コンテンツにスキップ

立浪和義

半保護されたページ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

立浪 和義
2022年11月6日、Agreスタジアム北谷にて、中日監督時代
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府摂津市
生年月日 (1969-08-19) 1969年8月19日(55歳)
身長
体重
173 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 二塁手三塁手遊撃手外野手
プロ入り 1987年 ドラフト1位
初出場 1988年4月8日[1]
最終出場 2009年10月24日
セ・リーグ クライマックスシリーズ ファイナルステージ第4戦)
2010年2月27日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ・監督歴
  • 中日ドラゴンズ (2008 - 2009, 2022 - 2024)
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 2019年
得票率 77.4%(371票中287票)
選出方法 競技者表彰(プレーヤー部門)

立浪 和義(たつなみ かずよし、1969年昭和44年〉8月19日 - )は、大阪府摂津市出身[2]の元プロ野球選手内野手外野手、右投左打)・元監督日本プロ野球名球会理事[3]

概要

1987年PL学園高等学校野球部の主将として甲子園第59回選抜高校野球第69回全国高校野球)で春夏連覇を達成し、同年のドラフト会議中日ドラゴンズから1位指名を受け入団[4]。プロ1年目(1988年)に新人王およびゴールデングラブ賞(高卒新人としては日本のプロ野球NPB〉史上初)を獲得し[4]、その後もプロ22年目[注 1]2009年限りで現役を引退するまで[6]、中日の中心選手として活躍[4]。NPB史上最多となる通算487二塁打[7]や通算2480安打(NPB歴代8位)[注 2]を記録した[9]2022年から中日の監督に就任[10][11]

西沢道夫(初代)や高木守道(2代目)とともに「ミスタードラゴンズ」(3代目)と呼ばれる[12]。現役引退後の2019年に競技者表彰で野球殿堂入り[13]2020年時点では、日本テレビ中京テレビフジテレビ東海テレビCBCテレビCBCラジオで、野球解説者として活動していた[2]

経歴

プロ入り前

1969年8月19日大阪府済生会吹田病院大阪府吹田市)で次男として生まれ[14]、同府摂津市鳥飼で育った[15]。本来は右打ちだが、幼いころに元社会人野球選手の父親によって左打ちに矯正された[16]。幼少期は王貞治に憧れていた[17]

1976年4月、摂津市立鳥飼小学校に入学した[18][1]。小学校2年生の時に両親が離婚し[19][20]、これ以降は母親の元で2歳年上の兄とともに育てられていた[21]。小学校4年生の時に兄から誘われ、兄が加入していた硬式少年野球チームの「茨木ナニワボーイズ」に加入し[22]、野球に打ち込んだ[16]。この時は五厘刈りをためらい入団を決意できずにいたが、母親から「ボーイズに入るなら(嫌いな)算盤はやめてもいい」と言われ、どちらを取るか考えた末に野球を選んだ[23]。小学校6年生の際、作文には将来の夢について「野球選手」と書いていたが、このころから「野球選手になってお金を稼ぎ、母親に楽をさせる」という目標を思い描いていた[24]。なお6年生の春までは投手だったが、肘を痛め、野手に転向。同期の橋本清が代わり、エースとなった[25]

1982年4月[26]摂津市立第二中学校へ進学したが、同校の生徒数急増により3年時からは摂津市立第五中学校へ転入し[25]、同校が出身中学となっている[1]

実家は資生堂化粧品の販売店で[27]、母は閉店後もしばしば配達に出かけるなど忙しい毎日を送っていたため、息子・和義の野球をほとんど見に行くことができず、甲子園の決勝戦しか見に行くことができなかった[28]。また、兄は「ナニワボーイズ」時代から好打の外野手として活躍し、全国大会・世界大会優勝も経験、野球の素質では弟である和義以上と評されていたが、和歌山県立吉備高校2年生の時に肩を痛めたことが原因でプロを断念、大阪産業大学卒業後には大阪資生堂に就職して同社の軟式野球部に入部した[27]。兄は和義がプロで活躍していた1996年に背番号をそれまでの「10」から和義と同じ「3」に変更し、同年には広島国体で軟式野球成年2部の代表選手として選出され、4番打者中堅手として出場したことが、和義の所属していたドラゴンズの親会社である中日新聞社が発行する『中日スポーツ』で報じられた[27]

1985年
KKコンビに触発されただけでなく、幼稚園からの幼馴染であった橋本が先にPL進学を決めたことで一層想いを強くしたため、(摂津市立第五中学校[26]時代の監督の伝で決まりかけていた大阪商業大学堺高等学校への進学を断り)憧れのPL学園高等学校に入学。この時の同期には橋本以外に片岡篤史野村弘樹(当時は野村弘)、桑田泉らがいる。2年先輩の桑田真澄と野球部合宿所「研志寮」で相部屋となる[29]
1986年
第58回選抜高等学校野球大会に出場し、1回戦の静岡県立浜松商業高等学校戦に、6番遊撃手として出場したが、初戦敗退した。
1987年
主将として第59回選抜甲子園大会第69回夏の甲子園選手権大会の甲子園春夏連覇を達成。春の甲子園優勝後から立浪の名前がドラフト指名候補に挙がるようになったが、当時の評価は5位・6位と決して高いものではなく、PLの中村順司監督も「身体も大きくないのだから、それぐらいの評価なら大学社会人で野球を続けて、それからプロに進んでも遅くない」と、当時点でのプロ入りには否定的であった。
その後、夏の甲子園では3番・遊撃手で21打数9安打、2本塁打、8打点の好成績を残し、優勝の一翼を担った。これにより、各球団スカウトの評価も「ドラフト2位指名は確実。外れ1位の可能性もある」と大幅に上がった。そんな中、当時南海ホークス監督であった杉浦忠が早々とドラフト1位指名の方針を固め、PL学園の顧問に対し「どうしても立浪君が欲しい。ドラフト1位で指名する」と連絡を入れている。ちなみに立浪を1位と評価したのは当時南海のみであり、他球団の評価は2位もしくは3位であった。このことや南海が地元である大阪府・大阪スタヂアムを本拠地としていたこともあり、この頃から立浪は南海入りを強く望むようになっていた。実際、南海側も「来季から湯上谷、立浪のフレッシュ二遊間で売り出す」と球団を挙げて公言するなど、立浪に対して大きな期待を寄せていた。しかしその反面、当時のセ・リーグパ・リーグの人気格差や、読売ジャイアンツの監督であった王への憧れから「できればセ・リーグでプレーしたい」という思いも抱いていたという[30]
1987年のドラフト会議で南海と中日ドラゴンズが1位で競合し、南海・杉浦監督と中日・星野仙一監督のくじ引きになった。結局、星野が当たりくじを引き当てて中日が交渉権を獲得、中日に入団する。当時中日は慶應義塾大学のエース鈴木哲を指名する予定であったが、翌年夏のソウルオリンピックを目指して社会人野球に進むことを宣言したため、ドラフト会議2日前に急遽立浪に切り替え、当時関西地区担当スカウトであった中田宗男がその旨を伝えた。なお、立浪本人は前述のセ・リーグへの憧れからドラフト会議前夜に寮のベランダに出ていたところ、偶然目の前に現れた流れ星を見て中日入団を願ったという[31]
中日入団が決まった直後、前述の経緯から杉浦に謝辞を書いている。それに対し杉浦は「ドラフトで立浪君を引き当てることができなかったのは自分の不徳のせい」「このような心が熱くなる手紙をもらったのは今回が初めて」などと述べた上で、最後に「どうか、中日ドラゴンズで思い切り、羽ばたいてください」と返している。その後中日との入団交渉に臨み、スカウトから背番号の候補として(当時一桁で空き番号であった)3と5を提示され、3を選択した。立浪は3を選んだ理由として「一桁の背番号で一番格好いいのは3だといつも思っていた」と語っている[32]

プロ入り後

現役時代
(2009年7月16日、阪神甲子園球場にて)
1988年
ヘッドコーチの島野育夫と総合コーチの木俣達彦からも素質を見抜かれ、春季キャンプを一軍でスタートし、2番・遊撃手に抜擢される。前年のベストナイン遊撃手宇野勝二塁手コンバートさせてまでの抜擢であった[33]。これに対しても宇野は一切立浪に対し不満や愚痴をぶつけることはなく、むしろ「やりやすい環境を作ってくれた」という[34]。ただし、春季キャンプが行われたベロビーチのグラウンドでの練習中、バランスを崩して右手を突いたとき右肩を痛めてしまい、シーズン終盤から翌年にかけて後遺症を残した。
開幕戦でも先発「2番・遊撃手」でフルイニング出場(高卒新人としては球団史上唯一)。開幕戦先発出場を果たしたセ・リーグ高卒新人は、1957年並木輝男阪神)・1959年王貞治巨人)以来29年ぶり3人目で[35]、両リーグ合わせても1966年飯田幸夫近鉄)以来22年ぶり10人目[36]横浜大洋ホエールズ開幕投手欠端光則から6回裏の第3打席に初安打となる二塁打を放ち[33][35]、高卒新人野手の開幕戦安打は1960年矢ノ浦国満(近鉄)以来28年ぶり、史上3人目の快挙であった。その後、4番・落合博満適時打で生還して初得点も記録した(同試合におけるドラゴンズ唯一の得点となった)。当時の応援歌は光GENJIの「ガラスの十代」の替え歌。立浪以降の高卒新人開幕スタメンはセ・リーグでは皆無である。
同年のオールスターゲームには遊撃手部門でファン投票選出され[37]、全セの指揮を執る王監督から3試合連続で出場機会を与えられた。西宮球場での第1戦では8回表代打津野浩からオールスターゲーム初打席初安打、ナゴヤ球場での第2戦では2番・遊撃手で先発出場したが第1打席は先発阿波野秀幸に外野邪飛に仕留められ、第2・3打席も渡辺久信の前に凡退し3打数無安打に終わった。東京ドームでの第3戦3回表二死まで打者8人をパーフェクトに抑えていた先発西崎幸広に三振を喫した。
レギュラーシーズンは110試合に出場し、規定打席に丁度到達しリーグ最下位の打率.223(5月には月間打率.320を記録し、6月には一時的に.291まで到達するものの、7月8月は月間打率1割台と、夏バテによって大幅に落ち込んだほか[38]、6月以降20打席以上無安打を2度記録した[39])ながら22盗塁・21犠打を記録し中日のリーグ優勝に貢献、同年の日本シリーズには全試合先発出場した。守備・走塁技術を高く評価されて新人王を受賞。高卒1年目野手の受賞は2021年現在までで立浪が最後[注 3]。また、高卒新人としては初のゴールデングラブ賞を受賞した[33][40]。しかしその一方、日本シリーズ終了時には前述の右肩痛が悪化、まともにボールが投げられないほどの痛みになっていたという[41]日本赤十字社のイメージキャラクターに就任。
1989年
前述した前年春に痛めた右肩の故障の影響で開幕を二軍で迎え、結局シーズン30試合出場にとどまる。星野の意向により一度は手術が決定し8月に渡米するが、診察したフランク・ジョーブは手術を見送り、「肩のまわりの筋肉を鍛えれば治る」とアドバイスした[42]。この年の故障によって体調の管理に気をつけるようになったと後年語っている。終盤に一軍復帰し、その後閉幕までの19試合の間に打率3割の好成績を残す[43]
1990年
4月7日の大洋との開幕戦(ナゴヤ球場)では、1打席目で本塁打を放った[44]。同年は痛み止めを飲み続けながら試合に出続け、遊撃手のポジションで128試合に出場。復活を遂げ主にリードオフマンとして活躍し、打率.303、155安打を記録する。この年の終盤、打率が3割を切るピンチに直面したがそのまま出場し続け、結果的に3割を維持したままシーズンを終えた。このことが大きな自信になったと本人は語っている[45]。オフに推定年俸2800万円で契約更改[46]。また同年10月に結婚、12月には長女が誕生した[47]
1991年
藤田元司の抜擢でオールスターゲームに自身初の監督推薦で出場。東京ドームでの第1戦に1番・二塁で先発出場したが、初回表先頭打者として野茂英雄に三振を喫した。この年、星野監督が辞任する。
1992年
この年就任した高木守道監督に自ら懇願し、遊撃手を種田仁らに譲って二塁手に転向。この年のキャンプで右の前腕を痛め、そのまま4月4日の開幕戦に出場。この日は第1打席で二塁打を打ち、7回裏にはレフト席に本塁打を放った。しかし試合後、右腕をアイシングしたところ必要以上に腕を氷水に漬けてしまい、その結果人差し指凍傷となってしまった。このことをトレーナーは把握していたが、立浪の意志で監督やコーチには伝えられなかった。結局、その後も凍傷で動かなくなった人差し指を抱えながらも様々な記録を残していくこととなる[48]。故障で序盤は欠場したが、2年ぶりの打率3割を記録。しかし、チームは立浪入団後初の最下位に終わった。
1993年
6月11日からシーズン守備機会連続無失策を続け、それまでの記録を更新。シーズン守備率.997を残し、記録を継続したままシーズンを終える。このシーズンは16本塁打を記録するが、この記録は現役引退まで破ることはできなかった(後述の2002年にタイ記録を残している)。この年から専用応援歌が変更される。
1994年
6月11日の対読売ジャイアンツ戦で松井秀喜の放った強烈な打球を弾いて失策を記録、無失策記録は712回で止まったが監督の高木守道及びコーチの徳武定祐が現役時代に記録した数字を上回るものだった(この記録は後に関本賢太郎に破られる)。10月8日、巨人と同率首位で迎えた優勝決定戦(10.8決戦)では8回裏先頭打者として桑田真澄から三塁内野安打を打った際に一塁にヘッドスライディングし左肩を脱臼して負傷退場した[注 4][50][51]。また、この脱臼の後遺症として左肩は痛いままだと本人は引退後に語っている(事実、それまで2桁試合出場していた遊撃手のポジションは翌年以降、出場は1桁もしくは出場無しとなっている)。
1995年
6月11日の巨人戦で、自身初となるサヨナラ本塁打を放った[52]。チームが低迷している中奮闘し、自身としては2度目で二塁手としては初のゴールデングラブ賞を受賞。この年から3年連続二塁手部門で受賞する。
1996年
星野が監督に復帰。この年のオールスターゲームに二塁手部門でファン投票選出。この年は自己最高の.323の打率を残すが、チームメイトのアロンゾ・パウエル辻発彦との打率争いに敗れ(リーグ3位)、首位打者獲得はならなかった。この年、自身初のベストナインに選出される。
10月6日、中日の逆転優勝の可能性が残るナゴヤ球場最後の公式戦では、9回裏二死から川口和久に三振を喫し最後の打者となり巨人の優勝が決まった(メークドラマ)。
1997年
開幕戦の対横浜ベイスターズ戦で盛田幸妃から初回先頭打者本塁打を放ち、ナゴヤドーム初の公式戦で同球場第1号本塁打となる[53]。8月22日の対阪神戦ではサイクル安打を達成。しかしシーズンを通しては不調に終わり、チームも最下位に転落。
1998年
内野のポジションに久慈照嘉李鍾範が加入したこともあり左翼手に転向、外野守備コーチに就任間もない二宮至の特訓を受ける。広島市民球場での開幕戦に3番・左翼手で出場し4打数無安打。5月26日、星野監督の故郷・倉敷マスカットスタジアムでの阪神戦で川尻哲郎矢野輝弘のバッテリーにノーヒットノーランを喫した際もフルイニング出場していた。6月13日の横浜戦では戸叶尚からナゴヤドーム初の満塁本塁打を放った[53]。また、ナゴヤドームで第1戦が開催された同年のオールスターゲームに松井、新人の高橋由伸と共に外野手部門でファン投票選出された。外野手部門での選出であったが、ナゴヤドームで開催の第1戦は全セの指揮官のヤクルト監督野村克也に9番・二塁手で先発起用された。結果として、この年は李鍾範の故障があり左翼手だけでなく二塁手を務めることも多かった。
1999年
選手会長に就任[54]李鍾範と入れ替わるように内野手に復帰し開幕戦・広島東洋カープ戦で「5番・二塁手」で先発出場、6回裏にネイサン・ミンチーからバットを折りながらもライト前に勝利打点となる適時打を放った[55]。立浪の適時打により開幕戦に逆転勝利し、そこから中日はプロ野球タイの開幕11連勝を飾った[56]。打率は2割6分台だったもののチーム最多の勝利打点を記録し、チームの優勝に貢献した。チームの優勝が決まった9月30日のヤクルトスワローズ戦(神宮球場)では、最後の打者がセカンドフライを打ち上げ、ウイニングボールを掴んだ[44]。王が率いるダイエーとの日本シリーズ第1戦では13奪三振で完封勝利の工藤公康から4打数2安打、第2戦では1回表1死満塁で若田部健一から中前へ先制2点適時打を放った[57]
2000年
開幕戦は2番打者を任されたが、4月途中から5番打者に戻った。4月13日の広島戦(ナゴヤドーム)で8回裏に高橋建から通算1500本安打を記録する[58]。この年は4年ぶりに打率3割に到達した。翌年1月15日、中日の生え抜き選手では史上最高額(当時)となる年俸1億9000万円で契約更改した[59]
2001年
6月13日の阪神タイガース戦(大阪ドーム)終了後に打率が.245まで下がるなど不振で、本人は前半戦を「最悪」と表現したほどだった[60]。後半戦は復調し、打率を3割目前まで上げた[61]が、結局3割には届かずシーズンを終えた。チームが5位に終わったこともあり、11月28日の選手会納会では檄文を配布した[62]ほか、12月28日の契約更改の席ではチームをまとめる決意を示した[63]
12月より日本プロ野球選手会理事長に就任。労働組合日本プロ野球選手会副会長も兼任し、選手の地位向上や野球の普及活動にも力を注ぐ。この年、長らく立浪とともに戦ってきた星野が監督を退きチームを去る。
2002年
5月21日のヤクルト戦(ナゴヤドーム)では同点の9回裏無死満塁の場面で五十嵐亮太から自身初となるサヨナラ満塁本塁打を放った[64][65]。6月は月間打率.342を記録した[66]ほか、月間18打点(リーグ1位)[66]、得点圏打率.522[67]と得点圏で打ちまくり[68]、自身初となる月間MVPを受賞した[67][68]。また、シーズン当初は5番打者を任されたが、4番のレオ・ゴメスが7月3日の巨人戦(東京ドーム)で右膝痛を悪化させ戦線離脱[69]したことにより、7月7日の横浜戦(石川県立野球場)では4番打者を任された[70]。4番を任されるのはプロ15年目で初のことであった[71]が、この試合では4回裏に先制の9号ソロ、8回裏にダメ押しとなる適時打を放つなど3安打2打点の活躍を見せ、チームの連敗を7で止めた[70]
後半戦は、8月15日の広島戦(広島市民球場)で自己最多を更新する66打点目を記録した[72][73]ほか、10月2日の阪神戦(阪神甲子園球場)では6回表に自己最多に並ぶ16号ソロ本塁打を放った[74]
この年は先述の7月7日の試合以降4番に定着し[75]、2年ぶりの3割となる打率.302(リーグ9位[76])、自己最多タイとなる16本塁打、チーム最多、自己最高の92打点(リーグ3位[75])を記録した。
2003年
シーズン当初は3番打者を任されたが、この年も5月から新加入のアレックス・オチョアに代わって4番打者を任され[77]、8試合連続打点を記録[78]した。7月5日の対巨人戦(東京ドーム)で、PL学園の先輩である清原和博の前で猛打賞を記録[79]し、8回表に林昌範から右前安打を放ち日本プロ野球史上30人目となる通算2000本安打を達成[80]、前日から始まっていた巨人戦の際に交わしていた約束通り清原から大きな花束を受け取った[81]。なお、この試合の前、立浪は取材陣の質問に対して思わず「今日の試合で(2000本目を)打っちゃいますよ」と予告した(本来、めったにそんな大口は叩かない性格だという)[82]。同試合後に日本プロ野球名球会入会記者会見。その後、オールスターゲームにも監督推薦で選出され、大阪ドームでの第1戦8回先頭打者で原辰徳に代打で起用され、斉藤和巳から二塁打を放った。
シーズン後半は、8月に自己ワーストタイとなる28打席連続無安打を記録[39]、9月の打率が.150に終わるなど不振に陥った時期もあった[83]が、最終的に打率.280、13本塁打、80打点を記録した。
同年、三塁手としてゴールデングラブ賞を受賞し、日本プロ野球史上初の3つのポジション(遊撃手・二塁手・三塁手)で受賞となった[84]。3つのポジションでの受賞経験者は、2021年シーズン終了現在も立浪が唯一である。オフには1999年から務めた球団選手会長を井端弘和に譲る[85]。また、同オフに『サンデードラゴンズ』(CBCテレビ)に出演した際には、翌年の具体的目標として全試合出場とトリプルスリー(打率3割・30本塁打・30盗塁)の達成を掲げていた[86]
2004年
開幕から3番・三塁手を務めた。4月2日の広島との開幕戦(ナゴヤドーム)では同点の7回裏に勝ち越しの右犠飛を打った[87]。また、4月4日の同カードでは、延長11回裏二死一・二塁の場面で右翼線にサヨナラ適時打を放ち[88]、チームとしては5年ぶりの開幕3連勝に貢献した[89]。だが、その後は19打席無安打を記録した[90]ほか、一時は打率が1割台となる[91][92]など、4月は不振だった。
それでも、5月は17試合連続安打を記録し[93][注 5]、35安打、打率.412(いずれもリーグトップ)[95]、一時は得点圏打率5割を記録する[93]など打ちまくり、月間MVPを獲得[95]。また、同月23日の横浜戦(横浜スタジアム)では、8回表一死一・三塁の場面で右翼線に適時二塁打を放ち、セ・リーグ新記録となる423二塁打を達成した[96]。6月は前月を上回る37安打、打率.430(いずれもリーグトップ)の成績を残し、前月に続き2か月連続で月間MVPを獲得した[97]。5月以降はこのように好調を維持し、打率.357(リーグ1位)で前半戦を終えた[98]
この年は古田敦也とともに一時首位打者争いを繰り広げるが、7月28日の阪神戦(甲子園球場)で5号ソロを放って[99]以降シーズン終了まで本塁打が出ないなど、8月以降成績が下降した[100]。結果的には打率3割を越えたもののリーグ9位の.308に終わり[101]、またもやタイトルを逃すこととなった。日本シリーズ第2戦(ナゴヤドーム)では7回裏、松坂大輔から同点弾となる3点本塁打を放ち[102]勝利に貢献したが、同シリーズは3勝4敗で惜敗。プロ野球再編問題で球界一の実力者で巨人オーナー退任直前の渡邉恒雄の「たかが選手が…」発言を選手会副会長として批判した。8年ぶりにベストナインに選出された。オフに年俸2億5000万円で契約更改[103]
2005年
開幕戦は3番・三塁手で先発出場、0-0で迎えた9回裏先頭で横浜先発の三浦大輔から三塁打で出塁[104]アレックス・オチョアのサヨナラ満塁本塁打で生還。5月19日の北海道日本ハムファイターズ戦(札幌ドーム)で3回表に金村曉から日本プロ野球新記録の通算450本二塁打を放つ[105]。6月4日の日本ハム戦(ナゴヤドーム)の1回裏、正田樹から髙木守道の球団記録を抜く2275本目の安打を左前に放った[106]。この年は序盤、三塁守備で失策を連発[107]。本人の志願もあり[108]、4月17日[107][109]から交流戦終了[110]までの約2か月は左翼手として起用された[109]
同年は先述の通算450二塁打や7月9日の阪神戦(ナゴヤドーム)でのサヨナラ本塁打[111][注 6]などの活躍があったものの、腰と膝の故障もあり打率が低迷[112]。7月には打順が6番に降格したこともあった[113]。また、9月15日の横浜戦(ナゴヤドーム)以降は3番を福留に譲り[114]打順が5番[115]や7番[114]に下がったほか、9月25日の巨人戦(ナゴヤドーム)[116]以降はスタメンでの出場は無かった。オフには落合監督からレギュラー剥奪を明言された[117][118]。翌年1月29日に2500万円ダウンの年俸2億2500万円、1年契約で契約更改した[119]。減俸で契約更改するのは立浪にとって16年ぶりのことだった[119]。同シーズン終了までに通算2346安打を記録していた[120]
2006年
同年の年明け直後には長期的な目標として、張本勲に続くNPB史上2人目の通算3000安打を目指すことを明言していた[120]。開幕後は三塁手の座を森野将彦と争っていたが、その森野の故障により[121]シーズン前半は三塁手として先発出場をする。4月7日の対巨人戦(ナゴヤドーム)では、同点の9回裏一死満塁の場面で上原浩治からサヨナラ満塁本塁打を放った[122][123]。6月30日の広島戦(ナゴヤドーム)では5打数5安打を記録した[124]が、翌日の試合で7回表に広島・東出輝裕の三盗を自身が定位置より後方に守っていたことによりタッチが遅れ阻止できず[125]、半ば懲罰に近い形で途中交代[126]させられた[注 7]。この試合を最後に森野に正三塁手の座を奪われてからは先発出場から外れ代打での出場となった[125][注 8]が、それでも代打で3割を超える打率を記録[127]するなど結果を残した[128]。10月4日の広島戦(ナゴヤドーム)では同点の9回裏一死一・二塁の好機で右中間へサヨナラ適時打を放ったが、試合後のヒーローインタビューで涙を流した[128][129][130]
優勝決定の翌々日10月12日の甲子園球場での阪神戦(片岡篤史の引退試合)では志願して3番左翼手で先発出場を果たし[131][132]、試合後に片岡の胴上げに参加した。同月16日の広島とのレギュラーシーズン最終戦(広島市民球場)では日本シリーズに備え4番右翼手で先発出場[133]、この試合以降は後述する2009年9月30日まで守備に就いてのスタメン出場は無かった。
この年は7月に森野に三塁手のレギュラーを奪われてからは代打での出場がメインとなった[125][134]ことにより、1989年以来17年ぶりに規定打席に到達しなかった。オフの12月28日に1億2500万円減の年俸1億円で契約更改[134]
2007年
後述するように代打としての出場がメインだったが、交流戦のパ・リーグ主催試合では指名打者としてスタメン出場することもあった[135][136][137][138]。8月24日の阪神戦(ナゴヤドーム)で通算1000打点[139]、9月1日の広島戦(広島市民球場)で通算3500塁打を達成した[140]。同年は中村紀洋の加入もあり出場機会が減ったものの、3月30日のヤクルトとの開幕戦(ナゴヤドーム)で決勝打[141]、8月28日の横浜戦(横浜スタジアム)で自身初となる代打満塁本塁打を放つ[142]など、代打の切り札として活躍し、代打としての年間最多出場記録を更新[注 9]日本シリーズ制覇やアジアシリーズ制覇に貢献した。同年オフより打撃コーチを兼任[143]
2008年
コーチ兼任で臨んだシーズンだったが、開幕から19打席無安打が続き[144]、シーズン初安打が出たのが20打席目(5月8日)[145]となるなど不振だった。9月16日の阪神戦(ナゴヤドーム)で通算2500試合出場を達成した[146][147]ものの、同年はプロ入り後最低の成績でシーズンを終えた。オフの12月5日、2000万円減の年俸8000万円で契約更改[144][148]。その終了後に会見を行い、「翌年が最後のつもりでやります。1年悔いのないように。思い切って、最後の力を振り絞ってやります」と、2009年限りでの現役引退を示唆した[148]
2009年
前年オフに引退を示唆したことで開幕前から注目を集めた。40歳という年齢もあり守備に就くことは後述する本拠地最終戦までなかったが、代打でチームに貢献した。4月24日の対巨人戦(東京ドーム)では8回表に豊田清から同点本塁打を放ちチームの勝利に貢献[149]。入団以来22シーズン連続で本塁打を放った[149](日本記録は谷繁元信の27年)。5月7日の広島戦(ナゴヤドーム)では自身13度目となるサヨナラ打を打った[150][151]ほか、7月21日の広島戦(ナゴヤドーム)では6回裏に右中間へ決勝の2点適時二塁打を打ち、チームの逆転勝利に貢献した[152][153]。8月1日のヤクルト戦(神宮球場)で日本プロ野球史上7人目の通算1万打席を達成[154]。シーズン終盤に正式に引退を表明し、9月30日の本拠地最終戦、対巨人戦(ナゴヤドーム)が引退試合となった。試合には6番・一塁手で同年シーズン初のスタメン出場[注 10]。2-6で敗れたが[156]、4打数3安打の猛打賞[155]で自らの引退を飾った。また、3安打目は二塁打[155]で、自らの持つ二塁打の日本記録を487に伸ばした。試合後のセレモニーでは桑田真澄、清原和博、片岡篤史らから花束が贈られた[155]
その後も10月4日の対阪神最終戦(甲子園球場)[157][158]や、10月11日のヤクルトとのレギュラーシーズン最終戦(神宮球場)で代打出場して凡退した。4日は桧山進次郎から[157]、11日は宮本慎也から、花束が贈呈された。レギュラーシーズンでの現役最終打席は9回表二死無走者の場面で押本健彦から二飛を打った。クライマックスシリーズでは、10月19日のヤクルトとの第1ステージ第3戦(ナゴヤドーム)で5回裏に代打でリードを広げる2点適時二塁打を打ち、チームの第1ステージ突破に貢献[159]。また、10月24日の巨人との第2ステージ第4戦(東京ドーム)で9回表に7番・藤井淳志の代打として出場し[160]マーク・クルーンに左飛に仕留められた打席が最終打席となった[161]
引退時、ファンの間で「背番号3を永久欠番に」という運動が沸き起こり、署名活動も行われた[162]が見送られ、2010年からは森野将彦が受け継ぐことが球団から一旦発表された[163]。しかしこれは森野本人の要望により取り消され、2010年は欠番扱いとなった[164]。背番号3は2011年からPL高校の後輩でもある吉川大幾が、2015年からは高橋周平が着用[165]している。

引退後

2010年1月6日、ナゴヤドームで「立浪選手に感謝する会」が開催された[166]。2月27日にロッテとのオープン戦で引退記念試合を行った[167]。中日の選手でオープン戦で引退試合が行われるのは2002年の今中慎二以来であり、立浪の次は2014年の山﨑武司であった[注 11]。1月26日、同じく前年限りで現役引退した赤星憲広清水崇行と共に日本テレビ(日テレ)のプロ野球中継解説者となることが発表された[168](主に中日戦。ただし、中京テレビ名古屋にある日テレ系局)はナゴヤドームの中日主催試合の放映権が無い。日テレ製作の巨人戦でも中日に絡まない数試合にも出演する)。ゲスト解説者としてCBCテレビCBCラジオフジテレビ東海テレビテレビ愛知の中継にも不定期出演する。また、片岡篤史の後任として北海道文化放送の「スポーツワイド Fの炎」のレギュラー解説者にも起用された。

2011年4月より、野村弘樹と共にフジテレビ『すぽると!』のレギュラー野球解説者を務めている。野村とペアで出演することも年に数回ある。

2012年4月28日には東海テレビのプロ野球ローカル中継では野村と初めてペアで野球中継の解説を務めた。

2012年10月10日に、野球日本代表の打撃コーチに就任したことが発表された[169]。11月13日に、背番号が「81」となったことが発表された[170]

2013年のオフには、高木守道の監督退任に伴い中日の次期監督候補の一人として名前が挙がった[171]が監督就任は実現せず、結局谷繁元信選手兼任監督に就任した[172][173]。これを受け、仕事の中心を名古屋から東京に移そうと考えていたが、夫人からの反対を受けて断念している[174]。なお一部によるとテレビ解説などでナゴヤドームを訪れた時には、中日の若手選手に熱心にアドバイスを送る姿も見られ、チーム内外から立浪監督待望論がささやかれてきた[171][175]。なお、立浪自身は著書にて「いずれはもう一度、中日ドラゴンズのユニフォームを着て、指導者としてグラウンドに立ちたい。そのために、これからはいろいろ考えて努力していきたいと思う」「私は果たして、(もし指導者になったら)星野監督のように、いざ試合が始まったら別人になれるだろうか」と記し、将来的に中日で監督を務めることに意欲を示していた[176]2018年秋には、巨人の監督に復帰することが決まっていた原辰徳からコーチ就任の要請を受けていたが、これを固辞している[177]

2019年野球殿堂入り(競技者表彰)[4]2020年11月には中日球団からの依頼を受け[6]、翌2021年の春季キャンプで臨時コーチを務めることが決まった[178]

2021年10月29日に、中日の大島宇一郎オーナーから同年限りで退任した与田剛に代わり監督に就任することを要請され、これを受諾[179][11]。翌2022年から指揮を執ることが決まった[10][11]

中日監督時代

2022年、2月26日の阪神とのオープン戦で監督としてのデビュー戦を飾る[180]。3月5日のヤクルトとのオープン戦では、4389日ぶりに本拠地でユニホーム姿を見せた[181]

同年は打撃陣の不振[注 12]やDeNA戦で6勝18敗1分と大きく負け越した[183]こと、5月から6月の間に6連敗以上を3度記録[184][185][186]したことが響き、最下位に終わった[182][187]

2023年も、前年と変わらず最下位となった。

2024年9月18日の阪神戦で敗れた試合後、自ら退任を表明[188]。この年のセ・リーグの最下位はシーズン最終戦まで確定せず、中日は最終戦のDeNA戦で引き分け以上ならば5位になるところだった[189]。しかし、2022年オフにトレードで放出した京田陽太に決勝打を許した上に、打線が沈黙してシーズン14度目の完封負けを喫してしまい、最下位を確定させた。立浪が監督した3年間は全て最下位という結果で、新人監督から3年連続最下位はNPB史上4度目、また、3年連続最下位は球団史上ワーストを更新するものとなった[190][191]

「今日も最後の最後まで声援をいただきましてありがとうございます。1年間、バンテリンドームはもちろんビジターのグラウンドでも声援をいただいたありがとうございました。3年間結果を出すことができず、皆様には申し訳ない思いをさせて、すみませんでした。何とか3年間チームを強くしようと、改革してきましたが、まだこのチームは改革の途中。志半ばでチームを退くのは残念で悔しい思いです。来年以降は新体制になりますが、応援して力を与えて上げてください。負けたので多くは語りません。本当に3年間ありがとうございました」といい、背番号73に別れを告げた。[192]

人物

  • チーム内での愛称は「タツ[193][194]。また中日の後輩である井上一樹らは「タッさん」と呼ぶことが多かった。
  • 入団1年目からレギュラーとして定着し、入団3年目の1990年から2005年まで16年連続規定打席到達を記録。代打での出場が多くなった2007年以降でも、代打の準備にネクストバッターズサークルに現れただけで大歓声を受けた。打席に向かう時の歓声は「代打・立浪」のコールが聞こえなくなることもあるほどであった。
  • PL学園高校時代から甲子園のアイドル的存在であり、プロ入り後も若手時代は甘いマスクと華麗な守備から若い女性ファンが多かった[195]
  • 鉄拳制裁も辞さない星野から怒られたことが滅多にないことで知られており、所謂、星野政権の優等生と言われている[196]
  • 通算本塁打は171本。これは日本プロ野球界の通算安打数ベストテン[注 13]に入る選手の中では最少であると共に、その中で200本塁打に到達していないのは立浪のみ。また、シーズン20本塁打を達成したこともない[注 14]。このように決して長距離打者とは言えない(最後に本塁打を放った2009年4月24日の試合後にも、日刊スポーツのインタビューに対し「ボクはホームラン打者じゃない」と語っていた[197])が、プロ1年目から最終年まで本塁打のなかったシーズンは一度もない。
  • 猛打賞を175回記録している[198]
  • 前述のとおり日本プロ野球記録である二塁打の日本記録487を持ち、プロ初安打もプロ最終安打も二塁打であることから、「ミスター二塁打」の異名もあり[199]、立浪本人も「ツーベースに縁があった」と振り返っている。ただ、名球会会員の中で、清原和博前田智徳駒田徳広宮本慎也谷繁元信同様、盗塁王を含む打撃タイトルを獲っておらず、年間最多二塁打もない。
  • プロ入り以降遊撃手→二塁手→左翼手→二塁手→三塁手→左翼手→三塁手とメインの守備位置を変えるなど、ユーティリティープレイヤーでもあった。現役晩年は代打に役割が変わっても、与えられたその役割を全うした。
  • 「自分が選手会長の時(1999年 - 2003年)に派閥はなくした」と、自由な空気の中でドラゴンズ全体の底上げを図った立役者でもある[200]。元チームメイトの山本昌は、立浪について「野球の知識、統率力には感服する」「ソツがない」と評した[201]
  • かつて同僚だったタイロン・ウッズと生年月日が同じであり、共に誕生日を祝うことがあった[202][203]
  • 当時小学生だった福留孝介が高校時代の立浪に憧れ、小学生時代の福留が中日のキャンプを訪れたときにサインをしたことは有名。後に福留が中日入りした際、かつて立浪の応援歌であった曲が応援歌に採用されている。1990年当時にルーキーであった阪神タイガース新庄剛志外野手は立浪の守備から刺激を受け、志願して遊撃手へ転向している[204]
  • 下戸であり、酒が飲めない[205]。自らの著書にも「40歳まで現役でプレーできたのは、お酒を飲まなかったからだと思っている」と記されている[206]
  • 2003年オフに『サンデードラゴンズ』で格闘家のボブ・サップと共演した際、自身より遥かに大柄なサップから「体はビースト(サップ自身のこと)より小さいが、非常なパワーを感じる」と評されていた[86]

登場曲

  • 現役時代は、中村あゆみの「翼の折れたエンジェル」を登場曲として使用していた[207]。この曲は立浪がPL学園高等学校1年生の時に寮で流れていた曲で、プロでは初心を忘れないように、登場曲として使用したという[208][209]。2019年12月に開催された立浪の野球殿堂入りを祝う会では、立浪が登壇する際にこの曲が流された[209]ほか、中村がサプライズで会場に登場し、この曲を披露した[208][209]

8020県民健口大使

社会貢献活動

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1988 中日 110 403 336 61 75 15 1 4 104 18 22 7 21 0 42 0 4 53 3 .223 .317 .310 .626
1989 30 100 85 10 20 6 1 2 34 8 3 6 5 0 10 0 0 10 3 .235 .316 .400 .716
1990 128 591 511 73 155 33 6 11 233 45 18 9 14 1 60 1 5 61 3 .303 .381 .456 .837
1991 131 605 520 87 151 35 2 10 220 45 10 8 8 2 74 4 1 69 5 .290 .379 .423 .802
1992 98 438 379 52 114 16 4 5 153 42 8 4 2 4 51 1 2 52 6 .301 .383 .404 .787
1993 128 577 500 73 143 18 3 16 215 50 6 8 3 1 70 0 3 51 3 .286 .376 .430 .806
1994 129 581 489 90 134 27 1 10 193 53 12 2 2 5 83 6 2 50 10 .274 .378 .395 .773
1995 126 557 489 72 147 25 1 11 207 53 10 11 2 3 59 2 4 46 11 .301 .378 .423 .802
1996 130 587 511 91 165 39 2 10 238 62 2 5 3 2 69 0 2 57 12 .323 .404 .466 .870
1997 133 579 495 77 133 24 3 14 205 55 8 5 1 1 77 4 5 42 13 .269 .372 .414 .786
1998 134 589 504 60 137 24 1 8 187 43 6 6 3 4 74 4 4 60 8 .272 .367 .371 .738
1999 123 477 417 54 111 32 1 4 157 53 3 2 4 4 51 1 1 44 14 .266 .345 .376 .721
2000 126 503 436 58 132 30 3 9 195 58 5 0 16 2 46 1 3 43 13 .303 .372 .447 .819
2001 139 576 507 52 148 30 2 9 209 65 6 1 7 6 54 4 2 54 9 .292 .359 .412 .771
2002 137 562 506 62 153 34 2 16 239 92 4 9 1 4 45 3 6 55 10 .302 .364 .472 .836
2003 135 569 500 52 140 28 2 13 211 80 2 4 0 10 52 2 7 72 13 .280 .350 .422 .772
2004 134 580 523 68 161 25 0 5 201 70 5 3 1 6 45 2 5 52 12 .308 .364 .384 .749
2005 138 580 501 57 127 25 1 9 181 56 2 0 0 6 68 1 5 76 15 .253 .345 .361 .706
2006 113 284 259 17 68 10 1 1 83 31 3 1 3 3 17 2 2 28 6 .263 .310 .320 .630
2007 101 129 109 4 30 2 1 2 40 31 0 0 0 3 16 3 1 14 2 .275 .364 .367 .731
2008 86 86 73 2 15 4 0 1 22 10 0 0 0 1 11 3 1 11 2 .205 .314 .301 .615
2009 77 80 66 3 21 5 0 1 29 17 0 0 0 1 12 1 1 7 1 .318 .425 .439 .864
通算:22年 2586 10033 8716 1175 2480 487 38 171 3556 1037 135 91 96 69 1086 45 66 1007 174 .285 .366 .408 .773
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高

年度別守備成績


一塁 二塁 三塁 遊撃 外野




























































1988 - - - 103 158 219 10 53 .974 -
1989 - - - 27 36 64 3 15 .971 -
1990 - - - 128 234 355 14 74 .977 -
1991 - - - 131 192 377 14 76 .976 -
1992 - 97 228 280 10 52 .981 - - -
1993 - 127 311 357 2 94 .997 - - -
1994 - 120 280 339 4 96 .994 - 27 41 59 1 19 .990 -
1995 - 124 281 355 7 83 .989 - 6 8 19 1 4 .964 -
1996 - 130 296 336 8 81 .988 - - -
1997 - 133 331 314 11 73 .983 - - -
1998 - 56 97 133 3 27 .987 2 3 3 0 0 1.000 - 86 127 3 1 0 .992
1999 - 118 235 306 7 60 .987 3 0 3 0 0 1.000 - 12 6 1 0 0 1.000
2000 - 123 201 303 5 43 .990 1 0 0 0 0 .--- 3 0 1 0 0 1.000 15 11 0 0 0 1.000
2001 - 95 175 252 2 52 .995 54 24 77 6 4 .944 1 1 2 0 0 1.000 -
2002 - 25 51 52 1 13 .990 116 80 182 10 11 .963 - -
2003 - - 133 81 183 15 8 .946 - -
2004 - - 134 87 176 8 14 .970 - -
2005 - - 81 43 130 10 12 .945 - 35 35 0 2 0 .946
2006 - - 46 23 63 3 6 .966 - 2 3 0 0 0 1.000
2009 1 6 1 0 0 1.000 - - - -
通算 1 6 1 0 0 1.000 1148 2486 3027 60 674 .989 570 341 817 52 55 .957 426 670 1096 43 241 .976 150 182 4 3 0 .984

表彰

記録

日本記録
  • 通算二塁打:487
  • シーズン30二塁打以上:7度
  • サヨナラ満塁本塁打:2度(タイ記録)[130][注 15]
  • 1試合5安打:5度(タイ記録)[219]
初記録
節目の記録
その他の記録
  • 最多得点:2回(1991年、1994年)
  • 最多出塁:1回(1996年)
  • サイクル安打:1回(1997年8月22日、対阪神タイガース戦、ナゴヤドーム) ※史上47人目
  • オールスターゲーム出場:11回(1988年、1991年、1994年 - 1998年、2000年、2002年 - 2004年)

背番号

  • 3(1988年 - 2009年)
  • 73(2022年 - 2024年)

年度別監督成績




























2022 中日 6位 143 66 75 2 .468 15.0 62 .247 3.28 53歳
2023 6位 143 56 82 5 .406 29.0 71 .234 3.08 54歳
2024 6位 143 60 75 8 .444 16.5 68 .243 2.99 55歳
通算:3年 429 182 232 15 .440 Bクラス3回
  • 2024年度シーズン終了時

関連情報

著書

  • 『負けん気』(文芸社、2010年2月、ISBN 978-4286088532/増補版、文芸社文庫、2014年2月、ISBN 978-4286148939
  • 『立浪和義超打撃術:名手に学ぶプロフェッショナル野球論』(ベースボールマガジン社、2011年2月、ISBN 978-4583103341
  • 『立浪&野村が教える! 野球少年が親子でうまくなるプロ思考』(野村弘樹共著、集英社、2012年9月、ISBN 978-4087806595
  • 『攻撃的守備の極意:ポジション別の鉄則&打撃にも生きるヒント:MASTERS METHOD』(廣済堂出版、2013年12月、ISBN 9784331517789
  • 『長打力を高める極意』(廣済堂出版、2015年2月、ISBN 9784331519110
  • 『二遊間の極意:コンビプレー・併殺の技&他選手・攻撃との関係性』(廣済堂出版、2016年7月、ISBN 9784331520369
  • 野球センスの極意:走攻守・バッテリー能力&マルチなセンスの磨き方』廣済堂出版、2017年8月。ISBN 978-4331521205http://www.kosaido-pub.co.jp/book/post_2467.html 

関連書籍

関連映像

  • 『ミスタードラゴンズ22年間の軌跡:立浪和義引退記念』(DVD、コロムビアミュージックエンタテインメント、2009年12月、COBA-4858)
  • 『立浪和義の野球塾!プロへの道標!!:通算2480安打の巧打者が贈るバッティング理論』(DVD、竹緒、2010年6月、TIMA-3)

出演番組

テレビ番組

過去の出演番組

ラジオ番組

過去の出演番組

CM

  • エスエスケイ「野球用品」(1989年、ロッカールーム篇・食堂篇)、企業広告(2004年、バットミントン篇[注 16][232]
    • 1989年から2009年まで(現役時代)[233]・2022年以降(監督就任後)は同社とアドバイザー契約を結んでいる[注 17][234]。現役時代はテレビCM[注 18]に出演し、カタログなどの広告にも起用された[233]
    • 2004年に放送したバットミントン篇は「自転車から飛び降りた立浪が傘回しをしている女性からトスを受け、それを(フェアゾーンに)飛ばす」という内容であったが、終盤には立浪もバットミントンをするシーンがあった。
  • アサヒビール「名古屋麦酒」(1998年、高田純次と共演)
    • 中日ドラゴンズの試合を観戦する高田が「ここで(立浪が)打ったら名古屋麦酒1年分だ」と言い、それを飲む高田に立浪(野球中継で登場した打者)が反応する。その後、立浪はヒットを放ち、高田の家に押し掛けて「すみません、名古屋麦酒1年分」とお願いしている(このシーンで高田と共演した)。

テレビドラマ

脚注

注釈

  1. ^ 中日球団における実働年数22年は荒木雅博と並んで球団史上2位タイ[5](野手としては最長)。1位は山本昌(投手)の29年[5]
  2. ^ 2020年現在、通算の試合出場数(2586)・安打(2480)・打点(1037)・打席(10033)などは球団史上最多記録[5]。また中日の生え抜き選手で通算2000安打を達成した選手は、高木守道谷沢健一・立浪・荒木・大島洋平の5人のみ[8][5]
  3. ^ パ・リーグ最後の高卒1年目野手の受賞者は清原和博
  4. ^ 立浪が一塁にヘッドスライディングをしたのはこれが最初で最後(二塁にしたことはあったが、「(ヘッドスライディングを)やるな」と教わっていたため高校時代も一塁にヘッドスライディングをしたことが無い)。立浪はこの件を「考えてやったんじゃなく、気が付いたらやっていた」と後に振り返っている。脱臼後はベンチの奥で「関節を入れてくれ」とスタッフに頼んだが、元には戻らず負傷交代となった。その後、立浪は負傷交代後もナゴヤ球場にとどまり、試合終了後に病院へ向かった[49]
  5. ^ 17試合連続安打を記録した翌日(5月30日)の試合では、チームが荒木雅博の1安打に抑えられた[94]
  6. ^ 中日はこの勝利でナゴヤドーム通算300勝を達成した[111]
  7. ^ この後チームは同点に追いつかれ、最終的に7-8で敗戦。
  8. ^ 当時監督であった落合博満は退任以降「立浪の守備範囲が目に見えて狭くなった」という趣旨の発言をしている。
  9. ^ ただし、同シーズンに真中満が立浪を上回る代打出場回数を記録しているため、歴代では2位の出場数である。
  10. ^ 一塁の守備に入るのは自身初[155]で、守備に就いてのスタメン出場は前述の2006年10月以来となった。
  11. ^ 立浪の引退試合では後の山崎や山本昌の引退試合で行われたような「一日限定で支配下選手として登録(一日契約)」という手法は採用されなかった。
  12. ^ チーム本塁打62本、414得点とも12球団の中で最下位だった[182]
  13. ^ 2020年シーズン終了時点で張本勲野村克也王貞治門田博光衣笠祥雄福本豊金本知憲、立浪、長嶋茂雄土井正博の10人。なおメジャーリーグベースボールでプレーしたイチロー松井秀喜松井稼頭央の3名は含めない。
  14. ^ シーズン最多本塁打は1993年・2002年に記録した16本塁打。
  15. ^ 同一球団でサヨナラ満塁本塁打を2度打ったのは立浪だけである[130]
  16. ^ バットを使ってバドミントンをすること」を指す。
  17. ^ (監督就任後の契約期間は1年[233]であったが、後に契約を延長している)
  18. ^ ロッカールーム篇はセリフが無かったが、歌詞に「ちょっとばかり、おバカさんだといいの」というフレーズがあった。同フレーズは監督就任後に「こんにちは、おバカさん」がインターネット上でのネタの1つとなり、アサ芸プラスの見出しにも登場したことがあった[235]。食堂篇には「野球でやっと飯が食えるようになりました」(原文ママ)というセリフがあり、立浪が「いただきます」と言った後、白ごはんを嬉しそうに食べるシーンが映る。余談となるが、中日ドラゴンズの監督として指揮を執った2023年はビジターでの13連敗(64年ぶり[236]。次のビジターでの試合も負けたためビジターでの連敗は「14」に伸びた[237])が切っ掛けとなり、炊飯器の撤去を命じて白米の提供を禁止したが、ライデル・マルティネスの抗議により投手陣はすぐに制限が撤回された[238][239]。この1件は「令和米騒動」と報じている[238][239]。なお、中日ドラゴンズは2024年もビジターで13連敗を喫している[240]

出典

  1. ^ a b c 『中日ドラゴンズ '99ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、1999年3月17日、34頁。ISBN 978-4806203834 
  2. ^ a b 『完全保存版 プロ野球 セ・パ両リーグ 12球団全選手カラー百科名鑑2020』433号、廣済堂出版〈廣済堂ベストムック〉、2020年2月21日、287頁。ISBN 978-4331802939  - 『ホームラン』特別編集
  3. ^ 日本プロ野球名球会オフィシャルサイト。2021年8月24日閲覧
  4. ^ a b c d 殿堂入りリスト 立浪和義」公益財団法人野球殿堂博物館。2020年11月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月30日閲覧
  5. ^ a b c d ドラゴンズ打撃通算リーダーズ(在籍通算)」『中日ドラゴンズ オフィシャルウェブサイト』中日ドラゴンズ。2020年8月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月30日閲覧
  6. ^ a b 伊東大介「立浪和義氏が中日臨時コーチに 来年の春季キャンプ」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2020年11月18日。2020年11月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月30日閲覧
  7. ^ 歴代最高記録 二塁打 【通算記録】」『NPB.jp 日本野球機構』日本野球機構、2020年11月30日。2020年11月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月30日閲覧
  8. ^ 荒木雅博選手 2000安打達成」『中日ドラゴンズ オフィシャルウェブサイト』中日ドラゴンズ。2020年11月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月30日閲覧
  9. ^ 歴代最高記録 安打 【通算記録】」『NPB.jp 日本野球機構』日本野球機構、2020年11月30日。2020年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月30日閲覧
  10. ^ a b ドラゴンズニュース ★立浪和義監督就任会見」『中日ドラゴンズ オフィシャルウェブサイト』中日ドラゴンズ、2021年10月29日。2021年10月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月29日閲覧
  11. ^ a b c 【中日】立浪和義新監督が誕生 要請受諾「よろしくお願いします。全力で頑張ります」午後から就任会見」『中日スポーツ』中日新聞社、2021年10月29日。2021年10月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月29日閲覧
  12. ^ 元中日監督・高木守道氏死去 78歳 2代目ミスタードラゴンズ 通算2274安打の名二塁手」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2020年1月17日。2020年11月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月30日閲覧
  13. ^ a b 殿堂ニュース > 2019年 野球殿堂入り発表 立浪氏、権藤氏、脇村氏が殿堂入り”. 公益財団法人野球殿堂博物館 (2019年1月5日). 2020年11月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年11月30日閲覧。
  14. ^ ベースボール・アルバム 1988, p. 48.
  15. ^ ベースボール・アルバム 1988, p. 49.
  16. ^ a b 立浪和義 2010, p. 68.
  17. ^ 立浪和義 2010, p. 13.
  18. ^ ベースボール・アルバム 1988, p. 50.
  19. ^ 立浪和義 2010, p. 67.
  20. ^ 立浪少年が見た働く母の背中…PL時代の厳しい寮生活「しんどくても踏みとどまれた」今も変わらぬ“ありがとう”」『中日スポーツ・東京中日スポーツ』中日新聞社、2022年5月9日。2022年6月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  21. ^ 立浪和義 2010, p. 66.
  22. ^ ベースボール・アルバム 1988, p. 51.
  23. ^ 立浪和義 2010, pp. 68–69.
  24. ^ ベースボール・アルバム 1988, p. 34.
  25. ^ a b ベースボール・アルバム 1988, p. 37.
  26. ^ a b ベースボール・アルバム 1988, p. 53.
  27. ^ a b c 『中日スポーツ』1996年10月9日号第5版5頁「中スポ特報 立浪兄 ○○さん 弟はドラゴンズのスター選手 軟式野球成年2部国体に出場 「背番3」四番センター 肩の故障でプロ断念も野球を愛し続ける 28歳“仕事と両立” 弟と違う もう一つの頂点を目指す」(中日新聞社 増田護)
  28. ^ 立浪和義 2010, pp. 66–67.
  29. ^ ベースボール・アルバム 1988, p. 40.
  30. ^ 立浪和義 2010, p. 14‐18.
  31. ^ 立浪和義 2010, p. 10‐12.
  32. ^ 立浪和義 2010, p. 23‐24.
  33. ^ a b c d 【1月28日】1988年(昭63) ウーやんもビックリ!ルーキー立浪和義、開幕スタメン早くも確約」『スポニチ Sponichi Annex』株式会社スポーツニッポン新聞社。2016年9月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月18日閲覧
  34. ^ 立浪和義 2010, p. 28.
  35. ^ a b 中日・立浪監督が振り返る、現役終盤の「代打時代」 「腹が立ったけど、それも勉強」(小林信也)」『デイリー新潮』2022年3月27日。2024年4月5日閲覧
  36. ^ http://www.npb.or.jp/cl/entertaiment/record/pdf/2010/12.pdf
  37. ^ 1988年7月15日中日新聞朝刊 朝刊運動2面26頁「立浪当選 新人ただ1人 球宴ファン投票」(中日新聞社)
  38. ^ 立浪和義 2010, p. 47.
  39. ^ a b 立浪、29打席ぶりのヒット」中日スポーツ、2003年8月24日。2004年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧
  40. ^ 1988年11月16日中日新聞朝刊 朝刊運動2面24頁 「やったぞ立浪、高卒ルーキー初 彦野、清原も初受賞 プロ野球・ゴールデングラブ賞」(中日新聞社)
  41. ^ 立浪和義 2010, p. 52.
  42. ^ 立浪和義 2010, p. 55‐58.
  43. ^ 立浪和義 2010, p. 58-59.
  44. ^ a b 「立浪和義 感謝」 引退独占手記」『中日スポーツ』中日新聞社、2009年10月1日。2015年6月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  45. ^ 立浪和義 2010, p. 63.
  46. ^ 1990年11月30日中日新聞朝刊運動1面25頁「立浪3.3倍増2800万円 充実の証明 初の3割台評価」(中日新聞社)
  47. ^ 『'91ドラゴンズファンブック』中日ドラゴンズ(発行)、中日新聞本社(発売)、1991年3月6日、16頁。ISBN 4806202371
  48. ^ 立浪和義 2010, p. 108‐113.
  49. ^ “伝説のヘッスラ”から28年…10·8での立浪の左肩脱臼 すさまじかった『その先』ベンチの奥で彼は言った」『中日スポーツ』2022年3月10日。2022年3月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月30日閲覧
  50. ^ ブロードバンド東海ラジオ ガッツナイタープレイバック1990年~1994年」コミュファラジオ。2015年10月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  51. ^ 立浪が今中が語った「10・8」 もし時間を巻き戻せるなら…」『中日スポーツ・東京中日スポーツ』中日新聞社、2018年5月8日。2022年7月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  52. ^ 「ヒットなしでサヨナラ勝ち?」「ドラ戦士が甲子園の阪神ファンを沸かせたサヨナラ?」…川上憲伸、立浪和義、谷繁元信、井端弘和の忘れられないサヨナラゲーム」『ドラの巻【昇竜復活へ!CBC中日ドラゴンズ情報】 (hicbc.com)』中部日本放送株式会社、2020年5月25日。2022年11月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月23日閲覧
  53. ^ a b <WithD>立浪さん起点、満塁弾「ドーム30号」」『中日新聞Web』中日新聞社、2021年5月5日。2021年5月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月5日閲覧
  54. ^ 1998年12月8日 中日新聞朝刊運動3面19頁「プロ野球短信 新選手会長に立浪」(中日新聞社)
  55. ^ 立浪、復活の兆し/水谷実コーチ「今年一番の状態」」『中日スポーツ』中日新聞社、1999年5月5日。2001年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月24日閲覧
  56. ^ 中日開幕11連勝 45年ぶり日本タイ」『中日スポーツ』中日新聞社、1999年4月17日。2001年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月24日閲覧
  57. ^ 竜打爆発 ド~ンと8点 出る出る!立浪先制打、ゴメス4打点」中日スポーツ、1999年10月25日。2001年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月17日閲覧
  58. ^ a b おめでとう立浪/1500本安打」中日スポーツ、2000年4月14日。2001年2月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月20日閲覧
  59. ^ 立浪 1憶9000万円 中日生え抜き選手最高」中日スポーツ、2001年1月16日。2001年1月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月17日閲覧
  60. ^ 立浪ネバーギブアップ勝ち越し打!!」中日スポーツ、2001年8月11日。2001年11月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月17日閲覧
  61. ^ 立浪3割目前」中日スポーツ、2001年8月28日。2003年1月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月17日閲覧
  62. ^ ゲキ文立浪配布 竜戦士よ自覚持て!!」中日スポーツ、2001年11月29日。2002年10月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月17日閲覧
  63. ^ 立浪「オレについてこい!!」 「もっとチーム内の競争必要」」中日スポーツ、2001年12月29日。2002年6月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月17日閲覧
  64. ^ ブロードバンド東海ラジオ ガッツナイタープレイバック 2000年~2004年」コミュファラジオ。2015年10月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月17日閲覧
  65. ^ 立浪、サヨナラ満塁弾 竜、止まらない8連勝」中日スポーツ、2002年5月22日。2004年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月17日閲覧
  66. ^ a b 2009年10月8日中日新聞朝刊 朝刊運動2面20頁「22年の軌跡 立浪和義のあの日 (6) 2002年7月7日 初の4番打者 本塁打より存在感」(中日新聞社)
  67. ^ a b c 立浪、喜べない 初の月間MVP&9度目球宴」『中日スポーツ』中日新聞社、2002年7月4日。2004年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月20日閲覧
  68. ^ a b ボクがしょってタツ!! 打点量産立浪誓う」『中日スポーツ』中日新聞社、2002年7月11日。2004年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月20日閲覧
  69. ^ ゴメス 最悪退団も 竜打緊急事態」中日スポーツ、2002年7月11日。2004年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月17日閲覧
  70. ^ a b 立浪4番弾 野球人生初 連敗止めた!!」中日スポーツ、2002年7月8日。2006年5月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月17日閲覧
  71. ^ 勝った中日と負けた巨人に“4番の差”…プロ初の大役・阿部で思い出した20年前 今も変わらないドラゴンズの顔」『中日スポーツ 東京中日スポーツ』中日新聞社、2022年6月19日。2022年6月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月24日閲覧
  72. ^ 祝 立浪1877安打 夢の2000本へ」『中日スポーツ』中日新聞社、2002年8月16日。2004年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月24日閲覧
  73. ^ 逆転竜5連勝 きょうからのG戦も頼むぞ」『中日スポーツ』中日新聞社、2002年8月16日。2004年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月24日閲覧
  74. ^ 立浪 自己最多タイ16号 打点王『まだ、あきらめない』」『中日スポーツ』中日新聞社、2002年10月3日。2004年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月24日閲覧
  75. ^ a b 立浪 「選手会長続ける!!」」中日スポーツ、2002年10月30日。2004年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月17日閲覧
  76. ^ 年度別成績 2002年 セントラル・リーグ」NPB(一般社団法人日本野球機構)。2022年4月17日閲覧
  77. ^ 立浪 見せた選手会長の責任カ~ン 窮地救った!!2打点だアーチだ」中日スポーツ、2003年5月8日。2004年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月17日閲覧
  78. ^ 立浪 偉大なる故西沢氏に迫る! 8試合連続打点」中日スポーツ、2003年5月16日。2004年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月17日閲覧
  79. ^ 1回に右中間適時二塁打。6回に右翼線二塁打。8回に右前適時打。
  80. ^ a b 猛打賞で決めた 立浪やったぜ 2000本安打」中日スポーツ、2003年7月6日。2004年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月17日閲覧
  81. ^ 立浪和義 2010, p. 139‐143.
  82. ^ 立浪和義 2010, p. 141.
  83. ^ a b 立浪150号 猛打賞も150回」中日スポーツ、2003年10月1日。2004年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月17日閲覧
  84. ^ a b 中日・立浪、史上初“3部門制覇” ゴールデングラブ賞発表」『中日スポーツ』中日新聞社、2003年11月7日。2004年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月17日閲覧
  85. ^ 中日の新選手会長に井端 つなぎ役任せた」中日スポーツ、2003年10月29日。2005年3月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月17日閲覧
  86. ^ a b 青山卓司「竜・立浪、サップパワーを注入 来季は3割、30本、30盗塁だ」『中日スポーツ』中日新聞社、2003年12月15日。2003年12月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年4月5日閲覧
  87. ^ 落合劇場、開幕白星スタート ビックリ 川崎先発、5点差大逆転」『中日スポーツ』中日新聞社、2004年4月3日。2004年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  88. ^ 頼れる3番立浪、11回サヨナラ打 谷沢氏に並ぶ竜通算2位 2062本目は千金安打」『中日スポーツ』中日新聞社、2004年4月5日。2004年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月12日閲覧
  89. ^ 延長11回157球 投げきった川上にシビレた~」『中日スポーツ』中日新聞社、2004年4月5日。2004年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月12日閲覧
  90. ^ 立浪、お目覚め打 中日6-4横浜 11日以来20打席ぶりH」『中日スポーツ』中日新聞社、2004年4月19日。2004年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月12日閲覧
  91. ^ 立浪、リフォーム 落合監督、ついに動いた」『中日スポーツ』中日新聞社、2004年4月17日。2004年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月17日閲覧
  92. ^ 立浪 復帰弾 ドンピシャリ先制2号 自然にバット出た復調の兆し」『中日スポーツ』中日新聞社、2004年5月4日。2004年12月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月12日閲覧
  93. ^ a b 立浪、首位固め打ア~ 満員ナゴヤドームで逆転ショー」『中日スポーツ』中日新聞社、2004年5月30日。2004年12月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月12日閲覧
  94. ^ 中日、1安打で勝つ=プロ野球・中日-阪神」『スポーツナビ』ヤフー株式会社、2004年5月30日。2004年6月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月12日閲覧
  95. ^ a b c 投手部門・川上 野手部門・立浪 ダブル月間MVP」『中日スポーツ』中日新聞社、2004年6月9日。2004年12月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月12日閲覧
  96. ^ いよっ!セ界一 立浪、王さん超え 423本目の二塁打放つ」『中日新聞社』中日新聞社、2004年5月24日。2004年12月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月12日閲覧
  97. ^ a b 立浪、2カ月連続MVP」『中日スポーツ』中日新聞社、2004年7月9日。2004年12月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月16日閲覧
  98. ^ 2004年7月15日中日新聞朝刊 朝刊特集7面17頁「一気に駆けろVロード ドラゴンズさあ後半戦 (下) 1、2、3番セ界一」(中日新聞社)
  99. ^ 立浪「勝ってよかった」」中日スポーツ、2004年7月29日。2006年12月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月16日閲覧
  100. ^ 立浪、“オレ流”で調整」中日スポーツ、2004年12月26日。2005年5月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月16日閲覧
  101. ^ 年度別成績 2004年 セントラル・リーグ」NPB(一般社団法人日本野球機構)。2015年9月2日閲覧
  102. ^ 立浪、松坂粉砕  こん身の力こめスタンドへ」中日スポーツ、2004年10月18日。2004年12月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月16日閲覧
  103. ^ 2005年1月8日中日新聞朝刊 朝刊運動2面30頁 「立浪 2億5000万円で更改 現状維持 4年契約の最終年 2カ月連続 月間MVP」(中日新聞社)
  104. ^ 立浪 激走三塁打 無我夢中 狙った左、Vお膳立て」中日スポーツ、2005年4月2日。2006年3月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月16日閲覧
  105. ^ a b 竜のプリンス 18年目の戴冠 二塁打王・立浪、福本抜いた450本」中日スポーツ、2005年5月20日。2005年12月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月16日閲覧
  106. ^ 立浪、チーム新2277安打!! 首位ツバメに4厘差 竜2位浮上」中日スポーツ、2005年6月5日。2005年6月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月16日閲覧
  107. ^ a b 立浪で単独首位 決勝二塁打!今季初3連勝」『中日スポーツ』中日新聞社、2005年4月21日。2005年8月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  108. ^ 森野、三塁定着のチャンス 思いもよらない立浪の左翼転向直訴で」中日スポーツ、2005年4月19日。2005年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月16日閲覧
  109. ^ a b 立浪、サード復帰 21日阪神戦から」『中日スポーツ』中日新聞社、2005年6月19日。2005年6月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  110. ^ 2005年6月16日 【公式戦】 試合結果 (中日vsオリックス)」NPB.jp 日本野球機構。2022年7月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  111. ^ a b 立浪サヨナラ弾 決めたドーム300勝 福留に井上!ソロ3発で猛虎粉砕」『中日スポーツ』中日新聞社、2005年7月10日。2005年7月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  112. ^ 成績が悪いから出られない 悔しがる立浪」『中日スポーツ』中日新聞社、2005年8月21日。2005年12月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月20日閲覧
  113. ^ 竜打線組み替え実らず 立浪、4年ぶり6番降格」『中日スポーツ』中日新聞社、2005年7月6日。2005年7月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  114. ^ a b 2005年9月15日 【公式戦】 試合結果 (中日vs横浜)」NPB(一般社団法人日本野球機構)。2022年4月16日閲覧
  115. ^ 2005年9月20日 【公式戦】 試合結果 (阪神vs中日)」NPB(一般社団法人日本野球機構)。2022年4月16日閲覧
  116. ^ 2005年9月25日 【公式戦】 試合結果 (中日vs読売)」NPB(一般社団法人日本野球機構)。2022年4月16日閲覧
  117. ^ 立浪 アレックスのレギュラー白紙!? 落合監督「3つのポジションは空いている」」『中日スポーツ』中日新聞社、2005年11月28日。2007年2月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月24日閲覧
  118. ^ 立浪の逆襲 サード取り返す! グアムで燃える!燃える!!」『中日スポーツ』中日新聞社、2006年1月17日。2007年2月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月16日閲覧
  119. ^ a b 立浪 決意の1年契約 ダメなら辞める!!」『中日スポーツ』中日新聞社、2006年1月30日。2006年12月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月16日閲覧
  120. ^ a b 関陽一郎「立浪本気 3000安打にあと654本 150+α×4カ年計画」『中日スポーツ』中日新聞社、2006年1月15日。2006年10月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月11日閲覧
  121. ^ 立浪「今季は3割打ちます!」 「70年の軌跡展」トークショー」『中日スポーツ』中日新聞社、2006年3月28日。2006年12月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月16日閲覧
  122. ^ “竜の神様”立浪 サヨナラ満塁弾 通算2351安打 川上氏に並んだ」『中日スポーツ』中日新聞社、2006年4月8日。2007年2月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月16日閲覧
  123. ^ 【中日ー巨人戦きょう2000試合目】立浪和義さんは外野フライでもいい場面、仕留めにいってサヨナラ満塁アーチ」『中日スポーツ・東京中日スポーツ』中日新聞社、2021年7月6日。2021年7月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月5日閲覧
  124. ^ 立浪、5安打 プロ野球タイ記録5度目」『中日スポーツ』中日新聞社、2006年7月1日。2006年7月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧
  125. ^ a b c 中日・立浪監督が振り返る、現役終盤の「代打時代」 「腹が立ったけど、それも勉強」(小林信也)」『デイリー新潮』2022年3月27日、2頁。2024年4月5日閲覧
  126. ^ 2006年7月1日 (土)試合結果(中日対広島東洋)」NPB(一般社団法人日本野球機構)。2022年4月29日閲覧
  127. ^ 1988年のキャンプ…中日・立浪はいつも右翼席にいた小学生にボールを投げた そこから始まった福留との運命」中日新聞社、2021年2月21日。2021年2月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  128. ^ a b 竜劇勝M5!立浪が代打サヨナラ!プロ19年生、涙のお立ち台」『サンスポ.COM』2006年10月5日。2006年10月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年4月5日閲覧
  129. ^ 立浪涙、男37歳意地の一撃! 竜サヨナラ劇勝M5」『中日スポーツ』中日新聞社、2006年10月5日。2009年10月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月24日閲覧
  130. ^ a b c ミスタードラゴンズ立浪和義氏と振り返る サンドラ厳選・竜の歴史に残るサヨナラ勝ち特集」『【昇竜復活へ!CBC中日ドラゴンズ情報】 (hicbc.com)』CBC web【CBC公式ホームページ】、2021年7月26日。2022年7月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  131. ^ 2006年10月12日 (木)試合結果(阪神対中日)」NPB(一般社団法人日本野球機構)。2022年4月29日閲覧
  132. ^ 立浪、PL同級生のために… 志願の先発出場」『中日スポーツ』中日新聞社、2006年10月13日。2008年5月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月24日閲覧
  133. ^ 2006年10月16日 【公式戦】 試合結果 (広島東洋vs中日)」NPB(一般社団法人日本野球機構)。2022年4月16日閲覧
  134. ^ a b 立浪「当然です」 竜史上最大56%減」『中日スポーツ』中日新聞社、2006年12月29日。2007年1月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月5日閲覧
  135. ^ 立浪、7番DHでホ~ムラン♪ さあ、セ・パ交流戦開幕 初戦はロッテ」『中日スポーツ』中日新聞社、2007年5月22日。2008年2月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月7日閲覧
  136. ^ 2番立浪2打点」『中日スポーツ』中日新聞社、2007年5月26日。2008年2月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月7日閲覧
  137. ^ 立浪、お手本2安打 杉内撃ち先制打も「1点では…」」『中日スポーツ』中日新聞社、2007年6月4日。2008年2月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月7日閲覧
  138. ^ 立浪に乗れ! 9泊10日、2300キロロードに出発」中日新聞社、2007年6月13日。2008年2月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月7日閲覧
  139. ^ a b 立浪が節目1000打点「正直うれしい」」『日刊スポーツ(nikkansports.com)』日刊スポーツ新聞社、2007年8月25日。2007年8月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  140. ^ a b 立浪、3500塁打 史上22人目!神様・川上哲治超え」『中日スポーツ』中日新聞社、2007年9月2日。2009年7月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月7日閲覧
  141. ^ 開幕戦・立浪のV打を検証 「手が出なかった」」『中日スポーツ』中日新聞社、2007年4月3日。2007年4月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月16日閲覧
  142. ^ 代打満塁弾 立浪マジックだ」『中日スポーツ』中日新聞社、2007年8月29日。2009年7月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月7日閲覧
  143. ^ 立浪、偉業実感 20年目の晴れ舞台」『中日スポーツ』中日新聞社、2007年11月18日。2008年4月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月7日閲覧
  144. ^ a b 立浪は8千万円でサイン 来季で引退も覚悟」『スポニチ Sponichi Annex』株式会社スポーツニッポン新聞社、2008年12月5日。2011年5月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  145. ^ ノリのひと言が呼んだ、立浪初安打」『中日スポーツ』中日新聞社、2008年5月9日。2008年10月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月17日閲覧
  146. ^ a b 立浪の決断、来季現役 偉業!!通算2500試合出場」『中日スポーツ』中日新聞社、2008年9月17日。2008年10月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  147. ^ a b 立浪 史上7人目の通算2500試合出場」『スポニチ Sponichi Annex』株式会社スポーツニッポン新聞社、2008年9月17日。2011年5月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  148. ^ a b 立浪、引退決断 更改後サプライズ表明「来季限り」」『中日スポーツ』中日新聞社、2008年12月6日。2008年12月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月17日閲覧
  149. ^ a b 立浪弾 鳥肌同点!22年連続!! 8回起死回生「うれしい誤算」」『中日スポーツ』中日新聞社、2009年4月25日。2009年4月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月17日閲覧
  150. ^ 立浪、神様打!! 今季初サヨナラで3位浮上」『中日スポーツ』中日新聞社、2009年5月8日。2009年8月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月18日閲覧
  151. ^ 立浪サヨナラ!中日最多13本目の劇打」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2009年5月8日。2022年9月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月18日閲覧
  152. ^ 立浪で7連勝 セパ最速50勝だ」『中日スポーツ』中日新聞社、2009年7月22日。2009年7月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月18日閲覧
  153. ^ 【中日】代打立浪の決勝打で7連勝」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2009年7月21日。2022年9月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月18日閲覧
  154. ^ a b 中日立浪10000打席到達!プロ野球7人目」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2009年8月2日。2009年8月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  155. ^ a b c d 立浪猛打賞でさらば、涙の引退セレモニー」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2009年10月1日。2022年9月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月18日閲覧
  156. ^ 2009年9月30日 【公式戦】 試合結果 (中日vs読売)」NPB.jp 日本野球機構。2022年7月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  157. ^ a b 【中日】引退の立浪が甲子園に別れ」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2009年10月4日。2022年9月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月18日閲覧
  158. ^ 2009年10月4日 【公式戦】 試合結果 (阪神vs中日)」NPB.jp 日本野球機構。2022年9月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月18日閲覧
  159. ^ 落合竜突破!立浪まだ終わらん!千金2点打」『スポニチ Sponichi Annex』株式会社スポーツニッポン新聞社、2009年10月20日。2022年9月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月18日閲覧
  160. ^ 2009年10月24日 【公式戦】 試合結果 (読売vs中日)」NPB.jp 日本野球機構。2022年9月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月18日閲覧
  161. ^ 立浪 最後の打席は左飛…両軍ファンが拍手」『スポニチ Sponichi Annex』株式会社スポーツニッポン新聞社、2009年10月24日。2022年9月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月18日閲覧
  162. ^ 中日、山本昌の背番号「34」を準永久欠番扱いしなかったことの是非」THE PAGE、2015年12月12日。2016年1月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月22日閲覧
  163. ^ 森野が立浪継承、中日栄誉背番「3」に」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2009年11月6日。2022年9月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月18日閲覧
  164. ^ 森野、背番号「3」返上」中日スポーツ、2009年12月10日。2010年5月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年5月12日閲覧
  165. ^ 周平「伝説の選手になりたい」」『中日スポーツ』中日新聞社、2014年11月29日。2014年12月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月18日閲覧
  166. ^ 立浪氏 ファン交流イベントに8000人」『スポニチ Sponichi Annex』株式会社スポーツニッポン新聞社、2010年1月7日。2016年4月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  167. ^ 立浪氏「いつかまた」グラウンドに別れ (1/2ページ)」『スポニチ Sponichi Annex』株式会社スポーツニッポン新聞社、2010年2月28日。2022年9月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月18日閲覧
  168. ^ 清水、立浪、赤星の3氏が日テレ解説者入り」スポーツニッポン、2010年1月27日。2011年5月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月27日閲覧
  169. ^ 侍ジャパン 監督、コーチ NPB公式サイト (2012年10月10日) 2015年4月15日閲覧
  170. ^ 侍ジャパン 監督、コーチ背番号決定のお知らせ NPB公式サイト (2012年11月13日) 2015年4月15日閲覧
  171. ^ a b 中日 来季監督有力候補に立浪氏!人気、選手実績とも抜群 - スポニチアネックス(2013年9月17日配信、2015年5月12日閲覧)
  172. ^ 谷繁選手兼任監督就任会見」『中日ドラゴンズ公式サイト』中日ドラゴンズ、2013年10月10日。2013年10月11日閲覧
  173. ^ 中日監督に谷繁捕手、来季就任へ 落合氏もGM受諾」『中日スポーツ』2013年10月9日。2013年10月9日閲覧
  174. ^ 渋谷真「立浪新監督“最大の逆境”は2013年秋…ショックだった年下の谷繁監督就任「東京中心に仕事を」決断から翻意まで◇渋谷真コラム・龍の背に乗って 新生竜特別版(1)」『中日スポーツ』中日新聞社、2021年10月30日。2021年10月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月31日閲覧
  175. ^ “黒い疑惑”で中日に戻れない立浪がWBCの打撃コーチに就任へ - (内外タイムス 2012年10月03日 15時30分)
  176. ^ 立浪和義 2010, p. 237.
  177. ^ 渋谷真「巨人のユニホーム姿見せられない…18年秋に立浪氏が断った原氏からのコーチ就任要請 僕の頭よぎる甲子園での抱擁◇渋谷真コラム・龍の背に乗って 新生竜特別版(2)」『中日スポーツ』中日新聞社、2021年10月31日。2021年10月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月31日閲覧
  178. ^ 中日・来春キャンプ、立浪和義さんが臨時コーチに!『ミスタードラゴンズ』がグラウンドに帰ってくる」『中日スポーツ』中日新聞社、2020年11月18日。2020年11月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年1月30日閲覧
  179. ^ 立浪和義監督就任会見」『中日ドラゴンズ』2021年10月29日。2021年11月2日閲覧
  180. ^ 【中日】立浪監督がOP戦初戦を初勝利で飾る 岡林が猛打賞、根尾も安打、阪神相手に若竜が躍動」『中日スポーツ・東京中日スポーツ』中日新聞社、2022年2月26日。2022年3月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  181. ^ 中日・立浪監督 本拠地で4389日ぶりユニ姿 全席完売「ありがたい」」デイリースポーツ online、2022年3月6日。2022年6月28日閲覧
  182. ^ a b 9勝11敗→他球団なら13勝7敗? 中日投手陣が苦しんだ"孤立"…3失点でも負ける悲劇」Full-Count、2022年10月4日。2022年10月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月25日閲覧
  183. ^ 2022年度 セントラル・リーグ チーム勝敗表」NPB.jp 日本野球機構。2022年10月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月25日閲覧
  184. ^ 中日、連敗7でストップ 若手&中堅ベテランがかみ合い交流戦初勝利!」『中日スポーツ・東京中日スポーツ』中日新聞社、2022年5月26日。2022年10月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月25日閲覧
  185. ^ 中日 立浪和義監督「長かった。10日以上ですかね」連敗6でストップ 阿部寿樹と大野雄大を称賛」『中日スポーツ・東京中日スポーツ』中日新聞社、2022年6月17日。2022年10月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月25日閲覧
  186. ^ 【中日】連敗ついに止めた!延長10回押し出しで執念の勝ち越し…屋外球場の連敗も11でストップ」『中日スポーツ・東京中日スポーツ』中日新聞社、2022年6月29日。2022年10月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月25日閲覧
  187. ^ 【中日】立浪監督2年目の逆襲へ競争意識高める フェニックスL、秋季練習などで若手底上げに全力」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2022年10月8日。2022年10月25日閲覧
  188. ^ 中日・立浪和義監督、退任を表明「けじめをつけます」 就任後2年連続最下位、今季は一時単独首位に立つも…ずるずる順位下げ”. 中スポ:中日スポーツ・東京中日スポーツ (2024年9月18日). 2024年9月19日閲覧。
  189. ^ 【セ・リーグ順位表】中日が5位浮上 6日は引き分け以上で3年連続最下位を阻止 田島慎二や野村祐輔が現役最後の登板」『日テレNEWS NNN』2024年10月6日。2024年10月6日閲覧。
  190. ^ 中日・立浪和義監督、3年連続最下位 最終戦飾れず…」『サンスポ』2024年10月6日。2024年10月6日閲覧。
  191. ^ 中日、球団史上初の3年連続最下位 立浪監督は史上4人目の新人監督から3年連続最下位」『中日スポーツ』2024年10月6日。2024年10月6日閲覧。
  192. ^ 伊東大介. “【中日】最終戦セレモニーで退任する立浪監督があいさつ「結果を出せず、すみませんでした」 - プロ野球 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2024年10月6日閲覧。
  193. ^ 中日新聞』2003年7月6日朝刊30面にて、恩師である中村順司のインタビュー「PL学園高時代の恩師 中村順司監督も祝福 - 大記録呼んだタツの気配り」より。
  194. ^ 中日・与田監督「あいさつひとつをとっても立派な人間。第2のタツをつくるのが仕事です 中日スポーツ・東京 2019年12月5日
  195. ^ 『'91ドラゴンズファンブック』中日ドラゴンズ(発行)、中日新聞本社(発売)、1991年3月6日、18頁。ISBN 4806202371
  196. ^ 「怒られたけど、使ってくれた」 山本、中村、立浪、今中「4兄弟」が星野氏悼む」『デイリースポーツ online』株式会社デイリースポーツ、2018年1月7日。2022年11月17日閲覧
  197. ^ 清原氏超えた!立浪が22年連続本塁打!! - 野球ニュース : nikkansports.com(日刊スポーツ 2009年4月25日)
  198. ^ 巨人・坂本 2つ大記録に並んだ 歴代10位タイ二塁打&歴代7位タイ猛打賞」デイリースポーツ online、2022年6月19日。2022年6月21日閲覧
  199. ^ 立浪燃えた「ミスター二塁打」面目躍如」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2008年7月22日。2018年9月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  200. ^ オークラ出版「中日ドラゴンズ伝説」(2008年4月30日出版、ISBN 4775511882 / ISBN 978-4775511886)p.104
  201. ^ 中日ドラゴンズ・山本昌広のページ - ウェイバックマシン(2016年10月22日アーカイブ分)
  202. ^ 立浪&ウッズ、38歳おめでと~」『中日スポーツ』中日新聞社、2007年8月20日。2009年7月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月7日閲覧
  203. ^ 【中日】立浪監督、53歳の誕生日に報道陣から似顔絵入りケーキ「何よりも打線の爆発がほしいですね」」『中日スポーツ・東京中日スポーツ』中日新聞社、2022年8月19日。2022年8月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月20日閲覧
  204. ^ 【5月26日】1992年(平4) 予告していた!新庄剛志 92年初打席は初球プロ初本塁打 スポニチ Sponichi Annex、2012年5月、2015年10月10日閲覧。
  205. ^ プロ入りの時期っていつがいいの?プロ野球人生の長い人はみんな〇〇を飲まない!?立浪と宮本で語ったよ!
  206. ^ 立浪和義 2010, p. 190-191.
  207. ^ 立浪和義ドラゴンズ新監督に贈る言葉「改革ではなく革命を!」」『【昇竜復活へ!CBC中日ドラゴンズ情報】 (hicbc.com)』CBCラジオ、2021年11月2日。2021年11月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  208. ^ a b 「感激、たまりません。ちょっとウルウル」立浪さん登場曲「翼の折れたエンジェル」中村あゆみがサプライズ熱唱」『中日スポーツ・東京中日スポーツ』中日新聞社、2019年12月5日。2021年11月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  209. ^ a b c 立浪氏の殿堂入り祝う会に500人 登場曲歌う中村あゆみが熱唱「辛かった思い出が多いのでウルウル」」『スポニチ Sponichi Annex』株式会社スポーツニッポン新聞社、2019年12月5日。2021年8月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  210. ^ a b 8020 県民健口(けんこう)大使に中日の立浪和義さん」Dentwave.com(デントウェーブドットコム) 歯科医療従事者のための総合情報サイト、2010年4月6日。2022年10月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月25日閲覧
  211. ^ 【中日】立浪監督の「8020計画」今季は達成者ゼロ 野手陣に奮起促す」『東スポWEB (tokyo-sports.co.jp)』東京スポーツ新聞社、2022年10月8日。2022年10月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月25日閲覧
  212. ^ 立浪氏、10月死去「球友」の願い 図書館寄贈プロジェクト開始」『スポニチ Sponichi Annex』株式会社スポーツニッポン新聞社、2015年11月5日。2018年4月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  213. ^ 「あの立浪さんが監督に…」歓喜に沸いた岩手・大槌町 11年前の“明日への活力と気力の源” 今度は野球の底力で」『中日スポーツ・東京中日スポーツ』中日新聞社、2022年3月12日。2022年4月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  214. ^ 【中日】立浪監督「子どもたちに野球見せてあげたい」福祉施設の児童約500人招待の目録を贈呈」『中日スポーツ・東京中日スポーツ』中日新聞社、2022年6月16日。2022年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  215. ^ 【中日】立浪監督、愛知県内の児童福祉施設入所者ら約500人を招待 8月6日バンテリンドーム」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2022年6月15日。2022年6月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  216. ^ 1992年10月16日中日新聞朝刊運動1面27頁「立浪ら5人が優秀賞 JCB・MEP賞」(中日新聞社)
  217. ^ 立浪にクラウン賞 2000本安打、1000得点、400二塁打…」『中日スポーツ』中日新聞社、2003年9月9日。2004年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月20日閲覧
  218. ^ 2009年 日本プロスポーツ大賞発表!!」『日本プロスポーツ大賞』公益財団法人日本プロスポーツ協会。2017年6月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年11月25日閲覧
  219. ^ 立浪和義氏、権藤博氏、脇村春夫氏が野球殿堂入り」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2019年1月15日。2022年9月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月18日閲覧
  220. ^ 立浪 ミスター二塁打だ 谷沢氏抜き球団新記録」『中日スポーツ』中日新聞社、2001年9月3日。2002年1月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  221. ^ a b 立浪、史上9人目「400二塁打 1000得点」 2000本安打到達前に勲章2つ」『中日スポーツ』中日新聞社、2003年6月27日。2004年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  222. ^ 立浪、“祝”2000試合出場達成 竜・最多11度目の球宴出場も」『中日スポーツ』中日新聞社、2004年6月30日。2004年12月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  223. ^ 2005年5月19日 【公式戦】 試合結果 (北海道日本ハムvs中日)」NPB.jp 日本野球機構。2022年7月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  224. ^ 立浪また金字塔“1000四球” 三塁復帰でイキイキ!!猛打賞&好守」『中日スポーツ』中日新聞社、2005年6月23日。2005年6月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  225. ^ 2005年6月22日 【公式戦】 試合結果 (阪神vs中日)」NPB.jp 日本野球機構。2022年7月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  226. ^ 2007年8月24日 【公式戦】 試合結果 (中日vs阪神)」NPB.jp 日本野球機構。2022年7月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  227. ^ 2007年9月1日 【公式戦】 試合結果 (広島東洋vs中日)」NPB.jp 日本野球機構。2022年6月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月7日閲覧
  228. ^ 2008年9月16日 【公式戦】 試合結果 (中日vs阪神)」NPB.jp 日本野球機構。2022年7月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  229. ^ 立浪1000三振 史上43人目“大記録”」『中日スポーツ』中日新聞社、2008年10月6日。2008年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  230. ^ 2008年10月5日 【公式戦】 試合結果 (読売vs中日)」NPB.jp 日本野球機構。2022年7月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  231. ^ 2009年8月1日 【公式戦】 試合結果 (東京ヤクルトvs中日)」NPB.jp 日本野球機構。2022年7月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月30日閲覧
  232. ^ 立浪和義 CM出演情報”. ORICON NEWS. オリコン. 2024年8月16日閲覧。
  233. ^ a b c 【SSKBASEBALL】2022シーズン、中日ドラゴンズ/立浪和義監督とアドバイザー契約を締結”. 総合スポーツ用品のSSK (ssksports.com). 株式会社 エスエスケイ (2022年3月15日). 2022年9月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年9月18日閲覧。
  234. ^ SSKについて”. SSK STORES BASEBALL. エスエスケイ. 2024年7月27日閲覧。
  235. ^ 「こんにちは、おバカさん」中日・立浪監督の「上から目線の大暴言」で選手の暴動が起きる!”. アサ芸プラス. 徳間書店. 2024年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年7月27日閲覧。
  236. ^ 延長10回サヨナラ負けで5連敗…ビジターでは13連敗で球団ワーストタイに【中日】」『中日スポーツ』2023年8月22日。オリジナルの2023年8月25日時点におけるアーカイブ。2024年8月16日閲覧。
  237. ^ 立浪監督「情けない」6連敗&ビジター14連敗…応援席から「気合を入れろドラゴンズ」コール【中日】」『中日スポーツ』2024年8月16日。オリジナルの2023年8月26日時点におけるアーカイブ。2024年8月16日閲覧。
  238. ^ a b 中日・立浪監督、白米提供を禁止 〝令和の米騒動〟きっかけは細川成也 マルティネスは異議 64年ぶり敵地13連敗」『夕刊フジ』2023年8月23日。オリジナルの2024年2月15日時点におけるアーカイブ。2024年7月27日閲覧。
  239. ^ a b プチ鹿島 (2023年10月2日). “中日ドラゴンズ「令和の米騒動」はなぜ大きな話題になったのか?「スパイ映画のような描写」の新聞報道から感じた“立浪和義監督の苦悩””. Number Web. 文藝春秋. 2024年7月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年7月27日閲覧。
  240. ^ 中日、サヨナラ負けでビジター13連敗 先発・梅津晃大の乱調が最後まで響きヤクルトと並んで最下位に」『中日スポーツ』2024年8月13日。オリジナルの2024年8月13日時点におけるアーカイブ。2024年8月16日閲覧。
  241. ^ 土曜ドラマ「居酒屋ふじ」第8話(2017年8月26日放送)”. テレビ東京 (2017年). 2023年5月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年7月27日閲覧。

参考文献

  • 立浪和義『負けん気』(初版第1刷発行)文芸社、2010年2月20日。ISBN 978-4286088532 
  • 「立浪和義 躍動するゴールデン・ルーキー」『ベースボール・アルバム』第10巻第5号、ベースボール・マガジン社、1988年9月15日。  - 通算第91号

関連項目

外部リンク