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松浦松洞

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松浦 松洞
時代 江戸時代末期(幕末
生誕 天保8年(1837年
死没 文久2年4月13日1862年5月11日
別名 温古(諱)、亀太郎(通称)、知新、無窮、松田和介
官位正五位
長州藩陪臣
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松浦 松洞(まつうら しょうどう)は、江戸時代末期(幕末)の画家長州藩志士温古通称亀太郎

生涯

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魚商人の子として生まれる。のちに才覚を認められ、長州藩寄組根来主馬の家臣として仕える。安政3年(1856年吉田松陰松下村塾に入り、尊王攘夷運動に参加。江戸に出て漢学を修める。安政5年(1858年江戸で渡米を企てるものの、松陰が「勤皇倒幕の大事は目前に迫っており、今、海外に出るのは正しい策ではなく、時機ではない」と反対したため、取り止めている。文久2年(1862年)4月13日、久坂玄瑞らと上洛し、公武合体開国派であった長州藩士・長井雅楽暗殺を計画したが、翻意を促されて断念し、京都粟田山にて切腹した。切腹の原因は、栗田宮(中川宮)が最初は尊攘派の旗を掲げていたにもかかわらず、幕府の懐柔策に乗り、佐幕派の支柱となって、尊攘志士を弾圧するようになったことへの抗議として、死を以って諌めたとも言われている。

幼少より絵画を志し、画家としては四条派羽様西崕に師事しており、安政6年(1859年安政の大獄によって江戸護送が決定した吉田松陰の肖像画を残している。

明治44年(1911年)、正五位を追贈された[1]

登場する作品

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脚注

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  1. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.28

参考文献

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