王仁
王仁(わに、生没年不詳)は、応神天皇の時代に辰孫王と共に百済から日本に渡来した百済人、千字文と論語を伝えたと古事記に記述される伝承上の人物である[1](記紀には「辰孫王」の記述は無い)。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。伝承では、百済に渡来した漢人であるとされ[2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15][16][17]、姓である王氏から楽浪郡の王氏とする見解もあるがあくまでも学者の推測であり、記録では楽浪郡の王氏という言及はなく、百済人である記録だけ存在する。また志田諄一も王氏を名乗る朝鮮系の人々が存在したことを認めている[3][7][15][18][19]。一方、王仁が伝えたとされる千字文が、王仁の時代には成立しておらず、この矛盾については、早く江戸時代に新井白石、伊勢貞丈らによって提起されており、実在の人物とは認め難いとする説も多数存在する。また、志田諄一は王仁を辰孫王と同一視する見解もある[20][21][22][23][24][25][26][27][28][29]。
記録
[編集]王仁に関しての記述が存在する史書は『古事記』『日本書紀』『続日本紀』などである。それぞれの記述は以下のようになっている。
日本書紀
[編集]王仁に関するもっとも詳細な記述は『日本書紀』のものであり、百済人の使者阿直岐(あちき)を介して来朝したという。『日本書紀』記事ついて笠原一男は、「まず儒教についてだが『日本書紀』には応神天皇(五世紀前半?)の時代に百済から伝わったと記してある。しかし、漢字はすでに奴国王金印でも知られ、五世紀には刀剣銘文にも用いられているのだから、この記述は王仁を始祖とする西文氏の起源伝承とみるべきだろう。儒教伝来については注目したいことがいろいろある。一つはそれが百済から伝えられたことだ。六世紀の日本は中国との直接交渉がなく、百済を通じて中国南朝の文化を導入したのである」と指摘している[30]。
十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣㆓阿直伎㆒、貢㆓良馬二匹㆒。卽養㆓於輕坂上厩㆒。因以㆓阿直岐㆒令㆓掌飼㆒。故號㆓其養㆑馬之處㆒、曰㆓厩坂㆒也。阿直岐亦能讀㆓經典㆒。卽太子菟道稚郎子師焉。於是、天皇問㆓阿直岐㆒曰、如勝㆑汝博士亦有耶。對曰、有㆓王仁者㆒。是秀也。時遣㆓上毛野君祖、荒田別・巫別於百濟㆒、仍徵㆓王仁㆒也。其阿直岐者、阿直岐史之始祖也。
十六年春二月、王仁來之。則太子菟道稚郎子師之。習㆓諸典籍於王仁。莫㆑不㆓通達㆒。所謂王仁者、是書首等之始祖也。 — 『日本書紀』、巻第十、応神紀[31]
十五年の秋八月六日に、百済王 は、阿直岐 を遣わして良馬二匹を奉った。そのまま軽 の坂上 の厩 で飼わせた。それを阿直岐 に管理させて飼わせた。そこで、馬を飼っていたところを名づけて厩坂 という。阿直岐 はまた経典に精通していた。それで、皇太子菟道稚郎子 は学問の師とされた。天皇は、阿直岐 に尋ねて「あるいはお前に勝る博士が、他にいるか」とおっしゃると、(阿直岐は)答えて「王仁 という者がおります。この人は優れた人です」と申し上げた。そこで上毛野君 の祖の荒田別 と巫別 を百済に遣わして、王仁 を呼び寄せなさった。その阿直岐 は、阿直岐史 の始祖である。
十六年の春二月に、王仁 が来て、すぐに太子・菟道稚郎子 が師とされ、多くの典籍を王仁 に習われたが、何事にも通暁し不明とすることはなかった。いわゆる王仁 は書首 らの始祖である。 — 『日本書紀』、巻第十、応神紀[32]
古事記
[編集]百濟國主 照古王以㆓牡馬壹疋 、牝馬壹疋 ヲ ㆒ 、付テ㆓阿知吉師ニ㆒以貢上 、此阿知吉師者、阿直史等之祖、亦貢㆓上 横刀 及 大鏡 、㆒ 又科㆓賜百濟國 、㆒若有㆓ 賢人㆒ 者 貢上 、故受㆑ 命 以貢上人 、名ハ 和邇吉師、卽チ論語十卷、千字文一卷、幷セテ十一卷ヲ、付テ㆓是人ニ㆒卽貢進 、此和邇吉師者、文首等祖 — 『古事記』、中巻、応神天皇二十年己酉[33]
また、百済国王の照古王 が、牡馬一頭、牝馬一頭を阿知吉師 に託して献上した[この阿知吉師は阿直史らの祖先である]。さらに(照古王)は横刀と大鏡とを献上した。また(天皇は)また百済国にお命じになって、「もし賢者がいたならば、献上しなさい」と仰せになった。そこでその命を受けて(照古王が)献上した人は、名は和迩吉師 で、論語十巻・千字文一巻と合わせて十一巻を和迩吉師に託して献上した〔この和迩吉師は文首 らの祖先である〕。 — 『古事記』、中巻、応神天皇二十年己酉[34]
和邇吉師によって『論語』『千字文』すなわち儒教と漢字が伝えられたとされている。『論語』は註解書を含めて10巻と考えればおかしくはないが、『千字文』は和邇吉師の生存時はまだ編集されておらず、この記述から和邇吉師の実在には疑問符がつけられることも少なくない[35]。
古語拾遺
[編集]『古語拾遺』では
至テ ㆓ 於輕嶋 ノ 應神天皇豐明 ノ朝ニ㆒ 百濟ノ王貢ル ㆓博士王仁 ヲ是河内ノ文首始祖 也(中略)
至テ㆓ 於後磐余 覆仲天皇稚櫻 ノ 朝ニ㆒ 三ノ 韓貢獻 奕世 無 ㆑絶 齋藏之傍 ニ更建 内藏 ヲ㆒分收 官物 ヲ ㆒仍令メ㆘阿知ノ使主ト與㆓ 百濟ノ 博士王仁㆒計サ㆗其出シ納ルヲ ㆖始更 定㆓藏部 — 古語拾遺、齋部宿禰廣成[36]
応神天皇輕嶋 の豊明 の朝 に至りて、百済 の王 博士 王仁 を貢 る。是河内文首 の始祖 なり。秦公 が祖 弓月 、百二十県民 を率て帰化 けり。漢直 が祖 阿知使主 、十七県民 を率て来朝 り。秦 ・漢 ・百済 の内附 へる民、各々 万 を以つて、計 ふ。褒賞 むべきに足る。皆其の祠 は有れども、未だ幣例 に預 らず。
覆仲天皇
け収む。仍りて、後 の磐余 の稚櫻 の朝 に至りて、三韓貢獻 ること、奕世 絶ゆること無し。齋藏 の傍 に、更に内藏 を建てて、官物 をお阿知使主 と百済主 の博士王仁 とをして其の出納 を記さしむ。始めて更に藏部 を定む。 —西宮一民 、古語拾遺[37]
とする。
続日本紀
[編集]『続日本紀』によると、子孫である左大史・正六位上の文忌寸(ふみのいみき)最弟(もおと)らが先祖の王仁は漢の高帝の末裔と桓武天皇に奏上したという記述がある。
(原文)○戊戌、左大史正六位上文忌寸最弟・播磨少目正八位上武生連真象等言、文忌寸等、元有二二家一。東文称レ直、西文号レ首。相比行レ事、其来遠焉。今、東文挙レ家、既登二宿禰一、西文漏レ恩、猶沈二忌寸一。最弟等、幸逢二明時一、不レ蒙二曲察一、歴レ代之後、申レ理尤レ由。伏望、同賜二栄号一、永貽二孫謀一。有レ勅、責二其本系一。最弟等言、漢高帝之後曰レ鸞。々之後、王狗、転至二百済一。百済久素王時、聖朝遣レ使、徴二召文人一。久素王、即以二狗孫王仁一貢焉。是文・武生等之祖也。於レ是、最弟及真象等八人、賜二姓宿禰一。
(訓読)○戊戌 、左大史 正六位上文 忌寸最弟 ・播磨 少目 正八位上武生 連真象 ら言 さく、「文 忌寸ら、元 二家有り。東文 は直と称 し、西文 は首と号 す。相比 びて事 を行 ふこと、その来 れること遠 し。今 、東文 は家 を挙 りて既 に宿禰に登 り、西文 は恩 に漏 れて猶 忌寸に沈 めり。最弟 ら幸 に明時 に逢 ひて、曲 に察 ることを蒙 らずは、代 を歴 て後 、理 を申 すとも由尤 からむ。伏 して望 まくは、同 じく栄号 を賜はりて永 く孫謀 を貽 さむことを」とまうす。勅 有りて、その本系 を責 めしめたまふ。最弟 ら言 さく、「漢 の高帝 の後 を鸞 と曰 ふ。鸞 の後 、王狗 、転 りて百済 に至 れり。百済 の久素王 の時 、聖朝 、使 を遣 して、文人 を徴 し召 きたまへり。久素王 、即 ち狗 が孫 王仁 を貢 りき。是 、文 ・武生 らが祖 なり」とまうす。是 に、最弟 と真象 ら八人に姓宿禰 を賜 ふ。 — 『続日本紀』、巻第四十、桓武天皇 延暦十年(791年)四月戊戌[38]
これに従えば、漢高帝の子孫「鸞」なる人物の子孫の「王狗」が百済に渡来し、その孫の王仁が渡来して文氏、武生氏らの祖先となったことになる。この伝承は後の『新撰姓氏録』の記述にもみえる。
王仁は高句麗に滅ぼされた楽浪郡出身の中国人系の学者とされ、百済に渡来した中国人の家系に連なり、漢高帝の末裔であるとされる。
新撰姓氏録
[編集]『新撰姓氏録』には、「諸藩」の「漢」の区分に王仁の子孫の諸氏に関しての記述がある。文宿禰(左京)に「出漢高皇帝之後鸞王也」、文忌寸(左京)に「文宿禰同祖、宇爾古首之後也」、武生宿禰(左京)に「文宿禰同祖、王仁孫阿浪古首之後也」、櫻野首(左京)に「武生宿禰同祖、阿浪古首之後也」、栗栖首(右京)と古志連(河内国と和泉国)にはそれぞれ「文宿禰同祖、王仁之後也」とある。
祖先が漢の帝室に出自を持つ「鸞王」である点などが、『続日本紀』と対応している。また、孫の名として「阿浪古首」が記されている。
各説
[編集]『日本書紀』や『新撰姓氏録』には漢人という記録は存在せず、百済から来たという記録だけ存在するが、百済に渡来した漢人であるとする学者の見解もある[2][4][5][6][9][10][12][13][14][16][11][17][3][7][8][15][18][19][注釈 4][注釈 5][注釈 6][48]。一方、津田左右吉をはじめ実在を疑問視する説も多数ある[49][48][20][21][22][23][24][25][27][28]。山尾幸久は儒教を伝えた実在の王辰爾(王智仁)の功績に基づいて渡来人らが作成した伝承とする[1]。
王仁作とされる歌
[編集]なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな |
古今和歌集の仮名序に見る王仁の作とされる難波津の歌は百人一首には含まれてはいないが、全日本かるた協会が競技かるたの際の序歌に指定しており、大会の時に一首目に読まれる歌である。歌人の佐佐木信綱が序歌に選定したとされる。なお大会の歌は「今を春べと」に変えて歌われる[50]。
能・狂言における王仁
[編集]能「難波(古名:難波梅)」では、王仁は「おうにん」と読まれている[51]。
シテ「咲くやこの花と詠じつゝ。位をすゝめ申せし。 |
遺跡と顕彰運動
[編集]大阪枚方
[編集]昭和46年近畿民俗会の調査では官軍に追われて亡くなった地という地元の村の伝承が記録されている。
<ワニ塚>……村の伝えではワニという人は官軍に追われて長尾の大池の上にあるセメ谷で攻められここに逃げて来て死んだので、ここに墓があるという。 <馬塚>藤阪の北にある。博士王仁の乗馬を埋めた所というが、今は畑となっている。 — 近畿民俗会、枚方の民俗[53]。
大阪府枚方市旧藤坂村の字御墓谷の山中に自然石の碑があり、里人が王仁を訛って「おにの塚」と呼んで畏敬し、歯痛や瘧の治癒を祈願していたという[54]。
1940年菅原村・津田村・氷室村が合併してできた津田町は1955年枚方市へ編入するが、以前枚方市で勤務していた歴史学者の馬部隆弘は、1934年伝王仁墓を菅原村が大阪府へ史跡として申請する際に写筆を提出した『王仁墳廟来朝紀』を椿井文書だと指摘し批判[55]、SNS上で椿井政隆(1770~1837)が生誕する以前に『当郷旧跡名勝誌』(1682)や『八幡宮本紀』(1689)にて王仁墓の伝承が記載されているとの批判を受けそれらは伝承ではなく学説であるとブログ上で反論[56]、歴史学者の飯沼雅行はその馬部のブログに対して『当郷旧跡名勝誌』の記載は学説ではなく伝承であると批判している[57]。馬部は元枚方市市史編纂室担当職員[58]で元枚方市教育委員会社会教育部長[59]、元公益財団法人枚方市文化財研究調査会理事[60]の田宮久史から伝王仁墓などについて教示を受けたという[61]。
……原文は確認できませんが、「当郷旧跡名勝誌」が引用する寛文9年(1669)の奉加帳を確認しうる王仁墓の初見事例と判断しました。そしてそれは、「何レノ記録ヨリ考ヘタルラン」と指摘されているように、伝承としてではなく学説として登場します。……椿井文書が実際は新しいものだとしても、伝承内容は変わらないと言いたいようですが、素人さんはこの一覧表でも伝承と学説を混同しています。とはいえ、素人さんの指摘はある側面では当たっています。なぜなら、このなかで伝承といえるのは「オニ」の墓のみで、それ以外は学説なので、たしかに「伝承内容は変わらない」からです。 — 馬部隆弘、[63]
しかし教岸は、寛文九年の時点で領主や百姓の間に王仁を御墓山に埋葬したという伝承があったが、教岸はそれに疑問を投げかける、言い換えれば伝承を否定する「学説」を唱えているのである。したがって津田村には寛文九年の時点で、「御墓山」に王仁を埋葬したという伝承が存在したと考えてよい — 飯沼雅行、[57]
歴史家金英達(英語: Yondaru Kimu)の伝王仁墓への批判が神戸学生青年センターで講座を開くむくげの会の会報『むくげ通信』で公開されている[64]。
……並河誠所(並川五一郎、並河五市郎)が『五畿内志』編纂のために名所旧跡を探訪中、禁野の和田寺で「王仁墳廟来朝紀」という古記録を見つけ(現存しておらず、写本と称するものが伝えられている)、この地を踏査して藤坂村の自然石(オニ塚)に出会い、さしたる根拠もなくこれを王仁の墓であると断定して、地元の領主(久貝因幡守正順)に進言して「博士王仁之墓」と刻んだ墓石を建立させた。…… これは、一学者の願望・思いつき・功名心による歴史の捏造であり、幕府の権威を嵩にかけた強引な碑の建立であった。…… 昭和にはいると天皇制国家主義者らの団体による王仁の顕彰運動が起こり、戦時期には「内鮮一体」を標榜する朝鮮人公民化政策に利用される。……戦後になると“善意な”日本人の協力者が登場、歴史の検証なしに韓国人の民族意識をくすぐる“韓日友好親善運動”に利用される。 — 金英達(英語: Yondaru Kimu)(2000年)、[64]
王仁墳廟来朝記
[編集]- 1616年(元和2年)正月付けで藤坂村御墓谷の王仁墓(於爾之墓)について書かれた禁野村和田寺道俊『王仁墳廟来朝記』『王仁裔孫並系譜紀』が1939年10月10日朝日新聞で報道される[65][66]。和田寺は中世廃寺となり康平年間(1058-1065)和田源秀が堂宇を再建、明治七年七月再び廃寺となり明治十三年再興、明治二十三年渚の観音寺を移築し本堂とした[67]。
王仁墳廟来朝紀
夫百濟國博士王仁者漢高帝之後裔有㆓曰㆑鸞ト㆒者、鸞カ之後王狗轉 至㆓百濟ニ㆒、當テ㆓百濟久素王ノ時ニ㆒我 朝人皇第十六代譽田天皇(應神帝)馭宇十六年乙巳春二月遣㆑使召ス㆓文人ヲ㆒、久素王即チ王狗之孫王仁ヲ来貢焉、則来朝以テ㆓難波津(仁)咲屋此花冬篭之哥詠ヲ㆒奉ル㆑祝㆓我朝御代萬歳ヲ㆒、應神天皇 叡感以テ㆓百濟王仁學士ヲ㆒則二皇子莵道稚郎子及大鷦鷯王(人皇第十七代仁徳天皇)之爲ス㆑師ト習フ㆓諸典籍ヲ㆒、是本朝之儒風之始祖也、儒學於テ㆑是(仁)興ル、則我朝學校之権輿也、爲シテ㆓封戸ト㆒以テ㆓大倭國十市縣ヲ㆒百濟王ノ博士王仁ニ賜フ㆓食禄ヲ㆒、今大和國十市郡百濟郷是也、王仁及テ㆑没ニ河内文ノ首ノ始祖博士百濟墓(與)紀書葬ル㆓河内國交野縣藤坂村ニ造テ㆑墓ヲ㆒、則藤坂村艮(東北)稱ス㆓字御墓谷ト㆒、土俗於爾(オニ)之墓ト誤訛ス
一 百濟王仁社
— 道俊、[55][68][69][70]
於テ㆓和泉国大鳥郡ニ㆒王仁ヲ東原大明神ト尊称ス(在向井之北)、祭神百済王仁相殿素戔烏尊ニ坐也
右以本巻紀書之後世備不朽置所蓋如斯者也
交野郡五箇郷住侍百済裔孫
西村大学助俊秋次子
禁野和田寺住侶
道俊(花押)
元和二辰年正月
当郷旧跡名勝誌に記録された塔石
[編集]- 1682年(天和2年)、古記録や御伽噺が集められた大阪府枚方市旧津田村尊光寺所蔵『当郷旧跡名勝誌』にて、百済王氏の御墓と古老が伝承する字御墓谷の御墓山での王仁の埋葬並びに著者がのちの時代(後代)に立てられたと推定した村にある当時既に古くなっていた王仁の塔石が記されている。この伝承について筆者である教岸は欽明天皇13年(552年)の仏教公伝以前に来朝した王仁による上の堂の建立並びに「みささき」ではなく「御墓」である点を理由に訝しんでいた。御墓谷に類似する小字は河内国交野郡の他の村々にもみられる(例:現交野市森「墓谷」[71]、現枚方市の墓の谷)[72]。
天和二年壬戌記
当郷旧跡名所誌……(※可読性のためカタカナを平仮名に変換)
— 津田村 尊光寺八世教岸,解説:片山長三、[73]
御墓山之山
一 札場より十余丁計寅の方に御墓谷と云字あり。古老の伝説には中宮村住居之百済王の御墓と云へり。-(中略)-四十年以前迄は御墓一段高くありけるが、大雨などにくえくづれて、長さ五尺許の焼物の櫃顕れ見へしが、其の内に灰の如くなる者あり。太刀、刀の様成る物ありけれども、朽くさりて手にも取られずとなり。切羽(せっぱ―刀身の本につける金具)帚(はゞき-刀の鍔元をかためる金具)笄(こうがい-刀のさやにはさむ金具)の様なるものは、金にてありければ不㆑立たと也。見し人の語り也。其辺に土器、天目、花たてのやうなるもの多く在りけりとなん。……
上の堂の事
一 札場より二丁ばかり寅の方に上の堂の古跡あり。往昔には七堂伽藍作りにて、十三重の石塔二た組ありとなん。本堂は九間四面に転輪聖王の形一丈六尺の土像ありけりとなん。百年以前までありしを見しと老人の云ひ伝へ也。同郡の内中宮村に百済国王と申すが御座して、其所より此所へ一里の間廊下相続きたりとなん。然れども何れの時代とも正説難し㆑知り。九十余年以前に太閤当国小山城(南河内郡)御取立ての時に、奉行小野木六助と云人、此堂をこぼち用木としまひしより、一宇もなく、くさむらしげり荒果てけり。されども人畜ともに悪敷すればたヽり有り。かヽる霊地の無下に失せ果んことなげかわしとて、御地頭地下人頭梁し、寛文九乙酉歴に郡中令し㆓奉加㆒、小庵を結び、釈迦の木仏安置しける也。此奉加帳に人王十六代応神天皇の御宇に、百済国より王仁来朝して中宮村に殿作りし居住ありて、此の上の堂を建立有り。逝去の時石の櫃に納めて土入す。御墓山是なりと云へり。何れの記録より考へたるらん、いぶかし。和漢年代記に応神十六乙巳二月朔日王子王仁来朝すとあり。又王代一覧には百済国より王仁といへる博士、論語等の書物を持来朝す。太子莵道稚子是を師として書を読習ふとあり。天和二年までは千三百七年成也。然ば仏法来朝は欽明十三壬申なれば、天和二迄は千百三十年になるなり。しかれば仏法なき二百六十七年前きなれば御菩提寺とは難し㆑云ひ。御墓も此時代には、みさヽきと申てなき事也。但し石塔は後代に立てけるや、今に当村に其塔石古き有り㆑之れ。……如何様日本に珍敷形象也。古老の伝に
あさ日さす 夕日かヽやくこの堂に
こかね千両 あるやなし
とよみおきしとて、こヽかしこをほりけれども、金はなかりけりとなり。とかく百済国より代々人質に来り、中宮住居の時の祈願堂なるべし。……
(御墓山)
札場から十余町ばかり寅(東北)の方角に御墓山があるとしるされているが、その場所を地図でもとめると、大体小鹿工場の南東、宮山という辺になる。そのあたりを実地に探査したが、それらしいところを見出し得なかった。ところが昭和三十一年一月藤坂寺島正計氏は赤褐色の陶片数個を発見したが、それは古墳の上にあるべき埴輪(はにわ)円筒の一片と、他は同様家形埴輪の一部であった。その出土地は、藤阪天神山の南端池の附近で、こゝはすでに多くの崖の土を採り去って、黄色の土砂が露出している。その一端には四五尺はなれて両側に二個づゞの石を積んだ石室様の構造がある。勿論その内部には土砂が充満していて、天井石は見えない。大体古墳の玄室の一部のようで、寺島氏はこの上部で前記埴輪類を発見したのである。したがってこゝは明らかに古墳と見られ、地図で見ると津田村内の札場(昔の札場)から直線で約十一町となり、こゝが御墓山としてしるされたものに相当するようである。しかし札場からの方角は文に示されたものとは一致しないが、この文に記された時はすでに古墳が露出し、破壊されてから四十年を経過した後の口伝えであるから少しの誤があるかも知れない。さてこの上に登ってみると、南側は多くの封土を削り取られてようやく残された半円形の山で、北側はしだいに低くなりその裾には浅い濠の跡がみとめられる。南半の封土がないので、その墳形を知る由もないが、前記のように埴輪を立てならべた頃の墳としては、前方後円墳であつたように想像せられる。前の部分は明治三十一年関西鉄道開通の時、線路堤のために取去られたものであろう。
藤阪宮山古墳 昭和三十一年頃に土器を探していた時に偶然見付かりました。下新池流れ口の洗い場の山側に花崗岩が少し頭を出していて、この山では見られない石なので掘っていくと、下から次つぎに石が出てきました。それも積んだような形で、内側は平な面が揃っていて、更に掘り進むと奥の正面に一米位の平たい石があり、その端からまた手前へ石積みが続き、結局幅一米位で、長さが五米程の竪穴式の古墳の様でした。中に埋まっている赤土を掘り上げていくと、陶棺の割れたものが多く出てきたので慎重に掘ると鉄製の塊、錆びた小刀、銅の輪、管玉なども出てきました。急ぎ片山先生に連絡すると、現地へ見にこられ、『古墳に間違いない』と云われました。陶棺や周囲に散らかっていた象形埴輪などは今は大阪市立博物館所蔵になり、遺跡は池端の道路拡張工事で跡形もなくなりました。片山先生から『王仁塚は古墳ではないが近くに古墳らしいものは無いか探してくれ』と云われていましたので、『津田史』の中にこの古墳のことは詳しく説明して下さってます。(一三頁、一四頁) — 寺島正計、[74]
……藤坂宮山の南端では、藤坂寺島正計氏によって一古墳を発見せられ、……尊光寺当郷旧跡名勝誌によるとこれに相当するらしい古墳の存在を記している。(この古墳は明治三十一年関西鉄道が敷設させれた時にその土を採って線路堤とせられたので、現在は大部分破壊せられて後方一部が残っているにすぎない。)以上によって知るところは津田北部の古墳時代村落は相当に栄えてその中に一強族があり、それが当時の民衆を使役してこの墳墓を築造したということである。 — 片山長三、[75]
王仁と百済王氏と三松家
[編集]『当郷旧跡名所誌』は王仁の埋葬地は百済王氏の埋葬地でもあるという伝承を記録している。また、王仁は百済王神社所在地の「中宮村ニ殿作リシ居住アリ」という伝承が記録されている。西村天囚は三松氏は百済王氏嫡流と聴き、自著へ掲載する王仁の像を探していると尋ね、三松家伝統の宝物と珍重していたチンヂ様の木像を王仁木像として掲載したという[76]。『日本宋学史』には「「王仁木像 木下順菴旧蔵」」と掲載されている[77]。中山によるとある学者がその木像は王仁ではなく王辰爾と説いたため百済王神社では辰爾王木像の絵端書が販売されたという。中山は「辰爾王の木像が王仁の換え玉」と題して、王仁と辰爾王が入れ替わったと記している[76]。三松家系図では三松家は百済王氏末裔と書かれ、辰爾王も記載されている。「三松家由来記」では辰爾の館跡が百済王神社という家伝が記されている[78]。
八幡宮本紀
[編集]河内國交㙒郡津田の新田に王仁の墓あり又泉州にも王仁の社あり境の東なる蓼ゲ池の邉に王仁の社あり — 貝原好古、[79]
馬部隆弘は「津田の新田」とは藤坂村のことであると説明している[80]。
本朝学原浪華鈔
[編集]本朝學原浪華鈔 二……一説ニ云、河内國交野郡津田ノ新田ニ王仁ノ墓アリ、泉州ニモ亦祠アリ、境ノ東蓼ガ池ノ道ニモ亦祠アリト、然ドモ其終レル年月未㆑詳、 — 松下見林、[81]
泉州志
[編集]三國山向泉寺……鎮守東原天王方違三社尚在リ㆓旧迹ニ㆒今寺領九十石 縁起
東原大明神并牛頭天王 在リ㆓北ノ陵ノ東ノ南向井ノ北ニ㆒ 或ノ云當社ハ王仁大神也後合祭牛頭天王㆒王仁者百濟國人也……
— 石橋直之、[82]
方違社 在リ㆓北ノ陵ノ艮ニ㆒
河内国交野郡藤坂村旧記
[編集]- 1731年(享保16年)博士王仁の墓が建立されたと「河内国交野郡藤坂村旧記」(1791年,西法寺所蔵)にて記されている。
一ノ瀬御墓谷の上に在 往古より自然石の石碑有り来り候処 享保十六年之頃 並河五市郎様御巡見之節 博士王仁塚と相定られ 則御上より石碑建てなされ候事 今之石碑是也 先年の石は前に立つ — 「河内国交野郡藤坂村旧記」(1791)、[83]
明治28年(1895年)11月23日・26日大阪朝日新聞で掲載された前内閣府書記官長高橋健三(別号:吟淵)が内藤虎次郎と王仁墓を訪れた際に村長から聴いた話では、並河誠所が訪問した折に荒廃の嘆きそれを聴いた領主久貝彌右衛門が博士王仁之墓を建立したという。 1731年頃の領主は久貝彌右衛門の養子、水戸家の家臣・久貝太郎兵衛正武の実子の久貝正順[84]。
歴史家の金英達(英語: Yondaru Kimu)は、『五畿内志』を編纂していた並河の功名心による歴史の捏造としている[64]。
五畿内志
[編集]河内文首始祖博士王仁墓在藤坂村東北御墓谷今稱於爾墓 — 並河誠所、[88]
東原祠 在㆓向井祠南㆒傳云祭㆓王仁㆒
百下鳥耳原中陵 在㆓舳松村東㆒今號㆓大山陵㆒……域外四畔有㆓七冢㆒曰長冢俗云武内宿禰曰長山冢俗云王仁曰孤山曰寺山曰土鼈山曰平塚山曰圓山初 — 並河誠所、[89]
譚海
[編集]津村正恭(淙庵・1736~1806)は水戸光圀(1628~1701)が調査し「王仁博士墓」と刻した碑を泣き石の前に建てたと1795年(寛政7年)「譚海」にて記した。
甲斐国志
[編集]和仁 塚は北宮地村に属せり……里人鎮西八郎爲朝の鬼を使令せして云傳へたり甲陽随筆にも載之皆鍋山ノ鬼見 堂なとより附會せし言にて記するに足らす武田八幡の千社に爲朝ノ宮あり……或人云鬼御堂は王仁 御堂 にて和仁 塚と云は卽ち王仁の塚ならんかと云へり按に姓氏録に竹田の臣は孝元天皇の皇子大彦命の男武渟川別命之後也…… — 甲斐国志、[92]
耳嚢
[編集]1814年頃、根岸鎮衛は「耳嚢」巻十で博士王仁之墓の拓本について記している。
河州交野郡に、おにの墓といふ事有。水野某大阪勤仕 の頃、「右銘銘 を石摺 になしたり」とて見せけるを、左 に記す。博士王仁之墓
と彫付 あるよし。年号も文もなし。仁德の頃のものにはあるまじ。其後はるかの後世に出來たるやしらず。然れ共 、近き造立 とは不見 。楷書にて書しが、見事なる筆法也。土俗は王仁を略語して鬼の墓といふよし、おかし。 — 根岸鎮衛、[93]
日本書紀通証
[編集]全堺詳志
[編集]- 1757年(宝暦7年)高志芝巌『全堺詳志』にて泉州の「百濟王仁塚」が掲載されている。
百濟 王仁 塚 大仙陵の乾にあり、俗に長山と云、一説に、日本武尊の廟地とも云、〇或説に云、向泉寺の舊蹟、今在る所の鎮守、東原大明神と稱するは、王仁也と云、王仁は、應神帝十六年春二月に来る、太子莵道稚郎子に、儒典を教授したる師範なり — 高志芝巌,高志養浩、全堺詳志[96]
謡曲拾葉抄
[編集]河内ノ國交㙒ノ郡津田の新田に王仁の墓あり。又タ泉刕境の東蓼が池の邉に王仁の社あり — 犬井貞恕、[97]
河内名所図会
[編集]河内文首始祖博士王仁墓 藤坂村の東北御墓谷にあり石標王仁之墓 — 秋里籬島、[100]
流観百図会
[編集]大田覃(1749-1823)『流観百図』にて旧西成郡大仁村の王仁塚の絵図が掲載されている。
王仁塚 大仁村ニアリ大坂ヨリ尼崎エノ海道也 — 大田覃、流観百圖[101]
文政七年 王仁の祠
[編集]文政十年 博士王仁墳
[編集]- 1827年(文政10年)、明治28年(1895年)11月23日と26日大阪朝日新聞で掲載された前内閣府書記官長高橋健三(別号:吟淵)が内藤虎次郎と王仁墓を訪れた際に村長から聴いた話によると、荒廃のため資を募り有栖川宮幡仁親王御親筆を賜り博士王仁墳の石碑を建立した。
1892年(明治25年)に著されたという「河内国交野郡招堤村家村犬次郎よりの聞書」(旧長尾村戸川氏所蔵)によると、「王仁舊記」を所有していた河内国交野郡招提村の家村孫右衛門と有栖川宮幡仁親王へ仕えていた山城国葛󠄀野郡太秦村の漢部公明は親王より御染筆を受け石碑を建立、寄附を募った漢部公明は「王仁舊記」を持ったまま丹波地方で行方不明になったという[69]。
戦争と中断
[編集]- 1897年(明治30年)大阪市高津神社で仁徳天皇千五百年紀年祭にて寄附をつのる。氷室村出身の国会議員深尾龍三の人脈で山縣有朋、松方正義、伊藤博文、西郷従道、大隈重信、桂太郎等の賛同者を得たが日露戦争で中断
宇山……坂上田村麿蝦夷二酋を河内植山に斬ると云ふは此なるべし。……〇宇山の東一里菅原村大字藤坂に鬼墓あり夷酋の墳歟。……
津田 ……於爾墓〇河内志云、王仁墓、在河内国交野郡藤坂村東北墓谷、今稱於爾墓。按ずるに此は百濟博士王仁にや、又蝦夷酋を植山に斬りたれば、是其墓にあらずや。……
— 吉田東伍、[107]
- 1908年(明治41年)12月、『博士王仁 : 文学始祖』が出版される。金石研究家で元朝日新聞の木崎好尚が巻首を飾る。『王仁墳廟来朝記』『王仁裔孫並系譜紀』の筆写を掲載、儒学者藤沢南岳、西村醉處、吉村秋陽、皆川淇園、
- 1909年(明治42年)8月20日、大阪陸軍兵器支廠禁野弾薬庫爆発、被害は津田村や淀川対岸の三島郡にまでおよび、藤阪村の博士王仁の墓は破損、百済王神社、寂静山西方寺、渚の院の跡も被害を受ける[109]。
- 1938年(昭和13年)大阪府の史跡に指定される。
- 1939年(昭和14年)10月10日大阪朝日新聞で東京都渋谷区青葉町王仁神社奉賛会理事文学博士の中山久四郎が前菅原村村長山中氏叔父が明治初年入手した、幕府の系図方で保管されていたという『王仁墳廟来朝記』『王仁裔孫並系譜紀』を重要資料と折紙をつけたと報道される[66]。
東京市渋谷区青葉町王仁神社奉賛会では会長山田英夫伯、同理事酒井忠正伯、文学博士宇野哲人・同中山久四郎・同塩谷温らが全国的に寄附を求めて菅原村に王仁神社を建立することになったが、時局から延期されてゐるものの、……まづ神社建立の第一歩として社城の玉垣を造営して先賢の遺徳に報いることになり、…… 折も折、王仁のかくれた研究家である山中前村長は、王仁後裔の僧侶道俊が元和二年に書いた「王仁墳廟来朝記」と「王仁裔孫並系譜紀」の貴重な文献二巻ならびに王仁の肖像画を所蔵してゐることがわかり、このため奉賛会理事中山久四郎博士が、二度も同家を訪れて王仁研究の重要資料として折紙をつけ、目下研究を進めてゐる。この二巻は、昔幕府の系図方が保管してゐたものを、転々として山中氏の叔父で初代の同村村長山中……が明治初年に村の宝として入手したもので、奉賛会では王仁の後裔を広く全国的に捜してゐる際とて、山中氏の協力を得てこの二文献につき各系統別に調査をすゝめてゐる。 — 大阪朝日新聞昭和一四年十月十日朝刊、七面[111][66]
- 1940年(昭和15年)玉垣が完成。小笠原忠春伯爵、小笠原長幹伯爵、山田英夫伯爵、文学博士中山久四郎(東京大学教授)、文学博士塩谷温(文理大教授)、理学博士高橋龍太郎(東大助教授)、南満州鉄道株式会社他の名前が刻まれている[112]。王仁神社建立は戦争でとん挫。
4月28日東京上野公園に博士王仁記念碑が建立される。1933年建碑発起人山本宗次郎達は趙洛奎の碑文草案を熱海の清浦奎吾伯爵宅で審議したという。四宮憲章が朝鮮のラジオで募金を呼びかけ李王家、朝鮮総督府、朝鮮銀行、小林采男から寄附を受け、除幕式には宮内庁、文部省、拓務省の各大臣、前総理大臣林銑十郎、東京府知事、東京市長、頭山満、井上哲次郎、中山久四郎他が参加したという[113]。
明治時代になるとそ王政復古のなかで、日本に帰化し天皇家に仕えた博士として王仁が顕彰されるようになる[64]。
昭和時代になると「内鮮一体」を標榜する朝鮮人皇民化教育政策に利用されるようになり、1927年、王仁神社奉賛会(副会長・内田良平)が結成[64]。1942年には大阪府協和会が王仁神社の建設を決定したが戦争のため計画中断した[64]。
戦中は陸軍病院建設に従事した朝鮮半島出身労働者が王仁博士墓所で春秋慰霊祭を続けていた[114]。
戦後
[編集]戦後は「日韓友好親善運動」に利用され、1984年以降、王仁祭が開催されるようになり、1985年には地元に「王仁塚の環境を守る会」が発足[64]。1992年には大阪府と枚方市により墓域の整備がなされ、ハングルの通行案内板・休憩所(善隣友好館)・祈念碑などが建設された[64]。
枚方音代節雄氏より王仁塚について記述するようにとの書翰により、ふだん私は王仁塚の下の村に住んでいるので、こゝにその資料をまとめることゝした。……私は以上に述べたような期待をもって、この王仁塚附近一帯の地を隈なく幾年間、又幾たび歩きまわったことだろう。私の見たものは南へ三町ばかり距る長尾病院の西南で、須恵器の破片二個が単單獨に落ちているのがあったのみで、外には右にしるした諸条件の中の一にでも該當するもの、即ち考古學上この土地を王仁墳と推定すべき資料の一をも、こゝに見出していないのはまことに残念である。 — 片山長三、[69]
- 1970年(昭和45年)岩手県花巻文化財保護委員山本賢三は昭和8年当時王仁墓は鬼墓と地元民に呼ばれていたと述べた。
吉田東伍博士は大日本地名辞書に北河内郡牧野村に大字宇山という所があって、宇山の東一里菅原村大字藤坂に鬼墓あり、夷酋の墓かとして、延暦二十一年坂上田村麻呂蝦夷二酋を河内国植山に斬ると云うは此なるべしとし、大日本史の文を引いているが、今近くに宇山という所があるのを見ると植山とあるのが、正しかろうと思われるし、これは筆者は昭和八年六月末、実地に見て知っており、その当時も土地の人は鬼墓と呼んでいることを知ったが、現今は百済から来朝した博士王仁の墓として歴史教科書に写真を掲げているものもあるが、形式からしても王仁の時代に当たるものではなく明かに吉田東伍博士の説の如きものに相違ないと思われる。 — 山本賢三、[115]
- 1978年(昭和53年)7月東京大学教授の辻村明が王仁塚の荒廃について韓国文化放送・京郷新聞社長李恒儀氏から苦言を受け、7月31日王仁公園と王仁塚を訪問、荒廃への憤りを雑誌「正論」と新聞上で報告する[116]。11月3日博士王仁会発足。王仁公園の整備がはじまる。
- 1987年(昭和62年)王仁公園に平和の像「恒久平和」が建てられる。
伝王仁墓では「博士王仁まつり」や「納涼むくげ祭り」が行われている[123][124] [125][126]。
韓国の王仁顕彰運動
[編集]『三国史記』『三国遺事』などの書籍に王仁、あるいは王仁に比定される人物の記述はなく、朝鮮には王仁伝承は存在しなかった[64]。『三国史記』『三国遺事』などの書籍にも王仁、あるいは王仁に比定される人物の記述は存在しない。1970年代に韓国の農業運動家で民族史観を信奉する金昌洙[127]らの顕彰運動によって、知られるようになった。1968年に農協視察のために来日した金昌洙は王仁伝承を知り、1970年に再び来日し王仁の資料を収集した[64]。金は民族史観のための王仁研究所を設立し、1972年(昭和47年)8月、中央日報に『百済賢人 博士王仁 日本に植え付けた韓国魂』を15回連載した[64]。同年10月に霊岩郡の青年会議所会長の姜信遠から巫女の証言で当地に祈祷伝説があると情報を提供された。金昌洙は当地を王仁の生誕地と認定し、1973年(昭和48年)2月、「王仁出生地 霊岩郡」説を発表し、さらに社団法人王仁博士顯彰協会を創立した。1975年(昭和50年)6月、『博士王仁 日本に植えつけた韓国文化』を出版。1975年、全羅南道知事が博士王仁誕生地聖域化事業計画を発表し[64]、金昌洙は全羅南道教育委員会で「王仁博士 遺跡学術セミナー」を開催した。1976年(昭和51年)には全羅南道が霊岩郡鳩林面聖基洞一帯を「王仁博士誕生地遺跡」として全羅南道地方文化財に指定し、遺跡公園として観光地にした[128][64]。1984年には王仁祭が開催され、毎年11月3日に年中行事化する[64]。1985年には地元に「王仁塚の環境を守る会」が発足、墓域の清掃、むくげの植樹、四天王寺ワッソへの参加、韓国との親善交流などの活動を展開[64]。1987年には王仁廟が竣工された[129]。1992年には大阪府と枚方市により墓域の整備がなされ、ハングルの通行案内板・休憩所(善隣友好館)・トイレ・祈念碑などが建設される[64]。1992年、韓国全羅南道霊岩郡が枚方市に友好都市提携を申し出たが、枚方市は断る[64]。
金英達は、“善意”な日本人の協力者のもと、歴史の検証なしに韓国人の日本に対する文化優越史観-実際は文化的コンプレックスの裏返し-、韓国人の民族意識をくすぐる韓日友好親善運動に王仁が利用されているとして、こうした歴史イメージの政治的利用・時代的風潮への悪乗りにより、さまざまな歴史の偽造が行われ、具体的には、大阪府枚方市の王仁の墳墓であるとする王仁塚であり、韓国の全羅南道霊岩郡の王仁の生誕地であるとする王仁廟を挙げ[64]、科学的実証性に全く欠けた歴史の捏造であり、神津島のジュリアおたあの墓のでっち上げと韓国キリスト教グループによる「ジュリア祭」の開催、北朝鮮の檀君の遺骨のでっち上げと檀君陵の建設と同様とする[64]。「一学者の願望・思いつき・功名心による歴史の捏造」「金昌洙の妄想がきっかけになって、霊岩が生誕地だとされるようになった。その根拠は、霊岩に王仁に関する伝説があるということだけだが、科学的実証性に全く欠けるものである。道銑国師(新羅末の名僧)らの伝説や地元の遺跡を無理矢理にこじつけたもので、枚方の王仁塚をはるかに上回る大々的な歴史の捏造が公然と行われている。いずれにしても、日本の記紀の記載にもとづいて、日本の文化を開明した人物がまさに韓国人であったとの民族主義的思考が先行しているように思われる。しかし、ここまでくると、もはや王仁廟がでっち上げだと言おうものなら袋叩きに遭いかねない雰囲気」「韓国人サイド主導の王仁顕彰グループは、王仁の枚方墳墓説・霊岩誕生説への学問的批判に対して、韓日友好の歴史モニュメントを否定する『左翼小児病』であると非難している。しかし、実証なしに歴史をでっち上げ、都合のよいように政治利用する側こそ、民族主義・国家主義的偏向によって理性に動脈硬化をおこしている『右翼成人病』」「歴史偽造のパターンを分析してみると、まず、ある学者(一定の政治力のある自称学者)の思い付き、功名心と情熱があり、ついでそれを支える時代的風潮と運動や事業に利用しようとする政治勢力の存在、そしてとにかく碑や建物を建て、行事を挙行して既成事実化」と分析している[64]。
韓国や在日韓国人社会においても、王仁は日本の文化を育み、発展に大きく貢献した人物として扱われ、日韓両国で王仁に関する催し物が開かれている[130][131]。
韓国の小学校の社会科教科書には王仁について以下のように記述している[132][133]。
- 「百済の文化を日本に伝えてあげた王仁」
- 「王仁は百済の文化を日本に教えてあげた学者である。彼は『千字文』と『論語』などの本を日本に伝えてあげ、日本にながく暮らしながら、日本国王と王子の先生になって学問をおしえてあげたりした。そうして、日本の人びとに漢文と儒学がわかるようにつとめた。今も日本人は、王仁を日本文化の先生として崇めているし、彼の功績をたたえる遺跡があちこちに残っている」
関連史跡・伝承地
[編集]日本
[編集]- 伝王仁墓 - 大阪府枚方市藤阪東町二丁目に王仁の墓が伝えられている[134]。
- 高石神社 - 大阪府高石市。高石連の祖である王仁を祀っていたと和泉名所図会にある[135]。
- 方違神社 - 大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町二丁目。東原大明神は博士王仁と伝えられている[136]。
- 出岡弁財天 - 大阪府松原市 岡1丁目 王仁の聖堂址伝承がある[137]。
- 王仁大明神 - 大阪府大阪市北区大淀中3丁目(旧大淀区大仁町)にある一本松稲荷大明神(八坂神社)は王仁大明神とも呼ばれ、王仁の墓と伝えられていた。また近辺に1960年代まであった旧地名「大仁(だいに)」は、王仁に由来していると伝えられている。
- 永山古墳 - 大阪府堺市堺区東永山園に所在する前方後円墳で、百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。宮内庁が仁徳天皇(第16代天皇)の陵である百舌鳥耳原中陵の陪冢に治定しているが、独立した古墳とみられる[138]。王仁の墓とする伝承があった[138]。なお、仁徳天皇と王仁の関係については前述の古語拾遺に記載されている。
その他、山梨県韮崎市神山町北宮地に王仁塚(鰐塚)があるが、これは日本武尊の王子武田王の墓と言われるもので、王仁とは無関係である。
韓国
[編集]全羅南道霊岩郡郡西面東鳩林里山に、韓国の農業運動家金昌洙が『博士王仁 日本に植えつけた韓国文化』(1975年)に発表した説に基いて1976年に全羅南道が文化財として認定した遺跡がある[139]。
現在
[編集]韓国の民族史観
[編集]韓国で王仁は日本に文化を伝えた韓国人として扱われており、民族史観を信奉する運動家の金昌洙は王仁を「日本に植え付けた韓国魂」として賞賛している[140][64]。
韓国では民族史観によって「王仁は日本に進んだ文化を伝えた」と教えられている。洪潤基は王仁が万葉仮名を作り、その子孫が平仮名を作ったと韓国起源説を主張している[141]。王仁が日本へ儒教と漢字を伝えたとされるが、正確でない。古事記によると王仁は論語と千字文をもってきただけであり、日本書紀に王仁が渡来するより以前に阿直岐が儒教経典をよく読んだとあることから、王仁が来た頃の日本にはすでに儒教や漢字があったことがわかる。王仁は論語と千字文という中国の書物をもってきたのであり、当時の朝鮮半島の「文化」を伝えたとはどこにも書かれていない。また、王仁は日本側の資料にのみに登場する人物であるが、韓国は『古事記』の「応神天皇の命令を受け百済が献上した人物」と言う記述や『日本書紀』等の日本の大国ぶりがうかがえる記述については「捏造」と激しく否定しており、資料の都合の良い部分だけ採用し、それ以外は無視するという「つまみ食い(チェリー・ピッキング)」をし、二重基準を見せている。韓国の歴史解釈について呉善花や井沢元彦らは、日本へ「伝えてあげた」という韓国の歴史解釈は、日本の歴史史料を利用したものであるが、同じ史料(『日本書紀』など)にある自国に都合の悪い部分(任那日本府、三韓征伐など)は否定するという客観性のない都合の良い歴史観であり、その矛盾を指摘している[142]。
『大朝鮮帝国史』の作家金珊瑚は画集『韓国105代天皇尊影集』で、応神天皇を「倭(奈良百済)国 始祖 応神王仁」と紹介している[143]。高句麗による侵攻のために百済から日本列島に逃げた応神天皇は、そこで奈良百済=倭国を建国し、そこから大百済帝国を支配していたと主張しており、 「応神王仁」とは、日本に「千字文」を伝えた王仁博士の「王仁」と応神天皇の「応神」は、どちらも日本語で「オージン」と読めるから同一人物に違いないと主張している[143]。
黄禹錫がクローン技術で製作した「BSEに耐性を持つ」と称する牛を日本の検証施設に送ったという報告(実際に日本に送られた形跡はない)においても、黄禹錫チームの一員が「先進文化を伝えた王仁が日本に渡ったのと同じこと」と発言している[144]。
祭り
[編集]全羅南道霊岩郡では1976年以降、王仁博士祭が開催されている。
大阪府枚方市藤阪の伝王仁墓では大阪日韓親善協会の主催で、周辺住民や在日本大韓民国民団大阪府本部の協力で「博士王仁まつり」が開催されている[145]。
枚方市霊岩郡友好都市提携
[編集]2008年(平成20年)3月1日には枚方市と全羅南道霊岩郡が友好都市提携を実現した[65]。韓国から修学旅行生が訪れることもある[65]。
注釈
[編集]- ^ 6世紀の新羅石碑には、多くの者には姓が記されておらず、名と所属のみである。これは、古代朝鮮では、姓がなく、人を名で呼んでいたことを示しており、朝鮮が中国と関わり、中国式の姓を取り入れた。王族や高句麗、百済の貴族が新羅時代の4世紀から5世紀にかけて姓を導入し、6世紀に朝鮮で広まるようになった。このように、王族や高句麗、百済の貴族が中国式の姓を導入したのは、三国時代の後半、統一新羅時代である[44]。
- ^ 現在、使われている中国式の姓が一般化したのは、中国から漢字が導入され、定着してきた七世紀以後と考えられている。『三国史記』や『三国遺事』では、高句麗・百済・新羅の始祖伝説にすでに中国式の姓が使われていたように記されているが、実際には神話上の話と解釈されている。高句麗の始祖・朱蒙は国名にちなんで「高朱蒙」と高氏を名乗ったり、百済では扶余族の始祖温祚は扶余氏という姓を名乗ったと伝えられている。新羅の始祖は、一説には、馬のいななきに導かれた先で見つかったヒョウタンのように大きい卵から生まれたという伝説から、ヒョウタン(パク)を意味する「朴」、あかあかと火が燃える様や光が明るく輝く様を営味する「赫」で朴赫居世となった。新羅では四代目の脱解王からは昔氏、一三代目の味鄒王からは金氏に受けつがれ、朴氏、昔氏、金氏となるそれぞれの始祖伝説をもっている。史書によると、三国時代は、始祖伝説に関係する者以外でいわゆる中国式の姓をもっている者はほとんどみられない。六世紀から七世紀に登場する高句麗の武将は「乙支文徳」、『日本書紀』に「伊梨柯須彌」の名で登場する高句麗の権力者は「淵蓋蘇文」、七世紀の百済の軍官は「鬼室福信」に「階伯」である。新羅の始祖の赫居世も別名は「弗矩内」ともいう。実際に、朝鮮半島で姓が生まれたのは、統一新羅時代になってからである。統一新羅の王族、貴族が中国・唐の文化を取り入れるなかで、中国式に姓をもつようになっていったのだ。また、中国の姓をまねただけでなく、自分の住んでいる地名、周囲の山や川にちなんでつけられた名前もあったようだ。そして高麗時代になると、姓をもつことが一般化し、李朝時代には『経国大典』という戸籍台帳ができて、姓名制度が確立した[45]。
- ^ 韓国においても同様で、三国時代から何らかの名称があったが、それは権力者を中心として使われていたと考えられる。高句麗王の「高氏」、百済王の「扶余氏」、新羅の「朴、昔、金氏」などがあるが、これはすべて漢字が齎してからの表記である。日本の『日本書紀』などの資料を見ても、朝鮮半島に7世紀以前には漢字の姓氏は見当たらない。この時姓氏を持つことは、集団の中で政治的、社会的特権であり、姓氏の獲得によって段々母系社会から父系社会に移行して行く117
- ^ さらに近年では、朝鮮半島が中国風の漢字一文字の姓を名乗るのは、統一新羅の時代以降であるため、王仁は朝鮮人ではなく、中国系渡来人ではないかと考えられてきている[43]。[注釈 1][注釈 2][注釈 3]。
- ^ 朝鮮半島では7世紀後半になる中国の唐との交流が活発になり、中央貴族や官僚を中心に漢字の姓氏が拡大して行く。…李重煥の『擇里志』には、高麗時代以降徐々に一般の人が姓氏を持つようになったと記している[46]。
- ^ 韓国人の姓氏は、漢字の導入と共に今のような中国式の形が定着したと見られる。その中には韓国独自の姓氏もあるが、多くは中国の姓氏を借用したと考えられる。勿論、中には帰化によって中国伝来の姓氏も見られたり、日本由来の姓氏も見られた。歴史的には、特権階層だけが持っていたこの姓氏が、一般の人にまで広がるのは高麗時代の文宗が実施した科挙の試験が大きく影響する。科挙試験には姓名を持つことが条件であり、試験を受けるために一般の人にまで広がるきっかけとなった。…韓国では各家門に族譜を持っているが、この族譜を見るとその始祖がこの高麗時代よりも遥かに遡る。これは事実性よりも自分達の姓氏の神話化や美化したものと考えられる。一般の人が姓氏を持つようになったのが高麗の文宗の時からだとしたが、この説にも問題があり、一般的ではなく特定の階層に限られる。当時の全体人口からしても科挙試験受験者は僅かだったと考えられる[47]。
脚注
[編集]- ^ a b 山尾幸久「日本国家の形成」岩波新書、1977年
- ^ a b 鈴木靖民「王仁の名から6世紀ごろ、中国系百済人が先進文化を携えた博士として百済から倭に渡来した事実を想像させる」朝日日本歴史人物事典『王仁』 - コトバンク
- ^ a b c 志田諄一日本大百科全書『王仁』 - コトバンク
- ^ a b 加藤謙吉 (1997年7月). “フミヒト系諸氏の出自について”. 古代文化 49 (財団法人古代学協会): pp. 428. "かかる事実に基づき王仁後裔氏族や家氏、東漢氏を中国系とする説が古くから存在する。"
- ^ a b マイペディア「伝承によると、漢の高祖の子孫」マイペディア『王仁』 - コトバンク
- ^ a b 石田博『漢文学概論』雄山閣、1982年6月1日、28頁。ISBN 978-4639001652。「王仁の家系を述べているが、それによると、王仁は漢の高帝の後であるという。漢の高帝の後を鸞といい、鸞の後胤の王狗は、転じて百済に至った。」
- ^ a b c 八幡和郎『最終解答 日本古代史 神武東征から邪馬台国、日韓関係の起源まで』PHP研究所〈PHP文庫〉、2015年2月4日、132頁。ISBN 978-4569762692 。「そこで、天皇が『お前に勝る学者はいるのか』と聞いたところ王仁を推薦したので、百済から招聘したといいます。王仁博士は、漢の高祖の子孫と称しています。山東省から楽浪郡に移住し、さらに百済に移ったので、平安時代の『新撰姓氏録』には、文、武生、櫻野、来栖、古志といった名字の人々が王仁の子孫で漢族として登録されています」「文字を伝えた王仁博士のような百済から来た漢族をどう評価するかという問題もあります。これは、たとえば、在日朝鮮人で日本国籍がない人がアメリカで活躍したようなときに、日本から来たと思われるか、韓国・朝鮮人だとアメリカ人が思うかといったようなものです。漢字を伝えた王仁博士を日韓友好のシンボルとする動きもありますが、在日韓国人3世がアメリカでキムチを広めたのを日米友好のシンボルにするようなもので、ちょっと変な気がします。」八幡和郎『最終解答 日本古代史 神武東征から邪馬台国、日韓関係の起源まで』PHP研究所〈PHP文庫〉、2015年2月4日、36頁。ISBN 978-4569762692。「始皇帝の子孫という秦氏や漢字を伝えた王仁博士のように、百済を経由して渡来したとしている氏族も含めて、帰化人の多くが『漢』を出自とすると名乗っていたのです。」
- ^ a b 八幡和郎『中国と日本がわかる最強の中国史』扶桑社〈扶桑社新書〉、2018年9月4日、13頁。ISBN 4594080340。「王仁博士を百済人として日韓友好のシンボルにしたいと韓国の一部の人は考えていろいろ画策しているようですが、百済でも本格的に漢文ができたのは漢族に限られていました。あとで説明するように、山東省にルーツをもつ王仁博士が漢字を日本に伝えたのは、在日朝鮮人がアメリカに行ってキムチの作り方を教えたようなもので、それを日米文化交流とは言わないのと同じく日韓友好のシンボルにはなりません。また、唐が百済を滅ぼすのに荷担した新羅の流れを引く現代の韓国は、百済の継承国家とはいえません。」
- ^ a b 日笠護『日鮮關係の史的考察と其の研究』四海書房、1939年7月15日、40頁。「後漢孝靈帝の後裔と稱する阿知使博士王仁(漢高祖の後裔)の來朝を見るに至つた。」
- ^ a b 駒井和愛『楽浪―漢文化の残像』中央公論社〈中公新書〉、1972年1月1日、23頁。ISBN 978-4639001652。「東京大学の歴史学者坪井九馬三博士は、かの日本に論語をもたらしたといわれる王仁ももと漢人の子孫で、楽浪から来たって、百済に仕えたもので、楽浪王氏に関係ある。」
- ^ a b 請田正幸 (1988年7月). “渡来人論・序章”. 歴史学研究 (582) (青木書店): pp. 14. "西文氏については、その伝承で、漢の高祖の子孫が朝鮮にわたり、その後裔の王仁が日本に渡来して、西文氏の祖となったとしている。"
- ^ a b 馬渕和夫、出雲朝子『国語学史―日本人の言語研究の歴史』笠間書院、1999年1月1日、17頁。ISBN 978-4305002044。「最初の阿直岐・王仁は中国系もしくは準中国系の百済人であったから、漢字の発音も中国音に近かったであろう。」
- ^ a b 蔡毅 編『日本における中国伝統文化』勉誠出版、2002年4月1日、113頁。ISBN 978-4585030874。「この『和邇吉師』とは、漢名を王仁と称す。彼の姓氏とその文化教養の点から推測されることは、王仁は朝鮮で生活していた漢民族の移民であるか、あるいは移民の末裔であろう。」
- ^ a b 佐伯有清『日本の古代国家と東アジア』雄山閣出版〈古代史選書〉、1986年11月1日、125-126頁。ISBN 978-4639006121。「井上光貞氏は、王仁の王は中国的な姓で王氏ではないかと指摘され、そして楽浪の官人に王氏が多くいたことから、三一三年の楽浪郡滅亡後に、亡命して百済に入った王氏に王仁はつながりがあるのではないかと推測された。」
- ^ a b c 竹内理三『古代から中世へ 上―政治と文化』吉川弘文館、1978年2月1日、33頁。ISBN 978-4642070775。「漢高帝の後裔王狗という者が百済に来ったが、王仁はその孫にあたるという。楽浪郡跡の発掘の遣品に王光、王肝など王姓の名をしるしたものがあるので、王仁もその名はともかくとしても、その一族のものであろうと言われている。」竹内理三『古代から中世へ 上―政治と文化』吉川弘文館、1978年2月1日、63頁。ISBN 978-4642070775。「こうしたことから、わが国に文運を最初にもたらした王仁も、じつはまったくの架空の人物ではなくて、この王氏の子孫として実在したものと考えても、案外さしつかえないのではないか。楽浪の王氏は、いずれも平、宜、雲、光などめでたい文字の一字名である。」
- ^ a b 丸山二郎 著、国史研究会 編『歸化人の安置』岩波書店〈岩波講座日本歴史8〉、1934年5月、9頁。「右に準げた百済の歸化人の中にも、漢人の子孫と稱する者が多く弓月君は秦始皇帝の後だと云はれ、王仁は漢高祖の後裔で百濟に歸化した王豹と云ふ者の子孫だと云ひ、阿知使主はこれ等三國の歸化人の外に支那の歸化人がある。」
- ^ a b 栗原薫「大化前代の紀年(三)」『北海道教育大学紀要. 第一部. B社会科学編』第33巻第1号、北海道教育大学、1982年9月、1-15頁、doi:10.32150/00002910、ISSN 0386-4480、CRID 1390857777802733696。
- ^ a b 黒板勝美『日本書紀精粋』文部省社会教育局〈日本思想叢書第九編〉、1933年、367頁。「古事記には、和邇吉師とあり、また論語十巻、千字文一巻を伝えたとある。王仁の家は、もと支那から朝鮮に移って来て、初めは楽浪郡に栄えていたらしい。平壌の附近にある楽浪時代の古墳にも王姓の人の墓が多く発見されて居る。楽浪の郡治が衰えた後南下して百済に入った王氏の一人が恐らく王仁であったらう。」
- ^ a b 今西龍「大同江南の古墳と楽浪王氏との関係」『東洋学報』第2巻第1号、東洋文庫、1912年1月、103頁、CRID 1050001338546618368。:今西龍「大同江南の古墳と楽浪王氏との関係(正誤表)」『東洋学報』第2巻第2号、東洋文庫、1912年5月、282-282頁、CRID 1050564288500040576。
- ^ a b 田中健夫、石井正敏 編『対外関係史辞典』吉川弘文館、2009年1月1日、356頁。ISBN 978-4642014496。「応神朝に百済の和邇吉師(王仁)が『論語』などの典籍をもたらしたという王仁伝説や、継体欽明朝に五経博士が百済から交代派遣されたとする伝承は、そのままでは事実とは認め難い。」
- ^ a b 斎藤正二『日本的自然観の研究 変容と終焉』八坂書房〈斎藤正二著作選集4〉、2006年7月1日、129頁。ISBN 978-4896947847。「王仁の実在を疑う論者は、津田左右吉以来、それこそ無数にある。『千字文』そのものが三世紀終わりにはいまだ成立していないのに日本に渡来するはずはないとの疑問は、早く江戸時代に新井白石、伊勢貞丈らによって提起されていた。」
- ^ a b 中村新太郎『日本と中国の二千年〈上〉―人物・文化交流ものがたり』東邦出版社、1972年1月1日、53頁。 NCID BN02985226。「阿直岐や王仁が実在の人物であったかどうかはわからない。津田左右吉博士は、後人の造りごととしている。」
- ^ a b 菅原信海『日本思想と神仏習合』春秋社、1996年1月1日、24頁。ISBN 978-4393191057。「『和邇吉師が論語・千字文を献上したといふのも(中略)和邇吉師が実在の人物でないとすれば、やはり事実とは認められない』と述べており、論語、千字文の阿直岐や王仁は到底実在の人物とは考えられないこと、また和邇吉師が論語、千字文を献上したといふのも、津田左右吉博士は、『王仁の名は阿直岐に対して作られたものであらう』と、架空の名を作り出したものとしている。」
- ^ a b 野平 2002, pp. 95–98
- ^ a b 星野五彦『万葉の諸相と国語学』おうふう、1999年1月1日、154頁。ISBN 978-4273030520。「応神時代に音読すればオウジンとなる王仁の来朝も実在人物なのだろうかと疑問が生じてくる。」
- ^ 井上薫『行基』吉川弘文館〈人物叢書〉、1987年8月1日、14頁。ISBN 978-4642050913。「しかし王仁という人物そのものが実在でなく、『書紀』が彼の来朝を応神朝にかけて記したのは、応神朝に半島との交渉が始まったという知識にもとづいたに過ぎないとする津田左右吉博士の説がある。」
- ^ a b 浜田耕策 2005, p. 6「ところで、韓国の学界では、『日本書紀』に読まれる百済が倭国に送ったとされる王仁や『論語』、『千字文』を代表事例として、百済は倭国より進んだ文化先進国とする文化優越論が根強い。王仁の『千字文』将来説には王仁より後世の作であることや『日本書紀』の歴史構成を批判的に検討する文献学的な批判がある。百済からの知識人や経典の倭国への伝来を百済と倭国との2国間の関係のみに限定してしまい、この背後にある中国王朝との相互の関係に目を向けることの弱さから生まれた『文化優越論』である。」
- ^ a b 犬飼隆「「烏羽之表」事件の背景」『愛知県立大学文学部論集. 国文学科編』第57巻、愛知県立大学文学部、2008年、6頁、doi:10.15088/00001007、ISSN 13425501、CRID 1390572174575708928。
- ^ 伊藤一彦「7世紀以前の中国・朝鮮関係史」『経済志林』第87巻3・4、法政大学経済学部学会、2020年3月、177頁、doi:10.15002/00023147、hdl:10114/00023147、ISSN 0022-9741、CRID 1390853649761472000。
- ^ 野呂肖生・笠原一男『史料による日本史』山川出版社、2007年1月1日、9頁。ISBN 978-4-634-02023-8。
- ^ 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋『日本書紀 上』岩波書店、1967年3月31日、371-373頁。
- ^ 菅野雅雄『現代語訳 日本書紀 抄訳』KADOKAWA・中経出版、2014年9月8日。ISBN 978-4046004017。
- ^ 御橋悳言『神皇正統記注解上』八木書店、2001年、238頁。ISBN 9784797105407。
- ^ 菅野雅雄『古事記 神話と天皇を読み解く』新人物往来社、2012年6月22日、553-554頁。ISBN 978-4404042071。
- ^ 野平 2002, pp. 96–98
- ^ 齋部宿禰廣成撰『古語拾遺』1872年、19頁 。
- ^ 西宮一民『古語拾遺』岩波書店、1985年3月18日、41-42頁。
- ^ 青木ほか 1998, pp. 496–499
- ^ 塙保己一 編『群書類従 第十六輯』経済雑誌社、1902年、189頁 。
- ^ 塙保己一 編『群書類従 第十六輯』経済雑誌社、1902年、196頁 。
- ^ 塙保己一 編『群書類従 第十六輯』経済雑誌社、1902年、206頁 。
- ^ 塙保己一 編『群書類従 第十六輯』経済雑誌社、1902年、209頁 。
- ^ 拳骨拓史『韓国人に不都合な半島の歴史』PHP研究所、2012年10月26日。ISBN 978-4569808000。
- ^ 金光林 (2014年). “A Comparison of the Korean and Japanese Approaches to Foreign Family Names” (英語) (PDF). Journal of cultural interaction in East Asia (東アジア文化交渉学会): p. 25-28. オリジナルの2016年3月27日時点におけるアーカイブ。
- ^ 21世紀研究会『カラー新版 人名の世界地図』文藝春秋〈文春新書〉、2021年11月18日、212頁。ISBN 4166613405。
- ^ 文慶喆 2020, p. 118.
- ^ 文慶喆 2020, p. 127-128.
- ^ a b 井上薫「行基」吉川弘文館、p14-15
- ^ 『日本上代史研究』(岩波書店 1930)
- ^ 水垣久 (2012年1月22日). “古今和歌集 仮名序 紀貫之”. やまとうた. 2012年2月26日閲覧。
- ^ 宮本淳子、金子彰「世阿弥自筆能本『難波梅』語彙総索引稿」『日本文學』第106巻、2009年3月15日。
- ^ 大和田建樹, ed. (1892), “難波”, 謡曲通解, 3, 博文館, pp. 48
- ^ 近畿民俗会代表理事高谷重夫『枚方の民俗』枚方市、1972年、96頁 。
- ^ 井上正雄『大阪府全志. 巻之4』大阪府全志発行所、1922年、1304-1306頁 。
- ^ a b 馬部隆弘「偽文書からみる畿内国境地域史」『史敏』第2号、史敏刊行会、2005年、57-58頁。
- ^ 馬部隆弘 (2020年6月27日). “伝承と学説”. researchmap. 文部科学省科学振興機構. 2023年1月25日閲覧。
- ^ a b 飯沼雅行「伝承地の名所化・顕彰の進展と想起される人物イメージの変容-王仁墓の場合-」『研究論集 歴史と文化』第9号、歴史と文化の研究所、2022年6月1日、3頁、NCID AA12768133。
- ^ 館盛英夫『平榎城』 3巻、平凡社、1980年、19頁 。
- ^ 馬部隆弘「アテルイの「首塚」と牧野阪古墳」『志學臺考古』第20号、大阪大谷大学歴史文化学科、2020年、2頁。
- ^ 田宮久史『東海道枚方宿』枚方市教育委員会、2001年。
- ^ 馬部隆弘『椿井文書』中央公論新社、2020年、233頁。
- ^ 馬部隆弘『椿井文書―日本最大級の偽文書』中央公論新社、2020年、174-177頁。
- ^ 馬部隆弘 (2020年6月27日). “伝承と学説”. researchmap. 文部科学省科学振興機構. 2023年1月25日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 金 2000.
- ^ a b c “伝王仁墓”. 枚方市. (2013年1月28日). オリジナルの2014年12月29日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b c “日本の文化の恩人 王仁の顕彰運動 近く北河内に神社建立”. 朝日新聞大阪朝刊. (1939年10月10日). pp. 7
- ^ 井上正雄『大阪府全志. 巻之4』大阪府全志発行所、1922年、1321頁 。
- ^ 王仁塚の環境を守る会会長 馬杉次郎『大阪府史跡指定五十周年記念 王仁塚』1989年11月3日、104-105頁。
- ^ a b c d e f 片山長三「王仁塚」『懐徳』第26号、懐徳堂堂友會、1955年、73-79頁。
- ^ 寺島彦三郎『博士王仁 : 文学始祖』1908年、7-8頁 。
- ^ 『大阪府誌: 財政史. 第4編』大阪府、1903年、78頁 。
- ^ 三宅俊隆『まんだ』第28号、まんだ編集部、1986年8月4日、22頁。
- ^ a b 片山長三『津田史』大阪府枚方市津田小学校内創立八十周年記念事業発起人会、1957年3月3日、286-305頁。
- ^ a b 寺島正計『藤阪の今昔物語』1999年7月1日、12-15頁。
- ^ 片山長三『津田史』大阪府枚方市津田小学校内創立八十周年記念事業発起人会、1957年3月3日、17頁。
- ^ a b 中山太郎『日本民俗学,隨筆篇』大岡山書店、1931年、58-59頁。NDLJP:1449499 。2021年3月27日閲覧。
- ^ 天囚西村時彦『日本宋学史』杉本梁江堂、1909年、8頁。NDLJP:991493 。2021年4月8日閲覧。
- ^ 藤本孝一『中世史料学叢論』思文閣出版、2009年、332-351頁。ISBN 978-4-7842-1455-6。
- ^ 貝原好古『八幡宮本紀』1689年 。
- ^ [|馬部隆弘]「偽文書からみる畿内国境地域史」『史敏』第2号、史敏刊行会、2005年、79頁。
- ^ 国書刊行会『続々群書類従 第十』続群書類従完成会、1969年、495頁。
- ^ 蘆田伊人 編『大日本地誌大系. 第18巻』雄山閣、1929年、338頁 。
- ^ 寺島正計『藤阪の今昔物語』1999年7月1日、43頁。
- ^ 寛政重脩諸家譜, 6, 國民圖書, (1923), pp. 388-389, doi:10.11501/1082716
- ^ a b 吟淵 (1895年11月23日). “王仁の古墳を訪ふ(上)”. 大阪朝日新聞 (Osaka,Japan: 朝日新聞): pp. 7
- ^ a b 吟淵 (1895年11月26日). “王仁の古墳を訪ふ(下)”. 大阪朝日新聞 (Osaka,Japan: 朝日新聞): pp. 4
- ^ a b 寺島彦三郎『博士王仁 : 文学始祖』特志発行事務所、1908年、18-19頁 。
- ^ 並河誠所,編『河内志(日本輿地通志畿内部)』1735年 。
- ^ 並河誠所,編『五畿内志. 下巻』日本古典全集刊行会、1930年、465頁 。
- ^ 員正恭(津村淙庵)『譚海』1917年、46頁 。
- ^ 津村淙庵 (1795年). “譚海”. 新日本古典籍総合データベース. 国文学研究資料館. doi:10.20730/100206514. 2022年11月18日閲覧。
- ^ 松平定能 編『甲斐国誌』 48巻、温故堂、1884年(原著1814年) 。
- ^ 根岸鎮衛『耳嚢』 下、岩波書店〈岩波文庫〉、1991年、426-427頁。
- ^ 谷川士清『日本書紀通証』鵜飼文庫、1762年 。
- ^ 谷川士清『日本書紀通証. 第三巻』国民精神文化研究所、1941年 。
- ^ 高志養浩 著「全堺詳志」、船越政一郎 編『浪速叢書第13』浪速叢書刊行会、1928年(原著1757年)、119頁 。
- ^ 犬井貞恕; 宜華庵忍『謡曲拾葉抄』心斎橋南(大坂)吉文字屋市兵衛、1772年 。
- ^ 秋里籬島『和泉名所図会4巻』高橋平助(ほか4名)、1796年 。
- ^ 秋里籬島『和泉名所図会4巻』国民精神文化研究所、1796年 。
- ^ 秋里籬島『河内名所図会 6巻』森本太助(ほか5名)、1801年 。
- ^ 大田覃 編『流観百図』 6巻 。
- ^ 濱松歌國『浪速叢書 [別冊 (鶏肋)]』浪速叢書刊行会、1930年(原著1824年)、24頁 。
- ^ 寺島彦三郎『博士王仁 : 文学始祖』特志発行事務所、1908年、18-19頁 。
- ^ a b 寺島彦三郎『博士王仁 : 文学始祖』特志発行事務所、1908年、2-5頁 。
- ^ 王仁塚の環境を守る会会長 馬杉次郎『大阪府史跡指定五十周年記念 王仁塚』1989年11月3日、18-24頁。
- ^ 寺島彦三郎『博士王仁 : 文学始祖』特志発行事務所、1908年、1-7頁 。
- ^ 吉田東伍『大日本地名辞書 上巻 二版』冨山房、1907年、310頁 。
- ^ 寺島彦三郎『博士王仁 : 文学始祖』特志発行事務所、1908年、18-19頁 。
- ^ 枚方市史編纂委員会 編『朝日新聞記事集成 第4集』枚方市、1977年 。
- ^ 王仁塚の環境を守る会会長 馬杉次郎『大阪府史跡指定五十周年記念 王仁塚』1989年11月3日、101-108頁。
- ^ 枚方市史編纂委員会『朝日新聞記事集成第九集』枚方市、1982年3月、82頁。
- ^ 王仁塚の環境を守る会会長 馬杉次郎『大阪府史跡指定五十周年記念 王仁塚』1989年11月3日、113-121頁。
- ^ 金谷一『王仁』博士王仁会、1983年3月3日、7-16頁。
- ^ a b c d e f g 王仁塚の環境を守る会会長 馬杉次郎『大阪府史跡指定五十周年記念 王仁塚』1989年11月3日、32-37頁。
- ^ 山本賢三「花巻市附近における坂上田村麻呂の業績(1)」『奥州大学紀要』第2号、奥州大学学術研究会、1970年、12-13頁。
- ^ a b 金谷一『王仁』博士王仁会、1983年3月3日、17-22頁。
- ^ 辻村明 (1978年8月17日). “忘恩の徒になるな 荒れ果てた王仁の墓に思う 文化面も日韓ギャップ” (Japanese). サンケイ新聞 (Osaka,Japan: 株式会社産業経済新聞社): pp. 5
- ^ 長生俊良『大阪府史蹟指定五十周年記念 王仁塚』王仁塚の環境を守る会会長馬杉次郎、1989年11月3日、27-29頁。
- ^ a b 王仁塚の環境を守る会会長 吉留一夫『大阪府史跡指定七十周年記念 王仁塚 百済門』2008年11月23日。
- ^ 枚方市. “友好都市(海外)”. 枚方市. 枚方市. 2022年1月25日閲覧。
- ^ 霊岩郡. “姉妹都市”. 霊岩郡. 霊岩郡. 2022年1月25日閲覧。
- ^ “霊岩郡と枚方市 友好都市提携に調印” (Japanese). 民団新聞 (在日本大韓民国民団). (2008年3月12日) 2022年1月25日閲覧。
- ^ 岡沢龍一 (2016年11月4日). “第33回博士王仁まつり”. 枚方市議会議員岡沢龍一オフィシャルブログ. 2022年1月25日閲覧。
- ^ 野村いくよ (2020年11月4日). “第37回博士王仁まつり”. 野村いくよの活動日誌枚方市議会議員野村いくよ. 2022年1月25日閲覧。
- ^ 藤田ゆきひさ (2021年11月3日). “第38回「博士王仁まつり」 ”. 公明党 藤田ゆきひさ. 2022年1月25日閲覧。
- ^ 藤田ゆきひさ (2018年8月18日). “納涼むくげ祭り ”. 公明党 藤田ゆきひさ. 2022年1月25日閲覧。
- ^ 日本統治時代の反日運動家金九として知られる金昌洙とは別人
- ^ 全羅南道文化財委員会「王仁遺跡文化財指定調査報告書」
- ^ [1]枚方市文化国際財団「王仁塚の環境を守る会」
- ^ “<在日社会>王仁塚を守り20年”. 東洋経済日報. 2017年9月27日閲覧。
- ^ “王仁博士、日本へ”. 朝鮮日報. (2015年3月9日)
- ^ 『わかりやすい韓国の歴史――国定韓国小学校社会科教科書』三橋ひさ子・三橋広夫・李彦叔、明石書店〈世界の教科書シリーズ〉、1998年3月20日、44-46頁。ISBN 978-4750310244。
- ^ 斎藤吉久 (2001年4月16日). “韓国「反日」教科書の凄まじさ”. 神社新報. オリジナルの2003年4月27日時点におけるアーカイブ。
- ^ “府指定関係 史跡 伝王仁墓 藤阪東町2”. 大阪府枚方市役所. 2012年2月26日閲覧。
- ^ 秋里籬島 (1796), 和泉名所図会, 4, 高橋平助他, doi:10.11501/2563478 2020年9月20日閲覧。
- ^ “御祭神”. 方違神社. 2020年4月22日閲覧。
- ^ “王仁の聖堂址伝説”. 松原市. 2020年9月20日閲覧。
- ^ a b 仁徳天皇陵古墳百科 - 堺市(2018年5月3日午後1時52分(JST)閲覧)
- ^ “王仁博士遺跡地”. 霊岩郡. 2012年2月26日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 1972年(昭和47年)8月-10月連載、中央日報『百済賢人 博士王仁 日本に植え付けた韓国魂』
- ^ “「平仮名」は韓国起源!?韓国で出版された日本に関する書籍が話題に”. サーチナ. (2010年4月24日). オリジナルの2010年4月27日時点におけるアーカイブ。
- ^ 井沢 & 呉 2006, pp. 148–173
- ^ a b “韓国105代天皇尊影集”. オリジナルの2003年12月19日時点におけるアーカイブ。
- ^ 黄禹錫教授の「BSEにかからない牛」今日日本へ | Chosun Online | 朝鮮日報
- ^ “王仁博士の功績知ろうよ” (日本語). 民団新聞 (在日本大韓民国民団). (1999年11月10日). オリジナルの2001年1月22日時点におけるアーカイブ。
参考文献
[編集]- 『続日本紀』 五、青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸 校注、岩波書店〈新日本古典文学大系 16〉、1998年2月16日。ISBN 4-00-240016-6 。
- 井沢元彦、呉善花『やっかいな隣人 韓国の正体 なぜ「反日」なのに、日本に憧れるのか』祥伝社、2006年9月7日。ISBN 4-396-61275-3 。
- 韓登『博士王仁の実像 韓流の古代史』新風書房、2007年5月。ISBN 978-4-88269-632-2。
- 金達寿『日本の中の朝鮮文化』講談社〈2〉、1972年。
- 金昌洙『博士王仁 日本に植えつけた韓国文化』成甲書房、1978年10月。ASIN B000J8LAN4。
- 金永元『博士王仁に関する考察-口碑伝説を中心に-』アジア公論、1974年12月。
- 金英達「偽史朝鮮/王仁の墓地と生誕地――並河誠所と金昌洙」『むくげ通信』第181号、むくげの会、13-15頁、2000年7月30日。オリジナルの2022年8月29日時点におけるアーカイブ 。 - 金英達の遺稿。
- 洪相圭『王仁-伝説とその時代-』韓日文化親善協会、1994年。
- 段煕麟『大阪における朝鮮文化』松籟社、1982年。
- 津田左右吉『日本上代史研究』岩波書店、1930年。
- 野平俊水「第5節 日韓合作偽史(5) 王仁博士の生家は全羅南道・霊巌である」『日本人はビックリ!韓国人の日本偽史』小学館〈小学館文庫〉、2002年4月、93-109頁。ISBN 4-09-402716-5 。
- 枚方市史編纂委員会『枚方市史』〈別巻〉1995年。
- 山尾幸久『日本国家の形成』岩波書店〈岩波新書〉、1977年。
- 李殷昌『王仁博士の研究-霊岩の王仁遺跡地調査を中心に-』アジア公論、1974年12月。
- 浜田耕策 (2005年6月). “4世紀の日韓関係” (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第1期) 2023年12月5日閲覧。
- 文慶喆「韓国人の姓氏と多文化社会」『総合政策論集: 東北文化学園大学総合政策学部紀要』第19巻第1号、東北文化学園大学総合政策学部、2020年3月、115-130頁、ISSN 1346-8561、CRID 1050565162987957248。