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橋健行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
はし けんこう

橋 健行
生誕 橋 健行
1884年2月6日
日本の旗 日本石川県金沢区(現・石川県金沢市
死没 (1936-04-18) 1936年4月18日(52歳没)
日本の旗 日本・東京府
死因 肺炎化膿性肺炎
墓地 石川県金沢市・野田山墓地
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学医科
職業 精神科医医学博士
橋健三(父)、こう(母)
親戚 瀬川朝治(祖父)、ソト(祖母)
橋健堂(祖父)
雪子(妹)、正男、健雄、行蔵(弟)
倭文重、重子(妹)
平岡公威(甥)、美津子(姪)、千之(甥)
補足
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橋 健行(はし けんこう、1884年明治17年〉2月6日 - 1936年昭和11年〉4月18日)は日本精神科医医学博士正五位。作家・三島由紀夫の伯父で、橋倭文重の兄[1][2][3][4][5]

経歴

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1884年(明治17年)2月6日、石川県金沢区(現・金沢市)で、父・橋健三漢学者)と母・こう(漢学者・橋健堂の三女)の間の長男として誕生[1][2][3]。その後、生母・こうの死亡により、1890年(明治23年)から、健三の後妻・トミ(こうの妹で橋健堂の五女)に育てられる[2][3]。やがて、妹や弟たち(雪子、正男、健雄、行蔵、倭文重、重子)が生まれる[2][3][4]

1901年(明治34年)、開成中学校を卒業[2][3]。同級生には斎藤茂吉がいた[2][3]。同年、第一高等学校に進学。1904年(明治37年)、第一高等学校を卒業後、東京帝国大学医科に進んで精神医学を専攻する[3]。健行は一高、帝大と常に首席だったという[6][2][3]

1908年(明治41年)に帝大医科を卒業した後、東大精神科付属病院の東京府巣鴨病院(のちの松沢病院)の院長・呉秀三のもとで精神病学を学んだ[2][3]。当時の副院長は三宅紘一助教授で、医長は健行と黒沢良臣講師だった[7][3]。呉が院長を退任した1925年(大正14年)6月、健行は同病院の講師から副院長に就任した[7][3][注釈 1]

1926年(大正15年)、学位を授与され医学博士となり、1927年(昭和2年)に千葉医科大学(現・千葉大学医学部)助教授に就任した[8][3]。その後1931年(昭和6年)7月から1933年(昭和8年)9月まで、文部省在外研究員として留学し、欧米の学識者を歴訪した[3]。帰国後の1933年(昭和8年)11月、千葉医科大学助教授から教授に就任し、1935年(昭和10年)3月から付属医院長を兼任した[8][3]

しかし、健行は川釣りで風邪をひきながら勤務で無理をした結果、肺炎をこじらせ、 1936年(昭和11年)4月18日、「ルンゲンガングレン」(肺化膿症のことと思われる[9])で急逝(享年52)[10][2][3]。健行の遺骨は、故郷・石川県野田山山頂の墓に納められた。友人の斎藤茂吉は健行の死を悼み、健行への挽歌を詠んだ[11][2]

弔橋健行君 うつせみの わが身も老いてまぼろしに 立ちくる君と手携はらむ
斎藤茂吉「暁紅」収録[11]

健行の死から約5年後の1941年(昭和16年)5月、健行の父・橋健三(81歳)が斎藤茂吉の家を訪ね、亡き息子の墓碑銘の撰文と揮毫を茂吉に依頼した[12][13]。墓碑銘には、以下のような二首が記されている[14][15]

橋健行君墓碑
亡き友の 墓碑銘かくと 夜ふけて あぶら汗いづ わが額より
手ふるひつつ 書きをはりたる 墓碑銘を われ一人のみ 見るは悲しも
斎藤茂吉「霜」収録[14]

健行の墓は、環状線の建設により2006年(平成18年)に、野田山山頂の「平成墓地乙」に移転した[16][3]。そこには曽祖父・橋一巴、父・橋健三の墓も並んで建立されている[16][3]。健行の墓には、「正五位橋健行墓 正五位醫學博士橋健行君」と記されている[16][3]

人物

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  • 甥の三島由紀夫の長編小説『仮面の告白』に登場する「母の兄の博士」は、橋健行のことである[2]。健行は、危篤になった幼い甥に処置を施してその命を救った[3]
経帷子や遺愛の玩具がそろへられ一族が集まつた。それから一時間ほどして小水が出た。母の兄の博士が、「助かるぞ」と言つた。心臓の働らきかけた証拠だといふのである。ややあつて小水が出た。徐々に、おぼろげな生命の明るみが私の頬によみがへつた。 — 三島由紀夫「仮面の告白」[17]
橋君は、中学でも秀才であつたが、第一高等学校でもやはり秀才であつた。大学に入つてからは、解剖学西成甫君、生理学橋田邦彦君、精神学の橋健行君といふ按配に、人も許し、本人諸氏も大望をいだいて進まれた。 — 斎藤茂吉「回顧」[13]
  • 健行は開成中学3年頃から「桂蔭会」と称する文学グループ結成し、回覧雑誌を作っていた[18][2][3]。「桂蔭会」はリーダー格の村岡典嗣(のち日本思想史研究の歴史学者)のほか、健行、吹田順助(のち独文学者)、菅原教造(のち心理学者)、菊池健次郎(のち医師)、江南武雄(のち画家)、今津栄治、樋口長衛、新井昌平の9名で構成されていた[18][19][2][3]。彼らは校庭の桂の木蔭で哲学や文学について論じ合ったり、村岡典嗣が選んだ万葉百人一首歌留多を作って正月に会員の家で遊んだり、浅草の智光院で講演会や合評会を開いたり、房州めぐりの旅行作文会などを催したりした[18][2]。「桂蔭会」の会員の住居が文京区本郷を中心としていたことから、彼らは「山手グループ」とも呼ばれた[2][3]。また「竹林の七賢」とも称されて周囲の生徒の斎藤茂吉や辻潤にも大きな刺激や影響を与えた[2][3]
  • 三島由紀夫研究家の岡山典弘が、開成高等学校の松本英治教諭(校史編纂委員会委員長)の協力を受け、健行が開成中学の『校友会雑誌』に掲載した文章5篇(「立志」「銚子紀行」「転校したる友人に与ふる文」「少年は再来せず」「筆」)を発掘している[2][3]。健行は、優秀作が掲載される『校友会雑誌』の常連であった[2][3]。健行の甥の三島(平岡公威)は、この40年後に学習院の『学習院輔仁会雑誌』の常連となる。岡山典弘によると、当時の「桂蔭会」メンバー写真の中の健行は帽子をあみだに被り、自負心の強そうな面構えが、三島と似ているという[2][3]
立志とは何ぞ、是即吾人の行はんと欲する所の志、念々常に止まらざるを云ふ。而して其の志を遂げんと欲せば、百折不撓の気象なかるべからず。古語に曰く、志あるものは事遂に成ると又曰く志立つるは学の常なりと、吾人は以て是を無双の格言となすべし。
四級二 橋健行「立志」(『校友会雑誌』10号 1887年(明治30年)7月に掲載)
いつしか犬吠岬の懸崖の下に至る仰ぎ見れば数十名の生徒等は既に中間にありて、互に先登を制せんとするは、恰も廿七八年の役に我軍か玄武門を進撃したらんが如し、かくて頂上に達すれば、殿隊の一団漸く崖下に群りて岩壁に蟻附せるさまは、昔楠木正成が拠りけん赤坂城当時の様も追想せられて面白し、㧕々犬吠岬は鹿島灘の南端にありて海中には無数の岩礁兀立し、舟行最も危険なれば此処に、燈台を設けたるなり、東辺を望めば水天髣髴漢として際涯なり、巨浪の岩石を打つものは砕けて玉となり、散して雪となりて、四辺恰白絹を晒すが如し
四級二 橋健行「銚子紀行」(『校友会雑誌』12号 1887年(明治30年)12月に掲載)
貴兄も男子の一度決心せられし所に候へば今更彼此申すも反りて兄が前途にも関係を及ぼす事に御座候故不肖は敢へて此の事に就きてはもはや一言をも述べずひたすら兄が奮励刻苦あらせられん事を希期致し候
三級三組 橋健行「転校したる友人に与ふる文」(『校友会雑誌』17号 1899年(明治32年)7月に掲載)
汝が肩には国家あり、汝が頭脳には必世界なかるべからず、且繽粉錯雑せむとする汝が思想はこれをして劃一たらしめざるべからず健々霊妙なる汝が手腕はこれをして発揮せしめざるべらざるなり、盖国家なければ独立を失ひ、世界なければ固陋に流る
二級一組 橋健行「少年は再来せず」(『校友会雑誌』20号 1900年(明治33年)3月に掲載)
一たび走れば、数千万言、奔馬の狂ふがごとく流水の暢々たるが如く、珠玉の転々たるがごとく、高尚なる思、優美なる想を、後に残して止まらざるもの、これを文士の筆となす。
五年生 橋健行「筆」(『校友会雑誌』22号 1900年(明治33年)12月に掲載)
ちなみに健行が「筆」を書いたのは16歳であったが、その年齢の時に三島が執筆した小説『花ざかりの森』の中には、「美は秀麗な奔馬である」という一文がある[3]。また、最後の長編小説『豊饒の海』の第2巻『奔馬』には、奔馬のように行動に突き進む「勲」という青年が主人公として登場する。
  • 巣鴨病院時代には、医局員たちが、白山花街での遊蕩や医局の光景などを書き綴った秘録『卯の花そうし』(約数十冊)があり、健行もその秘録の中に文章を寄せている[2]。『卯の花そうし』には、「(健行が)ヤトナを当直部屋に置かう」と提案した、という一文もあるという[20][2]
  • 千葉医科大学の教授時代には、女性向けの月刊雑誌『婦人世界』の付録で、「医学博士 橋健行」として人生相談の回答者になっていたともされる[3]。また、中村古峡主宰の「日本精神医学会」の機関誌『変態心理』にも寄稿していた[3]。健行は、この機関誌を通じて、井上哲次郎和辻哲郎柳田國男南方熊楠金田一京助萩原朔太郎森田正馬福来友吉らとも繋がりを持っていたという[3]
  • 斎藤茂吉の二男である北杜夫の小説『楡家の人びと』に登場する「楡聖子」の婚約者として健行のことが少し触れられている[21][3]。「楡聖子」のモデルは、北の叔母・斎藤清子である[21][3]。作中では橋家の漢学の家系はふせられ「代々御典医」となっている[3]
小説が終ってから知ったことだが、母から聞くと、三島家と斎藤家とはかすかな因縁があるというのである。つまり、小説中の聖子がはじめ婚約関係にあった男性というのが、三島さんのお母さまの兄上にあたる方だったという。 — 北杜夫「表面的な思い出など――三島由紀夫」(『人間とマンボウ』)[21]

論文

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  • 橋健行「夫婦に現はれたる所謂祈二性精神病の1例」『精神神経学雑誌』第15号、67-68頁、1916年。 NAID 10019112352 
  • 橋健行「精神病者の精神的作業測定に関する研究」『博士論文』、東京帝国大学、1926年1月22日。 NAID 500000055202 
  • 橋健行「精神療法ノ医学的根拠ニ就テ」『千葉医学会雑誌』第4巻、第6号、千葉医学会、647-649頁、1928年4月28日。 NAID 120007067623 
  • 橋健行「黴毒性神経症に就て」『千葉医学会雑誌』第1巻、第13号、千葉医学会、18-21頁、1935年1月28日。 NAID 120007068506 

系譜

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橋家系図
 
 
 
 
 
往来
 
船次郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
橋一巴
 
 
 
 
 
 
 
つね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
健堂
 
 
ふさ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
橋健行
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
瀬川健三
 
 
雪子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
橋正男
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
トミ
 
 
橋健雄
 
 
平岡公威(三島由紀夫)
 
 
紀子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
より
 
 
橋行蔵
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ひな
 
 
倭文重
 
 
杉山瑤子
 
 
平岡威一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
美津子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平岡梓
 
 
平岡千之
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重子
 
 
 
 
 
 
 
 
 

関連人物

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内村祐之
医学者、精神科医。内村鑑三の長男。健行や茂吉の後輩医師[2][3]。著書に自伝『わが歩みし精神医学の道』(1968年)があり、当時の松沢病院の医局の様子を、「細心・緻密な黒沢良臣医長と豪放・磊落な橋健行医長」の2人が「好個のコンビをなし、このすぐれた両医長のもとで、医局は、好学と調和と勤勉さとに満ちた好もしい空気をかもし出していた」と綴っている[22][2][3]
大槻憲二
健行の友人。早稲田大学英文科を卒業後、文芸評論のかたわら心理学を研究し、「東京精神分析学研究所」を創設した。大槻は、フロイトの翻訳をし、江戸川乱歩高橋鐵が参加した「精神分析研究会」も主宰した[3]。ちなみに1941年(昭和16年)9月、当時16歳の三島は大槻憲二について、友人の東文彦に宛てた書簡の中で、「大槻憲吉(母の亡兄の友だちださうですが)といふ人の『精神分析読本』をよみ、やはり下らないと思ひました。精神分析は飽きました」と記している(「憲吉」は三島の誤記)[23][3]
呉秀三
日本の精神医学の先駆者。健行と茂吉の師であり、東京府巣鴨病院松沢病院)の院長であった[24][2]箕作阮甫の外孫にあたる呉秀三は、森鷗外に親炙し『シーボルト先生』や『華岡青洲先生及其外科』を上梓するなど、名文家としても知られた[2][3]。秀三の長男の呉茂一は、ギリシア・ラテン文学の権威である[2][3][注釈 2]

脚注

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注釈

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  1. ^ 当時の東京府巣鴨病院(松沢病院)には、「蘆原将軍」と呼ばれた有名患者の蘆原金次郎が長期入院していた[3]。蘆原は高岡出身の元職人[3]。将軍を自称していた蘆原は、月琴を携えて長い廊下の突き当たりで、医師の回診を待ち、医師が来ると赤ワインの処方を強く要求したという[2][3]。彼に対する診断は、統合失調症パラノイアパラフレニー躁病など医師によって様々で、確定していなかったとされる[3]大礼服を身につけ将軍のつもりになっていた蘆原は当時のジャーナリズムで取り上げられ、大衆の人気を博していた[3]。この「蘆原将軍」をモデルにした小説に、筒井康隆の『将軍が目醒めた時』がある[3]
  2. ^ ちなみに、三島由紀夫は、呉茂一の翻訳した『ダフニスとクロエ』(ロンゴス作)を藍本として『潮騒』(1954年)を執筆し、1955年(昭和30年)頃には呉茂一からギリシア語を学んでいる[2][3]1949年(昭和24年)にも、三島は東大教授時代の呉茂一の講義を聴講しに行ったという[2]

出典

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  1. ^ a b 「II 三島由紀夫の祖先を彩る武家・華族・学者の血脈――橋家」(越次 1983, pp. 86–100)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 岡山典弘「三島由紀夫と橋家 もう一つのルーツ」(研究11 2011, pp. 112–127)。岡山 2016, pp. 9–42に所収
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw 岡山典弘「三島文学に先駆けた橋健行」(三島由紀夫の総合研究、2011年11月11日・通巻第579号)。「第二章 三島由紀夫の先駆――伯父・橋健行の生と死」として岡山 2016, pp. 43–70に所収
  4. ^ a b 「明治38年」(42巻 2005, pp. 12–13)
  5. ^ 「母の周辺・橋家」(年表 1990, p. 15)
  6. ^ 本林1 1971本林2 1971
  7. ^ a b 宮内 1985
  8. ^ a b 千葉 1964
  9. ^ 小池 2004
  10. ^ 「日記」(茂吉全集30 1974, pp. 554–559)
  11. ^ a b 「暁紅」(茂吉全集2 1973, pp. 649–650)
  12. ^ 「日記」(茂吉全集31 1974, pp. 283–379)
  13. ^ a b c 「回顧」(茂吉全集7 1975, pp. 666–678)
  14. ^ a b 「霜」(茂吉全集2 1973, pp. 291–292)
  15. ^ 「茂吉が書いた墓碑銘『再発見』」(北國新聞、2006年4月15日に掲載)
  16. ^ a b c 松田章一「精神科医 橋健行」(かなざわ 667号・2010年 金沢商工会議所)
  17. ^ 仮面の告白』(河出書房、1949年7月5日)。仮面・文庫 20031巻 2000に所収
  18. ^ a b c 吹田 1959
  19. ^ 藤岡 1994, p. 18
  20. ^ 藤岡 1991
  21. ^ a b c 「表面的な思い出など――三島由紀夫」(北 2022, pp. 13–34)。北15巻 1977, pp. 8–18に所収
  22. ^ 内村祐之『わが歩みし精神医学の道』(みすず書房、1968年9月)NCID BN02755907
  23. ^ 「東文彦宛ての書簡」(昭和16年9月16日付)。十代 2002, pp. 77–80、38巻 2004, pp. 94–96に所収
  24. ^ 「呉秀三先生」(茂吉全集5 1973, pp. 77–83)

参考文献

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千葉大学医学部創立85周年記念会 編『千葉大学医学部八十五年史』1964年9月。NCID BN02339389 

外部リンク

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