四位下)[2]。延暦23年(804年)播磨守、延暦24年(805年)備前守と引き続き地方官を歴任した。
平城朝初頭の大同元年(806年)11月9日に自邸で卒去。最終官位は散位従四位下[1]。
人物
[編集]頻繁に地方官を務めたが、解由状(国司の交代引き継ぎ証)の不交付となることはなかった[1]。
官歴
[編集]『六国史』による。
- 天平勝宝4年(752年) 9月22日:臣籍降下(文室真人)
- 時期不詳:正六位上
- 延暦4年(785年) 正月7日:従五位下。正月15日:右兵衛佐
- 延暦5年(786年) 正月28日:右兵衛佐。8月8日:上総介
- 延暦9年(790年) 7月24日:治部少輔
- 延暦10年(791年) 正月22日:陸奥介。2月21日:鎮守副将軍
- 延暦11年(792年) 日付不詳:文室真人から三諸朝臣に改姓
- 時期不詳:勲三等。従四位下
- 延暦21年(802年) 正月21日:見常陸前司
- 延暦23年(804年) 2月18日:播磨守
- 延暦24年(805年) 10月11日:備前守
- 大同元年(806年) 11月9日:卒去(散位従四位下)