2025-02-28

弔電と自戒

先日、母方の祖母が亡くなった。

親戚一同が各地から葬儀に向かう中、自分都内に残り仕事の合間をぬって弔電を送った。

比較血縁関係の近い親族であることから、弔電が読まれ可能性が高いと考え、慎重に文章を考えた。

故人との思い出をいくつか記載し、テンプレート丸コピは避けつつも、葬儀に出席できないことを詫びる言葉を丁寧に添え、最後に追悼の意を表す文章で卒なくまとめた。

漆塗りの立派な台紙を選んだのは、せめてもの罪滅ぼしに他ならない。

身内の不幸が重なる年齢になったとはいえ、たった3年前に実の父が亡くなった際は視界が歪むほど号泣し、少しでも父の名残を感じると町中であろうと涙し、あれだけ世間に対して感傷的になったというのに、

その後立て続けに、父方の祖父、母方の祖父、母方の祖母が亡くなると、

身内の死よりも仕事を優先し、

「ウケ」を気にした文章が書けるようになり、

弔電の台紙の値段を見て「ここで8000円以上出す人間は故人に対して何か後ろめたい事でもあるんじゃないか

などと不謹慎考察をしてしまうぐらいには、立派に生きた人の死に対してまでも、ここまで無機質になれる人間になってしまったのかと、気がついた瞬間は落ち込んだ。

葬儀後の母親から、素晴らしい弔電だったと親族から評価が高かったと連絡を受けたとき、一瞬でもおごった考えをもってしまった自分を見て見ぬふりをしてしまったら、

それこそ大切なものを失ったまま戻れなくなってしまう気がする。

ギリギリのところで一歩立ち止まって、自戒のためにこの文章を書いているが、きっと過去には立ち止まれずに忘れ去ってしまった大切なものもあったのだろうとも思う。

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