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COMWARE PLUSでブックレビューを担当することになりました

COMWARE PLUS の「デジタル人材のためのブックレビュー」に寄稿することになりました。第1回目は宮内悠介『暗号の子』です。

およそ2年ぶりに COMWARE PLUS の「デジタル人材のためのブックレビュー」を再開することになり、以前よりブックレビューを担当していた高橋征義さんの推薦があり、ワタシも三月に一度ブックレビューを寄稿することになった。

過去回を見れば、ワタシは池澤あやか氏の代打の位置づけと解釈している。技術書そのものよりもテックカルチャー担当ですね。

それでも初回で小説を取り上げるのはちょっと攻め過ぎかとも思ったが、池澤あやか氏がマンガを取り上げた回もあり、また『暗号の子』の内容的にも許容範囲と考えた。

原稿依頼は昨年12月の前半にあり、1月末には原稿を送付していた。実はずっと別の本を取り上げようと考えていて、しかし、どうも気乗りしないところがあり、どうしたしたものかとずっと思案していた。

その候補本の質は問題なく、飽くまでワタシ自身の内心の問題だったのだが、今年の正月『ロボット・ドリームズ』鑑賞後に前田隆弘氏にお目にかかる幸運があり、その際にこのブックレビューのことを話したところ、「それは別の本について書いたほうがよいのではないか」と助言いただいた。

その時はむにゃむにゃと言葉を濁したが、今となっては前田さんの言う通りであり、『暗号の子』に変えてよかったと思う。

元の候補本がなんだったか気になる人もいると思うが、実は今回のブックレビューにちゃんとその書名も入っているんですよ(笑)。そう、その本です。

前田隆弘さんとは親不孝通りの鳥貴族で一時間ほどアルコール抜きでお話させてもらったが、上記の話などワタシのことを少し話した以外は、ひたすら雨宮まみさんのことを話続けてしまった。

自主制作版、中央公論新社版の両方を持っている『死なれちゃったあとで』のことをもっと聞くべきだった、と後になって頭を抱えたものである。もちろん雨宮まみさんのことも『死なれちゃったあとで』の一部ではあるのだが、その節は好き勝手喋って前田さんに申し訳なかった、と今改めて思う。

SEOから生成AI向け検索対策GAIOへのシフトにより、セマンティックウェブの復権……はなさそうだ

先月から小林啓倫さんが、生成 AI による SEO検索エンジン最適化)から GAIO(生成 AI 最適化)へのシフトの話を書いている。

後者の文章については、ワタシも昨年夏に「Googleからウェブサイトへのトラフィックがゼロになる日」という文章を書いているが、それが本格的になってきたようだ。

さて、そこでカタパルトスープレックスニュースレターの「LLM時代の新たなSEO戦略(LLMO/AISEO)」に書かれる LLM 時代の SEO を読んでいて閃くものがあった。

セマンティックHTMLの活用も重要だ。単なる<div>タグではなく、<article>、<section>、<header>などの意味のあるタグを使用し、コンテンツ構造をAIに伝える。ニュースサイトであれば各記事を<article>タグで囲み、明確な見出し構造を持たせることでクローラーの理解を助ける。

schema.orgに基づく構造化データの実装も効果的だ。LocalBusinessスキーマを使用して店舗情報を明示したり、FAQPageスキーマでよくある質問と回答をマークアップしたりすることで、リッチスニペットの獲得率が向上する。

カタパルトスープレックスニュースレター - by Kazuya Nakamura

これってセマンティック・ウェブ復権につながらないだろうか?

セマンティック・ウェブといえば、ティム・バーナーズ=リーによって提唱され、かつてはこれこそが Web 3.0 の本命だと彼もぶちあげていたが、現実にはそこまで浸透はしなかった。

しかし、それから20年近く経ち、生成 AI 最適化の時代に今一度セマンティック・ウェブが注目される! とぶちあげるアングルで文章を用意していたのだが……。

小林啓倫さんの最新記事によると、現実にはロシアが早くも量でプロパガンダを押し切る手法で生成 AI 最適化を早くも実現しちゃったようだ。

残念ながら、セマンティック・ウェブ復権よりも「LLMグルーミング」のほうが現実的らしい。うーむ。

そうそう、小林啓倫さんの翻訳仕事については昨年末にも讃えているが、先月にも新たな訳書『SENSEFULNESS(センスフルネス)』が出ていますな。すごい仕事量だ。

最終講義を終えられた増井俊之教授の「発明家」としての歩み

ワタシがさくらインターネット福岡オフィスで横田真俊氏のトークを椅子の上で正座して拝聴していた頃、増井俊之慶應義塾大学環境情報学部教授の最終講義が行われていたようだ。

増井俊之氏の業績を振り返るインタビューが公開されている。

corp.helpfeel.com

増井俊之氏にはゼロ年代はじめから2010年代前半の10年余りの期間に Wiki ばなや yomoyomo 飲み会(通称)で何度もお会いしてお話する機会があったのだが、ワタシが氏から一貫して感じていたのは、変わらぬ貪欲さであった。

上にリンクしたインタビューを読んでも分かるように、氏は iPhone の日本語入力システムを開発した偉人なのだが、それで満足したところがなく、もっとユーザインタフェースを改善できないか、もっとより良いものはないかの探求が続いており、というかなんでキミら今の多数派に満足してんの? オレの作ったもののほうがずっと良いぞ、という気概が薄れるところがなかった。

ひとまず、増井先生、お疲れ様でした。

Wordpressサイトにおける過去記事中のリンクをWayback MachineのURLに置き換えるWaybackify-WP

wirelesswire.jp

さて、この文章の中で、ウェブページ中のリンク先が消えてしまう問題、内容が変質してしまう問題に対して、「文中に張るリンク先をすべてインターネットアーカイブWayback Machine(の検索結果)にしてしまうのは、さすがにやりすぎというか、なにより面倒です」と書いたのだが、それをやるためのスクリプトを作る人がいたのを今更知る。

Netscape ブラウザの開発や初期 Mozilla への貢献で知られる jwz こと Jamie Zawinski が、HTML ファイル中のリンクをすべて Wayback Machine の URL に置き換えるスクリプト Waybackify の WordpressWaybackify-WP を公開していた。

これは cron から実行するスクリプトで、Wordpressプラグインではないのに注意。jwz 自身、公開から5年以上経ったすべての投稿にこれを適用しているとのこと。

yamdas.hatenablog.com

この話題についてはワタシも昔触れているが、「恐ろしく悲しい未来」なんて言わずに過去投稿は Waybackify しないといけないのかもなー。

ネタ元は Pluralistic

デヴィッド・グレーバーの遺作の邦訳『啓蒙の海賊たち あるいは実在したリバタリアの物語』が来月出る

yamdas.hatenablog.com

3年近く前にデヴィッド・グレーバーの遺作を紹介したのだが、その邦訳となる『啓蒙の海賊たち あるいは実在したリバタリアの物語』が来月刊行されるのを知る。

ワタシは原書を紹介したとき、「彼の人類学者としてのキャリア初期の仕事の書籍化ということかな?」と書いたのだが、岩波書店のページには「グレーバー生前最後の著作」と書いているので、そういうわけでもないのかもしれない。

さて、原書紹介時には「この本が今度こそ最後の遺作になるはず」とも書いたが、もちろんそんなことにはならなかったわけである。

www.nytimes.com

これは昨年末の New York Times の書評だが、グレーバーのエッセイを集めた The Ultimate Hidden Truth of the World が昨年出ている。まぁ、確かにこういう本は出るわな。

これも来年あたり翻訳が出るのでしょうかね。

ブルータリスト

内容に踏み込みますので、未見の方はご注意ください。

近年の映画の長尺化については、膀胱的プレッシャーの面でいい加減にしろよと思っており、本作も3時間半超という上映時間を知っただけでキレそうになったのだが、この映画はその点素晴らしい。

どういうことかというと、この映画、『アラビアのロレンス』や『2001年宇宙の旅』や『ディア・ハンター』みたくインターミッションが入るんですね。3時間超の映画を劇場でやる場合、インターミッションを義務化してほしいと思ってしまう。

しかも、本作はインターミッション周りが素晴らしいのである。インターミッションが素晴らしいって、もちろん回りくどいけなしではない。

基本的にインターミッションって、映画の真ん中あたりでぽんと静止画に代わるだけだが、本作の場合、音声カットバック(という用語はないと思うが)が極まり、盛り上がり切ったところで自然とインターミッションに入る演出が素晴らしい。そして、インターミッション中に背景に写るものもちゃんと意味があり、しかもインターミッション中にかかる音楽にも工夫があり、徐々に音声が入っていき、また自然に後半に入るところが見事なのだ。

本作を観ていて仰天したのだが、それはワタシ自身の勘違いに起因している。

どういう勘違いか? 本作が実話を基にした映画だと思い込んでいたのだ。

ワタシはある映画を劇場に観に行くと決めたら、それに関する評や感想はなるだけ読まないようにして臨むようにしている(ブログなどは URL だけメモしておき、自分の感想を書いた後に読む)。

なので、本作について実話ベースと何かで勘違いしてしまっていたのだ。エイドリアン・ブロディが、本作と同じくホロコーストのサバイバーの主人公を演じた『戦場のピアニスト』からの連想もあったかな。

また今回、劇場入場時に「建築家ラースロー・トートの創造」と書かれた紙片をもらったのだが、それを見て、本作に製作過程が描かれるマーガレット・ヴァン・ビューレン・コミュニティセンターが、やはり実在するものと事前の思い込みが強化されたところもある。また建築分野は門外漢なもので、ブルータリズムについてまったく知識がないのも一因だった。

あれ? と思ったのは、その紙片の一番最後にラースロー・トートのプロフィールが書かれているのだが、その写真がエイドリアン・ブロディで、普通、こういうのは本人の写真を使わないかと少し疑問に思ったが、そこで紙片をもう少し読み込み、一番下に「本書の内容は一部を除きすべて架空の内容です。」という一文があるのに気づいていたら話が違ったのだが。

ここまで長々とワタシ個人の勘違いについて書いたが、正直、実話ベースと思って観たほうが衝撃が大きいので、それ自体には後悔はない。

ハンガリーから逃げのびた主人公らがアメリカに到着して見上げる空に映る逆さまの自由の女神から始まり、単純なハッピーストーリーなわけはないが、アメリカで成功する移民一代記ものかと思っていたら、本作は主人公がアメリカに蹂躙され拒絶される物語であり、そしてアメリカを去り向かうのがイスラエルという、昨今の世界状況を考えると、なんとも言えない気持ちになる映画だった(エピローグでの主人公の姪のスピーチの終わり方の気持ちの良くなさもすごい)。

本作はある意味『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』『TAR/ター』に近い感触がある映画だが、前述の勘違いのため、『悪は存在しない』級の唐突さに仰天してしまうのである。

本作は光と影の演出が印象的な映像だけでなく、音楽も素晴らしいのだが、エピローグにかかる曲は80年代の場面だからいいとして、エンドロールでかかる曲があれなのはどういう意図があったのだろう? 3時間半超の映画にしては低予算で実現された、しかし、とても見事な本作において、あれだけが疑問だった。

名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN

本作について書く前に、ボブ・ディランについて書いておきたい。

兄の影響で洋楽を聴き始めた1980年代、ワタシのボブ・ディランに対する印象がひどく悪かった。何より彼の声が受け付けなかったし、当時明らかに作品的に低迷していたのに、チャリティー企画で大御所的なポジションで優遇されるのも気に入らなかった。

そのように最悪な印象から接することになったが、90年代に彼が復調するのにともない、さすがにワタシも鑑賞力があがってきて、彼の作品が理解できるようになり、印象も変わるのだが、まさか2020年代まで彼が現役で優れた作品を作り、精力的にツアーをこなすとは思わなかったな。

本作はキューバ危機、公民権運動、ケネディ暗殺といった当時のアメリカの政治状況をしっかり組み込みながら、そのディランのキャリア初期を描くものだが、その時代に生み出された名曲の数々が、まさに生み出されたばかりのものとして歌われ、新曲として披露される瑞々しさとともに描かれている。

本作のエンドロールにおいて、ディラン、ジョーン・バエズピート・シーガー、そしてジョニー・キャッシュの歌声が、すべてそれぞれを演じたティモシー・シャラメ、モニカ・バルバロ、エドワード・ノートンボイド・ホルブルックによるものであるクレジットがあるが、ホルブルック以外は素晴らしい域に達していた。やはり、ティモシー・シャラメは見事だったねぇ。

また本作は自由を貫くディランの才能に巻き込まれる他の人たちの哀しみが描かれているのも良かった。本作のクライマックスである1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルの出番前のディランに、シーガー(エドワード・ノートンは偉大な俳優だ)が語るスプーンのたとえのいじましさ、そして「君はシャベルだ」というところにそれがよく出ている。そうした意味で、本作におけるバイクの排気音も気持ちいいというか、当時のディランの攻撃性を表現していると思った。

あと "Like a Rolling Stone" レコーディングのアル・クーパーの逸話(ギタリストとして呼ばれたのに、マイク・ブルームフィールドという天才がいたため出番がなくなり、しかし、なんとか参加したくて半ばもぐりこむ形で起動の仕方も知らないハモンドオルガンを弾いた)がちゃんと描かれているのも個人的には嬉しかったし、ニューポート・フォーク・フェスティバルの翌日、椅子を片付けるピート・シーガーの姿などちょっとした描写もよかったですね。

先週は木曜日に『ブルータリスト』を観て、その翌日には本作で、映画鑑賞的には2025年の頂点なんじゃないかな。

イーロン・マスク並びにDOGEについてのゼイナップ・トゥフェックチーとローレンス・レッシグの見解

www.nytimes.com

コロナ禍はそちら方面の記事が主になっていた印象があるゼイナップ・トゥフェックチーだが、最近は『ツイッターと催涙ガス ネット時代の政治運動における強さと脆さ』の著者らしい文章もぼちぼち New York Times に寄稿している印象がある。

彼女がイーロン・マスクが DOGE で行っているクーデターの真意を探る文章である。

マスクを政治の文脈だけに位置づけようとするのは間違いだと彼女は説く。彼は政府の役人のように課題に取り組むのではなく、国家の技術システムに組み込まれた脆弱性を悪用し、サイバーセキュリティの専門家が内部脅威と呼ぶような活動を行うエンジニアの手法を使っているというのだ。

米国政府の情報機関間の細分化が9.11を防げなかった反省から、膨大なデータを収集し共有する統合システムが構築されたが、それを運用するには数人のシステム管理者に強大な権限を与える必要がある。Uber でいう「ゴッドビュー」ですね。

エドワード・スノーデンが膨大な情報を持ち出して内部告発できたのも、彼がシステム管理者だったからだが、『ウォッチメン』でも引用される「誰が見張りを見張るのか」問題が避けられない。

現在、DOGE の連中が政府全体のシステム管理者になり、この中央集中型のデータベースを握っているわけですね。トゥフェックチーの文章の締めは読んでてなんとも暗い気持ちになる。

今、私たちは、政府の正当な機能を行使したい人たちと、政府を解体したい、つまりは自分たちの目的のための政府を武器化したい人たちに同じだけの能力を提供するシステムから抜け出せなくなっている。誰がデータベースにどのような権限でアクセスしたか知る仕組みすらないと見える。裁判官が尋ねても、明確な答えが得られるとは限らない。それを知るのはシステム管理者だけで、彼らは何も言わない。

lessig.medium.com

ローレンス・レッシグも DOGE について書いている。

彼は以前の文章から「ポピュリズムは党派的なものではなく、関係的なものだ。重要なのは左派対右派ではない。内対外が重要なのだ。ポピュリズムとは現状に対する拒絶である。インサイダーに対する拒絶である。ポピュリズムとは、人々が自分たちの声を聞いていないと思っている体制に対する悲鳴なのだ」という文章を引用した後で、左派の多くは DOGE を攻撃するが、それは間違いだと書く。

どういうことかというと、我々は DOGE の理想を受け入れた上で、現政権が行っていることはその理想に何ら沿ったものではないことを示すべきだと説く。

DOGE の理想とは何か? それは効率的で汚職のない政府へのコミットメントである。しかし、現政権の目的は普通のアメリカ人を助けることではなく、トランプへの資金提供者を助けることで、DOGE が行っていることはその最も明確な証拠だと言うのだ。

だから、まず最初に DOGE の原動力となる理想は正しく、良いものであること、政府の効率性を根本的に改善する必要があることを認め、次に政府に効率性を求め、そして現実の DOGE がやっていることがクレプトクラシー(kleptocracy)、つまり少数の権力者が国民や国家の金を横領して私腹を肥やす政治体制であることを説明するべきと説く。

DOGE がやっていることが見事にイーロン・マスク個人に利益をもたらしていることについては New York Times の記事に詳しいが、実際は DOGE がやっていることは政府の大した経費節減にならず、政府の仕事を悪化させ、このままでは不条理なミスが延々と続くことになる。

これをレッシグは「チャンスだ」と書くのだが、「選挙資金をくれた人間に政府を委ねるとどういうことになるかという実例をくれた」と書いた上で、「資金提供者の勝ち。我々の負け。いつもそう」と文章を締めており、全然チャンスじゃないだろ! とツッコみたくなる。

まぁ、ノア・スミスが言うように、イーロン・マスクを無能と侮るのは危険すぎるというのは確かだが、悪い意味でも有能なのがねぇ。

Skypeの終焉によせて

www.itmedia.co.jp

とうとうこの日が来てしまった。

一昨年に「Skypeの隆盛と凋落の20年史」というエントリを書いているが、それから特に何のトピックもないまま、Skype は22年の歴史に幕を閉じる。

Skype の破壊性を考えるうえで、以下のツイートが的を得ているように思う。

個人的なことを書かせてもらえば、もちろん Skype の高品質の無料通話にはとても助けられたけど、Skype を契機として、P2P の名前を冠した勉強会、カンファレンスに参加することで知り合えた人が多く、そうした意味でも Skype には感謝の気持ちがある。

Skype 自体およそ10年前にはもはや P2P アプリケーションでなくなっていたのだが、かつてあった「P2P」への期待の名残りは、例えば、横田真俊氏のブログの名前などに見られる。

世界を変えた130人の驚くべき女性たち

歴史は必ずしも見かけ通りではない、という書き出しで始まる記事だが、これは DNA の二重らせん構造の発見に不可欠な研究を行ったのにノーベル賞受賞の名誉に預かれなかったロザリンド・フランクリンのことを指している。

そのように必ずしもしかるべき評価を受けなかった人を含め、ジャンルを問わず困難な試練に立ち向かった勇敢な女性を Mental Floss 編集部が130人(正確には132人)リストアップしている。

単純にそのリストを紹介させてもらうが、以下はアルファベット順である。

やはりアメリカ人中心で、日本人は田部井淳子ただ一人。

ウィキペディア日本語版にページがない人が結構いるなという印象だが、その一人であるエリザベス・フリードマンについては評伝の邦訳を昨年秋に取り上げているね。

ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』におけるヴァージニア・ウルフへのオマージュ?

note.com

これは発見というか、ワタシが無知なだけかもしれないが、読んで驚いたので紹介しておきたい。

この note の最初に「桜町にある純喫茶ルパン」とあるが、実はこの喫茶店、ワタシの実家から徒歩圏内にあるのだが、それは余談である。

ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』の文庫化に合わせて、おそらくは日本の各地で行われているであろうこの本の読書会の話である。

ワタシも『百年の孤独』は文庫版が出るなり改めて買い直し、この機会を逃したら死ぬまで読めないだろうと気合を入れてようやく読破しましたよ。その後、Netflix によるドラマ版も、ついこの間完走した(第2シーズン以降ちゃんと作られるといいのだが)。

ワタシが面白いと思ったのは、ガブリエル・ガルシア=マルケスが影響を受けた作家にヴァージニア・ウルフの名前を挙げており、『百年の孤独』にも彼女のオマージュが含まれるという話である。

以下、長いが引用させてもらう。

ウルフの名作『三ギニー』は、サブタイトルを『戦争を阻止するために』とし、『自分だけの部屋』の続編として刊行されました。ウルフが、男性弁護士から戦争を阻止するために何ができるか?と質問され、3年越しに書いた手紙という形を取ったエッセイ(評論文)です。三ギニーとは、平凡社から刊行されたバージョンを翻訳された片山亜紀氏により、こう解説されています。
(女性の)「日々の生活に消えていく金額ではあるが、稼ぎ出すのにはそれなりの労力を要する」額であると。また、換算は難しいとした上で、さしづめ、現在の3万円といったところでしょうかと仮定している。
ウルフはそれを3つの非営利団体に1ギニーずつ寄付することで、戦争を阻止できるか実験的思考を展開させますが、3ギニーにそんな力はありません。
そして、姉妹編である前作『ひとりだけの部屋』には、「女性が小説を書くにはお金とひとりだけの部屋が必要」と語っています。
と、大雑把すぎる説明ですから、詳しくはぜひ本編をお読み頂きたいのですが、そのウルフが『百年の孤独』文庫版12ページにオマージュされているのを発見しました!
ウルスラがもしものためにと父から貰った金貨の内の3枚をベッドの下に隠していたのに、ホセがそれを易々と持ち出してメルキデアスの持ってきた道具の購入費にあててしまうのです。それによってホセはリポートを書いて当局に送り、人脈ができた上に、新たな興味関心を満たし得る学術書を貰い、天文学に没頭し、ついには「自分ひとりの部屋」まで手に入れます。汗水流して働く妻子を尻目にです。その時のウルスラの様子やこの不均衡は『百年の孤独』本文にてきちんと描写されます。
そう、『百年の孤独』はウルフから大きな影響を受けたガルシア・マルケスが書いているのです。疑いもなく!

マコンドの会発足|Book with Sofa Butterfly Effect

マジか! あの最初のほうにある3枚の金貨の逸話にはそういう意味があったのか。

ワタシが無知なだけで、ガルシア=マルケスやウルフを知る人なら皆知る話なのかもしれないが、この二人の作家を結び付けて考えたことがなかったので、これには驚かされた。

ピーター・ティールが創業したパランティアのCEOによる自社宣伝本はテクノリバタリアンを理解する格好の本か

パランティア・テクノロジーズといえば、「シリコンバレー随一のヴィランにしてカリスマ」ピーター・ティールが立ち上げたデータ解析企業であり、国防総省など米国の政府機関と深い関係を築き、アメリカの国家安全保障にかなり食い込んでいる企業である。

The Technological Republic はそのパランティアをティールらとともに創業し、現在も CEO であるアレックス・カープが共著した本である。

Bloomberg に掲載されたジョン・ガンツの書評は、この本が現代人が口にできないタブーに挑戦する本であると書いた上で、この本はひどい本で退屈で、ひどいアイデアに満ちており、暗く憂鬱な未来を予告している、とのっけからボロクソに書いている(笑)。

この本は「シリコンバレーは道を誤った」というのが大枠の主張である。元々シリコンバレーは、革新的な新技術で米国政府と民間セクターの大胆なパートナーシップを実現していたのに、いつしか消費者と市場に迎合するものに退化してしまった。パランティアはその本道に戻る会社というわけですね。この本は本質的にパランティアの広告だとジョン・ガンツは書いている。

「米国政府と民間セクターの大胆なパートナーシップ」を担う存在としてのシリコンバレーの成り立ちという話は、ここでも何度か取り上げている『The CODE シリコンバレー全史 20世紀のフロンティアとアメリカの再興』(asin:4041131995)の内容と実は合致している。

書名である「技術共和国」とは何か? 案の定、テクノリバタリアンが考える「技術共和国」とは民主主義よりも権威主義に近いようだ。この書評を読む限り、シリコンバレー創業者神話ビジネスモデルと政治哲学の野合も含まれるようで、この書評は「国家権力の源泉と限界について真剣に考えることもなく、本書は矛盾に満ちている」とこの本の反動性を手厳しく指摘している。

この書評では、デイヴィッド・ハルバースタムの『ベスト&ブライテスト』(asin:4544053064asin:4544053072asin:4544053080)を引き合いに出して、この書名がアメリカをベトナム戦争の泥沼に引きずり込んだ「才能ある人たち」を指す皮肉であるのを人々は忘れていると嘆いているが、この本にも同じ皮肉があると言いたいのだろう。

逆に言えば、2期目のトランプ政権におけるテクノリバタリアンによるクーデターを理解する格好の本と言えるかもしれない。これは邦訳を待ちたい。しかし、それまで我々の世界は無事だろうか?

ネタ元は The Future, Now and Then

伊藤ガビンさんの連載の書籍化『はじめての老い』が来月出る!

note.com

伊藤ガビンさんの「はじめての老い」は毎回感じ入るところがあり、ワタシも「黒電話と『1973年に生まれて』とらくらくホン」で取り上げさせてもらった。

そこでも書いたが、氏より10歳年少のワタシは、まさに氏のあとを追って「老い」に向かっている自覚があるのだ。

で、その連載がPヴァインから書籍化されるとのこと。ワオ!

しかし、思えば、伊藤ガビンさんが単著を出すのって20年以上ぶりではないだろうか? これはなにげに一種の事件ではないか。

『ファクトリー・レコード全史』刊行を機にマンチェスター絡みの翻訳本をまとめておく

Threads を見ていて、『ファクトリー・レコード全史』なる本が今月出たのを知る。930ページとは大変な労作である。

ファクトリー・レコード、並びにトニー・ウィルソンについては「トニー・ウィルソンが語るイアン・カーティスとの出会い、ファクトリーがスミスと契約しなかった理由」をはじめ何度もここでも取り上げているが、マンチェスター関係の音楽本の邦訳って多いよなぁと思い当たったので、ミュージシャン自身によるものを中心にまとめておきたい。

ザ・スミス

スミス関係の本はいくつもあるが、モリッシーに関しては長らく翻訳拒否されていた自伝も5年前に出ている。

彼のインタビュー本もリストに入れてよいかな。

そして、彼のかつての相棒にして今は完全に関係が冷え切ってしまったジョニー・マー回顧録も出ている。

オアシス

オアシスも同様で……と思ったら、6月にはケヴィン・カミンズによるオアシスの写真集が出るみたい。

ウィリアム・S・バロウズのテレビ初出演は1981年の「サタデー・ナイト・ライブ」だった

www.openculture.com

昨年9月に第50シーズンが始まり、今年放送開始50周年を迎える「サタデー・ナイト・ライブ」だが、先日 SNL50: The Anniversary Special が放送され、復活ニルヴァーナをはじめとする豪華音楽ゲストも話題となった。

さて、それにちなんでこの名番組の過去の放送もいろいろ記事になっているが、ウィリアム・S・バロウズの初めてのテレビ初出演もこの番組だったとは知らなかったな。

これが1981年で、今からすればまだ番組初期で、まだ流動性があったから実現した出演で、『ノヴァ急報』(asin:4893422170)と『裸のランチ』(asin:4309462316)の朗読は今からすればかなり異質である。実際、本来は6分間の出演を予定が、「3分以内にしろ!」と指示が入ったそうな。でも、ここからサブカル界のアイコンとしてのバロウズ爺の晩年につながるのである。

そういえば、「サタデー・ナイト・ライブ」といえば、これの初回放送までの90分を描くジェイソン・ライトマンの新作映画を昨年夏に取り上げているが、『サタデー・ナイト/NYからライブ!』として、劇場公開……はされず、来月はじめにはデジタル配信が開始されるとな。うーん、映画館で観たかったな。

さて、ウィリアム・バロウズに話を戻すと、バロウズといえば、彼の原作をルカ・グァダニーノ監督、ダニエル・クレイグ主演で映画化した『Queer/クィア』が5月には日本でも公開されるようなのだが、まだ公式情報がないな。

バロウズの原作には、山形浩生柳下毅一郎さんによる邦訳が80年代末に出ているが、当然ながら絶版である。映画の日本公開にあわせ、こちらの復刊などは期待できないだろうか。

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