長與稱吉
長與 稱吉(新字体:長与 称吉、ながよ しょうきち、慶応2年1月7日〈1866年2月21日〉 - 明治43年〈1910年〉9月5日)は、明治時代の医師。男爵。長與專齋の子。岳父に後藤象二郎。
略歴
[編集]内務省衛生局長:長與專齋の長男として、肥前国大村(現・長崎県大村市)に生まれる。1884年に東京帝国大学医科(現在の東京大学医学部)を中退して[1]、7年間ドイツのミュンヘン大学、ヴュルツブルク大学医学部に私費留学する[2][3]。このころ、現地の女性に子供を産ませるも、手切れ金を渡して解決する(その面倒を見たのが、衛生局で專齋の部下であり、ドイツ留学中の後藤新平だった)。
帰国後、1893年に開業[1]。東京日本橋や麹町に胃腸病院を設立。夏目漱石の主治医になるなど盛況となった[4]。1898年、胃腸病研究会を設立し会長に就任。胃腸病の治療に革新をもたらした。1902年に医学博士号を取得[1]。
1910年7月20日、亡父の功績により男爵となる。同年9月5日、腹膜炎のため死去した[5]。墓所は青山霊園(1イ13-2)
大日本私立衛生会会頭も務めた。
家族・親族
[編集]妻は後藤象二郎の娘・延子(延子の姉・早苗は三菱財閥創設者岩崎弥太郎の弟・岩崎弥之助に嫁いでおり、稱吉と弥之助は義兄弟の関係にある)。弟・長與程三は実業家で日本輸出絹連合会組長を務めた。同じく弟の長與又郎は病理学者で東京帝国大学総長、男爵。同じく弟の岩永裕吉は同盟通信社の初代社長。同じく弟・長與善郎は白樺派の小説家、劇作家。妹・保子は松方正義の長男・松方巌と結婚した。
長男に男爵を継いだ長與立吉。長女・美代子は駐米大使斎藤博と結婚した。次女・仲子は犬養毅の息子犬養健と結婚し、その長女が評論家犬養道子、長男が共同通信社社長を務めた犬養康彦である。孫にあたる犬養康彦の義弟(康彦の妻・麗子の妹の嫁ぎ先)が日清製粉グループ本社元会長の正田英三郎の次男で現相談役の正田修(明仁上皇の義弟)である。なお大原姉妹の父はクラレ元会長で大原美術館先代オーナーの大原総一郎なので、長與家は犬養家・大原家・正田家を通して天皇家及び旧皇族の縁戚となった。
脚注
[編集]- ^ a b c 森川潤「ドイツ医学の受容過程-ミュンヘン大学留学生を中心として」『教育学研究』第52巻第4号、日本教育学会、1985年、374-384頁、doi:10.11555/kyoiku1932.52.374、ISSN 0387-3161、NAID 130003563724。
- ^ 明治17年留学生のメンバーは森林太郎(鴎外)、片山国嘉、丹波敬三、長與稱吉、田中正平、宮崎道三郎、隈川宗雄、萩原三圭、穂積八束、飯盛挺造、の10名。鴎外がこの10名を「日東十客ノ歌」に書いている。
- ^ 明治期ドイツ留学生,橋本 春(Hashimoto Hasime) の生涯金田昌司、経済学論纂(中央大学)第52巻 4号、2012年3月22日
- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、543頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)208頁
参考文献
[編集]関連項目
[編集]日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 長與(稱吉)家初代 1910年 |
次代 長與立吉 |