黒田治高
黒田治高像(福岡市博物館蔵) | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 宝暦4年5月28日(1754年7月18日) |
死没 | 天明2年8月21日(1782年9月27日) |
改名 | 又八(幼名)→京極高幸→黒田高幸→治高 |
戒名 | 竜雲院徳厳道俊 |
墓所 | 福岡県福岡市の東長寺 |
官位 | 従四位下・侍従、筑前守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治 |
藩 | 筑前福岡藩主 |
氏族 | 京極氏→黒田氏 |
父母 |
父:京極高慶 母:誓寿院 養父:黒田治之 |
兄弟 | 京極高明、軽三郎、京極高文、治高、富姫ら |
子 | 養子:斉隆 |
生涯
[編集]讃岐国多度津藩主・京極高慶の七男。母は高慶の側室で林代右衛門の娘・誓寿院[1]。幼名は又八。初名は京極高幸(きょうごく たかゆき)。京極家では「高」の字を通字に用いているので、黒田家に養子入りしてからも1か月ほどは改名せずに同じ諱で黒田高幸(くろだ たかゆき)と名乗っていた。その後に治高と改名する。
宝暦4年(1754年)5月28日、丸亀城にて生まれた[1]。天明元年(1781年)11月、福岡藩主・黒田治之の末期養子となる[1]。天明2年(1782年)2月2日、家督を相続した[1]。同年2月18日、将軍徳川家治に御目見した。同年3月7日、従四位下・侍従・筑前守に叙任し、養父・治之と同じく家治より偏諱を受けて治高と改名する[1]。同年3月15日、初めてのお国入りの許可を得る。同年5月、福岡に入り、領内の巡見や山笠見物などをした[2]。翌6月に体調を崩し、8月21日に福岡城において死去した[1][2]。29歳。なお、幕府には10月24日死亡と届けた。後嗣は生前に仮養子として指名していた一橋徳川家当主・徳川治済(養父・黒田治之の兄)の三男・雅之助(黒田斉隆)を末期養子に迎え[2]、京極家からの藩主は1代限りとなった。
黒田家と京極家の関係
[編集]先代・黒田治之の子女は早世して残っていなかったため、黒田家と同じく宇多源氏佐々木流を称する同族京極家から養子を迎えたという[要出典]。黒田家では治高を、3代光之の娘・筑姫(酒井忠挙の正室)の子孫として養子に貰い受けたというが、京極家の記録では実際には血筋はつながっていない。丸亀藩主京極高豊の継室の市子は筑姫の娘で、嫡男の京極高或をもうけたが、多度津家初代で治高の実祖父の京極高通は高豊が側室との間にもうけた庶子である。なお、治高の実父京極高慶の正室は久留里藩主黒田直純の娘であるが、こちらの黒田家は福岡藩黒田家とは別系統であり、かつ治高は正室の子ではない。
系譜
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f 藩主人名事典編纂委員会 1986, p. 294.
- ^ a b c “No.354 古文書と記録にみる福岡藩政史6 ―治之・治高・斉隆の治世―”. 福岡市博物館. 2022年3月11日閲覧。
参考文献
[編集]- 藩主人名事典編纂委員会(編)『三百藩藩主人名事典 第四巻』新人物往来社、1986年6月10日。ISBN 4-404-01350-7。