ビッグテックが、国家から自由な領域という幻想を吹き飛ばした
国家に頼らざるを得ない現在の資本主義というシステムの中で国家に対抗することなど果たしてできるのか。本書では主に1970年代の新左翼と呼ばれた運動家や知識人たちの反国家思想を振り返りました。とくに21世紀初頭に話題となったネグリとハートの〈帝国〉論などです。ですが、グーグルやアマゾンといったテック企業の独占・巨大化によって、人びとの協働やコミュニケーションの発展によって国家から自由な領域が生み出されるなどという幻想は木っ端微塵に吹き飛びました。
これは歴史的に繰り返されてきたことではありますが、国家がリストラされ新しく作り変えられようとするまさにその時にこそ、国家に頼らずとも自分たちの生活を組織するような私たちの力量が問われているのだと思います。もちろん、いきなり国家なしに生活することは無理なわけですが、国家が機能不全になったときに備えて私たちの自律共生力(コンヴィヴィアリティ)を鍛えておく必要があります。そのためのプラットフォームが、果たして古くから存在するような地域共同体なのか、最近流行の「コモンズ」(土地や水、空気といった自然資源のみならず、図書館や交通機関、病院そしてインターネットといった様々な文化的・社会的資源から構成される)なのか、あるいは地方自治体や非営利組織を刷新・強化していくといったことなのか分かりませんが、数多くの実践やケースを列挙することができるでしょう。
なかでも重要なのは国家の政策のようなマクロ政治の次元だけではなく、やはり日常生活というミクロ政治の次元です。「国家主権」を内面化するのではなく、このミクロな日常の次元にこそ私たちの視点を集約させる必要がある。例えば、私たちの家庭ではおもに女性たちが介護や育児といったケア労働に従事せざるを得ないように、極端に社会的弱者にしわ寄せがいくような権力構造が続いてきました。これは何としても変えていかなければならない。自然災害やコロナ禍といった緊急事態の際につねに明らかになることですが、社会システムの基盤を支えるエッセンシャル・ワーク、再生産労働を社会の構成員が全員で支えていく仕組みを作っていく必要があります。
だけれども、富裕層を優遇する政策が実施されてきたなかで、カネ持ちでなければサービスを享受できないような状況が作り出されてきた。今の国家や市場とは別のオルタナティブな仕組みを創造していく必要があるのですが、もちろん現実の仕組みを完全に無視してそれこそユートピアな改善策をただ夢想するだけでは意味が無い。ですが本書で強調したように、今の仕組みだけに埋もれて思考していればいいかというとそうではなく、新しい仕組みというものを発見することができない。今のシステムにただただ漫然と従うか、あるいはシステムを乗っ取って自分たちの強欲をさらに満たすということにしかならないでしょう。
富裕層のために国家を解体しようなどと夢想する今の資本主義的ユートピアに対抗するためには、少なくとも私たちじしんがより良い社会を強く希求しなければならないことは確かです。