「麻原彰晃の妄想は病的レベルを超えた」受刑者が手記で明かした地下鉄サリン事件の内幕 瀬口晴義

2025年3月16日 06時00分
0

記事をマイページに保存し、『あとで読む』ことができます。ご利用には会員登録が必要です。

〈地下鉄サリン30年 無期懲役囚の手記〉①(全3回)
1995年3月20日に起きた地下鉄サリン事件から30年。
オウム事件を長年取材してきた私は、実行犯の送迎役を務めた杉本繁郎受刑者(65)=無期懲役刑が確定し服役中=と、20年以上にわたって、面会や100通近い手紙のやり取りを続けてきた。
杉本受刑者は古参信者で、教祖の麻原彰晃(本名・松本智津夫)=2018年7月死刑執行=の素顔を最もよく知る人物の1人。教祖がどう変貌したのか。杉本受刑者から寄せられた手記から事件を振り返ってみたい。(瀬口晴義)
※記事は杉本受刑者に了解を得て、最近寄せられた手記を中心に再構成しました。

<杉本が実行犯の林泰男(現姓・小池)=2018年7月死刑執行=を送迎した地下鉄日比谷線の路線は、最多の死者8人を出した。林は他の実行役より1袋多い3袋のサリンの袋をとがらせた傘の先端で突き刺した。杉本は松本サリン事件が教団による犯行であることや教団施設内でサリンを製造しようとしていたことを認識していた>(文中・敬称略)

◆「サリンをまく」と聞き、頭の中にフラッシュ

地下鉄サリン事件の前日、(別の路線で)実行犯となる広瀬健一=2018年7月死刑執行=から、強制捜査を阻止するために地下鉄にサリンをまく、と聞きました。頭の中に一瞬フラッシュが光ったように感じられ、思考がまったく働かない状態になりました。
「そんなことをしたら、招き猫になるんじゃないか」(逆に強制捜査を招く、との意味)と口にしました。
私はこの事件の前、出家信者と元出家信者の殺害事件に関与させられ、1人は実行行為までさせられました。
ですから、サリンをまく計画から逃げたい、抜けたいという思いは強くあっても行動に移すことはできなかったのです。
サリンをまけば教団は確実に崩壊するという思いも意識の中で強くありました。

1995年3月20日、有毒ガスが発生した車両で倒れ、ホームで心臓マッサージを受ける被害者=東京都港区の地下鉄日比谷線神谷町駅で

しかし、「尊師は私より高い次元で物事を考えているのだから、大変深遠な意味があるはずだ」と自分を納得させたのです。
なんと愚かなことでしょう。どんなに後悔しても後悔しきれません。

◆事件の速報に教団幹部は「やったぁ」と…

サリン散布を終えた林と秋葉原駅近くの路上で合流し、集合場所の渋谷のマンションに戻りました。
やがてテレビに「地下鉄にガスがまかれ人が倒れている」とテロップが流れると、待機していた井上嘉浩(教団「諜報(ちょうほう)省」トップ、本事件の「総合調整役」と認定)=2018年7月死刑執行=は「やったぁ」と声を上げ、満面の笑みで飛び上がらんばかりでした。送迎役の新実智光(教団「自治省」大臣)=2018年7月死刑執行=と笑い合っていました。
サリンをまいた実行役の者たちはみな深刻な表情でした。豊田亨(日比谷線で散布、教団「科学技術省」次官)=2018年7月死刑執行=が一番深刻そうな顔をしていました。
渋谷のマンションを出て中央高速の国立府中インターで下車し、犯行に使った服、靴、かつらなどを多摩川の河川敷で2時間前後かけて焼却処分しました。

◆麻原からねぎらいの「おはぎとジュース」

その後、山梨県上九一色村(当時)の教団施設に戻り、新実智光、林泰男とともに、第6サティアンにある麻原の自宅で報告をしました。

1995年3月20日、防護服に身を包み救助に向かう東京消防庁の化学機動隊員=東京・霞が関で

麻原は「今回はご苦労だったな」と労(ねぎら)い、新実智光から報告を聞くと、「これはポアだからな。分かるな」と言い、おはぎとジュースを一人ひとりに手渡し、こう言ったのです。
「君たちは今から瞑想(めいそう)しなければならない。グルとシヴァ大神とすべての真理勝者方にポアされてよかったね、という詞章を1万回唱えなさい。それで今回のことは君たちの功徳になるから」

◆「中華航空機事故は私を狙った毒ガスが原因」

麻原は当時、何を考えていたのでしょう。
1995年元旦の読売新聞朝刊1面で山梨県の教団施設内からサリンの残存物が確認された、と報じられた時点で、麻原は自らが迎えるべき運命は予見できたはずです。
地下鉄サリン事件は教団組織の崩壊を少しでも遅らせるための悪あがき、かもしれませんが、そのためだけに、あれだけの事件を引き起こすのでしょうか。
この当時の麻原であれば、そんな発想をしても何ら不思議ではないように思われるのです。
一例として、1994年4月、名古屋空港で起きた中華航空機の事故について、麻原が「この事件は私を狙ってまかれた毒ガスが原因だ」と語った説法が挙げられます。
この頃の麻原の思考は論理性がなく支離滅裂、自らの逮捕を1日でも先延ばしにしようと考えたとしても不思議ではないと思われるのです。

◆事件の1年以上前から「命を狙われている」ホテル転々

1993年秋ごろから、麻原は(フリーメーソン、または国家権力から)命を狙われているという妄想を抱くようになり、特に同年10月以降はそれが病的なほどになりました。
それは例えば自分に向けて毒ガスがまかれているなどの理由から主に都内のホテルをランダムに利用し、1泊、短い滞在をしたらホテルを移動していました。

警視庁本部庁舎

麻原はホテルの部屋に入ると、ホテルの空調設備を使って部屋に毒ガスがまかれているなどと言い出し、すぐに他のホテルに移動したりするのです。これを日に何度も繰り返すのです。
この時のホテル手配は井上嘉浩が行っていましたが、ランダムに選んだはずのホテルのその部屋に麻原が入室すると、その直後から常に部屋の中に毒ガスがまかれることが繰り返し行われていたというのです。
そんなことは全くあり得ないことです。しかし、麻原はまじめにそう主張していたのです。
この頃、ロシアに渡航した麻原が入国直後にすべての予定をキャンセルしてとんぼ返りで帰国したというエピソードがあります。
同行していた井上嘉浩によると、ロシアに入国した麻原が命を狙われたということが理由でした。私の記憶では麻原の妄想がひどくなったのはこのエピソードの後だった思うのです。

◆敵対行為には攻撃、警視庁占拠も計画

1994年4月に「軍事訓練」が命じられたその席で麻原は、警視総監を人質に取る警視庁占拠計画について触れました。
この時、麻原や新実智光らは、総監を人質に取れば首都圏を掌握できると考えていたようでしたが支離滅裂な妄想でした。

杉本の手記。「麻原の妄想の集大成それが地下鉄サリン事件」とつづっている

当時の麻原の妄想は病的のレベルを超えるぐらいに悪化していたことは確かだと思います。
妄想が急激に悪化した背景には、自分は国家権力などから狙われて当然の特別な存在であるという、ある種の優越感もあったのだと思います。
それはある種のプライドでもあったのでしょう。同時に彼が命じた事件にもある種の傾向があるようにも思われます。
自分や教団に対する敵対行為には攻撃を、また信者らの反逆、反発行為には粛清をというものです。
坂本弁護士一家殺害や松本サリン事件は、教団の弁護士や裁判所に対する敵対行為への攻撃でしたし、出家信者らの殺害は信者らの反発、反逆または敵対行為に対する粛清でした。
1995年1、2月ごろ、近々麻原が逮捕されるという噂が教団の一部に広まりました。
麻原の無実、無罪が分かり、麻原は釈放されて真の敵であるフリーメーソンと戦うというものでした。「最終解脱者は何をやってもカルマにならない。すべて許される」というのは麻原が直接語ったことです。
麻原がこのような妄想を本気で信じ込んでいたと考えると、行動のすべて、例えば妻以外の女性との性行為を含めて理解できるのではないでしょうか。

坂本弁護士一家殺害事件 1989年11月、横浜市磯子区の自宅アパートで、坂本堤弁護士(当時33)、妻(当時29)、長男(当時1歳2カ月)の3人が教団幹部らに殺害された。地下鉄サリン事件後に教団の犯行が発覚。1995年9月、3人の遺体は富山県などの山中で見つかった。

松本サリン事件 1994年6月夜、長野県松本市の住宅街で信者7人がサリンを散布。教団が抱えていた民事訴訟を担当していた長野地裁松本支部の裁判官が住む官舎が標的になった。周辺住民ら8人が死亡し、約600人が体調不良を訴えた。報道機関は当初、第1通報者の河野義行さんを容疑者扱いしていた。

◆事件は「麻原の独り善がりな妄想の集大成」

地下鉄サリン事件は自身の逮捕を1日でも遅れさせることができればいい、というその場での思い付きであり、行き当たりばったりの短絡的思考といえるでしょう。

杉本の手記。地下鉄サリン事件前の1993年秋ごろから、麻原は命を狙われているという妄想に取りつかれていたとしている

そして、逮捕後は、最終解脱者である自分の「願望成就の神通力」を使えば、その願望はたちどころに成就し、釈放されると本気で考えていたのでしょう。
その自らの間違いに麻原が気づいたのは1997年から98年にかけてのことでした。法廷で奇行が目立つようになったのが、この頃です。
事件は麻原の独り善がりな妄想に基づいたもの、という結論は、麻原の運転手や警護役として間近に見ていた私だからこそ納得できるのです。
麻原の妄想(または被害妄想)の集大成、それが地下鉄サリン事件であったと断じることができるのではないでしょうか。

◆「大義名分」など全く存在せず

この手記を書いている時、なぜか日本赤軍のことを思い浮かべました。メンバーが、社会主義国家の建設という革命を夢に見た背景にはキューバ革命があったものと思われます。
目的達成のためには一般市民の犠牲もいとわない、そのような思いで活動していたようです。
その当時の彼らには彼らなりの大義名分もあったようですが、それはかなわぬ夢であり、かなえるべきでない夢だったことにも気付かされたようです。
もし革命が成就していたなら、彼らは英雄となったのではないか。
しかし、教団による事件には大義名分などは全く存在していませんでした。にもかかわらず、「ポア」だの「救済」だのいわばわれわれにとっての大義名分に祈るようにしがみつき、違法行為を実践・実行してしまったのです。

◆「カルトのジョン」に取り込まれた

思い出すのは一審裁判で証言してくださった精神科医の高橋紳吾先生の証言です。
われわれの通常の人格は「ジョンのジョン」。カルトに洗脳させられると、この人格が「カルトのジョン」という人格に取り込まれます。

教団施設の倉庫にあった三塩化リンを運び出す専門業者ら=1995年3月25日、山梨県上九一色村(当時)で

日常生活において「カルトのジョン」の人格が表面化することはないものの、カルト側の指示・命令を受けると「カルトのジョン」の人格に抑え込まれ、その人格による選択をしてしまうのだそうです。
そしてこの事件の時、私が実体験したことは「ジョンのジョン」の人格の葛藤を「カルトのジョン」がすべて抑え込み、カルト側(麻原)の指示命令を最優先してしまうという「カルトのジョン」による体験そのものでした。
(続編は、東京新聞デジタルで3月17日午前6時に公開予定です)
   ◇

杉本繁郎(すぎもと・しげお) 出家番号4番の古参幹部。ホーリーネームはチベット仏教の高僧にちなんで「ガンポパ」と授けられた。麻原彰晃元死刑囚の運転手や警護役を長く担当した。地下鉄サリン事件では、最も多い死者8人を出した地下鉄日比谷線でサリンをまいた林泰男元死刑囚の送迎役を務めた。事件後に「正悟師」に昇格。このほか、2人の出家信者の殺害事件に関与したとして、2009年に無期懲役の刑が確定し、山形刑務所に服役している。

瀬口晴義(せぐち・はるよし) 1964年生まれの「オウム世代」。オウム事件がライフワークの1つ。87年に中日新聞入社、東京新聞社会部で司法記者を長く担当した。1面コラム「筆洗」担当、社会部長、編集局次長などを歴任し現在は総務局長。著書に「オウム真理教 偽りの救済」(集英社クリエイティブ)、「人間機雷『伏龍』特攻隊」「東京新聞の筆洗」など。1、2審でオウム事件の死刑囚4人を含む元幹部6人と面会、交わした手紙は400通を超える。杉本繁郎受刑者とは2000年ごろから手紙のやり取りや面会を始め、現在も、山形刑務所で面会を続けている。

記事に『リアクション』ができます。ご利用には会員登録が必要です。

記事に『リアクション』ができます。ご利用には会員登録が必要です。

記事に『リアクション』ができます。ご利用には会員登録が必要です。

記事に『リアクション』ができます。ご利用には会員登録が必要です。

カテゴリーをフォローする

  • 『カテゴリーをフォロー』すると、マイページでまとめて記事を読むことができます。会員の方のみご利用いただけます。

  • 『カテゴリーをフォロー』すると、マイページでまとめて記事を読むことができます。会員の方のみご利用いただけます。

コメントを書く

ユーザー
コメント機能利用規約

おすすめ情報

社会の新着

記事一覧