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インタビュー
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かれをしりおのれをしればひゃくせんあやうからず・・・・・ 敵の実力や現状をしっかりと把握し、自分自身のことをよくわきまえて戦えば、なんど戦っても、勝つことができるものです。なにか問題を解決するときも、その内容を吟味し、自分の力量を認識したうえで対処すれば、うまくいくものです。 「孫子・謀攻編」に見える格言です。その部分を引用してみますと、表題の語句につづいて「彼を知らずして、己を知れば、一たび勝ちて、一たび負く。彼を知らず、己を知らざれば戦うごとに必ず敗る」とあります。 「孫子」の全編を通じて、じつに詳細、綿密に戦略・戦術が論ぜられ、兵法の書としては古今東西にわたって随一と評されています。 ナポレオンが「孫子」を座右の書にしたことは有名ですし、第一次欧州大戦後、ドイツの皇帝ウイルへルム二世は、「20年前にこの本(孫子)を読んでいたら、勝敗の結果は変わったかも知れなかった」と語ったと伝えられ
感情には「いい感情」と「悪い感情」があります。「いい感情」は私たちの仕事や人間関係に肯定的な気持ちをもたらしてくれますが、「悪い感情」はその逆です。仕事の安定感やパフォーマンスを低下させ、考え方や人間関係へも悪影響を与えます。言い方を変えれば、「悪い感情」さえコントロールできれば、私たちの毎日は大きく違ってくるはずです。そこで、本連載では、悪い感情をコントロールするための技術を紹介していきます。 今回は、知り合いや会社の人間から挑発を受けたときの対処法について学びます。どのような場所でも、嫌な挑発をしてくる人間はいるものです。実際にこのような状況に遭遇した場合、どんな反応をするのがベストなのでしょうか。 厄介な「人からの挑発」 難しい感情コントロールの一つに、他人の挑発をどうかわすかというものがあります。「挑発」という言い方は少し大げさかもしれませんが、相手の言葉の端々にこちらの感情を逆な
くんしのまじわりはあわきことみずのごとし・・・・ よくできた人物の交際を見ていると、あまり他人の実情に深入りをしないことが多いようです。良好な人間関係を長く維持して行くためには、水のようにアッサリしたお付き合いもいいでしょう。 「荘子」の「山木篇」に「君子の交わりは淡さこと水の如し、小人の交わりは甘きこと醴の如し」とあり、我々の職場の付き合いや、日常での交友関係に参考となる格言を遺しています。 「物事をよくわきまえた人の交際は水のようだ」と述べた後に続いて「つまらぬ小人物の交際は、まるで甘酒のように甘く、ベタべタした関係であり、一時的には濃密のように見えても、長続きせず、破綻を招きやすいものだ」と述べています。 「醴」は甘い酒のことをいい、ここではと甘酒を対比して、交際のやり方を比喩で示していると見てよいでしょう。 一般の解釈のなかには、君子を教養人とし小人は教養程度の低い人を指しているの
はいぐんのしょう、へいをかたらず・・・・・ いくら連戦連勝の勇士であっても、負け戦の将として捕えられるような身分になれば、自分の戦略など述べないものです。他人にとっては、過去を振り返っての自慢話や愚痴は聞き苦しいものです。 「史記」「淮陰候伝」の項にみられる逸話です。そのストーリーの概略は下記になります。 「漢の武将である韓信は、有名な『背水の陣』を敷いて兵をふるいたたせ、趙の大軍を破ったのでした。この戦いの後、韓信はさらに進撃し、趙の部隊を急追するために山あいの挟道を進むことを選びました。これを知った趙の戦略家であり、著名な勇将、李左車は漢の部隊を挟撃することを趙の宰相、陳余に具申します。 しかし、李左車の進言は採り入れられず、韓信は予定どおり挟道を通過して勝利を収めました。 もし、陳余が李左車の進言を採用していれば、漢の部隊を分断し一気に撃滅できていたかもしれません。陳余は捕まえられ、
自分が誤っていると悟ったなら、躊躇なく、すぐ改めるべきです。いたずらに体面や人のおもわくを考えて、改めるのを恐れてはいけません。 過ちについての格言も中国の故事のなかに多く見られます。関連のあるものを二・三あげてみましょう。 「過ちて改めざる、之を過ちと謂う」 「小人の過ちは、必ず文る」 「過ちは好む所にあり」 まず、表題の語句は、論語・学而にみえるもので、「己に如かざる者を友とするなかれ、過ちては則ち改むるに憚るなかれ」と続きます。 つまり、「自分より劣っていると思われるものと、いい気になって交際していてはいけない。また、間違ったと気付いたらすぐ改めた方がよい」といっているのです。 また、「過ちを改めないのが過ちなのであるから、過失をおそれるより、過ったらそれを是正しない態度の方が問題です」「凡人は得てして、過ったときなんとか弁解したり、とりつくろうように行動するものです」「失敗は、得て
じょうぜんはみずのごとし・・・・・ 最高の人生のありかたは、水のように生きるということです。水は自分の存在を主張しないで、低い方へ自然に流れていきます。水のようにしてこそ心穏かにすごすことができ、また円満な人間関係を創り上げることができます。 「老子」の八章に見える有名な言葉です。その本文をたどってみると、次のようになっています。 「上善は水のごとし、水はよく万物を利して争わず、衆人の恵む所に処る。」つまり「最高の善は水のようなものでなければならない。 水は万物を助け、育てて自己を主張せず、だれもが嫌うような低い方へと流れて、そこにおさまる」と、述べています。 やや、難解かもしれませんが、老子の生き方を知るための鍵として取り上げてみました。 この他「水は方円の器に従う」「流水先を争わず」など水の性質を、「自由で流動的なものであるとする格言がみられます。 いずれにしても、なにが人間にとって大
何をするにも、いき過ぎになっていると、それがどんなに良いことでも、むしろ不足ぎみや、不満足な状態と変わらないのです。過度になってしまうようであれば、むしろ控え目にしている方がよろしいようです。 孔子の高弟に子貢という人がいました。彼はなかなかの人物でしたが、人物評が好きで、孔子はややもてあまし気味のようでした。 あるとき、子頁は同門の2人を比較して、「どちらが賢明ですか」と尋ねました。孔子が「A氏の方は度が過ぎているし、B氏の方はやや不足ぎみだ」と答えると、子貢はすかさず「すると、A氏の方が優れているのですね」と重ねて尋ねました。これに対する孔子の答えが、「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」だったのです。 子貢はもちろん、学問がよくでき、しかも頭の鋭いA氏の方がB氏より優れているという返事を期待していたのでしょうが、孔子は期待に反して、「おなじようなものだよ」と答えたのでした。この返事のなか
ちゅうようはとくのいたれるものなり・・・・・ なにごとをするにも、やりすぎてはいけない。そうかといって遠慮しすぎるのも良くない。ほどほどに行動するということが、最高の人徳というものであります。 「論語・擁也」に見える孔子の言葉で、原文は、「中庸の徳たる、其れ到れるかな。民鮮きこと久し」となっています。 つまり、「不足でもなく、余分のところもなく、丁度適当にバランスよく行動できるということは、人徳としては最高のものです。しかし、そのような人を見ることは少なくなりました」と嘆いているのです。 中庸は孔子の教えの究極的なポイントであるということから、いろいろの学説がありますが、あまり難しく考えず上記のようにシンプルに理解してよいと思います。 「論語・子路篇」では、「孔子いわく、中行を得て之れと輿にせざれば、狂ケンか。狂者は進んで取り、ケン者は為さざる所有り」としているのです。子路は元気ものでやや
『20歳のときに知っておきたかったこと (What I Wish I Knew When I Was 20)』は、2010年のベストセラーとなりました。その著者で、スタンフォード大学でアントレプレナーシップとイノベーションの講座を担当しているティナ・シーリグさんに、本の話、クリエイティビティの話、アントレプレナーシップの話などをうかがいました。 清水:それでは、始めましょう。まず、そもそもなぜこの本を書こうと思ったのですか? シーリグ:それには、とても長い話があります。まず、息子のジョシュが20歳になる時までに、私自身が今から振り返って20歳の時に知っておけばよかったと思うことをリストにしておこうと思ったのです。息子へのリストアップだったのです。その時は、本にしようとは考えてもいませんでしたし、本になるとも思っていませんでした。 清水:そうだったのですか。なぜそれがベストセラーのこの本につ
自らの身を正しくして清廉潔白なのは、よいことには違いないが、あまり度がすぎると、他人のあらを見つけてはとがめだてするようになり、しまいには友人を失い、孤立してしまうようになる恐れがあります。 出典の「漢書」「宋名臣言行録」によれば、「水至って清ければ、則ち魚なし。人至って察なれば則ち徒なし」となっています。つまりあまりきれいな水には魚が住めないし、潔白すぎて、他人をとがめだてするような人は、仲間がなくなると述べています。 また、「後漢書」には次のようなストーリーが語られています。「西域の総督の班超はなかなかの人物で、人情の機微に明るい人でもあったが、後任の任尚が、統治の心得をたずねたところ、『君はあまり潔癖すぎるから何ごとももう少し大まかな態度を取る方がよい』と教えました。しかし、任尚はこの教えに従わず厳しい方針で臨んだため辺境の平和を失うことになった」とのことです。このとき、「水清ければ
ハラスメント防止教育への新アプローチ。「Gap Graph(ギャップグラフ)」スタート。 2023.05.22
著書『いま、すぐはじめる地頭力』、『アナロジー思考』が話題沸騰の細谷功さんの連載コーナーです。 果たしてアタマの回転の速い人がアタマのいい人なのか? その答えは大きく意見が分かれるところです。なぜならばアタマのいい人の定義が人それぞれになっていて、アタマのいい人を測るものさしがなかったことに因ります。 “人生の目覚まし時計”は、話題の地頭力について毎月更新で、本質に迫る連載コラムです。タイトルでもある“人生の目覚まし時計”の意味については細谷さんの著書をお読みになってみてください。
世間をうまくわたり、成功するためには、戦いに勝つことにこだわるよりも、争わないように勉めることが大切です。一見して負けて後退しているようにみえても最終の勝利を手に入れ、ひいては良好な人間関係を周囲に築くことになるのです。 孫氏流にいえば「走為上」(走るを上とす)ということで、三十六の戦略のなかで逃げるということが最上であると述べているのです。私どもの日常生活のなかでも「負けるが勝ち」とか「逃げるが勝ち」などという格言をなにげなく使っています。つまり、敵と正面から戦ってこれを排除するためには、相当なエネルギーを使いますし、自分も傷つくことが多いのですが、逃げの一手で攻撃をかわし、力を温存し、最後に勝利をおさめるのがよいという生き方の知恵を言い表したものです。 さて、中国流戦略の三十六計には次のようなものもあります。 A)「空城の計」…だまし打ち、カムフラージのたぐい B)「借刀殺人」…自分の
All Rights Reserved by IEC, 2009 連載コラム・コンテンツ いま、なぜ地頭力か 「問題解決」と地頭力との関係 地頭力の構成要素とはなにか? まずは疑ってかかること~「知的好奇心」で思考回路を起動する~ 論理思考力とは? ~「当たり前」だからこそ難しい?~ 直観力とは?~年をとるのも悪くない? 仮説思考力とは?~「ないない病」から脱却せよ~ フレームワーク思考力とは? ~高所から作戦を立てる~ 抽象化思考力とは? ~特徴をつかんで単純に考える~ 思考回路を起動するために ~「人生の目覚まし時計」を鳴らす~ 『知的依存心』が考える力をなくさせる ~「恵まれた教育環境」は本当にいいのか?~ 「地頭力」の取り扱い説明書~たかが地頭力、されど地頭力~ 株式会社アイ・イーシー 東京都千代田区麹町3-2 Tel 03-3263-4474
きゅうそねこをかむ・・・・ 弱いものでも、追いつめられるて逃げ場を失うと、居直って天敵といえるような相手でさえも立ち向かって、異常な力を出して反撃するものですから、相手が弱くても、逃げ道のないところに追いこんではいけないという教えです。 出典は、「塩鉄論・詔聖」。漢の昭帝の時代に賢人を集めて編纂した経世実用の書からのものです。 この本は、道徳論でなく、現実に実社会で生活するための知恵がいろいろ集められています。原文は「死すれば再びは生きず、窮鼠猫をかむ」となっていて「死にものぐるいになっている鼠は、死んだらもう生きかえることはないのだと、最後の力をふりしぼって戦う」と述べているのです。 「窮」という字は、ものごとのギリギリのところを示します。穴の最も奥のところをいうのです。「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」ということわざは、「おいつめられて行き場を失った鳥が猟師のふところのなかに飛び込んできた
わしてどうせず・・・・・・ 人と協調していくが、決してむやみに同調しないということで、人とのなごやかな人間関係には心掛けるが、その場かぎりに、無責任に賛成したりしないという意味です。 「論語・子路」のなかに出てくる文言で、「君子は和すれども同ぜず。小人は同ずれども和せず」の前半部分を取ったものです。後半は、「つまらぬ人間は、やたらに人の意見に賛成するが、真に共感しているのではなく表面だけを合わせているのであり、友好関係は生まれない」ほどの意味でしょう。 「付和雷同」(礼記・曲礼上)は「雷が鳴ると、それに応じて反射的に響く音のように、自分の定見もなく是非の判断もなく、賛成する」ということでほとんど同意義です。 「和」というのは、われわれ日本人が大切にしている美徳の一つです。「和気諸々」というのは、「気分のよい、ほんわかした雰囲気」のことであり、ことを荒立てずにうまく調和していくことでしょう。
自分がいやだと思うようなことを人にしてはいけない。人間にとって最高の徳は、この教えから始まるのです。つまり、善行を積むまえに、まず自分の行動を慎み、全体のルールに従うということが大切です。 孔子の弟子のなかで、もっとも徳行の秀れた弟子といわれた顔淵との会話をまとめた章にこの有名な言葉は出てきます。当たり前のことで誰にでも分かりやすく述べてあり、参考になります。 孔子の教えのなかの「仁」という徳目がよく挙げられます。これが「最高の徳」という意味に使われているということは知られていますが、実生活上の応用はなかなか難しく、孔子もいろいろの言い回しで具体例を示して説明しています。 まず、孔子は顔淵に向かって、「仁とは克己心を身につけて、秩序によく従うことだよ」(おのれに克ちて、礼に従う、これ仁となす。)と答えました。自己をおさえて、自然にルールに従うようになれば最高の共同生活ができるのだ、と教えた
くんしのまじわりはあわさことみずのごとし・・・・ よくできた人物の交際を見ていると、あまり他人の実情に深入りをしないことが多いようです。良好な人間関係を長く維持して行くためには、水のようにアッサリしたお付き合いもいいでしょう。 「荘子」の「山木篇」に「君子の交わりは淡さこと水の如し、小人の交わりは甘きこと醴の如し」とあり、我々の職場の付き合いや、日常での交友関係に参考となる格言を遺しています。 「物事をよくわきまえた人の交際は水のようだ」と述べた後に続いて「つまらぬ小人物の交際は、まるで甘酒のように甘く、ベタべタした関係であり、一時的には濃密のように見えても、長続きせず、破綻を招きやすいものだ」と述べています。 「醴」は甘い酒のことをいい、ここではと甘酒を対比して、交際のやり方を比喩で示していると見てよいでしょう。 一般の解釈のなかには、君子を教養人とし小人は教養程度の低い人を指しているの
ある程度の安定した財産がないと、心も動揺しがちで、安定した状態を保つことはできないものです。清貧に甘んずることは、心構えとしては立派ですが、一般の庶民には難しいことです。 「孟子」の「梁上編」にある言葉をやや日本風に修正した格言です。原文から孟子の真意を探ってみると、「恒産なくして恒心あり、若もそれ民に恒産なければ、因りて恒心無からん」。「心構えとしては、普通レベルの定収入や財産がなくても、平常心を失わないことが大切です。しかしもし一般の人民に、きまった相応の財産がなく、収入も不安定であれば、安定した気持を期待するのは無理というものでしょう」ということになります。 この文章を理解するキーは「恒」という字です。この意味は、変らないもの、常に決まったものということです。私どもが普通に使う熟語としては「恒例」があります。会社のお正月の儀式で、司会者が「恒例により、社長から年頭のごあいさつを頂きま
フィンランドといえば森と湖に囲まれた北欧型の福祉国家というイメージが強かったのですが、近年では、世界経済フォーラムの国際経済競争力でも常に上位を占め、教育においても「フィンランドモデル」が脚光を浴びるなど、なにかと注目を集めている国です。 そんなフィンランドに憧れ、十六歳で単身留学し、現在大学生活をおくっている高橋絵里香さんの現地からの毎月連載のレポートです。 「フィンランド教育は形ばかり真似ても効果がないものと思っています。方法のみ導入するのではなく、その根底にある考え、ねらいを深く理解していただくことが大切・・・・」と高橋さんは力説しています。
道のいきすがりに、袖が振れ合うというような、偶然でほんのささやかな出会いであっても、それは前世からの深い緑で起こるのです。人との絆を大切にしたいものです。 仏教の世界観には、命あるものは死を迎え、そして何度でもれかわり、輪廻のなかを回り回っているという思想があります。したがって、正しくは「他生の縁」ではなく「多生の縁」といわなければなりません。しかし、「多生」ということが、一般に馴染みにくい言葉であるというところから、「他生」の方が多く使われており、また許容された用法となっています。 私たち日本人は、日常生活のなかで「ご先祖の生まれ変わり」とか、「前世で悪いことをした報いが来た」などと、「因果応報」というような考え方を比較的、自然に受け止めているようです。 もちろん、「袖」は着物の腕を通すところのことてすが、現代風にいいかえてみると、「電車のなかで、偶然となりの席に座った縁」というような状
心の友と呼べるような親友が遠くから訪ねてきてくれるのは、たいへん増しく楽しいものです。特に同好の志を持つ者が集まってくることは人生を豊かにします。 「論語」の「学而編」の中にあり、「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」と続きます。人生の最高の楽しみの一つは、仲のよい友人とともに酒をくみかわし、歓談することであるという、孔子の人間味のある喜びが、この一語から伝わってきます。古代中国では、人間は腹の中で、ものごとを考えるとされていたようで、「肝胆相照らす」という言葉があります。「肝胆」は、肝臓、胆嚢のような人間の内臓です。つまり、考え方がお互いに照し合うように、よく見え通ずる友人ということです。 多くの友人があっても、趣味が一致しているとか、おなじ志で一筋に生きている人と掛合うチャンスは稀であり、折角出合いがあっても、いろいろの事情で、遠隔の地に住まなければならないことも少なくありません。そ
◆隗より始めよ ◆合従連衡 ◆後世畏るべし ◆漁夫の利 ◆三顧の礼 ◆兵は詭道なり ◆国士無双 ◆籌を惟幄の中に運らす ◆伯楽の一顧 ◆敵を知り己を知れば百戦殆からず ◆呉下の阿蒙 ◆巧詐は拙誠にしかず ◆大器晩成 ◆風林火山 ◆朽木は雕るべからず ◆常山の蛇勢 ◆適材適所 ◆先んずれば制す ◆追い手に帆を揚げる ◆越俎の罪 ◆暴虎馮河 ◆草木皆兵 ◆士は己を知る者の為に死す ◆汗馬の労 ◆王佐の才 ◆短兵急 ◆泣いて馬謖を切る ◆善く游ぐ者は溺る ◆疾風に頸草を知る ◆入るを量りて出ずるを為す ◆天地に正気あり ◆善く戦う者は怒らず ◆明主は一顰一笑を愛しむ ◆敗軍の将、兵を語らず ◆法三章 ◆天網恢々、疎にして失わず 株式会社アイ・イーシー 東京都千代田区飯田橋4-4-15 本サイトのコンテンツの無断転載を禁止します
人物を見抜くことで有名な人の知遇を得て、登用の道がひらけることをいいます。伯楽は馬を鑑定する名人であり、売れない馬でも、彼が道で一寸振り返って見ただけで、価格が10倍になったと伝えられています。 伯楽は、性は孫、名は陽、「列子」や「准南子」のような老荘系の書物に登場していろいろ逸話を残しています。「世に伯楽あって、しかるが後に千里の馬あり」のように伯楽に見いだされないと、名馬も名馬となれない、というようなものもあります。 秦の穆公は、自分の部下で馬の鑑定の名人である伯楽を大いに尊重していたのですが、彼も老齢となったため、秘訣を子供に伝えておくように命じました。ところが伯楽は、「私の子供は凡人でその素質はないと思います。馬を外見からみるだけなら、形や筋骨などで分かるのですが、千里の馬という名馬となれば、外見上の顔・姿・格好からでは判別できないのです」として、その能力を備えた人物として九方皐と
努力の結果を待つ場合、やるべきことがすんだのなら、慌てず、焦らずなりゆきにまかせてゆっくり寝て待つような姿勢が望ましいのです。 この教えは、仏教の教義と人生の知恵を合体してできたようです。一般的に、「因果応報」とういことは、前世で施した慈善や殺生などの悪業がこの世で報われることをいいます。 しかし、現世で実際に教義通りになるかどうかは、「神のみぞ知る」といえます。 凡人にとっては、結果を待つということは必ずしも容易ではありません。「待てば海路の日和あり」というように、待っていれば、やがて晴れ、チャンスが訪れてくるのに、焦って出発して暴風雨に遇うということは多々みられるところです。 なお、「果報」を正確に言うと「果」の方は、善いことをおこなったときによい結果が出るというように、因果が正しく廻ってくることですが、「報」の方は行為の結果がその原因どおりにならないようなむくいのことです。 いずれの
朝三暮四‥‥‥中国古代の宋に狙公という人がいました。狙公は猿をとても可愛がり、たくさん飼っていたのですが、暮らしが貧しくなり、毎日猿に与える餌のとちの実を減らさなければならなくなりました。 そして、猿を集めて事情を説明し、とちの実を朝三つ、晩に四つあげようというと、猿どもは怒りだしました。そこで、朝四つ、晩三つでどうだというと、猿どもは皆喜んだとのことです。 この話は、「列子」黄帝篇のものです。ここで考えていただきたいのは、猿が簡単にだまされてしまったことを我々は笑うことができるかということです。 国債しかり、年金問題しかり、そして日常の身辺に起こる様々なことの中に「前だおし」という言葉が出現します。これは現代版の「朝三暮四」ともいえるのですが、なぜか誰も怪しんだり、その方法を笑ったりしないのです。
他人のやっている動作や態度で好ましくないと感じたら、その相手をとがめる前に、自分は他人に対して同じようなことをしていないか、他人の行動を自分のこととして省みなければならない。。 「振り」というのは「振る」という動詞から、動作をすることの意味になり、さらに「振りを付ける」のように「演技のしぐさを指導する」と、転化しています。要するに、ここでの意味は「身振り、しぐさ、ビへイビアー」ということになります。 中国の格言のなかにある「他山の岩、もって玉を攻むべし」つまり、「他の山の粗悪な石は、それそのもので飾ることはできないが、自分の玉を磨くのに使える」とほとんど同じ意味です。 他人の欠点や、行動の誤りなどは、とかく目につきやすく、気になりやすいものですから、それを指摘して改めるように求めたくなります。 しかし、自分の欠点や、やり方の誤りについては気がつかず、それを修正することは難しいようです。そこ
まともな人間であれば自分の真価を認めてくれるような知遇を得れば、その人のために命も惜しまないという気になるものです。 「史記・刺客伝」によれば、戦国時代に晋の予譲という人がいました。子譲がかつて仕えていた恩人である知伯の仇を討つときにいった言葉は、「士は己を知る者の為に死し、女は己を説ぶ者のために容つくる、今、智伯は我を知る」でした。 その意味は「立派な男子であれば、自分の真価をよく知ってくれて、認めてくれた人のためなら死んでもよいと思うものだ。女性は、自分がそばにいると喜んでくれるような人がいれば、その人のためにお化粧をするものだ」です。 志士が、自分の命を捨てて働いてもよいと考えるとき、「死は鴻毛よりも軽し」と表現します。自分の命がおおとりのとても軽い羽毛よりも軽いということです。こちらの方は司馬遷の有名な文章の「入固より一死あり、或いは泰山よりも重く、或いは、鴻毛よりも軽きは、用の趨
◆積善の家に余慶あり ◆百聞は一見に如かず ◆恒産なくして恒心なし ◆所変われば品変わる ◆人生意気に感ず ◆可愛い子には旅をさせよ ◆一所懸命 ◆任重くして道遠し ◆果報は寝て待て ◆月下氷人 ◆朋あり遠方より来る ◆糟糠の妻 ◆益友 ◆兄弟牆に鬩ぐも外其の務を禦ぐ ◆刎頚の交わり ◆子孫の為に美田を買わず ◆虎渓三笑 ◆虚室、白を生ず ◆桃李成蹊 ◆立志 ◆韋編三度絶つ ◆登竜門 ◆石に漱ぎ流れに枕す ◆塞翁が馬 ◆成竹を胸中に得 ◆人間五十年夢幻のごとくなり ◆堆敲 ◆六十にして、六十化す ◆鶏鳴狗盗 ◆長生久視、不老長寿 ◆草枕 ◆上春を尋ねて、春を見ず 株式会社アイ・イーシー 東京都千代田区飯田橋4-4-15 本サイトのコンテンツの無断転載を禁止します
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