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逸見氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

逸見氏(へみし、へんみし)は、日本氏族。以下の2つの流れがある。

  1. 源姓逸見氏:清和源氏甲斐源氏の一族。
  2. 平姓逸見氏:桓武平氏房総平氏の一族。

他に「いつみし」と読む姓氏も存在する(逸見政孝など)。後述の逸見氏(へんみし)の末裔の一族も存在するといわれる。

源姓逸見氏

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逸見氏
引両ひきりょう
本姓 清和源氏義光流
家祖 逸見光長
種別 武家
出身地 常陸国
主な根拠地 甲斐国巨摩郡逸見郷
著名な人物 逸見祥仙
逸見昌経
支流、分家 吉田氏武家
小松氏武家
万為氏武家
堀内氏武家
凡例 / Category:日本の氏族

起源と平安後期・鎌倉時代の逸見氏

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甲斐源氏は、大治5年(1130年)に源義清(武田冠者)・清光(逸見冠者)が常陸国より甲斐国市河荘に配流され甲斐各地に土着した一族。清光は官牧の発達していた現在の北杜市域(旧北巨摩郡域)の逸見郷へ進出し、清光の長男の光長が逸見姓を称する。

平安時代末期、光長は一時的に甲斐源氏の惣領であったと考えられているが、甲斐源氏は現在の韮崎市域に拠った弟の信義が始祖となった武田氏が主流となり、武田氏は甲斐源氏一族を率いて源頼朝の挙兵に参加し、治承・寿永の乱において活躍する。『尊卑分脈』には直系子孫の系図が見られるが、『吾妻鏡』などの記録には光長はじめ一族の動向は見られない。

鎌倉時代には、『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月6日条によれば、同年5月の和田合戦において逸見五郎・次郎・太郎らが和田義盛方に属して討死したという[1]。なお、和田合戦では甲斐都留郡の古郡氏も義盛方に属して戦っている[1]。また、『承久兵乱記』によれば、承久3年(1221年)の承久の乱では「へん見のにうだう(入道)」が東山道軍に属して上洛している[2]。『尊卑分脈』によれば、光長の孫にあたる惟義とその子の義重も承久の乱に従軍し、惟義は摂津国三条院を与えられ、義重は美濃国大桑郷を与えられたという[2]。惟義は和泉国守護となっており、義重の子孫は大桑氏を称した。逸見氏の直系子孫は摂津や美濃など西国のほか若狭国上総国など武田氏が守護職を得た諸国へ移り被官化したと考えられており、一部の庶流子孫が甲斐に残留していたと考えられている。

光長の系統とは別に、『吾妻鏡』元暦2年(1185年)6月5日条によれば、平宗盛家人である源季貞の子の宗季(宗長)が光長の猶子となり、逸見氏を称したという[3]。『吾妻鏡』によれば、宗季は「宗長」と改名し、建仁3年(1203年)に比企能員の変に際して大江広元の従者として名が見られるが、その後の動向は不明[4]。また、『一本武田系図』によれば武田信義の四男の有義も一時期逸見氏を称し、『浅羽根本武田系図』によれば、光長の弟の安田義定の子の定長(四郎)も逸見姓を称したという[2]。有義の子孫は吉田氏小松氏万為氏を称したという。

南北朝・室町時代の逸見氏

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南北朝時代には安芸国守護である武田信武氏信に従い、軍忠状を与えられている逸見有朝が見られるほか(『小早川家文書』)、武蔵野合戦に参加しているものもいる。秋山敬の研究によれば、有朝の逸見氏は鎌倉期の逸見氏とは別系統であり、元は甲斐国深沢荘を領していた深沢氏の一族である深沢(逸見)信経が安芸武田氏に従って秋町(安芸町)もしくは逸見を称し、有朝は信経の嫡男であったという。深沢氏は秋山氏の末裔とされているため、逸見光長・武田信義の弟である加賀美遠光の子孫ということになる。信経・有朝は武田信武に従って安芸国で功績を挙げ、武田一族の有力な家であった逸見の名字を与えられたと推測している。なお、有朝(法名は大円)は子に恵まれなかったために、隣国備後国三吉秀明に所領を譲っている(『小早川家文書』572号「沙弥大円譲状写」)[5]

また、紀伊国には正平年間(1346-1369、北: 観応文和)に日高郡矢田庄を治めた豪族もいた[6]

室町時代甲斐国では、応永23年(1416年)に鎌倉公方足利持氏に対し前関東管領上杉禅秀が挙兵した上杉禅秀の乱において、守護の武田信満が禅秀方に加担して滅亡し、守護不在状態となる。これにより甲斐では国人衆が台頭し、有義系の子孫と言われる逸見有直は室町幕府と対抗する足利持氏の支援を受け、有直は甲斐守護の座を幕府に要求した。なお、前述の秋山説では、逸見信経が甲斐にも所領を持っており、甲斐に残留した有朝の兄弟がそれを継承したと推測されることから、逸見有直が信経の子孫である可能性を指摘する(事実とすれば有義系の子孫ではなかったことになる)[7]。これに対して室町幕府では、将軍足利義持が高野山に隠棲していた武田信元、次いで武田信重を甲斐守護として派遣した。

戦国時代には武田一族の今井氏が逸見姓を称している。

戦国時代・近世の逸見氏

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また、戦国時代の逸見一族としては、小弓公方足利義明の家臣の逸見祥仙[8]若狭武田氏の重代の家臣でのちに独立し、また織田信長に下った逸見昌経などが知られる。また逸見氏の一族として甲斐武田家重臣の飯富虎昌飯富氏や、安土桃山時代に活躍し、昌経の没後にその遺領の一部を継承した溝口秀勝がいる。

江戸時代逸見四郎義年1747年 - 1828年)は多摩三大流派の一つの甲源一刀流を興す(多摩三大流派とは、甲源一刀流・天然理心流柳剛流の総称)。逸見四郎義年は甲斐源氏の逸見家19代目当主にあたる。

系図

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出典:『寛政重修諸家譜』


平姓逸見氏

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千葉介常兼の八男の常広が逸見氏を称したことに始まる。常広の子孫は匝瑳党として発展した。

脚注

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  1. ^ a b 秋山(1991年)、p.14
  2. ^ a b c 秋山(1991年)、p.15
  3. ^ 秋山(1991年)、pp.15 - 16
  4. ^ 秋山(1991年)、p.35
  5. ^ 秋山(西川編・2021年)、p.264-280
  6. ^ Kii zoku fudoki. Niida, Nan'yō, 1770-1848., 仁井田, 南陽, 1770-1848.. 臨川書店. (1990). ISBN 4-653-02169-4. OCLC 673104919. https://www.worldcat.org/oclc/673104919 
  7. ^ 秋山(西川編・2021年)、p.274-280
  8. ^ 滝川恒昭「小弓公方家臣・上総逸見氏について―国立国会図書館所蔵「逸見文書」の紹介―」『中世房総』6号、1992年

参考文献

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  • 秋山敬「上杉禅秀の乱後の甲斐国情勢」『甲斐武田氏と国人 戦国大名成立過程の研究』(高志書院、2003年、初出は『戦国大名武田氏』(名著出版1991年)所収)
  • 秋山敬「安芸逸見氏の系譜」西川広平 編著 『甲斐源氏一族』(戒光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二二巻〉、初出は『武田氏研究』八、1991年所収)