コンテンツにスキップ

永井尚政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
永井尚政
永井尚政像(興聖寺蔵)
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正15年(1587年
死没 寛文8年9月11日1668年10月16日
改名 尚政、信斎(法号)
別名 伝八郎(通称
墓所 京都府宇治市宇治山田の興聖寺
官位 従五位下信濃守従四位下
幕府 江戸幕府 老中
主君 徳川秀忠家光家綱
上総潤井戸藩主、下総古河藩主、山城淀藩
氏族 永井氏
父母 永井直勝阿部正勝
兄弟 尚政直清直貞直重柴田康長正室、土屋利直正室、淳美友之
内藤清成
尚征尚保尚庸直右尚春尚申
尚盛、長子、高力隆長正室、
松平憲良正室、松平定政正室、
森長俊正室、米津田盛正室、上林重胤室、小浜広隆正室ら
テンプレートを表示

永井 尚政(ながい なおまさ)は、江戸時代前期の大名上総国潤井戸藩主、下総国古河藩2代藩主、山城国淀藩初代藩主。永井家宗家2代。

東京都新宿区の「信濃町」の名は、信濃守となった当時の下屋敷があったことに由来する。

生涯

[編集]

永井直勝の長男として駿河国に生まれる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに従軍し、慶長7年(1602年)には徳川秀忠付の小姓となった。慶長10年(1605年)4月26日、任官して信濃守を称した。

慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも参陣して功績を挙げたため、御小姓番頭に任じられた。その後も幕府への忠勤に励んで加増を受け、元和5年(1619年)には上総潤井戸に1万5000石を領する大名にまで昇進した。元和8年(1622年)、宇都宮城釣天井事件本多正純が改易された後、老中に選ばれた。寛永3年(1626年)、父・直勝が死去したため、家督と所領である下総古河8万9000石を相続した。寛永9年(1632年)に秀忠が死去すると、北条氏重土井利勝らと協力して、増上寺秀忠の廟を建立するための監督官を務めた。

寛永10年(1633年)、老中職を解任されて山城淀藩10万石へ加増移封された。その後は京都所司代と協力して京都大坂の治安を担った。寛永年間に大規模な飢饉が起こったときは、領民の救済にあたり、島原の乱が起こったときは、京都の守備を命じられた。その後も、江戸城普請や禁裏における普請などで功績を挙げた。正保元年(1644年)11月23日、従四位下にのぼった。明暦4年(1658年)2月28日に致仕。後に入道して信斎と号した。

寛文8年(1668年)9月11日死去、享年82。

人物

[編集]

茶の湯を学んだ茶人でもある。

系譜

[編集]

父母

正室

子女

日向政成の後室も、永井尚政の娘とされる。

参考文献

[編集]

深谷信子『永井尚政 数寄に通じた幕府の重鎮』、宮帯出版社、2017年。ISBN 978-4-8016-0124-6

関連項目

[編集]