投馬国
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投馬国(とうまこく、つまこく)は、3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつである。
『三国志』「魏書」東夷伝の通称「魏志倭人伝」によれば、投馬国は、不弥国から南へ水行20日の位置にあったと記述されている(放射状に読む説では伊都国から南へ水行20日と解される。同じ放射状に読む説でも末廬国を起点とする説もある。また直線式か放射状かに関わらず、この部分は「帯方郡の郡治から南へ水行20日」の意味だとする説もある)。5万余戸の人家があり、長官は彌彌(弥弥、ミミ)、副官は彌彌那利(弥弥那利、ミミナリ)と呼ばれている。
主な比定地
[編集]比定地は、邪馬台国九州説では日向国都萬(つま、都萬神社周辺、現西都市妻地区)説、薩摩国説、五島列島説などがある。瀬戸内海航行説の場合、名称の類似から備後国の鞆とする説などがあり、日本海航行説では出雲国や丹後国、但馬国などにあてる説がある。
投馬国の所在地
[編集]帯方郡から投馬国までの行程について、『魏志倭人伝』や『北史倭国伝』には、次のように記述されている。
魏志倭人伝(原文) | 魏志倭人伝(訳注)[1] | 北史倭国伝(原文)[2] |
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倭人在帯方東南、大海中。 | 倭人は帯方の東南、大海の中にあり。 | 倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里。 |
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。 | 郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を経て、乍(あるい)は南し、乍(あるい)は東し、その北岸狗邪韓国に到る七千餘里。 | 計從帶方至倭國、循海水行、歴朝鮮國、乍南乍東、七千餘里。 |
始度一海、千餘里至對海國。 | 始めて一海を度る千余里。対馬国に至る。 | 始度一海。又南千餘里。 |
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。 | また南一海を渡る千余里、名づけて瀚海という。一大国に至る。 | 度一海、闊千餘里、名瀚海、至一支國。 |
又渡一海、千餘里至末盧國。 | また一海を渡る千余里、末盧国に至る。 | 又度一海千餘里、名末盧國。 |
東南陸行五百里、到伊都國。 | 東南陸行五百里にして伊都国に到る。 | 又東南陸行五百里、至伊都國。 |
東南至奴國百里。 | 東南奴国に至る百里。 | 又東南百里、至奴國。 |
東行至不彌國百里。 | 東行不弥国に至る百里。 | 又東行百里、至不彌國。 |
南至投馬國、水行二十日。 | 南、投馬国に至る水行二十日。 | 又南水行二十日、至投馬國。 |
脚注
[編集]関連項目
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