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藤原実頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 実頼
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 昌泰3年(900年
死没 天禄元年5月18日970年6月24日
改名 牛養(幼名)→実頼
別名 小野宮殿
諡号 清慎公(漢風諡号)、尾張公(国公)
官位 従一位摂政関白太政大臣正一位
主君 醍醐天皇朱雀天皇村上天皇冷泉天皇円融天皇
氏族 藤原北家小野宮流
父母 父:藤原忠平
母:源順子宇多天皇の皇女)
兄弟 実頼貴子寛子師輔師保師氏師尹、藤原諸房室
養兄弟:忠君
藤原時平娘、藤原定方能子、源氏の娘
敦敏頼忠斉敏慶子源高明室、述子
養子:佐理実資
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藤原 実頼(ふじわら の さねより)は、平安時代前期から中期にかけての公卿歌人

概要

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関白藤原忠平の長男。藤原北家の嫡流として、藤氏長者となり、村上天皇天暦の治を支えたが、外戚となることができず、嫡流は弟・師輔の子孫(九条流)へと伝えられた。ただし、若くして没した師輔の代理の形ではあるが、関白、次いで摂政に就任している。

また、有職故実に通じ、小野宮流を創始した。

経歴

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延喜15年(915年)正月20日、16歳のときに元服し、翌21日に叙爵(従五位下)。この叙位は、宇多法皇の口添えによって実行されたと『醍醐天皇御記』にある。その後、右衛門佐右近衛権少将右近衛権中将等を歴任し、延長8年(930年)に蔵人頭となる。朱雀天皇の延長9年(931年)に参議に任じた。天慶2年(939年)に大納言に任じられ、天慶7年(944年)に右大臣を拝する。実頼が大納言であった天慶年間に一上の宣旨を蒙っている事が、『台記』や柳原家記録中の『砂巌』等によって分かる。

村上天皇が即位した天暦元年(947年)に左大臣に就任。同時に弟・師輔は右大臣に任ぜられた。実頼・師輔の兄弟で共に村上天皇を輔佐し、天暦の治と評された。

兄弟の間では、兄である実頼が先んじ、天暦3年(949年)、父・忠平の薨去のあとを受けて藤氏長者となる。しかし、後宮争いでは、実頼は述子を、師輔は安子をそれぞれ村上天皇の女御としたが、述子は皇子を生む事なく死去し、一方、安子は東宮憲平親王を始め、為平親王守平親王を生んでおり、これにより、のちに師輔の子孫が藤原氏の嫡流の座を得ることになる。天暦4年(950年)には憲平親王が立太子が決定されたが、『九暦』逸文によれば、これは村上天皇・藤原穏子(天皇生母)・朱雀法皇・師輔の密談によって決定されたものであり、実頼は関与できなかった。

康保4年(967年)、村上天皇が崩御して憲平親王が即位した(冷泉天皇)。冷泉天皇には狂気の病があり、天皇を輔弼する者が必要であったことから、村上天皇時代には長く置かれなかった関白が復活。天皇の外祖父にあたる師輔は既に没しており、その子らはいずれも若年であったことから、実頼が外戚の長老として関白に就任、同時に太政大臣に補任された。名目上は引き続き臣下筆頭であったものの、外戚にあたる師輔の子達が栄達する見込みであったことから何かと軽んじられることを嘆き、自身の日記では「揚名関白(名ばかりの関白)」と称している。同じ年に天皇の病気を理由として実頼を准摂政としたが、その宣旨は師輔の子である権中納言伊尹・蔵人頭兼家の主導で準備され、実頼の息子である頼忠は、公式に宣旨を発給する任である左大弁であるにもかかわらず、事前に知らされていなかった。

冷泉天皇はその病から、長い在位は望めないことにより、弟皇子から早急に東宮を定める事になった。同母弟で年長の為平親王が有力だったが、東宮には守平親王と決した。これは為平親王の妃が左大臣源高明の娘であり、実頼と右大臣の師尹(実頼、師輔の弟)が、源氏の高明が将来外戚となる事を恐れたためであった。安和2年(969年)失意の高明に突如謀反の嫌疑がかけられ失脚し、大宰府へ流される(安和の変)。実頼はこの陰謀の首謀者とされているが、師尹、伊尹、兼家を擬定する説もある。

同年、冷泉天皇は譲位し、守平親王が即位(円融天皇)。実頼は関白から摂政に転ずる。

天禄元年(970年)に病に倒れ[注釈 1]、5月薨去。享年71。正一位が追贈され、尾張国に封じられ、清慎公と諡号された。

略系図
 
 
 
 
 
 
 
 
藤原忠平
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
実頼
 
 
 
 
 
師輔
 
師尹
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頼忠
 
村上天皇女御述子
 
伊尹
 
村上天皇女御安子
 
兼家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小野宮流
 
冷泉天皇憲平親王
 
為平親王
 
円融天皇守平親王
 
九条流
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
〔現皇室〕

人物

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政治家として

実頼は、最終的に弟の師輔の家系に嫡流を譲ることになったことから、『栄花物語』が師輔を、「一(実頼)苦しき二の人(師輔)」と実頼とを比較して評するなど、政治的実権が乏しく、直接の外戚の座を獲得した師輔、伊尹・兼家親子に実権を持たれていたと考えられている。

しかし、村上朝においては、太政官符宣旨発給の責任者である上卿の回数が師輔と較べて多い。また、冷泉天皇即位式の際、通常は大極殿で行うべきところを、天皇御悩のために、異常事に備えるべく内裏内の紫宸殿で挙行するように変更、これが実頼の功績であると称賛され、以降、これが通例となったことなどから、実頼の政治的才覚がうかがえる事例もあり、更なる議論が必要と思われる。

文化人として

有職故実に詳しく、父・忠平の教命を受けて『小野宮故実旧例』を執筆。朝廷儀礼の一つである小野宮流を形成した。なお、実頼の流派が小野宮流と呼ばれる所以は彼の邸宅名による。

また、日記『清慎公記[注釈 2]を著していた事が『小右記』等の逸文によって知られる。なお、藤原公任が『清慎公記』の部類記を作成する際に書写せず原本を直接切り貼りしたため、部類記収録以外のものは反故になってしまい、元来の所持者であったと考えられる公任の従兄弟の藤原実資(公任・実資ともに実頼の孫)の憤激を買っている[2]。その部類記も長和4年(1015年)の藤原教通邸焼亡の折に焼失したため現存していない。また、同じく公任の『北山抄』に度々引用されている「私記」も『清慎公記』の事と考えられている。なお、実頼は忠平の『貞信公記』に注釈を加えた際に自己の記述も「私記」と記しているが、『北山抄』引用の「私記」には忠平が第三者として登場する事から、実頼自身は『清慎公記』の事も「私記」と称していたと考えられている。

和歌に秀で、歌集『清慎公集』がある他、『後撰和歌集』(9首)以下の勅撰和歌集に34首が採録されている[3]。ほかにの名手として知られ、特に箏は醍醐天皇より学んでいる。

実頼は多才で趣味も豊富である上に、きちんとした性格で人の模範として引かれる程であった[4]。一方で、心の奥底が深く気難しい性格であったという評価もある[5]

逸話

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  • 実頼は私邸の南庭に出る時、常に冠を被っていた。人がこれを怪しんで聞くと、稲荷山が南庭から望まれ、敬して威儀を正しているのだと答えた。もしも、これを忘れれば袖で頭を隠して邸内に駆け入っていた。彼の謹直なる事かくの如し[6]
  • 実頼の幼名が「牛養(うしかい)」であったため、実頼の一族は牛車の牛を扱う「牛飼童(うしかいわらわ)」の事を、「牛つき」と呼んだ[6]
  • 異母弟の師輔が長身であったのに対し、実頼は背が低かった。そのため、糊のきいた強装束を用いていた[7]
  • 平将門追討の将軍であった藤原忠文は、東国到着以前に乱が決着したためそのまま帰京した。その論功行賞について、「賞の疑はしきはゆるせ」と主張する師輔に対し、実頼は「疑はしきことをば行はざれ」と主張し通して恩賞を出さなかったので、忠文の恨みをかった。そのため忠文の怨霊によって実頼の子孫が繁栄しなかったといわれている[8]
  • 実頼の邸宅小野宮第は、もとは文徳天皇皇子惟喬親王の邸宅であり、双六賭博の質種として得たものであるといわれている[9]
  • 実頼は小野宮第の大炊門前に菓子を置き、それを食べる京の民衆の雑談を聞いて世情を知った[8]
  • 小野宮第の四足門に菅原道真の霊が来て、実頼と終夜対談したといわれている[10]
  • 師輔の亡霊が生前実頼家の子孫断絶の祈願をした事を語ったという話を、実頼孫藤原実資観修僧都から聞き、「骨肉と云ふと雖も、用心あるべきか」と述べた[11]
  • 村上天皇の御前で、実頼が、師輔と醍醐天皇皇女康子内親王の密通を暴露した[12]。『栄花物語』に「いとたはしき(淫しき)」と評価される程、師輔が好色であったのに対し、実頼が当時の貴族としては珍しく堅物であったという。また、『中外抄』(藤原忠実の語録)は、摂関家の言い伝えとして「九条殿(師輔)は、まらのおほきにおはしましければ」という記述がある。
  • 実頼薨去の折、諸人が小野宮第の門前に集まって挙哀した[7]

官歴

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※月日は旧暦。特に指示のない限り『公卿補任』の記載による。

年紀 事歴
延喜15年(915年 正月21日:叙爵従五位下)。9月23日:昇殿
延喜16年(916年 3月28日:阿波権守
延喜17年(917年 5月24日:右衛門佐
延喜18年(918年 9月9日:次侍従[13]
延喜19年(919年 正月28日:右近衛権少将
延喜20年(920年 9月21日:備中権介
延喜21年(921年 正月7日:従五位上。正月30日:兼備前介
延喜22年(922年 正月30日:兼近江介
延長4年(926年 正月7日:正五位下。2月25日:五位蔵人
延長5年(927年 正月12日:兼紀伊権守
延長6年(928年 正月7日:従四位下。正月29日:昇殿。6月9日:右近衛権中将。
延長7年(929年 正月29日:兼播磨権守
延長8年(930年 8月25日:蔵人頭(醍醐天皇近侍)[14]。9月25日:蔵人頭(朱雀天皇近侍)。
延長9年(931年 3月13日:参議
承平元年(931年 12月17日:兼讃岐権守
承平2年(932年 11月16日:従四位上
承平3年(933年 5月27日:兼右衛門督検非違使別当
承平4年(934年 12月21日:従三位中納言
承平5年(935年 2月23日:兼左衛門督[13]。6月10日:初めて政を聴す[15]
天慶元年(938年 6月23日:兼右近衛大将を兼任。9月5日:右馬寮御監[15]。12月14日:兼按察使
天慶2年(939年 8月27日:大納言
天慶3年(940年 11月19日:見大歌所別当[16]。12月7日:東大寺俗別当[17]
天慶4年(941年 12月27日:勘解由検校[15]
天慶6年(943年 正月7日、正三位
天慶年間 実頼大納言の時、一上宣旨を蒙る[18]
天慶7年(944年 4月7日:右大臣。8月19日:東大寺検校[17]
天慶8年(945年 11月25日:左近衛大将を兼任。12月16日:数所の別当に補任[19]
天慶9年(946年 正月7日:従二位。5月4日、蔵人所別当
天暦元年(947年 4月26日:左大臣
天暦3年(949年 8月14日:氏長者[15][20]
天暦4年(950年 7月23日:兼皇太子傅
天暦8年(954年 5月15日:正二位
天徳元年(957年 3月20日:辞左近衛大将(依病)
康保元年(964年 正月7日:従一位
康保4年(967年 6月22日:関白。8月19日:准摂政(冷泉天皇御悩の間)[21][19]。12月13日:太政大臣
安和2年(969年 8月13日:摂政
天禄元年(970年 5月18日:薨去。5月20日:正一位、封尾張国、諡号清慎公

系譜

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源能有の女・昭子を母とする藤原師輔師氏師尹らは異母弟にあたる。

和歌

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  • 勅撰集
    • 後撰和歌集
      • 山里の 物さびしさは 荻の葉の なびくごとにぞ 思ひやらるる
      • まだしらぬ 人もありける 東路に 我も行きてぞ すむべかりける
      • 松もひき わかなもつます 成ぬるを いつしか桜 はやもさかなむ
      • 鈴虫の おとらぬねこそ なかれけれ 昔の秋を 思やりつゝ
    • 拾遺和歌集
      • 桜花 のどけかりけり なき人を こふる涙ぞ まづはおちける
      • おくれゐて なくなるよりは 葦鶴の などて齢を ゆづらざりけむ
      • あな恋し はつかに人を みづの泡の きえかへるとも しらせてしがな
    • 新古今和歌集
      • をみなへし 見るに心は なぐさまで いとど昔の 秋ぞこひしき
    • 続古今和歌集
      • 池水に 国さかえける まきもくの たまきの風は いまものこれり
    • 新千載和歌集
      • 鶯の やどの花だに 色こくは 風にしらせで しばしまたなむ
  • 私家集
    • 清慎公集
      • 逢ひみても 恋にも物の かなしくは なぐさめがたく なりぬべきかな

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 「あやしう風起りがちにて」[1]
  2. ^ 『水心記』ともいう。
  3. ^ 実父を光孝天皇とする説あり。源順子の項を参照。

出典

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  1. ^ 『栄花物語』巻第一,月の宴
  2. ^ 『小右記』寛仁4年8月18日条
  3. ^ 『勅撰作者部類』
  4. ^ 『大鏡』太政大臣実頼 清慎公
  5. ^ 『栄花物語』巻第一,月の宴
  6. ^ a b 大鏡
  7. ^ a b 富家語談
  8. ^ a b 古事談
  9. ^ 古今著聞集
  10. ^ 『富家後談』
  11. ^ 『小右記』
  12. ^ 『大鏡』『中外抄
  13. ^ a b 異本公卿補任
  14. ^ 蔵人補任
  15. ^ a b c d 本朝世紀
  16. ^ 吏部王記
  17. ^ a b 東南院文書』『東大寺別当次第
  18. ^ 台記』『砂巌
  19. ^ a b 小右記
  20. ^ 二中歴
  21. ^ 類聚符宣抄

参考文献

[編集]
  • 川上多助『平安朝史 上』(昭和5年)
  • 竹内理三「口伝と教命」(「歴史地理」75-3・4 昭和15年)
  • 太田静六「右大臣藤原実資の邸宅、小野宮に就いて」(「早稲田建築学報」18 昭和17年)
  • 山口博「源高明と藤原氏-西宮左大臣集成立の一問題-」(「国語と国文学」昭和35年11月号)
  • 山中裕「栄花物語・大鏡に現われた安和の変」(「日本歴史」168 昭和37年)
  • 赤木志津子「摂関家と小野宮家」(『平安貴族の生活と文化』所収 昭和39年)
  • 山本信吉「冷泉朝における小野宮家・九条家をめぐって-安和の変の周辺-」(古代学協会編『摂関時代史の研究』 昭和40年)
  • 稲賀敬二「実頼・師輔・師氏・伊尹・道長等とその歌集」(「国文学 解釈と教材の研究」10-12 昭和40年)
  • 山口博「安和の変補考」(「日本歴史」211 昭和40年)
  • 赤木志津子「小野宮家と四条大納言公任」(「歴史教育」14-6 昭和41年)
  • 村井康彦「藤原時平と忠平」(「歴史教育」14-6 昭和41年)
  • 山口博「藤原師輔論」(『王朝歌壇の研究 村上冷泉円融朝篇』所収 昭和42年)
  • 所功延喜の治の再検討」(「皇學館大学紀要」6 昭和43年)
  • 桃裕行「『北山抄』と『清慎公記』」(森克己博士古稀記念『対外関係と政治文化』所収 昭和49年)
  • 河北騰「『九暦』から見た藤原師輔論」(「古代文化」31-7 昭和52年)
  • 山中裕「藤原師輔論」(井上光貞博士還暦記念会編『古代史論叢』下所収 昭和53年)
  • 朧谷寿「藤原実資論」(「古代文化」30-4・5 昭和53年)
  • 木本好信「藤原実頼の『清慎公記』逸文」(『平安朝日記と記録と研究』所収 昭和55年)
  • 角田文衛「師輔なる人物」(季刊「むすび」 昭和57年)
  • 山中裕「安和の偽計-藤原実頼」(「歴史読本」昭和57年9月号)
  • 森田悌「十世紀中期の政治について」(「金沢大学教育学部紀要」31 昭和57年)
  • 武光誠「摂関家の太政官政治の特質」(「ヒストリア」106 昭和60年)
  • 島田とよ子「藤原実頼の娘たち」(「大谷女子大国文」16 昭和61年)
  • 真壁俊信「実頼と『新国史』」(『天神信仰史の研究』所収 平成6年)
  • 能登好美「『清慎公集』研究-その原形をめぐって」(「東洋大学大学院紀要」37 平成12年)
  • 中斎洋平「藤原実頼論」(「皇學館史學」16 平成14年)
  • 坂本賞三「『愚管抄』の関白」(「日本歴史」693 平成18年)
  • 立花真直「藤原実頼・頼忠にみる関白の政治的意味」(「国史学」197 平成21年)
  • 渡辺滋「冷泉朝における藤原実頼の立場-『清慎公記』逸文を中心に」(「日本歴史」787 平成25年)
官職
先代
藤原仲平
左大臣
947 - 968
次代
源高明
先代
藤原恒佐
右大臣
944 - 947
次代
藤原師輔
先代
藤原扶幹
陸奥出羽按察使
938 - 944
次代
藤原師輔
先代
藤原仲平
左近衛大将
946 - 957
次代
藤原顕忠
先代
藤原恒佐
右近衛大将
938 - 946
次代
藤原師輔
先代
藤原兼輔
左衛門督
933 - 934
次代
源清蔭