「子供の頃から、テレビアニメで見た銭形警部の大ファンでした。いまや、自分があこがれの銭形になってしまいましたけど」
昨年11月、フランス・リヨンのインターポール本部。イタリア男性らしい軽妙なトークで迎えてくれたのは、伊警察からインターポールに出向中の刑事情報担当官、コッラード・カテージ氏だ。
「ルパン三世」の銭形警部は、投げ手錠と昭和世代のど根性がトレードマークだが、カテージ氏が美術犯罪の捜査で駆使するのは、インターポールが2021年に開発した最新アプリだ。
その名も「ID-Art」。スマートフォンにインストールすれば、24時間365日、世界中どこからでも130カ国・地域以上、5万3000点超の盗難美術品が登録されたインターポールのデータベースに無料でアクセスできる。インターポールの公用語である英語、フランス語、アラビア語、スペイン語に対応している。
操作はいたって簡単だ。盗難や不正取引の疑いがある絵画や美術品をスマホのカメラで撮影し、画像をアップロードするだけ。あとは画像認識ソフトがデータベースに登録されている画像と照合してくれる。
画像だけでなく、美術品の大きさや形、特徴など詳細情報を手動で入力して検索することもできる。盗品と分かれば、インターポールに通報する機能もある。
これまでデータベースにはパソコンを通じて、事前にIDとパスワードを登録したユーザーしかアクセスできなかった。新アプリではあえて事前登録の手続きをはぶき、スマホ対応にしてアプリをインストールすれば、だれでもすぐ使用できるようにした。これによって警察や税関職員、ディーラー、美術愛好家など、幅広い層が美術品の保護と犯罪防止に積極的に関わることが可能になったという。
開発に携わったカテージ氏は、「アプリを無料公開し、アクセスを容易にしたことで個人コレクターが蚤(のみ)の市などで購入するときにも盗品か事前に調べられます。盗品の回収だけでなく、盗品を買わないことで背後にいる犯罪組織と戦う有効な手段にもなります」と語る。
「誰でもアプリ」 170カ国でダウンロード
リリースから1年間で、アプリのダウンロード数は170カ国、2万4400回超に。現在5万5000以上に達しているという。
国別では米国、フランス、インド、イタリア、オランダ、スペインの導入が多く、ユーザーの96%が定期的にアプリを使い、導入初年で70万4000回以上の操作が行われたという。
具体的な成果も報告されている。スペインでは、盗まれた2枚のルネサンス期の絵画が約40年ぶりに発見されたほか、ローマ帝国時代の金貨3枚を回収。ルーマニアでは、2016年に盗まれた13世紀の貴重な十字架のオブジェが見つかったという。
開発でとくにこだわったのが、インターポールへ通報するとき以外は個人情報の入力をなくした点だ。「インターポールが把握できるのはアプリのダウンロード数だけで、誰がどの作品について検索したかといった他の情報は検知できません。犯罪者にこそ、このアプリを利用してほしいからです」(カテージ氏)
犯罪者の中には、盗品と知らずに闇市場で美術品を購入し、扱いに困って廃棄してしまうケースが少なくない。「最も重要なことは、盗品を購入しないという選択肢を誰にでも与えることなのです」と言う。
アニメのルパンは泥棒だが、強きをくじき、弱きを助けるヒーローだ。カテージ氏も大ファンだが、現実の美術品泥棒は「単なる犯罪者」だと言い切る。
「彼らは貴重な芸術作品を損ない、ときに人を傷つけます。そんな犯罪者に立ち向かえるこのアプリを、日本の皆さんもぜひ活用してほしい」
もう一つ重要な機能が、データベースへの事前登録だ。個人や美術館などユーザーが所有する美術品の画像や特徴を事前に登録し、「オブジェクトID」を取得しておけば、万一盗難に遭った場合でも調査に役立つという。
また、自然災害や略奪、紛争中に損傷を受けた可能性のある歴史的な建造物や遺跡など、危険にさらされている重要な文化的な場所をインターポールに報告する機能もある。
「私の母国イタリアで地震が起きて多くの美術品が失われたことが教訓になって考案されました。自然災害が起きた時、当局の専門家が同時にすべての現場に行くことはできませんが、このシステムで市民一人ひとりが貴重な文化財を守る担い手になれます」と、カテージ氏は話す。
欧州各国警察、美術犯罪は「後回し」
インターポールの報告によると、2021年に盗難被害にあった美術品は、調査対象74カ国で約2万3000点に上った。様々な事情から被害者が警察に届けないケースもあり、実際に被害にあった美術品は報告数を大きく上回ると推測される。
美術品の盗難といえば、絵画や彫刻を思い浮かべる人が多いかもしれないが、最多はコイン(貨幣)で全体の45%を占め、図書資料(約10%)、絵画(7%)と続く。
盗難件数の約79%を占める欧州で、各国の捜査機関を悩ませているのが人員不足だ。
レンブラントやフェルメール、ゴッホなどの名画家を輩出した芸術大国オランダ(人口約1790万人)。美術品を専門に捜査する現役刑事、リチャード・ブロンスワイク氏(61)によると、オランダでは年間約1000件の美術犯罪が発生しているが、全国レベルで専門に担当する捜査員は彼を含めわずか2人。あとは10地域に臨時職員を配置しているだけだという。
殺人や強盗など凶悪犯罪に捜査員を割くため、「窃盗」にあたる美術犯罪はどうしても後回しになりがちだ。
ブロンスワイク氏は言う。「美術犯罪の捜査には芸術や考古学など専門知識が必要とされるが、麻薬や人身売買に比べると、警察内の優先順位は高くありません。美術館から1000万ドルの絵画を盗んだとしても、警察や検察にとってはオフィスから何かを盗んだのと同じなのです」
隣国ベルギー(人口約1180万人)の状況はもっと深刻だ。
2000年代初頭にフランスで盗まれた美術品の多くが流れ込み、欧州の美術犯罪の「中心地」という不名誉な評価を受けてきたが、警察組織の大規模な再編で2016年に美術犯罪の専門チームは閉鎖された。その後まもなく復活し非専従の3人体制が組まれているが、実質1人でベルギー全土をカバーしているという。
2022年に引退した元刑事のリュカ・ファーヘイゲン氏(66)は、「同僚が引退した後の2年間、私1人でベルギー全体の美術犯罪を担当した時期もありました。長年の経験を買われ、引退後も民間人としてチームのサポートに入っています」と話す。
捜査に人員が割けない各国の警察は、犯人逮捕よりも盗まれた美術品の回収に重点を置くようになった。盗品は多くの場合、国境をまたいで闇市場で売買されるため、各国の担当刑事が緊密に連絡を取り合っているという。
現場の刑事たちの証言から、「ルパン三世」とは異なる美術犯罪の実態が見えてくる。
オランダの場合、美術館など警備が厳重な施設から高価な美術品が盗まれるケースは少なく、盗難の8割ほどが個人宅の庭の彫刻やブロンズ像だ。
それでも、地方の美術館が少ない財政の中から頑張って購入した有名芸術家の作品がターゲットになるケースも少なくない。幾度も標的になる作品もあって、17世紀に活躍した巨匠ハルスの作品「ビールのジョッキを持った2人の笑う少年」は3回も盗まれた。
オランダ警察のブロンスワイク氏は言う。「地方の美術館とはいえ、一つくらい頑張って傑作を買おうじゃないかと名画を購入するものの、それに見合った警備にかけるお金が残っていません。泥棒たちもその辺の事情を熟知して狙ってくるのです」
最近、美術犯罪の手口はますます巧妙化している。オランダ東部の画廊が英国のオークションハウスから絵画を購入し、指定された銀行口座にカネを振り込んだところ、その口座が真っ赤なニセモノで、カネをだまし取られたというケースもあったという。
このためオランダ警察は美術館などと協力して、セキュリティー対策の強化を支援している。美術館のスタッフに警備情報を外部に漏らさないよう注意を促したり、美術品保護のためのガイドラインを作成して提供したりしている。
長期にわたって活動する美術品窃盗団もいて、「1980~1990年に活動していた窃盗団が、2020年にも活動が確認された」(ベルギーの元刑事ファーヘイゲン氏)という。
犯罪組織の国際化も特徴の一つだ。オランダ警察のブロンスワイク氏はかつて、80歳の元教師の男をオランダで逮捕した。その男は約40年間にわたり、イタリアで違法に発掘されたかぶとや剣など貴重な考古学的遺物を修復師に修復させ、ベルギーやオランダで転売し巨利を得ていたという。「男は40歳で教職を辞め、この違法ビジネスに手を染めていました。つねに持ち物検査がない列車で各国を移動していたのです」
最近はインターネットを通じた美術品の取引が増加しており、少ない人員でいかに膨大な数のオンライン上の不正取引を監視するかが課題になっているという。
贋作判定システム スイス企業が開発
盗難と並んで、美術犯罪の大きな部分を占める「贋作」についても、最新のテクノロジーが威力を発揮しつつある。
スイスのチューリヒ郊外にあるベンチャー企業「Art Recognition」は2018年から、AI(人工知能)を使った絵画の真贋評価システムの開発を進めている。
オランダや英国の大学との共同研究を経て実用化されたこのシステムは、調査する画家が描いた真作の画像データをAIに大量に学習させる。それをもとにAIが、脳の神経回路網を数学的に模した「ニューラルネットワーク」で、その画家独自の筆づかいや色合い、構図などを解析する。
同社のカリーナ・ポポビッチCEOは、「真作のデータだけでなく、贋作や模倣作品なども混ぜて学習させることで、評価の精度を高めます。トレーニングには通常数日かかりますが、場合によっては1カ月ぐらいかかることもあります」と言う。
それでも、いったん学習が完了すれば、AIが評価に要する時間はわずか10分ほど。通常、AIが「80~90%」の高い確率で認めた場合に「真作」と評価するようプログラムされている。確率が「40~60%」の範囲にある場合は「結論に至らず」と回答するという。
「学習させるデータの質が良いほど、評価の確率も高くなります。『天才贋作師』といわれたヴォルフガング・ベルトラッキ氏の絵も正しく真贋を認識できました」とポポビッチCEO。
実際、あるネットオークションサイトに出品されている絵画をAIシステムで評価したところ、最大40作品が「かなりの高確率でニセモノ」と回答した。
「モネやルノワールなど有名画家の作品も含まれており、かなりの高値がついていました」
AIの技術向上のスピードには舌を巻くが、経験豊富な人間の専門家がいるのに、芸術の世界にまでAIを導入する必要はあるのだろうか。
ポポビッチCEOは言う。「人間の場合、どうしても主観や偏見が入ったり、その日のコンディションに左右されたりすることもあります。巨額の取引が行われる美術市場で、人為ミスは許されません。その点、AIなら客観的に常に同じ基準で評価が可能です」
彼女に言わせれば、人間の鑑定士に依頼すると作品を遠方から移送するなどコストがかさむ。AIなら画像をシステム上にアップロードするだけで評価できるので、コスト削減にもつながるというわけだ。
「最近はスマートフォンの性能が向上しているので、光の具合など条件さえ整えれば、プロのカメラマンに撮影してもらわなくてもスマホ画像で十分に評価できます」と、ポポビッチCEO。費用についても、「1作品あたり1500ドル(約24万円)程度から見積もりします。人間の専門家よりもずっと安価ですよ」
ただ、まだ課題もあるという。16、17世紀といった時代の巨匠の作品は大規模な工房で多くの弟子たちが完成を手伝っていた。こうした「共同製作」の作品に関しては、どこまでが師匠で、どこまでが弟子の手によるものかをAIが判断するのは難しく、現時点では評価を行っていないという。
また、ビジネス的な観点から、人間の鑑定士との共存も重要だ。一部の専門家の中には、そもそもAIの技量に懐疑的な人や、自分たちの仕事が奪われると懸念する人がいるという。
ポポビッチCEOは言う。「このAIシステムは今後、美術品市場の透明性向上に貢献することが期待されています。人間の専門家の脅威ではなく、彼らをどのようにサポートし、補完するのかという説明を詳細かつ慎重に説明していく必要があります」