鳥羽 (砲艦)
鳥羽 | |
---|---|
基本情報 | |
建造所 | 佐世保海軍工廠[1] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | (二等)砲艦[1] |
母港 | 佐世保[1][2] |
艦歴 | |
計画 | 第三期拡張計画[3] |
発注 | 1910年3月25日訓令[4] |
起工 | 1911年7月7日[5] |
進水 | 1911年11月7日[1] |
竣工 | 1911年11月17日[6] |
除籍 | 1945年9月30日 |
その後 |
人民解放軍艦艇 1960年代除籍 |
要目(計画) | |
基準排水量 | 公表値:220ロングトン (224 t) |
常備排水量 | 250ロングトン (254 t) |
垂線間長 | 180 ft 0 in (54.864 m) |
最大幅 | 27 ft 0 in (8.230 m) |
吃水 | 2 ft 6 in (0.762 m) |
ボイラー | 艦本式缶 2基 |
主機 | 直立2気筒2段レシプロ 3基[7] |
推進 | 3軸[1][7] |
出力 | 1,400馬力 |
速力 | 15ノット |
燃料 | 石炭:81ロングトン (82 t) |
乗員 |
竣工時定員:59名[8] 1920年調:52名[1] |
兵装 |
竣工時:四一式短3インチ砲[9] 2門、麻式6.5mm機砲 4挺(銃座6挺分)[10] 探照灯 1基 |
搭載艇 | 2隻 |
その他 | 船材:鋼 |
出典の無い値は[1]による。 |
艦名は名勝の名で、京都の南の郊外にあたる「鳥羽」による[11] 三重県志摩半島にも鳥羽の地名があるが、前の建造河川砲艦が「伏見」であり鳥羽・伏見の戦いがあるよう、対として京都の地名から命名されたと思われる[12]。
概要
[編集]日本海軍が初めて国内建造した河用砲艦になる[12]。 同型艦はない。 「鳥羽」の前にイギリスで建造された砲艦「隅田」、「伏見」は長江の三峡の航行に問題があったため、機関出力が強化され速力15ノットとなっている。
艦型
[編集]機関
[編集]ボイラーは艦本式缶2基で川崎造船所で製造された[13]。 蒸気圧力は計画で180 psi (13 kg/cm2)[13]。
主機は直立2気筒2段レシプロ3基[7]、佐世保海軍工廠で製造された[13]。 直径は高圧筒14 in (360 mm)、低圧筒26 in (660 mm)、行程は14 in (360 mm)[13]。
推進は3軸[14][注釈 1]。 回転数は計画320 rpm、実際は351.5 rpm[13]。
出力は計画1,400馬力、実際は1,522馬力を出した[13]。
兵装
[編集]主砲は当初6ポンド砲2門を装備する計画だったが、1910年 (明治43年) 3月25日に短3インチ砲(四一式短3インチ砲[9])2門への変更が決定した[15]。 短3インチ砲の方が威力が大きく、一等水雷艇では既に換装が決定、6ポンド砲は今後使用されなくなる予定だった[15]。 重量は短3インチ砲の方が重かったが弾薬定数を300発から200発に減じて対応した[15]。
機銃は麻式6.5mm機砲 4挺(銃座は6挺分)が装備された[10]。
艦型の変遷
[編集]兵装の変遷
[編集]『戦史叢書 第31巻 海軍軍戦備1』の附表「艦艇要目等一覧表」に記載の兵装は以下の通り。
- 1920年時:四一式短8cm砲 2門、陸式機砲 1挺、麻式6.5mm機砲 6挺、探照灯 1基[1]
- 1923年時:1920年時と同じ[16]
- 1931年時:五年式短8cm高角砲 2門、留式機銃 2挺、三年式機銃 4挺、探照灯 1基[17]
1941年の開戦時は8cm単装高角砲2門、13mm連装機銃1基、7.7mm機銃2挺、三年式機銃4挺と推定される。
艦歴
[編集]計画
[編集]1910年 (明治43年) 1月の時点で艦艇補足費造船費で製造の「利根」と30号(後の「浦波」I)、31号(後の「磯波」I)、32号駆逐艦(後の「綾波」I)の明治42年度予算が399,138円余っていた[18]。 この剰余金を用いて浅喫水砲艦1隻を佐世保海軍工廠で建造することが同年1月17日に提案され、2月2日に決裁した[18]。
建造
[編集]同年(1910年)3月25日に佐世保鎮守府あてに(二百五十噸)浅喫水砲艦1隻を製造するよう訓令が出された[4]。 船体・機関の製造予算は艦艇補足費造船費支弁の337,853円で明治44年(1911年)度に竣工するよう定められた[4]。 同1910年6月28日に製造費は軍艦製造及建築費支弁に変更[19]、 第二号甲鉄戦艦(後の「鹿島」)と第一号装甲巡洋艦(後の「鞍馬」)の明治43年度造船費予算からの剰余金692,647円から充当された[19]。 また造兵費予算67,780円はこの2隻の43年度の造兵費から63,000円を流用して予算年度の前倒しを行った(2隻の造兵費予算は翌年度に同額を本艦の予算から戻す予定)[19]。
浅喫水砲艦は佐世保海軍工廠で1911年 (明治44年) 7月7日起工した[5]。 同年11月7日に「鳥羽」と命名され[20]、 二等砲艦に類別[21]、 同日午前8時30分に進水した[22]。 当初11月10日の進水予定だったが、都合により繰り上げられた[23]。 「鳥羽」は11月17日に竣工[12]、 約4カ月で建造され当時のスピード建造の記録を作った[12]。
就役
[編集]竣工当時中国大陸で辛亥革命が発生していた[12]。 「鳥羽」は11月18日に第三艦隊に編入され、浮きドックに入れられて防護巡洋艦「笠置」の曳航により11月25日に佐世保を出発し、12月3日に上海に着いた[24]。 直ちに同方面の警備任務に就き、以後日本に帰国することは無かった[12]。
第一次世界大戦
[編集]第一次世界大戦では、始め中国が中立国であったため河用砲艦は武装解除した。第三艦隊の艦艇は1914年 (大正3年) 8月13日までに上海に集結[25]。8月22日、「鳥羽」は浦東海軍用地内の三井物産倉庫岸壁前錨泊していた「伏見」の上流に錨泊[26]。8月24日、2隻は武装解除を完了した[26]。また、同地には「隅田」も錨泊した[26]。「伏見」には7名が残留し、艦の保管は三井物産上海支店に委託された[27]。8月24日、第三艦隊より除かれ佐世保鎮守府予備艦となった[28]。
1917年 (大正6年) 8月14日に中国が参戦したことにより、8月29日に河用砲艦の乗員は上海に到着[29]。「鳥羽」は9月11日に上海発[29]。漢口、宜昌などを経て10月26日に重慶に到着[30]。事態の悪化に伴い、12月4日には陸戦隊を揚陸した[31]。12月15日、「鳥羽」、「千代田」、「宇治」、「隅田」、「伏見」で第七戦隊が編成された[32]。1918年 (大正7年) 4月25日、「鳥羽」は宜昌上流で北軍から射撃され、交戦[33]。その後、5月14日に上海に着き、修理が行われた[33]。「鳥羽」は6月15日に上海を発し、7月19日に重慶に着いた[33]。
昭和期
[編集]太平洋戦争
[編集]太平洋戦争では上海で1941年 (昭和16年) 12月8日に駆逐艦「蓮」と共同で英砲艦「ペトリル」を撃沈、米砲艦「ウェーク」(後の日本海軍「多々良」)を捕獲した。
終戦後
[編集]1945年(昭和20年) 9月30日除籍。中華民国に接収され「永済」となった。1948年 (昭和23年) 4月17日に湖北省郝穴での戦闘で功をあげ「郝穴」と改名された。1949年 (昭和24年) 11月29日に永安と共に中国人民解放軍に投降、「湘江」となった。1960年代に除籍。
艦長/砲艦長
[編集]※脚注無き限り『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 堀田英夫 少佐:1911年11月7日 - 1912年12月1日
- 三村俊夫 少佐:1912年12月1日 - 1913年12月1日
- 池田幸作 少佐:1913年12月1日 -
- 藤吉晙 少佐:1917年8月16日 - 1918年6月3日
- 今川眞金 少佐:1918年6月3日[34] - 1919年3月1日[35]
- 小松三郎 少佐:1919年3月1日[35] - 1919年3月26日[36]
- 猪瀬乙彦 少佐:1919年3月26日[36] - 1920年12月1日[37]
- 野口幸一 少佐:1920年12月1日[37] - 1921年10月6日[38]
- 鈴木幸三 少佐:1921年10月6日[38] - 1922年4月20日
- 鈴木清 少佐:1922年4月20日 - 1923年8月13日[39]
- 佐野哲 少佐:1923年8月13日[39] - 1924年5月1日[40]
- 後藤英次 少佐:1924年5月1日 - 6月21日
- 須賀彦次郎 少佐:1924年6月21日 - 1925年12月1日
- 隈部勇 大尉:1925年12月1日[41] - 1927年12月1日[42]
- 勝野実 少佐:1927年12月1日 - 1929年11月30日
- 鳥居卓哉 少佐:1929年11月30日[43] - 1930年12月1日[44]
- 石河淡 少佐:1930年12月1日[45] - 1932年5月2日[46]
- 加瀬三郎 少佐:1932年5月2日[46] - 12月1日
- 片山司吾六 少佐:1932年12月1日[47] - 1934年11月1日[48]
- 牟田口格郎 少佐:1934年11月1日 - 1935年10月31日[49]
- 山代勝守 少佐:1935年10月31日[49] - 1936年12月1日[50]
- 久保田智 少佐/中佐:1936年12月1日 - 1937年12月1日
- 清水利夫 中佐:1937年12月1日 - 1938年12月15日
- 赤澤次壽雄 少佐:1938年12月15日 - 1939年10月20日
- 大石新一 少佐/中佐:1939年10月20日 - 1940年10月15日[51]
- 古濱智 少佐:1940年10月15日[51] - 1941年8月20日[52]
- 松田九郎 少佐:1941年8月20日[52] - 1943年6月20日[53]
- 吉田謙吾 少佐/中佐:1943年6月20日[53] - 砲艦長 1944年10月1日[54] - 1945年8月15日[55]
艦船符号
[編集]信号符字
[編集]旗旒信号などに使用される。
- GQHD(1911年11月7日-)[56]
略符号
[編集]無線電信に使用される。いわゆるコールサイン。
- GTV(1911年12月4日-)[57]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻p.401によると2軸と記載があるが間違い。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第一その一「大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」
- ^ #内令提要7版/艦船(1)画像1-3、艦艇本籍別一覧表 大正四年四月一日調。
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.229-230
- ^ a b c #M44公文備考20/鳥羽製造命令及予算(1)コマ9-12、明治43年3月25日官房機密第42号の2「浅喫水砲艦製造ノ件」
- ^ a b #M44公文備考20/鳥羽製造命令及予算(2)コマ1、明治44年7月7日「浅喫水砲艦鳥羽起工ノ件」
- ^ #M44公文備考20/鳥羽製造命令及予算(2)コマ23、明治44年11月17日電報「鳥羽今十七日竣成シ海軍工廠長ヨリ艦長ヘ引渡済」
- ^ a b c #日本海軍特務艦船史(1997)p.97、鳥羽
- ^ 明治44年11月7日付 海軍内令 第196号改正、海軍定員令「艦第15表 二等砲艦定員表 其2」。
- ^ a b #M44公文備考66/設置改装及兵装(2)コマ14
- ^ a b #M44公文備考66/設置改装及兵装(2)コマ15
- ^ a b 日本海軍艦船名考 1928, pp. 182–183、鳥羽 とば Toba.
- ^ a b c d e f g #銘銘伝(2014)pp.244-245、鳥羽(とば)
- ^ a b c d e f #帝国海軍機関史(1975)下巻p.401。
- ^ #T2公文備考35/上揚子江溯江報告(鳥羽)(6)コマ37、重慶地方警部任務中機関動作表。
- ^ a b c #M44公文備考20/鳥羽製造命令及予算(2)コマ19-21、明治43年3月25日官房機密第157号「浅喫水砲艦兵装変更ノ件」
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第二その一「大正十二年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第三その一「昭和六年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」
- ^ a b #M44公文備考20/鳥羽製造命令及予算(1)コマ13-18、明治43年官房機密第42号「浅喫水砲艦製造ノ件」
- ^ a b c #M44公文備考20/鳥羽製造命令及予算(1)コマ3-8、明治43年官房機密第42号の3「浅喫水砲艦製造費ノ件」
- ^ #M44達/11月コマ22、明治44年11月7日達第121号
- ^ #M44達/11月コマ22、明治44年11月7日達第122号
- ^ #M44公文備考20/鳥羽進水式関係コマ9、明治44年11月7日電報「午前八時三十分鳥羽無事進水ス」
- ^ #M44公文備考20/鳥羽進水式関係コマ2、明治44年10月23日佐鎮第1013号の2
- ^ 戦史叢書第72巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで、102ページ
- ^ 戦史叢書第72巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで、110ページ
- ^ a b c 戦史叢書第72巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで、111ページ
- ^ 戦史叢書第72巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで、111-112ページ
- ^ 戦史叢書第72巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで、112ページ
- ^ a b 戦史叢書第72巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで、113ページ
- ^ 戦史叢書第72巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで、113-114ページ
- ^ 戦史叢書第72巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで、114ページ
- ^ 戦史叢書第72巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで、115ページ
- ^ a b c 戦史叢書第72巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで、120ページ
- ^ 『官報』第1750号、大正7年6月4日。
- ^ a b 大正8年3月3日付 官報第1972号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2954086 で閲覧可能。
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- ^ 『官報』第3505号、大正13年5月2日。
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- ^ 『官報』第1179号、昭和5年12月2日。
- ^ 昭和5年12月2日付 官報第1179号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2957646 で閲覧可能。
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- ^ 『官報』第1778号、昭和7年12月2日。
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- ^ a b 『官報』第2651号、昭和10年11月2日。
- ^ 『官報』第2976号、昭和11年12月2日。
- ^ a b 「昭和15年10月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 第543号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000
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- ^ 「昭和20年8月27日付 秘海軍辞令公報 甲 第1897号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072107000
- ^ #M44達/11月コマ22、明治44年11月7日達第123号
- ^ #M44達/12月コマ1、明治44年12月4日達第130号。同コマ2、正誤。
参考文献
[編集]- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- アジア歴史資料センター
- 防衛省防衛研究所
- 公文備考
- 「製造命令及予算(1)」『明治44年 公文備考 巻20 艦船4 軍艦鳥羽駆逐艦海風山風製造』、JACAR:C07090131300。
- 「製造命令及予算(2)」『明治44年 公文備考 巻20 艦船4 軍艦鳥羽駆逐艦海風山風製造』、JACAR:C07090131400。
- 「進水式関係」『明治44年 公文備考 巻20 艦船4 軍艦鳥羽駆逐艦海風山風製造』、JACAR:C07090131500。
- 「設置改装及兵装(2)」『明治44年 公文備考 巻66 艦船4 兵器8止』、JACAR:C07090190100。
- 「上揚子江溯江報告(鳥羽)(6)」『大正2年 公文備考 巻35 艦船16』、JACAR:C08020280600。
- 達
- 「11月」『明治44年 達 完』、JACAR:C12070062900。
- 「12月」『明治44年 達 完』、JACAR:C12070063000。
- 内令提要
- 「第3類 艦船(1)」『第72号 7版 内令提要 完』、JACAR:C13072068600。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5。
- 解説:中川努『日本海軍特務艦船史』 世界の艦船 1997年3月号増刊 第522集(増刊第47集)、海人社、1997年3月。
- 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第72巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで』朝雲新聞社
- 雑誌「丸」編集部/編『写真|日本の軍艦 第9巻 軽巡II』光人社、1990年。
- 『官報』