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札幌市の敬老パスをめぐる議論_もう我慢できないから言います

札幌市の敬老パスをめぐるお年寄りたちの主張を見聞きして、がまんできないので、記事にします。(2025.02.25)

札幌市の敬老パス問題とは

札幌市の「敬老優待乗車証(敬老パス)制度」は、70歳以上の市民が、地下鉄・市電・バスを少ない自己負担額で利用できる制度で、「高齢者の外出を支援し、明るく豊かな老後の生活の充実を図る」ことを目的に1975年に創設されています。

2024年、札幌市は、年間約50億円にも膨らんだ経費を縮小させるため、1年間の利用限度額を引き下げるとともに、歩数などに応じてアプリからポイントがもらえる制度へ移行する案を示しましたが、高齢者からの猛反発を受けたことで、改正案を修正し、かろうじて2025年度予算に計上しました。

超高齢社会となり、扶助的経費が膨らむ一方の中、持続可能な財政運営を考えながら、市民の健康づくりを後押しする建設的な提案は、ごく一部の声が大きい高齢者のエゴのために骨抜きにされてしまいました。

この敬老優待乗車証(敬老パス)問題では、札幌市が開催した説明会の席上、「費用を負担している現役世代の声も聴いてほしい」、「どうして我々が払った税金から高齢者の交通費まで負担しなければならないの?」と勇気を振り絞って発言した若者に対し、「われわれも払ってきたんだよ!」、「あんただって歳をとるんだぞ!」と集中砲火が浴びせられ、秋元市長が「若い人たちの負担感ということも考えていただきたい」と説明しますが、理解が得られず、紛糾したという経緯があります。

敬老パスが無いと生活ができないのか

行政(札幌市)側の本質論は、財政上の問題が起点となっているかと思いますが、今回、筆者は、「敬老パスが無くなると高齢者の外出機会が減る」という意見に対して、そもそも「外出機会を増やすことが目的なら敬老パス前提はおかしい」というあたりを解いてみたいと思います。

つまり問題は、「高齢者の外出機会を確保する・増やす」ことを目的として設定した場合、その目的に対して「敬老パス」がふさわしいかどうか、ということです。

「高齢者の外出機会の確保」は、高齢者が外出して体を動かし人と交流することにより健康寿命を延伸し、このことが地域社会の担い手を確保したり医療費を削減したりすることに繋がり、ひいては持続的な社会を作っていこうという動きの一環であると考えます。

この最終的な理想へたどり着く過程にある、通過点としての目的が「高齢者の外出機会の確保」ことです。

さて、「敬老パスが無いと外出機会が減る」という主張は、主にバスを利用しなければならない距離に用事があるという意見を反映しています。本当にそうなのか?

札幌市のような都市化が進んだ地域では、徒歩圏内にコンビニやスーパー、地域の集会所など多くの施設が揃っています。徒歩圏内で多くの用事を済ませることができます。

札幌市の敬老パス問題は、過疎地における高齢者の交通手段確保の問題とは全く別物だと思うのです。

都会に染まったライフスタイルの弊害

では、なぜ一部の高齢者たちは「敬老パス」に固執するのでしょうか。

都会生活が長いと、美術館に行ったり、映画を見たり、カフェでくつろいだり、エステサロンに行ったり・・・と、料金を払いその対価であるサービスを受けるという余暇の使い方が主流になっています。そういう生活に慣れていると、自らが主体的に何かを行うことによって生活を充足させる、という発想が乏しくなってしまうことが考えられます。

敬老パスありきの発想は本末転倒

彼らの外出動機は、「主体的に何かをする」ことが目的ではなく、「敬老パスがあるから、とりあえずバスに乗る」ところが出発点となり、その次に、バスで行ける目的地や用事を考えているのではないでしょうか。

それが全くダメというわけではありませんが、「バスの乗ること」を先に考えるのは、優先順位が逆と言わざるを得ません。 まず外出する動機・目的を持つことが先で、その目的達成のためにバスが必要であれば乗る、という順番で考える方が、自然であり健全ではないでしょうか。

自分の楽しみくらい自分で探せ

まずは、徒歩圏内で楽しみや活動ができるライフスタイルを見つけることが彼らの幸せにとって重要です。

札幌市内でしたら、多くのエリアでそれが可能でしょう。 例えば、「近所を歩いて俳句を詠む」、「道端に咲く雑草の名前を覚えて記録する」、「自分が住む地域の写真を撮ってブログやSNSに投稿する」、「街路桝の花壇の整備を行う」、「近所に家庭菜園を借りて楽しむ」、「公園にやってくる野鳥観察をして都市部での生態を調査する」、「町内会の仲間でバンド演奏を楽しむ」など、徒歩圏内でも十分に楽しみや活動を見つけることができます。

あなた方、いったい人生何年生きてきてるんですか?我々の何倍も人生経験おありでしょう?

前段に、「料金を払いその対価であるサービスを受ける」都会的な余暇の使い方を批判的に書いてしまいましたが、何なら、それでも結構。札幌市内の多くの場所では、近所にカフェやフィットネスクラブがあるのは普通ですし、ギャラリーや文化教室などだって徒歩圏内で行けるでしょう。

だから、市は、歩数によってポイントを付与するアプリを使ってほしいと言っているのです。公金を使って外出するのではなく、自ら歩いて健康を維持するのです。

やろうとしないで批判するのは、「老害」です

「老人にアプリを使えというのか!」と猛烈に反論されそうですが、確定申告や税金の還付申告などの難しい手続きを難なくこなせる頭脳を持っていて何を言い訳してるんですか?アプリってのは、多くの人が、できるだけ簡単に使えるように設計しているのですよ。

あなた方のような冴えた頭脳を持っていれば、アプリなんて、まったく問題ありません。要は「俺たちの時代にはスマホなんて無かった」と拒否しているだけですから。

現に、筆者の両親は、とっくに80歳過ぎていますが、楽天ポイントだの電子マネーだのLINEグループだのSNSだの普通に使えてます。

まとめ・・・老害は、ほんのひと握りと思いたい

こういった状況でよく見受けられるのは、声が大きい一部の高齢者の存在です。

説明会が紛糾する原因は、ほんの一握りの特定の高齢者です。

行政は、彼らをなだめなければ施策を前に進められません。繰り返しますが、ほんのひと握りです。

その一握りの高齢者のために、社会は大きなコストを負担しています。ぜひ、自覚してほしいと思います。

これからは、社会制度によって高齢者を支える側の若者たちの人口は、出生率の低下に伴って相対的に小さくなり、若者一人ひとりの負担は大きくなります。「給料が増えない」、「将来の年金額が少なくなる」・・・高度経済成長期と違って、今の若者たちは将来不安に押しつぶされそうになっています。

その若者たちの将来を案じたり、自分の子や孫の世代に、持続可能な社会を残していこうという意識はないのか? 「あなた方の時代とは事情が違うんです!」という若者たちの悲痛な叫びは、発言力のある一部の高齢者たちによってかき消されています。

 

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